No.226 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その28

このお話はフイクションです

その28の1

安乃と康継をはじめとする山岐一族がこの地の開拓に取り掛かってから十五年有余、この間、最初の数年間は、何度も何度も襲ってくる、長良川の氾濫によって、せっかく築いた土手も、営々と開墾してきた田畑も、そしてやっとの思いで作った家々も、その全てを、まるで賽の河原の石積みのように、作っては流され、作っては壊され、といった、空しい作業の繰り返しでした。
そのあまりの空しさと、押し寄せる生活苦に耐えかね、脱落していくものが、次々と出てまいりまして、現在この地に残っているのは、最初に入植した家族の半数ほどに、減ってしまっています。
しかし残された者達の強い団結と、頑張りによって、さすがの長良川も、次第次第に、手懐けられ、制御され、ここ七,八年前くらいからは、増水による川の氾濫に悩まされることも稀となりました。
おかげで、どの家も豊になりました。
生活も安定して、ほとんどの家が、改築や増築を行い、大きくて立派な本普請の家が建ち並ぶようになっております。
その年は、ことのほか稲の出来がよく、部落の者たちは皆、大人も子供も、浮き足立って、数日後に迫った、豊作を祝う、秋祭りの準備に、走り回っておりました。
住人たちの顔はどれもが、楽しげで、部落は、活気に溢れております。
こんな状態のこの部落に、若い従者に、荷物を担がせ、羽織袴に身を整えた恰幅の良い一人の男が、康継の宅を訪ねてまいりました。
訪ねてくる者といえば、たまに顔を見せる、物売りくらいしかいない、この辺鄙な部落の人たちにとっては、見知らぬ男の来訪は、それだけで、十分珍しく大事件でした。
それが、大柄で、恰幅の良い男が、羽織袴に身を固め、従者に、荷物を担がせて訪ねてきたのですから、この部落の人にとっては大事件です。
噂はあっという間に、部落中に広まり、部落の者たちは、やりかけていた祭りの準備もそのままにみんな一斉に、康嗣の家の周りに集まってきました。
中には塀の上によじ登って、家の中を覗きこむものまで出る始末です。

その28の2

「こちら様が、こんなにお忙しい時とは知らず、突然やってまいりまして失礼、重々お許しください。
所で、お初にお目にかかりますが、私めは、芥見村の田島重兵衛と申すものでございまして、この家のご当主、康継殿、貴方様のお母上、照道尼様、俗名、美貴と申されるお方でございましたが、そのお方が、お守をなさっていた、無量壽庵と申す、尼寺の壇家代表をしておる者でございます。
「えっ、どういうことでございましょう?
母はとっくの昔、私がまだ幼少だった時に、亡くなったと聞いておりましたが」と解せない顔をしながら康継。
康継も、もう二十を過ぎ、今では、安乃の後ろ盾がなくても、山岐家の当主として、山岐一族の頭の役割を、立派に果たすようになっております。
「美貴お義姉様が、生きてらっしゃったって?
一寸待って、その話、俄かには信じられないわ。
私たちが金襴の谷で、お別れしてから、もう十五年余にもなるのにその間、何の便りもありませんでしたのよ」
「それが今頃になって突然、そんな話しを、もってこられましても」と康継の隣に座っていた安乃も、横から口を挿み(はさむ)ます。
「そのようにおっしゃるのは、ごもっともでございます。
しかし、私の話は、ほんとうなのでございます。
生きていらっしゃるのではなくて、正確には生きていらっしゃったという言い方が正しいのでございますが」
「またまたややこしい言い方を、という事は今はもう、亡くなってこの世にいらっしゃらないという事?」と安乃。
「さようでございます。
今から四年前、あの世へと旅立っていかれました」
「これまた解せないことを。
突然、訪ねてこられた見知らぬお方から、そんな突拍子もないお話を、脈絡もなく、聞かされましても、頭の中が混乱してしまって、私どもにはさっぱり要領をえません。
少し順序立ててお聞かせくださいませんか?
まずどうして十五年余もの間、お義姉様が何の連絡もして下さらなかったのかといいう事に始まって、その間、どこでどのように生きていらっしゃったのかとか、お亡くなりになった原因は何だったかという事。
そして、どうしてもっと早く、亡くなった事を知らせてもらえなかったのかとか、お義姉様がお亡くなりになってから、四年もの間、何の音沙汰もなかったものを、どうして今頃、知らせに来て下さったのか、などなどという事を、詳しくお聞かせ頂きとうございます」
「いやー、失礼しました。
私どもに取りましての庵主様は、何時も傍にいて下さって、それを感じるだけで、力が湧いて来て救われるという、存在でございました。
従って、それだけで十分でございましたから、庵主様の私生活については誰もが、あまり詮索したり、関心をもったりしていなかったのでございます。
そんな訳で、こちら様も、そのようであると、つい錯覚してしまい、話を端折って(はしおる:省略する)、誠に申し訳ありませんでした。
庵主様には、康継殿や、安乃様とお別れになった後、非常にいろいろなことがおありになり、その全てをお話するには、少しお時間を頂かねばなりませんがそれでもよろしいでしょうか。

その28の3

「私の母・美貴についての長いお話、本当にありがとうございました。
お話を伺いまして、その尼様が、私の母、美貴であったに違いないと思う事ができるようになりました。
またその母が、生きていたにもかかわらず、長い間、連絡してこなかった理由についても、お話を伺う事によって納得することができましたし、母に対する蟠り(わだかまり)も、ある程度は氷解いたしました。
田島様には、これまで、母が、一方ならぬお世話になりましたようで、一先ず、御礼申し上げます。
母が、皆様方に慕われ、敬われ、惜しまれながら、幸せの中、他界出来ましたのも,一重に田島様を始めとする、檀家の皆さま方のお助けのおかげでございます。
本当にありがとうございました」
「何をおっしゃいます。
庵主様の御恩に感謝し、庵主様を独占してしまい、康継殿や安乃様はじめ、山岐一族の皆様方に寂しい思いを、させていましたことを、詫びなければならないのは、むしろ私共でございます。
お亡くなりになる直前まで、お話になりませんでしたから、私も全く、存じませんでしたが、震災の揺れと痛みによって、記憶をお取戻しになりました庵主様が、真っ先に思われたことは、康継殿の事だったそうでございます。
「会いたい。
顔を見てみたい。
どうしているだろう?
元気で育っているだろうか?
安乃さんを困らせているようなことはないだろうか?」
という事だったそうでございます。
しかし、庵主様はあのお性格、何事に対しても、生真面目過ぎるくらいに生真面目にお考えのお方です。
「情に流されて、道を間違え、後々後悔するような、愚だけはしないようにしよう」と、いつも心掛けておられるという、あの性格でございましょ。
だから、天正大震災直後の人々の惨状を目の当たりにして(まのあたり)、飢えに泣く者、傷の痛みに苦しむ者、寒さに震える者、明日の生活の不安に怯える者、身内の者を亡くして、嘆き悲しんでいる者、そんな者達を放っておいて、自分の子供に会いに行くことを優先するというような選択肢は、庵主様が僧侶であったがゆえに取れなかったのでございます。
庵主様にとってのそれは、口にこそ出されませんでしたが、身を切られるような辛い選択だったろうと思います。
にもかかわらず、庵主様は、自分の事や、自分の子供への思いは一時的に封印され、震災に遭って苦しんでいる者達や、亡くなった者達の魂の救済に当たっておられたのでございます。
それは夜も昼も顧みられない働きようでございました
私財の全て、もともと欲のないお方で、食べ物も、着る物も、寝具も、粗末で、しかも当座に必要とするもの以外は、あまり持っていらっしゃらないお方でしたが、その時手元にあった全ての物を、家の中がスッカラカンになるまで提供なさったのでございます。
同時に、比較的震災の被害が少なかった者達の家々をお回りになって協力をお求めになり、それによって集まった物や、お金によって、震災で家を無くし、飢えや寒さに苦しんでいる者達の震災直後の生活支援に当たられたのでございます。同時に、震災によって、家を失ったり、傷ついたり、家族を失ったりして、喪失感に苦しむ者達の傍に寄り添うようにして、彼らの心の救済にも当たられていたのでございます。
庵主様は自分を必要としている者がいるとお聞きになりますと、どんな時でも、どんな所へも、過密なスケジュールをやりくりして、とんでいかれ、悲しみ、苦しみ、怒り、憎しみなどといった四苦八苦の愚痴や悩みをお聞きくださいました。
時間を気にされることなく、何時間も、何時間も、いやな顔一つされることもなく、その者の話に、お付き合いくださったのでございます。
と申しましても、助言や、忠告、説諭などといった具体的な解決への道筋をお示し下さったわけではありません。
悩んだり、苦しんだりしている者の話を、親身になって、ただお聞き下さるだけでございました。話の途中、それに相槌を打つようなタイミングで、南無阿弥陀仏のご称名をお唱えになって、その者の為にお祈り下さりながら聞いてくださる、ただそれだけでございました。
しかし、お話を聞いていただき、阿弥陀如来にお祈りくださる、庵主様のお唱えになるご称名のお声を、お聞きしますと、それを聞いていているうちに、殆どの人が、長い間、咽喉(のど)にひっかかっていた閊えが(つかえ)とれたかのように、心は晴れわたったのでございます。
冷え切り、凍てついていた心には、春の日差しのような温かいものが射しこみ、白い雲の浮かぶ、春の空のように、穏やかでほんわりとしたあたたかい気分になれたのでございます。
無論、震災によるよらないにかかわらず、亡くなった者がいるとお聞きになれば、直ぐにとんできてくださり、ご供養をしてくださることによって、死者の魂の成仏を図ってくださると同時に、悲しみに沈んでいる遺された遺族に対しても、心の安らぎを齎してくださいました。

その28の4

救われた者達は皆、庵主様に感謝しました。
その人達の感謝と喜びの言葉は、人から人へと伝わり、広まっていきました。しかしそれが広まっていくに連れ、噂には尾鰭(おびれ)がつき、庵主様が、まるで奇蹟を起こされる人であるかのように、噂されるようになっていきました。
そして何時とはなしに、人々は、庵主様の事を、菩薩の再来だとか、生き菩薩様というようになったのでございます。
評判が高くなり、多くの人々から敬い崇められる(あがめる)ようになられたことは、私ども無量壽庵の壇家にとっては、とても誇らしく、嬉しい事でございました。
しかし反面、(庵主様に)「一目お会いしたい」だとか、「一言でいいから、お言葉を賜りたい」「講に出てほしい」「悩みを聞いてほしい」「生きる指針を示してもらいたい」「死んだ者の供養をお願いしたい」などなどといった依頼が、後を絶たず、どんどん増えていくばかりだった事には、困りました。
庵主様は、例のご性格でしょ。頼まれれば、どんな遠いところへでも、どんな無理をしてでも、何とか時間を遣り繰りして、頼みに応えようとなさるお方です。
しかしお身体は一つです。
その上、お年を召されている上に、お身体の方も、これまでのご無理が影響してか、それほどお丈夫ではありません。
その為、庵主様のおっしゃる通りに、頼んで来たものの全てを、お引き受けしていたら、お身体がもちそうにありませんでした。
そこで私たち無量壽庵の壇家衆は皆、
「これ以上、他からの頼みを、お引き受けになるのは、無理でございます。
このままでは、お身体がもちそうにありませんから、どうかお止めください」
と必死にお止めしました。
しかし、庵主さまは
「何て事を言うの、貴方たちは。
僧侶が、自分の身体の事を第一に考え、救いを求めている者達を見捨ててどうするのよ。
お釈迦様の前身、サッタ王子様は、飢えて死にしそうだった虎の親子を救うために、自分の身さえも、お投げ出しになったというではないか。
私だって釈迦様の弟子の一人です。
阿弥陀如来の救いの教えを渇望している人達が、そこにいて、わたしを必要としているというのに、自分の健康の事を心配して、そういう人たちを見捨てるなんて事は、僧侶の身としてはできません。それはしてはならないことだと思いますから。
一歩下がって私個人としても、人としてだって、それはできません。
例え今後、その為に死ぬような事になったとしても、それならそれで、本望です。
私に、悔いはありません」
とおっしゃって一向にお聞き入れになって頂けませんでした。
「でも庵主様、最近は顔色もお悪うございますし、お話をしていても、なんだかとてもお辛そうでございますよ。
もしここで庵主様がお倒れになったら、貴女様に救って頂く心算でおります。私らこの寺の壇家衆は言うまでもなく、これから後、庵主様が、お元気であればまだまだお救い頂けるであろう、他の沢山の者達も、救われないことになってしまうんでございますよ。
そのこともお考えになって、ご自愛頂けませんでしょうかと、さらに一押し、お願いしました」
けれども庵主様は
「今、目の前に、溺れそうな人がいて、助けを求めている時、貴方達ならどうします?
『この先には、自分が助けなければならない者達が、沢山待っているはずだから、ここで、自分の身が、危なくなるような、危険を冒すわけにはまいりません』と言って、そのまま通り過ぎてしまうなんて事出来ます?
そんな事出来ないでしょ。
わたしの、この場合だって同じことです。
先に(未来に)、起こるか、起こらないか、解らないような事を理由にして、今この時、阿弥陀如来による救いの道を求めて、私に救いを求めている者が、目の前にいるというのに、その者を見捨てるなんて事、私にはできません。
それって、人間としても、してはならないことだと、私は思うのです。
だからそうする事によって、例え、健康を損ねて、死ななければならなくなったとしても、それはそれで、それが阿弥陀如来の御心(みこころ)であり、私の宿命だと思いますから、仕方ないと思っています。
仮にもしそのような事が起こったとすれば、それは阿弥陀如来が、『お前の今生の使命は終わった。
そろそろ私の傍においで』とお呼び下さっているのだと思うことにしていますの」とおっしゃって、私どもの言う事を、どうしてもお聞き入れ下さいませんでした。
しかし、庵主様は私ども門徒に取りましては、とても大切なお方です。
だから、庵主様がそう言ってらっしゃるからと言って、おっしゃるままにしておくわけにはまいりません。
なにしろ庵主様は私ども信者にとっては、太陽のようなお方です。一日でも長生きして頂かねばと、皆が、願っているお方なんですから。そこで、庵主様と門徒達との間で、何度も、何度も話し合いがもたれました。その結果、「庵主様のおっしゃる通り、頼んできたものは時間の許す限りお引き受けすることにします。
ただ、今のように、バラバラに引き受けしていたのでは、非常に非効率で、かえってお引き受けできない場合の方が多くなってしまいそうです。
そこで今後は年忌法要だとか、月法会、講などのように、日にち(ひにち)や時間の調整が出来るものについては、日にちや時間、方角によって、纏めてお引き受けするように整理調整してお引き受けすることにさせて頂くことにします。
予定がつまっていたり、遠方で単独でのお願いだったりして、他の依頼との関係で、出かけることが困難な場合は、なるべく庵まで来て頂いて、朝晩の勤行後に、依頼にお応えすることにさせて頂きます」という事で了承して頂きました。
これによって、庵主様にも多少時間の余裕できました。
忙しさは相変わらずでしたが、うまい具合に、お休みが取れる日もできるようにはなったのでございます。
しかし、人の命というものは、宿命には逆らえないものなのでございますねえ。
結果においては、その休日を取る事が出来るようになった為に、
川辺の郷へお出かけになり、命をお縮めする事になってしまったのでございます。
そう思いますとそれが良かったのか悪かったのか、帰らぬ事とはいえ、私どもとしましては悔やんでも悔やみきれないものがあるのでございます。

その29へと続く