この話は、一部ヒントにさせていただいている部分があるかもしれませんがフィクションで、実在の人物や事件とは関係ありません。
その1
私のお客様の一人に 古い暖簾(のれん)を守っていらっしゃる和菓子屋さんがありました。
ここのお店、年輩の人々から、御遣い物(おつかいもの)にするなら、尾助屋(おすけや)さんの小豆羊羹(あずきようかん)と言われているくらいに有名なお菓子を持っておられる、この地方では屈指の老舗の名店です。
ご主人は私がお訪ねしていた当時は50歳半ば、3代目とかだそうで見るからに大家のボンボンといった感じの、おっとりした、人のよさそうな人でした。
しばしば絵を買ってくださるわけでなく、又高価なものを買ってくださるわけでもないのですが、物の見方がとてもユニークで、話題が豊富で面白い方でしたので、その地方に行くと時々寄せていただき、お話を聞くのを楽しみにしておりました。この方から商の発想とかコツみたいな物のヒントをずいぶん与えていただきました。奥様もまたとても感じのいい、よく気のつく(気転がきくこと)方で、私など、ご商売のお邪魔に上がっただけで、さぞご迷惑だったでしょうに、そんな顔もされず、いつもご自慢のお菓子を用意しておいて、帰りに持たせてくださる方でした。お家の中も、会社の方のも、お財布はしっかりと握っていらっしゃるご様子でしたが、そうかといって商売上、表に立たれているようには思えません。ご主人の後ろでしっかりと支えていらっしゃるといった感じでした。
商売を手広くやっていらっしゃるといっても、地方の和菓子屋さんの事、あちらこちらの百貨店に売り場をもち、従業員の数もずいぶん増えてきている今日でもなお、経営は家族的で、ご主人夫婦の他、二人の妹さん夫婦とその夫々(それぞれ)の息子さん達が手伝っておられ、一家総出でやっていらっしゃるといった感じの経営です。ご主人夫婦にはお子様がいらっしゃらないとかで、二人の甥御さん達をわが子のように可愛がっておられ、将来お店を背負っていかせたいと思っておられたようで、上の妹の息子さんは大学卒業後、経営学の勉強のためにと、しばらくアメリカの大学に留学させ、社長学の勉強を、下の妹の息子さんは京都の有名和菓子屋さんのところへ修行に行かせて、将来工場を背負っていくための勉強をさせておられました。私がお訪ねするようになった時は、息子さん達お二人とも、もう本店の所へ戻ってこられていて、上の妹の息子さんはおじさんであるご主人のお手伝いを、下の妹の息子さんは、菓子職人として工場で働いておられるお父さん達と一緒に、工場で働くようになっていました。妹さんたちも嫂(あによめ:兄嫁)さんの下、営業事務、お得意さんまわり、注文受け、出荷手配、荷出し手伝い、荷受け、従業員の給与計算などを他の従業員に混じって、同じようにやっておられました。
その2
二年ほどご無礼していて、久しぶりにお寄りさせていただいたときのことです。ここのご主人、電話であらかじめアポをとってから訪問するのを嫌がられる方でしたから、いつも突然にお訪ねしていました。にもかかわらず、お訪ねして行けば、とても歓待してくださり、無理をしてでも、例え短い時間でも、お時間をとってくださっていました。
忙しくて、どうしてもお時間がとれない時でも、会社の中にいらっしゃる限り、わざわざ顔をだしてくださり、
「悪いですね。今日はどうしても時間が取れ無くて」
と断りを言ってくださったものです。
ところがその日は違っていました。
いつものように事務所に顔を出したのですが、事務所の雰囲気ががらりと変わっています。
いつも応対に出てくださる事務員の姿がありません。事務の人たちの顔も、かなり変わっています。独楽鼠(こまねずみ)のように働いておられたご主人の妹さんたちの姿もありません。なんだか変だとは思いましたが、顔も初めての受け付けのお嬢さんに名刺を出して、
「社長さんにお会いしたいのですが。」
と言いますと、
「ご予約はされていますでしょうか」
と事務的な返事。
「いいえ。いつも社長さんから、アポなしで来るようにと言われていましたので。」
と言いますと、
「ご予約のない方はお断りするようにといわれているのですが。」
と言って取り次いでいただけません。
「しかしいつもそうさせていただいておりますから、ご面倒でも、一度取り次ぐだけでいいですから、取り次いでいただきたいのですが。」
と粘ってみました。
事務員は嫌な顔をしましたが、しぶしぶ社長室に電話してくれました。
しかし、一言二言の電話でのやり取りの後、戻ってこられた彼女は
「『やはりお会いできないとの事です。尚もうこれからは、お宅様から買うようなものもありませんから、お出でにならないで下さい』と社長が言っておりました」
と追い返されてしまいました。
あれほどいつも歓待してくださっていた社長さんが、まるで手のひらを返したようなこの仕打ち、まるで狐につままれたような気持ちでその家を辞去(じきょ:別れのあいさつをして立ち去ること。)してまいりました。
しかしなんとも釈然としません。
「どうした事だろう。何か失礼な事をしたかしら。それにしては最後にお会いしたときも、帰り際まで上機嫌だったのに。しばらくご無沙汰したからかしら。それだっていつものことだし。誰か同業者から茶々を入れられた(ちゃちゃをいれられる:横から余計な言動をはさまれること)のかな。」
などと自問自答しながら駅までたどり着きましたが、どうもすっきりしません。商売を離れてお付き合いをしていただいているとばかり思っていた人だけに、なんだか気になります。まるで押し売りにたいする時のように追い返された事はくやしいし、納得できません。
そのまま会社に戻る気持ちに、どうしてもなりませんでした。
そこでそのご主人を最初に紹介してくださった、森野の小母さんの所に電話して、聞いてみる事にしました。
言い忘れましたが森野の小母さんは、私の母の友人です。
「もしもし、森野さんのお宅ですか。あつ。森野の小母チャン。私、大田まどか。もうお忘れになっているかもしれませんが、ほら母の生存中、親しくさせていただいていた、大田遙(はるか)の娘、まどかですが。ご無沙汰しております。」
「覚えているわよ。どうしたの。お元気。一度連絡しなければと思っていたところ。その後どうしているの。」
「おかげさまで、どうにか続けさせていただいております。小母ちゃんにはお世話になったのに、その後何のご連絡もせず、ご無沙汰していてすみませんでした。ところで小母ちゃんにご紹介していただいた、尾助屋さんのことだけど。」
「そうそう、そのことで一度連絡してあげようと思っていたところなの。」
「えっ。もう行ってきたの。びっくりしたでしょう。あそこ社長が変わったのよ。電話ではなんだから、一度家に寄らない。今何処にいるの。それではこれからいらっしゃい。ちょうど今日は時間も空いていることだし。」
「いいですか。それではこれから寄らせていただきますのでよろしくお願いします」
ということで森野さんのお家でお話を伺うことにしました。
その3
私が今日の経緯(いきさつ)を話しますと。小母ちゃんは「そう。そんな目にあったの。それは気の毒だったわねー。でもあの珠代さん(尾助屋のご主人の妻)ならやりそうなことよ。」
「別に貴女がどうこうしたからというわけではないのよ。」
「ご主人の昔の知り合いは、皆そうして切っていかれているのよ。あの人、後ろめたい所があるから、ご主人関係の人とは縁を切りたいのと違う。」
「えつ。どういうこと」
と言う事でお話を伺ってまいりました。
あそこのご主人、今からちょうど一年くらい前に、心筋梗塞で突然に亡くなられたの。後は当然甥御さんが跡を継がれるものとばかり、誰もが思っていたのに、蓋を開けてみたら遺言が残っていて、財産は全部奥さんの珠代さんが継ぐことになっていたの。どうしてそんな事になっていたのか、不思議だけど、そうなっていたの。私の金華大学の同級生、ほらー、私が貴女に、あそこのご主人を紹介した時、間を取り持ってくれた人がいたでしょ。あのご主人の妹さん、あの邦子さんなどは、
「お兄さんは生前から、うちの息子に跡を取らせてくれるという約束だったじゃない」
と主張したのですが、そういった言葉の客観的な証拠が残されていない以上、どうしようもなかったとの話だったわ。お子供がいない夫婦で、親もいない場合の相続って、私も始めて知ったけど、
「全て奥さんに」
と言う遺言がある以上は、姉妹に遺留分は無く、全部奥さんのものになってしまうのだって。弁護士さんに相談しても、どうにもならない事が解った妹さん達は、
「あの腹黒の珠代めに、うまい事兄が丸め込まれてしまったのだ」
と怒っていらっしゃったけれど、遺言がそうなっている以上どうにもならないのよね。それでも邦子さんは、
「お兄さんが家の息子達に跡を継がせてくれるといっていた証拠に、息子達一人はアメリカに、もう一人のほうは京都の和菓子屋さんに勉強に行かされていたじゃない。珠代さんだってそれを認めていたでしょ」
と言ってみたのですって。そうしたら、
「うちの主人の好意で、行かせてあげていただけです。」
「でも、そんなに言われるのでしたら、どうせ主人が亡くなった後も、皆さんには、従来どおりうちで働いていただくつもりでしたから、少し時期は早いですが、良知さんには(長女の息子)代表権のない取締役社長に。康文さん(次女の息子)には工場主任見習いになっていただいてもいいですよ。」
と今まで控えめで、表立ったことは、何も言われなかった人が、突然人が変わったようにはっきり物言いされ、今後は、自分が代表となって、この会社をやっていくつもりだということを、宣言されてしまったそうよ。ひどい話でしょ。大体そんな事になるとは、思ってもいなかったので、彼女たちは、父親からの相続のとき、お兄さんの言われるままに、この和菓子会社の株券は、お兄さん一人が相続するということに賛成したのですって。彼女たちの腹積もりでは、どうせお兄さんには子供がいないので、最後は自分達の子供に、跡を継がせてもらう事になるに決まっているのだから、まずは尾助屋の株券以外の土地だとか、株券といった類の物を、もらっておこうと思ったのだそうです。この時奥さんの珠代さんは、何もいわれなかったそうですが、多分その相続の仕方に、不安を覚えられたのでしょうね。だからご主人をつついて、あんな遺言書を書いておいてもらわれたのだと思うよ。考えてみれば、この時、珠代さん夫婦が受け取った遺産は、家も、土地も、工場も、出店の権利金も、預貯金も、現金も全部会社名義になっていましたから、もし将来会社を甥達に任されるようになってから、ご主人になにかが起こった場合、珠代さんは、自分達夫婦名義の預貯金以外は、裸で追い出される事だってありうると心配されたのでしょうかねー。邦子さん(尾助屋さんの長女)にしても、春美さん(次女)にしても、おっとりした、人のいい人で、そんなことするはずないのにね。姉妹と珠代さんとの間にどんな経緯があったかは判らないのに、一方の肩を持つのは間違いかも知れないけど、珠代さんという人も、おとなしそうな顔をしていらっしゃるけど、なかなかの人らしいわよ。
その4
珠代さんとご主人忠宏さんとの出会いは、京都の和菓子屋さんに菓子造りの修行に来ていた忠弘さんが、修行先で腎臓結石を患ったことに始まります。夜中アパートで目を覚ました彼は、ただならぬ腹痛に苦しめられました。下腹から背中に放散する猛烈な痛みで身動きも出来ません。この時、辛うじて呼んだ救急車が運んでいってくれた先の病院に、当直で働いていた看護婦さんが珠代さんでした。親元から離れて一人京都に働きに出てきて、間もなくの頃のことでした。忠宏は、当時まだ23歳。地元の大学に通っていた彼にとっては、親や兄弟から離れ一人暮らしを始めたばかりの時でした。一人暮らしをするのも始めての経験なら、誰も看てくれる人のいない場所で、病気になるのも始めての経験でした。猛烈な痛みと、一人で病床に伏している心細さに、消え入りそうにしょんぼりしていた彼を、一晩中親身になって看病してくれたのが、その晩の当直看護婦だった珠代さんでした。彼女は当時28歳。5歳年上だった彼女は、そんな忠宏を可愛いとも、可哀想とも思ったようで、仕事を離れて親身になって世話してくれました。他の入院患者さんの世話を済ませると、彼の枕元に戻って来ては彼についていてくれ、病気の彼を励ましたくれたのです。良家の跡継ぎとして育てられてきた彼は、どちらかというと甘えん坊で、寂しがりやでした。彼は夢現(ゆめうつつ)の中を彷徨い(さまよい)ながら、母親の手を求めるように彼女の手を捜し続けました。それより少し前に母親をなくしていた忠宏にとって、彼女は母親のように思えたようです。結石の痛みなどというものは、うまく結石が体外に出てしまえば、嘘のように去ってしまいます。彼の場合も翌朝には痛みが治まり、彼の父親と妹が驚いて飛んできたときには、もうケロッとして、何処が悪かったかといった様子でした。検査と様子を見るために、後2日入院しましたが、直ぐに退院となりました。しかし彼はその夜以来、珠代の事が忘れられなくなってしまいました。一方珠代はその当時、既に結婚していましたが,姑(しうとめ)との折り合いが悪く悩んでいました。職業柄、育児も家事も姑に任せる事が多く、当直のため夜も時々明けざるをえないといった彼女に対し、姑はあまり良い感情を持っていませんでした。其の為、彼女の勤めを助けてくれるどころか、意地悪をし、口を開けば嫌味を言い愚痴を言います。夫にも、彼女の悪口を言い続けました。姑にとっては彼女の全てが気に入らなかったようで、尽くせば尽くすほど誤解され、仲が拙く(まずく)なっていっていたのです。夫も、彼女の側にたってくれるのではなく、どちらかというと母親よりで、母親の言う事を信じ、彼女の言い分を聞いてくれないといった状態になっていました。
一日中姑と一緒に暮らしている子供もまた、どちらかというと接触時間の長い姑の方により懐いてしまっていて、このため、彼女は家の中で居場所を、失ってしまったと感じるようになっていました。そんな時、純粋で、世慣れない甘えん坊の彼の出現は、彼女の母性本能をくすぐり、彼女の満たされない気持ちを、満足させるのに充分な対象でした。
最初のうちは、彼のことを可愛いと思っていただけでしたが、デートを重ねるうちに、その青年らしい純粋で一本気な彼の性格に、彼女もまた次第に惹かれていってしまったのです。
こうして忠宏がもう、病院に通わなくても良くなった頃には、二人はいつしか、人目を忍ぶ仲になってしまっていました。こうなってからの彼女は、もう夫を愛する事が全く出来なくなってしまいました。姑さんとの折り合いが悪い上に、夫への愛情がなくなってしまっていた彼女には自分の家には何の未練もありません。彼女を引き止める物と言えば当時5歳になったばかりの男の子の存在だけでした。離婚を言い出した彼女に対して、夫の方も、もはや愛情がなくなっていましたから、すんなり受け入れてくれました。しかしこの子供は自分の方で引き取るという条件付でした。夫も姑も子供は可愛がっていましたから、手放したくないと思ったようです。特に姑の方は、嫁より懐いている(なついている)孫の事が、可愛くて仕方がないようで、「出て行くのなら、自分一人で出て行け」と言ってききませんでした。彼女の方も子供は手放したくはなかったのですが、自分のしていることの後ろめたさもあり、あまり強くも主張できません。又法律的にも、彼女の勤務の状態から、幼児の保育には不適切な環境とされ、引き取れない可能性が強いこともわかりました。従って結局子供は諦め、夫の所に残したまま、家を出ざるを得ませんでした。
夫と別れた彼女は、子供を残してきたという自虐の念もあり、それから逃れたいとばかりに、以前にもまして激しく彼と愛し合いました。しかしそういう関係になっていても、彼女は忠宏との結婚など、考えた事もありませんでした。良家の息子さんである忠宏と、貧しい上に、一度結婚していて、子供まであった自分が、釣り合うはずがないと思っていました。彼女は何も求めない愛を、彼にささげていました。彼女にとっては今の愛は、いつか覚める、束の間(つかのま)の夢のようなもので、忠宏が父親のお店の方に戻っていくときは、お別れのときだと、密かに覚悟していたのです。
しかし忠宏は違っていました。彼は珠代との結婚を真剣に考えていました。
忠宏にとって、彼女はもう離れる事の出来ない存在になっていたのです。こうした関係のまま約5年、彼がいよいよ尾助屋さんに戻る事になった時、正式に結婚を申し込んでくれたのです。彼女が再婚であり、子供が一人あることを承知の上で、結婚してほしいといってくれたのです。彼女は迷いました。しかし熱心な彼の申し出と、彼への愛情が、最後は何があっても彼についていこうと決心させました。珠代を連れて帰り、この人と結婚したいという忠宏の申し出に、彼の父親は驚きました。立腹もしました。父親の考えでは、その地方の良家のお嬢さんと結ばれて欲しいと願っていました。それが突然、貧しい、しかも瘤つき(こぶつき:再婚しようとする女性に子供のいること)、再婚の女と結婚したいと言いだしたのですから困惑しました。父親は断固として反対しました。父と息子は幾度も話し合いました。息子との話し合いだけでは、埒(らち)が明かないと思った父親は、裏から手を廻して、珠代にも忠宏と別れて欲しいといってきました。しかしこちらに戻ってくるに当たって、一切を忠宏に任せると決心していた彼女が、その話に乗ることはありません。こうしてすったもんだの末、父親としては彼女を嫁として認めるより仕方がありませんでした。
しかし彼女は尾助屋さんにとっては、最初から好まれざる嫁だったのです。
彼女にとっては、忠宏の変わらぬ愛情だけが頼りの日々でした。不幸にして、二人の間に子供に恵まれなかった彼女は、嫁としての立場が強まる時もなく、忠宏の影のような存在に甘んじながら、家を見、そして会社のために尽くし、舅(しゅうと)を送り出してきました。しかしこの間、社長秘書、兼労務担役、兼経理責任者、兼渉外担当のような仕事をこなしながらの約30年の間に、彼女は会社の経営の重要な仕組みをしっかりと把握し、彼女無くては、会社は成り立たないほどになってしまっていました。今では忠宏が亡くなっても、彼女一人でも会社を切り盛りしていけるような体制になっていました。兄弟で会社をやっていくというのは、お互い我がでてきますから難しい事だそうです。この兄弟の場合も、外からは判りませんでしたが、我慢しあっていただけで、小さな葛藤(かっとう)が繰り返されていたのかもしれません。歓迎されない嫁であった彼女に対し、妹達もまた、父親と同じように、多少差別的な目で見たり、態度で示したりしたときもあったのかもしれません。しかし彼女たちはそんな意識はありませんでしたから、はっきりした理由が分からないままに、忠宏の死を契機に、あなた達と別れてでも、今後は自分が主体になって、この店を切り盛りする事にするから、と言わんばかりの事を切り出されたのには戸惑うばかりでした。
その5
妹夫婦、そして彼女たちの子供たちは集まっていろいろ相談しました。しかし形式的な株主総会の後、役員も解任されてしまっている彼等に、今ではどうする術も残っていませんでした。後は珠代さんの言うとおり、一従業員として、彼女の元で働かせてもらうか、やめるしかありません。長く続いてきた歴史ある尾助屋を見捨て、全く血のつながってもいない他人に、全てを任すのは忍びない、せめて傍で見守るだけでも、見守っていてやりたいという意見もありました。しかしこのままこのお店に残ったとしても、一株も持っていない彼等には、何の権利も、発言権もありません。更に彼女の態度から考えると、自分達が会社の事を思って、どれだけ尽くしても、絶対に跡を継がせる気がないこともはっきりしています。従ってもはや辞めるより外に道はないということに決まりました。しかしむごい話には、彼等の独立するに当たって、尾助屋の名前を使うことを許してくれませんでした。従って全く新しい名前の菓子屋さんとして出発するより仕方がありません。尾助屋分店とか、尾助屋栄店というように尾助屋の名前を使わせてもらえれば、その名前で、従来のお得意様の一部がいただけますから、すぐに商売が軌道に乗ります。しかし全く新しい名前でという事になりますと、知名度がないだけに、この業界(和菓子は現在では、需要が限られているため、お得意さんの新規開拓は、なかなか難しいそうです)なかなか難しいようで、今はまだ苦戦しているそうよ。こうした妹さんたちの苦労を尻目に、珠代さんの方は、彼女達が辞めていくのを待っていたかのように、幼いとき自分が婚家に残してきた、前の夫との間の子供を会社に呼びいれ、今ではその人と一緒に、あの店はやっているそうよ。多分将来はあの子が店を継ぐことになるのでしょうが、全く血の繋がらない子に跡を継がれる、墓場の中の尾助屋さんのご先祖様たちは、どんな思いでしょうかね。それにしても酷い(ひどい)話でしょう。
そうそう、そういえば貴女のことも、珠代さんはあまり良く思っていなかったそうよ。
「貴方が帰った後は、いつも珠代さんのご機嫌が悪かった」
と邦代さんが言っていたのを聞いた事があるわ。多分ご主人のお気に入りだったから、焼餅を焼かれていたのよ。だからご主人が亡くなられてから行ったって、歓迎されるはずがないわよ。貴女の事だから、こんな話を聞いたら、「ご仏前にせめてお花でも」と思っているでしょうけど、
「そんな事も止めておいたほうがいいわよ」
と言われてしまいました。
私としてはご主人も、奥様も好きな人だっただけに、なんだか心の奥を冷たい風が吹き抜けていくようで、とても寂しい思いをしています。それにしても人の心は解からないですね。