鰯(いわし)の頭も信心から(ある新興宗教のお話)
このお話は創作されたもので、同じような名前や似た名前や教えなどが出てきたとしましても、偶然の一致で、実在の事件、宗教、人物、建造物などとは全く関係ありません。
その1
新興宗教というと、そう聞くだけで、オウム真理教ではありませんが、なんとなくいかがわしさを感じるのは、一般の人々の受け止め方のように思います。
しかし歴史を遡ってみれば、現在社会から認知され、社会的に確固たる地位を築いている既存の宗教だって、始まったばかりの、未だ社会的にはマイナーで、市民権を得ていず、権力とも無縁だった時代は、世間の受け止め方は同じ様なものであったのではなかったかと思われます。例えばキリスト教だって、一、二世紀ごろのイスラエルや初期のローマ帝国内で、貧しくて恵まれない人々、虐げられた(しいたげられた)階層、不幸に苦しむ人々の間に、時の為政者(いせいしゃ)や権力者の目を盗むように、密かに広められていった時代では、他の人から見れば、得体の知れないカルト集団にしか映らなかったのではないでしょうか。
こうした弾圧下の宗教の常として、彼らは、殉教(じゅんきょう)も怖れないほどの強い信仰心を持ち、信仰に裏打ちされた、教徒同士の強い結びつきがあっただけに、秘密っぽいその教えと集まりは、他のローマ人から見たとき、不気味な存在として映っていたにちがいありません。
日本への伝来初期のキリスト教(カトリック系だったとおもいますが)の場合も似たようなものでした。隠れてこそこそと集まり、得体の知れない外国の神様を拝み、奇妙な言葉でお祈りする集団に対して、当時の日本人が違和感と、ある種の気味悪さを感じていたであろうことは想像に難くありません。
その後の弾圧下、多くの殉教者をだしながらも、隠れキリシタンとして生き延びたほどの神と信者、信者同士の結びつきの強さが感じられただけに、その感じは、より強く、既存の宗教の信者達から、不気味な存在として見られていたであろう事は、想像に難くありません。しかもその信じていた神は、髪の赤い、鼻のとんがった異国の神であり、その神を信じるにあたっては、日本の神仏を否定し、祖先崇拝を否認し、その異国の神を信じる事のみを優先するように強いるわけですから、信じていない多くの日本人達が、邪教と呼んだほど(これは時の政権による、キリスト教弾圧政策の影響ありますが)不審の目で見たのは当然だと思います。
イスラム教でもそうです。神の啓示を受けたムハマンド(イスラム教の創始者:敬称略)が最後の予言者と称して突然に道を説き始めたとき、偶像崇拝を禁止し、アッラー以外の神を認めない非寛容なその教えは、その当時のその地方に根付いていた宗教的慣習に、全く反する教えで(当時のその地方は多神教信者が主だったようです)、そのイスラム独特の信仰行為とその遵守(じゅんしゅ)義務の厳格性などから、当時のほかの宗派を信じる人々から、不気味な目で見られていたであろう事は想像に難くありません。その上、この教義には、社会革新とも言うべき平等の思想が含まれ、しかもその宗教の創始者が、政治的指導者でもあり、軍事的統率者(とうそつしゃ)も兼ね、政略、武力も利用しながら、その宗教範囲を拡張してくるわけですから、周辺の権力者や他の宗教の信者達にとっては、脅威を通り越して、恐怖の存在であったであろう事は容易に推定できます。
日本の有力な新興宗教でもそうです。今でこそ政界の中枢にまで進出し、社会的市民権を得ておるようですが、終戦後間もなくの教勢拡大期において行った、その強引とも思える折伏(しゃくぶく)運動と、在来宗教の否定、そしてそれに伴う祖先からの伝来の仏壇などの破棄の教えは、既存の宗教信者からは批判の対象になっていたものでした。
その2
あまりにも強い信仰心をもっている人というのは、新興宗教の場合に限らず、どの宗教の場合でも、他から見た時は、多少奇妙なところが感じられるものです。新興宗教の場合は、強信的な人が特に多く、その教義があまり一般に知られていないだけに、或いはその宗教行動が、それまでの一般の人たちの常識とかけ離れている事が多いだけに、より一層、如何わしさ(いかがわしさ)を感じさせます。最近話題になりました、出来て間もない、数々のカルト宗教などは、その典型でして、秘密っぽさのゆえに、或いはその信者達の結びつきや、信仰心の強さゆえに、余計にその感が強く、私たち信者でない者達に、一層強い不安を感じさせます。かれらの集団が、どのような教えの下、今後、どのような行動を起こしてくるのか解らない所が多いだけに、恐怖さえ感じる場合があります。何しろ、どんな宗教でもそうですが(これは新興宗教に限りませんが)、強信的な信者達というのは、その信じる物のためなら、国家の法律とか、社会の道徳、慣習などといったものに囚われず、平気でそれらを無視し、破る可能性がある存在でありますから。
その3
私にはとても頭が良い従姉妹(いとこ)がいます。彼女3人兄弟の長女、もともと頭のいい家系ですが、中でも彼女は頭がよく、その家のホープとして、父親から溺愛(できあい)されておりました。父親は彼女が自慢で、可愛くて仕方がない様子で、幼少時からどこに行くにも連れて歩き、彼女が中学、高校生時代は、一日も欠かさず、放課後の塾通いの送迎をしていたほどでした。
そのおかげもあってか、彼女、旧制帝大系の国立大学医学部に現役で入学、親戚中から羨まし(うらやまし)がられていました。彼女、ただ頭がよかっただけでありません。とても優しく、気遣いの細やかな子で、私などは、いつも親から引き合いにだされ、叱られていたものでした。ところがその子が、何処で何が狂ったのでしょう。いつの間にか、ある新興宗教にはいってしまいました。両親の心配も、説得も空しく、折角難儀して入った大学も2年の時中退してしまい、その教団内での集団生活へと入ってしまったのです。その後は、あまり音沙汰もない状態ですが、稀に帰ってきても、殆ど会話もありません。
何しろ人生観、価値観が噛み合わないのですから、どうしようもありません。帰ってくるたびに、
「このような俗世の財産などという物にとらわれているのは不幸の元なのに。」
「そんな物は皆、全てを教団に寄進してしまいなさいよ。この悪に満ちた物欲の世界から一刻も早く離れるためには、そういった妄執(もうしゅう)の元になるものは皆棄て、身軽になって魂(かたまり)を浄め、神様におすがりしなさい。」
「魂の救済を今から求め、霊を浄めることに努めれば、今の病気だって治してあげれるし、死んだ後も、神のお救いがあり、永遠の家族として、天国で皆一緒に幸せに暮らせるようになるのだから」
「そのための手助けなら、いくらでもさせてもらうから。」
と説きます。
これに対して、俗物の塊みたいな、無神論者であるご両親は、折角自分たちが難儀して作ってきた財産を棄てる気など、さらさらありません。なにしろあの世の存在すら信じない人なのですから、両者の間には接点がありません。一方は救いのない俗物と思い、他方は変な宗教に騙されている馬鹿娘と思っているのですから、接点がありません。
その4
両親は、それでもあまりに長い間、なんの音沙汰もない時は、不安で連絡を取ろうとします。
しかしそうかといって彼女が家に帰ってきても、今度は入信を勧める子供と、脱会を目論む両親との間の口論という、修羅場(しゅらば)が待っているといった有様です。子供が入信して以来、叔父のうちから笑い声が途絶えてしまいました。それでも母親の方は、粗末な身なりで、化粧気もなく帰ってくる我が子をみると、不憫(ふびん)でたまらないようで、帰ってくる度に、お小遣いを持たせて帰していました。しかし子供のほうは、そんな母親の心を察することもなく、そのお金も全て、神様の所に寄進してしまっている様子です。
両親は、
「折角手塩にかけて育ててきたのに、あそこに(あの宗教に)子供を盗られてしまった。」
と嘆いています。
しかし子供の方は、
「親と子の結びつきなどというのは、所詮この世での仮の結びつきに過ぎない。」
「永遠の結びつきである神との結びつきと比較すること自体が間違いだ。」
と言って、親の悲しみなど歯牙(しが)にもかけません。
彼女の頭の中には、生身の世界の親子関係などいうのはもはや重要ではありません。
神様との結びつき、その結びつきを強めるのを助けるために、己の気の流れを正し、霊を浄め、導いてくださる教祖様との結びつきこそが、最重要でした。
彼女にとっては、現世の肉親関係などというのは、親でも、兄弟でも仮の縁でしかありません。魂を通して結びついている、同じ教えを信じる仲間の者たちこそ、真の同胞(はらから)であり、魂を浄化し、神の高見に近づく橋渡しをしてくださる、教祖様だけが真の親と考えています。
信じるというのは恐ろしい事で、私たちから見れば、とんでもないとしか思えないような教えでも、信じてしまっている人には、絶対です。疑う事をしません。親が、親戚が、教師が、どのように人の道を説き、情に訴えても、彼女の耳には入りません。冷たく撥ね退ける(はねのける)だけです。周りの人は、それまでの利発で大人しくて素直だった彼女を知っているだけに、これが信仰の怖いところかと、その変わりように、ただただ慨嘆(がいたん)するばかりでした。無論、親の事など顧慮(こりょ:気にかけること)する気も無くなっておりますから、病気がちの父親の前でも、
「そのように身体が悪いのは、お父さんの霊が穢れて(けがれて)いるからよ。このままいったら、とても長生きできないわよ。私の言うことをきいて、霊を浄める邪魔になるような、この世の、つまらない物への執着など、一刻も早く棄て去り、神様にただひたすらお縋り(おすがり)しなさいよ。霊を浄めることによって気の流れを正し、物欲を離れた、正しい日常生活に心がけるようしさえすれば、病気なんか直ぐに治ってしまうし、長生きだって、できるようになれるのだから。そうでないと、後長くないし、死んだ後も、地獄しか待ってないから。お父さんが、あんたの財産に、どんなにしがみ付いていても、今更どうしようもないでしょ。どうせお父さんは、このままだったら、もうそんなに長くないし、あんたが死んだ後は、少なくとも私の相続分に関しては、全部教祖様のものになってしまうのだから。」
と言って憚り(はばかり)ません。父親は
「あの娘に、家の財産はクチャクチャにされてしまう。このままでは死ぬに死にきれない。」
と気が気でない様子です。
その5
この宗教、私など宗教についてまったく無知ですから、チンプンカンプンで、多少間違っている所があるかもしれませんが、彼女の説明を要約しますと以下のような教えのようです。
「今の世は、人々は肉欲、物欲(金欲も含めて)、権力欲などといった欲と妄執に囚われ(とらわれ)すぎ、その霊が汚れきってしまった。この影響を受け、大神様があまねく宇宙に向って発せられている慈悲と真理の具現である清らかな気の流れも、この地球上では、乱れ、滞り(とどこおり)、穢れてしまっている。我欲と妄執に囚われている地球上の人々の邪な(よこしま)霊によって穢れ(けがれ)、乱れ、停滞してしまっている気の勢いは、次第に大きくなり、今では地球全体を覆い尽くそうとしている。この現象による災厄は地球に災害をもたらすだけではなく、その影響は宇宙全体にまで及ぶものである。今はその最初の現われとして、地球が混乱の極みの中に入ってしまった。最近、テロや戦乱とか、公害のような人災、天変地変、気候変動などの自然災害が絶えないのも、殺人、盗難、喧嘩、いじめ、不倫などといった人の道の乱れてきているのも、貧困、病気、不和といった家庭内の不幸が多くなっているのも全てこのためである。しかしこれは終わりではなく、これから始まる大恐慌の序曲に過ぎない。このままほっておけば、地球が破綻(はたん)するだけではなく、宇宙全体が悪い影響を受けるようになる。それどころか、その影響の及ぶ所は、目に見えるこの三次元の物質世界に止まらず、別次元の上位に存在している神の国、地獄といった世界にまでいたるのである。
そこでこの有様をお憂い(うれい)になった、全宇宙を支配されている大神様が、その気の流れの乱れや、滞りを正し、浄めるために、一人の男にそれを正し、浄める力を預託された。それが私どもの教祖様である。教祖様は、神から与えられたその御力を使って、人々の霊を浄化し、人々個々に、安寧(あんねい)と幸せをもたらすと共に、宇宙の気の流れを浄め、正常化し、地球を破滅から、更には、宇宙を混乱から救おうと、日夜努力なさっておられる。私どもは教祖様からその力を分け与えられ、この気の流れが清浄化するためのお手伝いをさせてもらっている。私たちの手から発するこの力は、人々の霊を浄める働きがある。そしてそれによって、その人が発していた邪悪な気は浄化され、その人が健康で幸せになるだけでなく、最終的には、邪悪な気によって歪め(ゆがめ)られていた宇宙の気の流れを、正していくことも出来るようになるのである。私たちが御教祖様から分けていただいているお力は、まだまだ小さく弱いものに過ぎないので、まず一人一人の邪悪な霊を浄化し、その気の流れを正すくらいのことしかできませんが、こうした私たちの活動によって、大神様の御心と、教祖様の偉大さを理解させ、教祖様の教えに共感してくださる人を増やしていけば、正しい霊をもった人々の数が膨れ(ふくれ)上がっていき、やがては世界中に広がる、大きな力となっていくはずである。
私たちのこの活動は、最終的には清浄な気の大流を作る教祖様のお仕事を助け、大神様のご意向があまねく宇宙に正しく伝わるようにすることであるが、最初に皆さんに実感していただける活動としては、霊を浄化することにより、(心や身体が)病み、苦しんでいる人々から、その苦を取り除き、又不幸に苦しんでいる人々には幸せを与えことである。
こうした私たちの活動によって、正しい気の流れ持ち、浄らかな霊をもった人が世界中に満ち溢れてき、そしてその人たちが、その後も浄らかな霊を保ちつづけられるよう、日々修行し、教祖様のお仕事を手助けするようになってくれれば、やがてその人達が発する浄らかな気の流れが、互いに同調して、清浄な気の大波が生まれてくる。この時、この浄らかな波の動きを、教祖様がコントロールされることによって、地球上の穢れた霊による不浄な気の流れや停滞は一掃され、宇宙全体の気の流れが円滑になる。そして大神様の発せられる清浄な気の流が、元通りに、速やかに全宇宙に行き渡るようになるのである。そうなった時、地球は破滅から救われ、宇宙の混乱も避けることができるし、現世にもユートピアが出現する。
この世から全ての苦悩は消滅し、争いごとや犯罪はなくなり、誰もが穏やかで、豊かで、健康な暮らしをすることが出来るようになり、中位の霊は(この世での修行が足りず、天国にあっては最下位に位置する霊)天国に留まることよりも、再びこの世に転生する事を望むようになる。今は未だ、私たちと志を一にする同胞(はらから)が少なく、私たち個々の力も小さな物に過ぎない。
しかし私たちのこの力は、今活動しているような霊を浄める活動や、絶え間ない日常の修行研鑽(けんさん)によって、より浄く、より強くしていくことができる。
病を癒し、人に幸せをもたらし、穢れた気の流れを正す(手から発する)この力は、霊を浄めてやる事によって、その人が発していた穢れた気の流れを、清浄にしてやりさえすれば、誰でも持つことが出来るようになるものであるが、それをより強め、より浄め、死後の神の国にあって、より高い所に座り、より神のお傍(かたわら)に、お遣え(つかえ)ることが出来るようになるためには、他人の穢れた霊を浄める活動に励む(はげむ)活動と同時に、全ての欲や、物への執着心を棄て、ひたすら神を信じ、教祖様の教えに従って心を無にし、霊を浄め、高める修行に、努めねばならない。性欲も所有欲も、権力欲も、私たちの霊の浄化の邪魔になるだけである。
従ってそのような一切の煩悩(ぼんのう)は棄て去り、ひたすら神に縋り(すがり)、自然の循環の中に入って、正しい道を歩むことが必要である(このためには人工の肥料とか、殺虫剤、除草剤などを使った食物、添加物の入った食べ物などは口にしないようにしなければならないし、むやみに贅沢(ぜいたく)な生活をして、資源の無駄遣いをしてもいけない。)
しかし私たちはなかなか、この便利でお手軽な今の生活を手放す事が出来ないし、煩悩をコントロールしきる事も出来ない。
従ってほっておけば、私どもの気の流れは、すぐに滞りがちになってしまう。そして穢れた気を正す力も、弱まっていってしまう。それを防ぐためには、教祖様の教えに従って、日常生活を律するとともに、黙想修行に励み、更に定期的に教祖様から、気の正し方のご指導を受け、自分の気を浄め、その流れの停滞を、とっていただく必要がある。
私たちの今の最重要な仕事は、こうして注入強化していていただいている気の流れを使い、大神様から預託された御教祖様のお仕事が、一刻も早く達成されるように、教祖様をお助けさせていただくことである。
私たちがこの活動を怠って、宇宙の気を正すことを放棄してしまったときは、地球の破滅、ひいては宇宙の混乱が待っている。今私たちの言う事を馬鹿にして何も行動しようとしない人は、もしも地球が破滅に陥った時は、大神様の最後の審判によって、その霊は、宇宙の永遠の放浪者にならなければならない。真っ暗な邪悪に満ちた宇宙の中を(その時は、宇宙は邪悪な霊によって支配される事になるから)(しかも空間の歪みによって、地獄への門も閉ざされてしまう事になると思われるから)、たった一人で、不安と恐怖に脅え(おびえ)ながら、果てる事のない悔恨と苦悩の中、永遠に続く、流離い(さすらい)の旅を続けなければならない運命(さだめ)が待っている。幸いにも御教祖のご活躍によって、今回のこの地球の破滅を防ぐ事が出来たとしても、そのような人に待っている死後の世界は無限地獄である。その光なき世界での苛み(さいなみ)から、永遠に逃れる事ができないことになっている。
今回のように、幸いにも、縁あって霊を浄化させていただき、お話を聞いていただくことが出来た方は、大神様のご縁につながった方である。一刻も早く私たちの集いに参加して、同胞になっていただき、正しい気の流れを作ろうとされている教祖様のお仕事の手助けをしていただきたいと思う。
そうすることにより、地球を破滅から救うことが出来ると共に、今の世界にあっては、全ての苦悩から解放されるという無上の幸せが約束されるし、最後の裁きが待っている、死後の世界にあっては、より高い所、より神様のお傍近くに、座ることが許されるようになる。」
という事でした。
その6
こんなことを言いますと、宗教心の厚い人から、猛反撃を食う事になるかもしれませんが、宗教というものは、人の不幸とか苦しみ、悩み、心の迷いに付け込んで、心のおく深くまで忍び込んでくる寄生虫のようなもので、迷いとか悩みがない人の場合は、右から左へと抜けていってしまって、比較的心の中に止まらないものではないかと思います。私の場合も、幸か不幸か、今のところそれほど深刻な悩みを抱えていませんでしたし、今の世情についても、それほど心配してもいませんでしたから、従姉妹の熱心な誘いにも、「フーン」と聞き流してしまうだけで、何の関心も湧かず、そのお話はそれで終わってしまったとばかりに思っていました。
ところが世の中何処(どこ)につながりがでてくるか、解らないものです。
ある時の事です。私たち画商の間で、さる新興宗教に、盛んに美術品を納入している美術商がいるという噂がたちました。その噂によりますと、そこはある地方の山中に新たに本部を構えた宗教だとの事で、その教義と所在地から推定するに、どうも従姉妹の言っていた宗教のように思われました。その噂によりますと、そこに修行道場を完成させた後、美術館を作る構想があり、そのため盛んに古い日本の美術品を買いあさっておられるという話です。
こういう話を聞きますと美術商の性(さが)、血が騒ぎます。
私のところの扱っている作品とは、系統が違いますから、商売気で騒ぐのではないのですが、どのような見識を持って、どのようなものが集められた美術館が出来るのか、誰が関与しているのかといった野次馬的興味が湧いてまいります。
しかし残念なことに、私たちにはその美術商が誰かという事を分かりようもありませんし、又もし分かったとしても、そのような作品を扱っておられる人々とはあまり接点がありませんから、その全様を知る術がありません。
その為、美術館が本格的にオープンするまで待つより仕方がないだろうと諦めていました。ところが私の従姉妹に会った時、たまたまその話をしましたところ、
「それってうちの話ではないかしら。」
「今修業道場の隣に美術館と来訪者用の喫茶室を作っているから、多分そのことよ。」
「未だ工事中のところもあるけど、もう殆ど完成し、美術品が並べられていて、一部の人には、日を限って開放しているようよ。」
「良かったら私が頼んでおいてあげるから、見に行ってらっしゃいよ。」といってくれました。
その7
訪ねていった先は本当に山の中で周囲には山の自然以外は何もないところでした。
山肌を切り開き建てられている建物群は、そこの自然に配慮し、それとの調和が計られていて、何年か後には自然の中に溶け込んでしまっているであろうと思われる行き届いた設計です。広く作られた駐車場も、周りには木々が一杯に植えられています。美術館の建物も山肌を削って建てた後、もう一度土をかぶせて埋め戻すといった手法で、前の自然が復元されております。それらは「自然を壊さず、自然の循環の中に生きる」といわれている教祖様の主張が踏襲(とうしゅう)されているように感じられました。
コレクションは未だその途中のせいか、一貫性がなく、美術商に勧められるままに、良いもの、自分の感性に合うものを集めておられるといった感じで、はっきりした蒐集のコンセプトは感じられません。しかし物をみる目は確かなようで、小品さえも、きらりと光ったものが展示されております。ただ折角特別に見せていただいて、こんなことを言うのは何ですが、私たちの感覚から言えば、コレクションというは、物欲の一つの形としての現れのようなものではないかと思うのですが、これが教祖様のコレクションであるとすると、それと従姉妹から聞いている、この宗教の教義との間に、矛盾があるように感じられて、奇妙な思いをいたしました。
公には、美しいものに接することが、霊の浄化の助けになるから、集めたのであり、自分たちの宗教を理解してくれる人を増やす為に公開するのだとおっしゃるかもしれませんが(これは私の勝手な推定です)。
もう一つ、この宗教に限った事ではなく、多くの宗教でいえることですが、こういった宗教に集まってきているお金は、純真な信者達の血の滲む(にじむ)ような努力と苦労して得たお金を寄進してくれた浄財であることや、第一線での布教活動が、末端の信者達による無償の奉仕活動によって殆ど成り立っているものである事に思いをいたす時、集められたお金が、本来の宗教活動とは別の用途に湯水のように費消(ひしょう)されていることに、大きな抵抗を感じます。このような美術館の設立が、その宗教の大きなPRになることや、美しいものに接する事が、美しい心を生み出し、魂の浄化に役立つ効果があることを、例え差し引いて考えたとしてもです。
「なんだか違うなー」
という感じがどうしても拭え(ぬぐえ)ないのは、私が無信心者の朴念仁(ぼくねんじん:無口で愛想のない人。ものわかりの悪い人。)であるせいでしょうか。