No.229 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その31

このお話はフィクションです

その31の1

「ところで、もう一つのご疑念、庵主様の死を、お知らせするのが、四年余も遅れた理由でございますが、その訳は、今までお話ししてきた事からもお察し頂けたのではと存じますが、貴男様の庵主様にたいするご不満とご疑念をここでをきちんと払拭していただき、すっきりしたお気持ちで,貴男様御一族の一員にお迎え頂きたいものですから、これから詳しくご説明させて頂こうと思うのですがお時間よろしいでしょうか」
「むろんお願します」
「庵主様の死のお知らせを遅らせたことにつきましては、いろいろご不満もおありかとは思いますが、主として、康継殿の事をお思いになって、庵主様なりのお考えでお決めになった事でございますから、その点ご理解の上、どうか許してあげてください。
これからお話する事につきましては、私の推察も入っております。ですから、もし庵主様がご存命中にこれをお聞きになったとしたら、「違いますよ」と言って苦笑なされるかもしれませんからそのお心算でお聞きください。庵主様が、自分の死んだ知らせを、四年余も遅らせるよう、私に、お言いつけになった最大の理由は、先ほど申しましたように、大人になりきっていなくて、きちんとした分別がまだ備わっていないであろう当時のわが子に、生きていたにも拘らず何の連絡もしてなかった事だとか、世俗的な常識からはあまりにかけ離れ、直ぐに受け入れてもらうのは無理だろうと思われるそれまでの庵主様の生き様のせいだと思うのでございます。
それ故庵主様がお亡くなりになった直後に、私がその事をお知らせに上がった場合、若いわが子の心をかき乱し、混乱させるだけだとお思いになったからでございます。
しかし、このように申しますと、貴方様方は心の中で、例えいろいろな事情があって、会いにはこられなかったにしても、何らかの方法、例えば飛脚便のような方法を使ってでも、自分の生きている事くらいは知らせてくれても良かったのではないかと、お考えであろうと思います。実際そう思われるのはごもっともな事だと思います。
確かに、庵主様が記憶を取り戻された後、そう言った事を康継殿にお知らせする方法が全くなかったわけではありませんからね。
しかしそれにもかかわらず何やかにやと理由をつけては、一日延ばしに自分が生きている事を貴方様方にお知らせすることを伸ばしておられましたのは、ここからは、私の推量でございますが、先ほど説明させて頂きましたように、庵主様の人生のある時期が、あまりにも複雑で世俗的な常識から懸け離れ過ぎているために、手紙のような一方通行的な方法で知らせたのでは、まだ若くて分別も定まっていないわが子の場合、そのような自分の(庵主様の)生き様を、きちんと理解することができず、世間体を気にする周りの人々の声に押されて、自分との(庵主様との)縁を、一方的に切られてしまうんではなかろうかと案じられたからでございます。
なにしろ、庵主様の場合は、よほどきちんと説明して、理解してもらわない限り、表面的には、世間から、指弾(つまはじきに)され、忌避(きらってさける)されても仕方がない身だと、自分で思っておれる所があったからでございます。
その為庵主様としては直接会ってその時の事情を詳しく説明し、理解してもらい、何の蟠り(わだかまり)もない状態で親子の対面を果たしたいとお考えになっていたようでございます。
従って悩み、躊躇い(ためらい)ながら、貴方様方とお会いになる時期をお探しになっていらっしゃったように思うのでございます。
実際お亡くなりになる少し前になりまして、やっとそれらいろいろの思いに踏ん切りがおつきになられたようで、康継殿や、安乃様に会いに行くための段取りまで私に相談なさるようになっていたのでございます。
所が不運と言いますか、それとも悲運な親子の宿命故なのでしょうか、突然、庵主様ご自身が病でお倒れになり、そのままお亡くなりになってしまわれたのでございます。
何という悲しい親子の縁(えにし)でございましょう。
従いまして私ども庵主様のお傍にお仕えしていた者としましては、そういう事情でございましたから、御二方の間には今なお解きがたい誤解や不審が、多少は残っているにしても、少なくとも庵主様のご子息である貴男様への思いは、決して嘘偽りのない真実であった事だけは、知っていて頂きたいと思っています。そしてできましたら庵主様のご遺骨を、ご主人のご遺髪と一緒に山岐一族の墓の中にお納め頂き、ご子息や安乃様のお近くでご主人と一緒に、永遠の眠りにつかせてあげたいと思うのですが、いかがでしょう?」
「なお庵主様のご遺言によりますと、『もし山岐一族の墓に入れて頂けない場合は、そのまま持って帰って、寺の境内の片隅に葬って下さい』とのことでございました」

その31の2

庵主様がお亡くなりなった事を聞いて、弔問に訪れる人は、この寺の檀家や近隣、近在の村々の信者達だけにとどまりませんでした。
遠くは、尾張、飛騨、美濃地方からも、何らかの形で庵主様の御恩を受けた人々が駆けつけ、三日三晩に及んでも、通夜客がなお途切れることはありませんでした。しかし、さすが三晩目を過ぎますと、それ以上はという事になり、荼毘(だび:火葬)に付されることになりましたが、別れを惜しんでご遺体に取り縋って泣く信者達の泣き声は、辺り一面に広がり、境内の木々の梢をも震わせ、あたかも、木々も共に泣いているかのようだったと後々までの語り草になりました。
庵主様が荼毘に付されました後も、庵主様の死を悼む人だとか、そのご遺徳を慕う人、尊崇する人、功徳を求める人などが、次々と訪れ、何時まで経っても境内に人の列が途絶えることはありませんでした。
庵主様がお亡くなりになる前におっしゃった、
「たとえ自分の肉体は今ここに滅びようとも、自分の魂は極楽浄土への道の途次に在って浄土への道を照らし皆さん方が迷うことなく阿弥陀如来の許へとたどり着けるよう、導いていくつもりである」とのお言葉が、人伝に(ひとづて)広まりましたから、そのお言葉を聞いて、自分の死後や、自分の縁者たちの死後の冥福を祈る人々が、後を絶たず、境内の人の列は、時と共に、むしろ多くなっていったのでございます。
その為に「庵主様の遺志に沿ってそろそろご遺骨は、ご子息様の許へお返ししたいのですが」と(私が)申しましても、信者達の殆どが、大反対で、誰も言う事を聞いてくれませんでした。
特に強硬に反対されましたのは、照道尼様の跡をお継ぎになられた、今の庵主さまでございました。
「あのお方は、この寺で修行され、この寺の住職としてお亡くなりになったお方でなんでしょ。
だったらご遺骨はこの寺で,御守りさせていただくのが筋なんじゃないでしょうか。
もしご遺骨が、ご子息の許へと返され、ここには無いということになりましたら、ご遺骨を目当てに、ここにお詣りに来て下さる信者の皆さん方に、私、どう話したらよいのでしょう。
どうしても、ご子息の許へお返しせねばならんと、おっしゃるのでしたら、私は、自分が修行していた、元の寺へ、帰らしてもらいます」と言い張られて、一歩も引かれませんでした。

その31の3

照道尼のご遺志と、今の庵主様や、檀家たちの反対意見との間に立って困り果てていた時、ちょうどうまい具合に、注文してあった照道尼様のお顔に擬して作られた観音像が、届けられました。
この像、照道尼様のご遺徳を慕う信者達から集められた浄財によって作られたもので、左の掌(たなごころ:手の平)には宝珠を、右の手には灯りを高く翳しているお姿をしておられます。
それは、「現世においては、衆生を(しゅじょう:いきとしいけるもの)済度し(さいど:この世の苦海から救い出す)、あの世にあっては、死者の魂の旅路の途次にありて、浄土への道案内たらん」とおっしゃっていた照道尼様のお姿を模したものでございます。
檀家の代表の一人として、出来上がった観音像に、付き添ってきてくださった光右衛門殿に、ご意見を伺いましたところ、
「この寺の檀家の一人でしかない私が、こんなことを申しますのは、檀家の皆さまからの、反感を買うかもしれませんが、ここで議論をしていても埒が明かないんじゃないでしょうか?
ここは一まず、重兵衛殿、貴方のおっしゃる通り照道尼様のご遺志がそうである以上、ご遺骨はご遺族である康継殿の所にもって行かれるのが筋だと思いますけど」と申されました。
「そう思われるでしょ。私、照道尼様がご臨終の折、お傍についていて、あの方のご遺志を直接お聞きしているだけに、今の庵主様や他の檀家衆のように、この寺に留め置くことにはどうして賛同できないのでございます」と我が意を得たりとばかりに私重兵衛はもう一度主張したのでございます。
ところが「だからと言って私ご遺骨を持っていって、そのままそこにおいて帰ってきたらと言っているわけではないんですよ」と光右衛門。
「えっ、という事は?」と怪訝な顔で問い返しますと、
「だって考えてもごらんなさい。今このお寺に来て下さっている沢山の参詣者の目当ては、何だと思います?照道尼様のご遺骨への参詣である事は言うまでもないでしょ」
「そりゃーそうですけど」
「もし、ご遺骨がここに無い事が解ったらこの寺は、どうなると思います?たちまち閑古鳥が鳴くこと必定ですよ。そうなりますと檀家といったって数えるほどしかいないこんな小さな尼寺の事、やっていくのが大変になってしまうことは目にみえていますわなー。今の庵主様が反対なさるのも、無理ないと思いません?」
「そうですわなー。確かに」と私が相槌を打ちますとそれに乗っかるように今の庵主様が
「照道尼様だって自分が育てられたこの寺が、無住職の寺になって廃って(すたる)いくのを見たいとは思われないんじゃないでしょうか。私の立場を慮っての光右衛門様のお言葉、本当にありがたいことだと思います。でも私がご遺骨をご子息様の所へ持っていかれるのに反対している理由は、その中には確かにそれも多少はございましょうがそれだけではございません。仮にそうなった場合一目で良いからご遺骨にお会いしたいと思って、わざわざあちらこちらからお出で下さる沢山の方々に、申し訳ないと思う気持ちからというのが、一番に大きな理由でございます。ガッカリなさるお顔を拝見しながら、いちいちご遺骨が、もうここにない理由を、説明しなければならない私の立場もお察し下さい。
それを思いますと、それだけで気が重くて、ここを逃げ出したくなるのでございます。それに照道尼様のご遺志がどうあったにせよ、照道尼様を慕ってご遺骨に会いにこられる信者達が,今なおこれほど沢山いらっしゃるというのに、その人達からご遺骨をとりあげてしまうというのもどうかと思いません?はたして照道尼様が、それをお喜びになるでしょうか」と照道尼の跡を継がれている庵主様が申されます。
「それでは、光右衛門殿は、どうするべきだとお考えで」と私がお聞きしますと。
「簡単なことですよ。
こちらの皆さん方は、ご遺骨の全部をどちらかに置こうとなさっているからいけないのでございます。ご子息の所へ持っていかれたとき訳をおっしゃって、分骨させて頂けるようお願いさったら済む事じゃないでしょうか。簡単なことですよ」
「そういわれてみればそうでしたなあ。なんと迂闊な、今まで気づきませんでしたがそういう手がありましたなあ。でも万一分骨は認められないと、ご子息がおっしゃった場合はどうしたら良いと思われます?」
「照道尼様が今なおどんなに多くの人に慕われ、崇められているかという事をお話になり、お願いなさったならよほどの変人でない限り嫌とは申されませんよ。ましてご子息のお母上である照道尼様のお顔を模した観音像をお造りさせて頂き、照道観音と名付けご遺骨はその体内に納めさせて頂きたいとお願いするんですもの、こんな誇らしいお話を断る人なんか絶対いませんよ。大丈夫です」と光右衛門が申します。

その32(最終章)に続く