No.235 狂い花 (ある名もなきコレクションへのレクイエム(鎮魂のミサ曲))(5)

このお話はフィクションです

その10

どうして社医さんがこのような変わり者になったのか
何やかんやと女子職員たちか言われながらも、澁井仙太郎が、名古屋医務室に勤めるようになってから、2年ほどの歳月が流れました。

そんなある日のことです。
保険の締切日が終わり、少しのんびり出来るその日の午後、私達、庶務課の女子職員三人は、セールスから頂いたお菓子の差し入れを名目に、医務室を訪れました。
ちょうどその日は、澁井先生は、嘱託医訪問だとかで、高山へ出張されていて、医務室にはいらっしゃいませんでした。
その月の保険募集の締切日が過ぎた後だったその日は、診査の申し込みも、全く入っておらず、先生方も、久しぶりにゆったりと、医務室で寛い(くつろい)で、書類の整理だとか、読書をしながら、寛いでおられました。
「先生がた、今日は久しぶりに暇で、のんびり出来ましたでしょ。セールスからの頂戴物でなんですけど、お菓子の差し入れを持って来ましたがいかがです?」
「おお、よく来た、よく来た。久しぶりの暇で、時間を持て余し、退屈で、退屈で、どうしたものかと、今、思っていたところ。貴女達も、今日は少し時間があるんじゃないの。よかったら、一緒にお茶でも飲みながらお話ししていかない?持ってきてくれたお菓子もあることだし」と医務室一番の古株、若園先生。
「じゃー、ご馳走になりまーす。丁度、澁井先生も御留守の事ですし。
彩佳ちゃん、あんた悪いけど、お茶入れてくれない」
「はーい、わかりました」
「今、『丁度澁井先生もいらっしゃらないことですし』とおっしゃったけど、相変わらず、澁井先生とは、うまくいってないの?
そりゃー、あの先生とでは、誰も巧くいくはずがないわなー。わしら社医でさえ、あの人の行動には、びっくりしたり、辟易(へきえき)したりすることが、今でさえ時々あるくらいだからなあ。
あんた達の苦労よく解るよ」と三人の中では一番年下の大場先生。
「最近では、それほどではないんですよ。
皆、『この先生は、こういう人なんだな』という事が、解ってきて、それなりの付き合いが出来るようになりましたから、
あまり気にしたり、角立ったりすることも、ほとんどありません」
「それに、こうして二年余もの間、お仕事を一緒にしてきますと、あの先生は、人嫌いで、私達と、心を通わせるのを避けたがっておられるだけで、自分の方から、他の誰かを傷つけようとか、自分の考えを押し付けようとかする、お気持ちは、全く持っていらっしゃらない事も解ってきましたことですし」
「でも、今貴女、『丁度、澁井先生もいらっしゃらない事ですし』とおっしゃったでしょ。
という事は、あからさまに、おっしゃらなかっただけで、その言葉の裏には、澁井先生がいらっしゃらなくて、助かったと思っていらっしゃる本音が、無意識のうちに出てしまったんじゃないの?」と大場先生。
「言われてみれば、そうかもしれません。でも私が、今回そういったのは、あの先生を、嫌っているから言った訳ではないんですよ。
ただね、あの先生って、他の人の言葉に、笑いもされなければ、怒りも、悲しみもされないでしょ。同意もされなければ、否定もされないのよ。
皆で団欒している時でも、その輪の中に入ってこようともされず、無表情のまま、黙って、ぽつんと傍に(かたわら)、座っておられる、そんな人でしょ。だからあの先生がいらっしゃると、会話の輪の中に異物が挟まっているようで、その場の空気が白けてしまうことがありがちなんです。
だから、できたら、いらっしゃらない方が良いかな、と思って言っただけなんです」と事務員の中の一人。
「でもね、皆さんいろいろおっしゃるけど、澁井先生も、最近は随分変わられましたでしょ。
私の先輩のご子息だからというので、弁護する訳ではありませんが、はじめて赴任されてきた時には、びっくりさせられたり、いらいらさせられたり、嫌悪感を感じさせられたりした事も多かったと思いますが、先生の方も大分変られたんじゃないですか。
普通の人並みに、おなりになるには、まだまだ時間が必要でしょうが、あの人も、あの人なりに、ここでのお勤めに、適応できるよう、見た目だけでも変えようと、かなり努力していらっしゃるように思いますけどね。
他所へ出張された時にはお土産だって、買ってくるようになられましたでしょ。
貴女たちの話に加わろうとされたり、なるべく自分から、話しかけたりするようにもされているでしょ。
ミミッチイほどのケチさも、貴女達にたいしてケチなのは、慣習をご存じなく気付かれないだけだということもお解りになって頂けたでしょ。
目を見張る程のケチな生活ぶりは、物を大切にされていて、無駄がお嫌いなだけだという事も解っていただけたでしょ。
ただちょっと極端すぎて、驚かされることもあるかもしれませんけどね。だからと言ってそれを貴女達に強要されるわけでもないでしょ。
だったら、過酷なシベリアでの抑留生活によって受けた心の傷がまだ治っていないためで、気の毒な今回の戦争被害者の一人なんだと思って頂ければ、我慢できるんじゃーないでしょうか。 
澁井先生というのは、気の毒な人でしてね、戦争に行かれる前は、快活で、多弁、社交性に富んだ、とても楽しくて、愉快な人だったそうですよ。
ところが、19歳で戦争に駆り出され、死というものが日常であった戦場での体験や、戦後のシベリアでの想像を絶する辛い抑留生活、それはまともな精神では耐えられないような、残酷で悲惨な体験だったようですが、それを経験されたことによって、抑留生活から解放され、帰国して来られた時には、人が変わってしまっておられたんだそうなんです。

註:第二次世界大戦以前は、大学生、専門学生などは、26歳まで、徴兵が猶予されていました。
しかし第二次世界大戦の戦況が不利になってくるにつれ、その猶予制度は、次第に厳しくなっていき、仙太郎が19歳になった時には、昭和18年発令の、学徒徴集臨時特例と、続いての教育に関する戦時非常方策の閣議決定(昭和19年10月)に基づいて、それらの特例はなくなり、徴兵制度も19歳まで引き下げられました。
その為、難波医科大学の予科生だった彼も、19歳の秋、徴兵され戦場に送られることになってしまったんです。それも幹部候補生としてではなく、ただの兵卒として。

兵卒として戦場に駆り出された彼は、そこで平時では経験することのない、死というものが日常的となっている世界を体験し、死への恐怖と戦いながら、人の命の脆さ、儚さを知る事になりました。
更に戦後、極寒の地、シベリアに抑留され、そこで捕虜として、暖かい寝る場所も、食べ物や衣服も充分に与えられないまま、重労働に従事させられるという、奴隷以下の生活を強いられたのです。
そういう体験を通して、極限状態にまで追い詰められた人間という生き物の、弱さ、醜さ、怖ろしさを、そして残虐性を、身をもって知ることになられたのです。
優しくて、繊細な神経の持ち主であった先生の神経は、それに耐える事が出来ませんでした。ずたずたに切り裂かれ、すっかり人が変ってしまわれたのです。人も、明るい未来の到来も信じる事の出来ない、ニヒルで、無気力、投げやりな性格になってしまわれたのです。
そう言った事実を知って頂ければ、あの先生の取られる今の行動が、あたり前と言えば、当たり前なんだな、とわかるようになってもらえると思うんですがね。
考えてみれば、あの人は、その時うけた過酷で、悲惨な体験の記憶を、今も尚、引きずりながら生きておられる気の毒な人なのですよ。
言いかえれば、あの人は、この前の第二次世界大戦の最悪被害者の一人なんです。
だから、そこの所を理解してやって下さって、貴女達が直ぐには受け入れ難いような、言動があった場合でも、ある程度までは、我慢して、大目に見てやってもらえたらと思うんですが、駄目ですかねー。
できれば彼が、現在の生活に、適応できるようになるまで、気長に待って頂きたいのですけどね」と山田先生。
山田先生は年の順序から言うと、若園先生と、大場先生の間に位置しておられる方です。
彼は、大変な理想主義者で、且つ、ヒューマニストです。
その為、臨床医のような、ある意味、世俗的でもある職業に、馴染む事が出来ず、私たちの会社へと転じて来られた方です。
「だったら、山田先生は、澁井先生が、どうして、あのような性格におなりになったかの事情を、前々からご存知だったんですね。
それなら、もっと早く、私達にも教えて下さったらよかったのに。
もし、もっと前から知っていたら、先生に対する評価も変わり、私たちの先生への接し方も、変っていたかもしれませんでしたのに。」
「いやあ、黙っていて、ごめん。
実をいうと、あの先生が、私どもの会社に、入社された時、彼のお父様から、事情は、お聞きしていたのです。
でもこれって、澁井先生のプライバシイに関わる事でしょ。
それに、それを皆さん方に、お教えした場合、PTSD(心的外傷後ストレス障害)についての、正しい知識をお持ちでない皆さん方の場合、誤解を生じ、かえって話を複雑にし、会社内での、澁井先生の立場を悪くするのではないかと思ったんです。
だから、しばらくの間は、若園先生と、私だけの胸の中にしまいこんで、皆には伏せておこうという事にしたんです。
皆さん方に、すぐにお知らせすべきかどうか、それを彼のお父様から病状をお聞きした時は、私も随分悩みましたよ。
そして、どうしても、一人では決める事ができず、ここでの勤務歴の長い若園先生に相談したんです。
すると、若園先生が『澁井先生が、もう少し会社生活に慣れられ、そして会社の人々に、先生のお人柄が、ある程度、解って頂けるようになるまで伏せておいたほうが無難かもしれませんね』とおっしゃって下さったんです。
そこで私も、しばらくは、伏せる事にしたんですよ。
それに、それはまた、澁井先生の、お父上のご希望でもありましたしね」と山田先生。

続く