No.227 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その29

このお話はフィクションです

その29の1

さて川辺の郷からお帰りになった庵主様は、家に辿り着いて安心なさったせいか、状態が、どんどん悪くなっていかれ、真っ青な顔色で、腰を折るようにして曲げ、下を向き、両手で胸を抱えこまれながら、無言で、庵の中へと、消えていかれました。
皆を返した後、私、田島重兵衛をはじめとする三人の檀徒が、心配して、帰り際に立ち寄ってみました。すると庵主様は、布団の上に、海老のように丸まり、胸を抱え込み、半座の姿勢で横たわって唸っておられました。
真っ青な顔の額からは、大粒の汗が吹き出しておりました。
「庵主様、どうされました。
どこかお痛いのですか、お苦しいのですか」
と聞いても、唸りごえの間に、短い呼吸の音が聞こえてくるだけで、返事がありませんでした。
これは尋常ではない、一刻も早く薬師に見せなくては、と思ったのですが、こんな田舎の事です、近くに薬師などいません。
しかし今、仮に岐阜の町まで言って頼んだとしてもよほどの大金持ちか、権力者ででもないかぎり、こんな真夜中に、しかもこんな遠いところまで、往診なんかしてくれる薬師がいるとは思えません。
そうかといって、そんな遠方の薬師の所まで、連れて行けるような状態でない事は、素人目にも明らかでした。
その上、庵主様は、お年を召した僧侶であると申しましても、なんといっても女性です。
男性である私たちには、それ以上手を出して、庵主様のお身体に直接触れる事は憚られました。
急いで呼び寄せた、いつも庵主様のお世話を頼んでいる老婆が、彼女は私の小作の家の者でしたが、部屋を暖めたり、背中を摩ったり、冷たい水を汲んで来て頭を冷やしたりと、甲斐甲斐しく働いてくれているのを、私らは(重兵衛達、男の檀徒は)、息を凝らすようにして、ただおろおろしながら眺めているしか、術が(すべ)ありませんでした。
時がたつのがこんなに遅いかと思うほど、長い、長い息の詰まるような時間が過ぎていきました。
誰かに、そっと背中を突かれて目を見開いた重兵衛達が、辺りを見回しますと、辺りはもう既に、上ってきた朝日の光によって少し白ばみ始めておりました。
三人ともいつの間にか転寝(うたたね)をしていたようです。
庵主様は?と思って見た目の先には、身体を伸ばし、ゆったりした姿勢で、布団の上に横たわり、寝息を立てておられる庵主様がいらっしゃいました。
「先ほどから、大分お楽になられたようで、いまは眠っておられます。
顔色もとてもよくなられましたし、もう大丈夫でございますよ。
皆さん、少しお休みになられては」と老婆がそっと耳元で囁きます。
「いや、わしらの事なら、知らん間に、うとうとしていたようだから、大丈夫だ。
あんたこそ、草臥れたやろう。ご苦労さまやったなー。
しばらくの間、わしがここに残って、様子を見ているから、あんたも、他の二人の檀徒さんと一緒に、一先ずは、家に帰って、休んどってよ。
なお、ついでに、帰り際、わしの家に立ち寄って、代わりのもんを来させるように頼んでくれんか」

その29の2

庵主様は、布団の上に身体を伸ばした姿勢で横たわったままで、寝息を立て眠っておられました。依然として顔色は青白いままです。胸を上下に動かし、小鼻をピクピクさせながらの早くて、不規則な呼吸は、何時、突然、止まっても不思議でないほど、浅かったり、深かったりして不規則です。そんな状態を、一人で見守っている私にとっては、それは、とても長くて辛い時間でございました。浅くなったり、深くなったりする呼吸の間に、少し間が空く時があったりしますと、このまま永久に、庵主様の息が、止まって戻ってこないのではないかと思え、その度に、看取っている私の心臓が止まりそうなほど不安になります。
黙って座っていることに耐えられなくなった私は、庵主様の手を握ると「こんな事が起こるのが心配でしたから、『無茶はお止め下さい』と、あれほどお願いしていましたのに。今もし、庵主様に何かありましたら、残された私らはどうしたらいいんでしょう。
『私が必ず、阿弥陀如来の許へと、案内してやるからね』と、何時もお約束して下さっていたのは、一体なんだったのですか。それなのに、それなのにこのありさま。このまま自分一人だけ、先に阿弥陀如来の許へ行ってしまうなどという、そんな酷い事をされましたら、絶対に許しませんよ。どうか、どうかお死にならないで。このままお亡くなりになるのは、絶対に駄目ですからね」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。阿弥陀如来様、庵主様は私共にとっては、光であり、命でございます。
どうかそちらの世界へ連れて行かないで下さい。死なせないで下さい。どうかどうかお願い申し上げます」と半泣きの状態で、懸命に掻き口説き、重兵衛は祈っておりました。
涙で曇った彼の目には、もう庵主様の姿はぼやけて、はっきり映らなくなっておりました。浅くなったり、深くなったりする庵主様の不規則な呼吸の音だけが、部屋の中一杯に、響いておりました。

その29の3

それからどれほどの時間がたったのでしょうか。半泣きの状態で、半ば、独り言のように掻き口説いていた重兵衛の耳に「じゅうー・べえ・え-・さんや、じゅうぅう・べ・え・さん」と私をお呼びになる庵主様の弱々しい小さなお声が聞こえてまいりました。
「アッ、庵主様、お気づきになりました?良かった。お気分はいかがです?これから岐阜まで行って、なんとしてでも、薬師を連れてこようと思いますので、もうちょっとの間、頑張ってください」と言いながら、重兵衛が立ち上がろうとしますと、
「じゅう・べええ・さん・・・・」と再び、庵主様のお声。
顔色は大分良くなり、苦しそうだった呼吸も、ほとんど規則正しくなり、随分楽そうになっております。しかしまだ、大声を出すのは、辛そうで、小さくて弱々しく、はっきりわからないほどです。
「えっ、何でした?」庵主様の口元に耳を近づけた重兵衛が問い直します。
「重兵衛さん、私はこういう病にかかって亡くなった人を、これまでたくさん見聞きしてきました。だから、今更」薬師を呼んできてもらっても、もうどうなるものでもない事くらい解っています。そんなの、無駄だから,止めておくれ」
「何をおっしゃいます庵主様、お顔の色も随分良くなられましたから,直によくなられますよ」
「いや、いや、今度あの発作が来たら、それが私の最後だと思います。
だから気休めなんかよして、私の言う事を聞いておくれ」
「ところで重兵衛さん、貴方、私のお師匠様から、私の過去のこと聞いておられます?」
「はい、お亡くなりになる前に、かなり詳しく。でも善導尼様は、貴女様の事を、口が滑って、お話になったのではございませんからね。
当時の貴女様は、記憶がお戻りになったばかりの時で、少し混乱していらっしゃいましたから、それをご覧になった善導尼さまが、自分の死後、万一貴女様が、道にお迷いになったときは、力になってやって欲しいという思いから、お話になさっただけなんでございますからね」
「お師匠様が悪い意味でおっしゃったのでないことは、よく解ってます。むしろそんな時にまで私の事をご心配下さっていたのかと思うと、有難さに涙が零れる(こぼれる)ほどでございます。
それに比べると私は駄目だったわねー。
貴方たちに、助けてもらってばかりで、何もしてあげられなくて」
「そんなことありませんよ。私ら皆、庵主様の身命を賭してのお働きのおかげで、どれほど助かりましたことか」
「本当にそう思ってくださいますの?でもね、私、さっき寝ていた時、『庵主様狡い(こすい)、一人だけ、先に逝ってしまうなんて、そんなの許しませんよ』と重兵衛さんが、恨みがましくおっしゃっていたのを聞いたようでしたが、あれって夢だったのかしら?」と少し冗談っぽい口調で庵主様。
「えっ、わし、そんな失礼な事言っていました?そりゃー、夢ですよ、夢。わしらこの近辺の檀徒衆は皆、こうした平穏な日々が、送れるようになれたのは、全て庵主様のお導きのおかげだと思っておるんですから。だから、感謝してこそおれ、恨むなんてするもんはいませんよ。ただ万一、先に庵主様が阿弥陀如来の許へと旅立ってしまわれたら、後に残された、わしらこの寺の檀徒衆は、どうしたものかと、戸惑ってはいますけどね。もしかしたら、それが愚痴になって、口をついて出たのを、お聞きになったんじゃないですか」
「私自身も、黙ったまま、貴方達を残して逝かなければならない事が、気にかかっていますから、そんな夢を見たのかもしれませんねー。
でもその点に関しては、本当は大丈夫なんですよ。
あなた達私の檀徒達は、そのほとんどが、もう私の導きなんかなくても、お一人でも、阿弥陀如来の許へとお行きになれるお人達ばかりなんですからね。特に重兵衛さん、貴方はもう、阿弥陀如来への信仰心の深さから言っても、お聖人様の教えについての知識の深さからいっても、仏の教えの実践面においても、そんじょ、そこいらにいらっしゃるお坊さん達なんか、比較にならないくらいの、高みに到達していらっしゃるんですよ。だから、私亡き後は、私の後釜がいらっしゃるまでの間、貴方が中心になって、私が作った講を運営し、檀家の皆さんがたを導いてやって下さいね。私自身も、あの世へ行きましてからも、門徒の皆さん方との間に結んだ、お約束は、守らなければならないと思っております。もともと私、阿弥陀如来の御許へ行かせて頂きましたとしても、あの世でのうのうと遊び暮らしている心算はありません。阿弥陀如来にお願いして、阿弥陀如来の本願である、衆生済度(しゅじょうさいど;生きとし生けるものの全てを迷いの苦界から救いだし彼岸に渡す事)の、手助けさせて頂くつもりでおります。だからその一端として、私の檀徒たちが、信心を失ってでもいない限り、阿弥陀如来の許へと行かれる時の道案内を勤めさせて頂く心算でおります。ですから皆さんには、心配しないでと伝えておくれ」

以下その30へ続く