こっそり爪を研ぐ(とぐ)女達

私、美術品の買い取りという職業柄、いろいろな人から お話しを聞く機会が数多くあります。奥さん方からのご相談もあるのですが、中にはご主人に内緒でご相談に来られる方もいらっしゃいます。ご主人とは不仲で、将来離婚することも考えて、手元の美術品の評価を知っておきたいとか、今のうちにコッソリ売ってしまいたいという奥さんもいらっしゃいます。

おそらくご主人は 「自分のうちの妻は何の不満も持たず なんの問題も無い」と信じておられ 安心しきっておられるのでしょうが、奥さんは、 実はこっそり爪を研いでいらっしゃるわけです。

家庭持ちの男性の皆さん、釣った魚に餌はいらないとばかりに、自分の奥さんに無関心になっていませんか。家のワイフに限ってと安心しすぎていませんか。全てを受け入れ許してくれる 女神のような或いは母親のような そんな女性像を夢みていませんか。

ところが女も生身の人間なのです。あなたたちと同じように或いはそれ以上に憎み、悩み、悲しみ、妬みの感情をいだいているのです。

不満もあれば怒りもあるのです。

まだまだ古い日本人の女としての慎みだとか恥じらいといった物の片鱗(へんりん)くらいは残っているために、「ギャーギャー」騒がれないだけです。

だから黙っているからと言って、優しいからといって 安心して家庭を放りっぱなしにして 好き放題をしておられる旦那さん方,うちのは大丈夫とばかり浮気をしたり、無関心のままほっておかれたりしますと、奥さんがたは其れこそ山姥(やまんば)のように、貴方が寝静まった頃を見計って、台所でこっそり山刀を研いでいるかもしれないのですよ。くれぐれも御用心、ご用心。

これはある大きな病院の お医者さんの奥さんの話なのですが、ある時お訪ねした折、お世辞半分に

「優しそうな旦那さんで良いですね。それにお仕事もとても良くお出来になるそうで、羨ましいですわ」

ともうしますと、

「それがそうでないのよ。いろいろ有ってね。もうそろそろ我慢の限界なの。もし今度あったら そのまま家を出るつもり。いつでも出る事が出来るように ほらこうして車のトランクの中に家出の準備を 一式しているの」

と車のトランクの中をみせながら おっしゃるのです。

「どうして。とても優しそうな旦那じゃあないの。其れに経済的にも恵まれているし」

といいますと、

「そりゃ確かに優しいわよ。経済的にもとてもいい条件だと言う事も解っているわ。しかし全く尊敬できない夫との生活って一種の苦役よ。宅の主人 突然幼児に戻ってしまう事がありますの」

「気に入らない事があったりすると 幼児言葉を使いながら、喚いて(わめいて)叩いたり、 物をぶつけてきたりしますの」

「『ぼくチャン、嫌だ。もう怒った。わー』と喚き(わめき)ながら、地団太ふんで物を投げて殴りかかってくる亭主を見ると、怒れるより悲しくなってしまうの。此れが40歳半ばにもなった大人のやる事かと思うと嫌になってしまうわ。どんな顔して毎日患者さんと接しているのかしら。考えると笑えちゃうわね。」

と皮肉っぽく言われるのです。

その口調にはもはや愛情の欠片(かけら)も感じられません。

何処かのクラブで、男の人たちにおしめをし、おしゃぶりを舐めさせたり、乳母車に入れる遊びをしてくれる所があるとか聞いた事があります。

こういったお店のお得意さんはストレスの多い職業の人だと言う事です。

こういった人は、幼児に帰り一時をお母さんの羽の下で 休もうと こういった理由で遊びにくるのだそうです。

このご主人の場合も お勤めでストレスがたまった時、安心して羽を休める所として奥さん胸の下を選んでいらっしゃるのでしょうに。しかし女性の側からすれば 職業としていっときだけ付き合うというのなら 未だ我慢も出来ましょう。しかし毎日そんな子供っぽい暴力に付き合わされている奥さんの身になってみれば、たまらないでしょうね。特にこの奥さんのように聡明で理知的な人にとってはそうなのでしょうね。

次は私が英語会話の教室に通っていた時の話しです。スタイルは良いわ、美人だわ、その上とても聡明そうで上品と、何処からみても申し分の無いといった 奥さんと知り合いになった事が有ります。私を可愛がってくれた伯母くらいの年頃(44~45歳位)だったものですから 私たちはとても親しくなって、教室の帰り 喫茶店で駄弁るのが日課になっていました。

ある日いつものように喫茶店で取り止めも無い事を話していますと、何かの拍子に

「結婚に夢など無いわよ。ただ生活の為の手段よ。今はオサンドンみたいなものと思って割り切っているわ」

とおっしゃったのです。

幸せにしていらっしゃるとばかり思っていました私にとって、この言葉は 寝耳に水でした。

さて彼女が語ってくれた身の上話によりますと、彼女は再婚で、最初の結婚は夫の浮気により、結婚3ヶ月で離婚してきしまいました。

「新婚旅行から帰ってまもなく 愛人の所に行ったきり帰ってこない夫を待っているのがどんなに辛いか 貴方には想像出来ないでしょう」

「その上、姑たちからは、夫が帰ってこないのは私に欠陥が有るからだと言わんばかりの毎日、本当に針の莚(はりのむしろ:一時も心の休まらないつらい境遇のこと)ってこういう事かとおもったわ」

「ところが皮肉な事に離婚して帰って暫くしたら、妊娠している事に気付いたの。私の母などは堕胎して、人生もう一度やり直した方が良いと言ったけれど、私は子供が可愛そうでどうしても堕胎できなかったわ。幸い、当時は父もまだ元気で、家も裕福でしたから 私の我が侭を許してくれ、子供を産むことが出来ましたの」

しかしその父親も私が子供を産んでまもなく突然心臓の病で急死し、遺された母親は途方に暮れたように毎日泣いてばかりいます。

生きている内こそ裕福であっても、所詮サラリーマン重役のこと、資産としては其れほど残っている訳ではありません。

生命保険と退職金、そして僅かの蓄えだけの生活は心細いものです。

そこで子供を母に預けお勤めをしていました。

「もう男など懲り懲りで、結婚など二度とするものか」と思っていたのですが、子供が中学に行くようになってきますと、この子の学費をどうするかとても不安になります。そんな時

「奥さんに亡くなられ、6歳のお子さんを一人抱えて 困っていらっしゃる人がいらっしゃるけれどどうでしょう」

と言ったお話が父の部下だった人より有ったのです。

悩んでいた所だった私は、一応そのお話に乗る事にしました。相手の人には悪いのですが、最初に会った感じは 可も無く、不可も無しで,

「背が低い人だわ」

と言うのが第一印象でした。

話していても その後付き合っても 特に胸がときめくような事も無かったのですが、でも優しい人であることはわかりました。また、収入が多く安定した職業に就いていらっしゃいました。

相手の人、今の主人ですがその方はよほど困っていらっしゃったとみえて

「是非是非来ていただけないか」

と言って下さいます。

其れで結婚したのですが 子連れの再婚って思っていた以上にお互い大変です。

特に うちの子供はもう中学になっていたものですから、何かと言うと夫に反抗します。母親を盗られたような気がして余計につっかったのかもしれません。すると夫もむきになって子供を叱る物ですから間に立って大変なのです。その上又、夫の連れ子が小さな癖にとても生意気で、裏表が有り、夫の前ではいい子にしていて とても素直そうですが、私一人の時は、私の言う事など時々無視するし、やっては駄目と注意すると その時はいいお返事しても私のいない所で隠れてこそこそ しているのです。

其れを言っても夫は

「子供ってそんなものですよ」

と笑って取り上げてくれなかったりすると、理性では片づける事の出来ない葛藤が生じ困ってしまいます。

そうこうしながらもう6年たちました。

今年から 私の子供は大学に、夫の子供も中学にいき始めています。夫と私の子供との間は相変わらずで、ほとんど口も聞かない状態が続いていますが、其れでもお互い成長してきたのか、面と向っていがみ合うと言う事はなくなっています。

しかし帰ってきても父親がいると部屋にこもったきり出てこない息子を見ると この先どうしたものかと悩んでしまいます。

「息子をとるか夫をとるか」

といわれたら、私多分、息子を取ると思うの。皆さんは

「息子さんも成人してお嫁さんを貰われるようになったら、貴方など相手にしてもらえないわよ」

とおっしゃってくださいますが、他所様と違って苦労を共にしてきた息子はきっと特別だと思っていますから、そんな心配はしていません。

もしその様になった時、息子に経済的負担だけは懸けたくないと思っていますから、主人のくれる生活費とか小遣いを遣り繰りして、こうして英語会話を勉強したり、パソコンの学校に通ったりしていつでも自立できるようにしているのです。

「私こう見えてもパソコンのインストラクターの資格を持っているのよ」

「その上亭主に内緒でパソコンでのアルバイトをしていますの」

「だって子供にも主人に内緒で お金を送ってやりたいし、将来自立する時の為に仕事も覚えておきたいものですから」

とおっしゃるのです。

私、この方のご主人も知っているのですが、そのご主人はこんな奥さんの考えを露ほども御存じなく、お会いすると何時も

「過ぎた女房です。子供の面倒もよく見てくれていますしね。」

「息子の方は 大学を卒業したら 家を出て行く事ですし、娘も早晩結婚して家を出て行くでしょうから、その後は女房と二人で、海外の美術館をめぐるとか、思い出に残る絵画を買うとか、楽しくやっていくつもりです。今は妻がしっかりしていてくれますから、何の心配もしていません。本当に感謝していますよ」

とおっしゃっているのです。
男性の皆さん、くれぐれもお気を付けくださいませ。