No.224 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕 (戦国の世を駆け抜けた女) その26
このお話はフィクションです
その26の1
それやこれやで、私が山を下って下苫保村に到着した時にもう、日はどっぷり暮れ、当りは真っ暗になっていました。
来る時に通ってきた、見坂峠、樋ケ洞を越えて、上有知(こうずち:現在の美濃)に抜ける山道はもう、その時刻では危険で、通れそうにありませんでした。
私はやむなく、その夜は、下苫保村に泊まることにしました。
しかし街道から外れた場所にあるその村には、宿屋などあるはずもありません。
だからと言って、どの家も生活は楽でなさそうで、あの大震災後、既に一年余も経っているというのに、どの家もまだ壊れた所の修理が完全に終わっていない有様です。
そんな村で一夜の宿を頼むのは、いくら何でも気が引けます。
そのため私は、この夜は野宿することに決め、野宿するのに良さそうな場所を探しながら歩いておりました。
するとその時、母屋の大きな庇の下に、馬小屋が作られている農家が、目に入りました。
うまい具合に、馬小屋の前には、沢山の藁が積み上げられていて、それを使えば、夜の寒さも何とか凌げそうです。
「ごめんください。ごめんください。夜分おそくすみません。どなたかいらっしゃいませんか」
「はい、はい、どなた様で」
「こんな夜分、突然、ごめんなさい。
私、岐阜の芥見にあります、無量壽庵という、小さな尼寺のお守りをさせていただいている、照道尼と申すものでございます。
私川辺の郷におきまして、今回の地震だとか、その前の戦いによって、その地でお亡くなりなった方々のご供養をさせて頂いてきたものでございますが、只今はその帰り道でございます。
所が、あの地で、思わぬ時間をとられ、こんな時間となってしまい、とても難渋いたしております。
そこでお願いでございますが、あの馬小屋の軒先と、あそこに積んである藁少々を、お借りして、一夜の宿としたいのでございますが、駄目でしょうか」
「今、照道尼様とおっしゃいませんでした?」
「えー、そう申しましたが」
「そうですか、そうですか、お前様が、生菩薩様と噂に聞いている、照道尼様でいらっしゃいますか。
そんな立派なお方を、馬小屋の前で野宿させたとあっては、ほかの門徒宗に嘲笑われてしまいます。
狭い家の上、まんだ震災後の直しが、済んどらんもんで、家ん中は散らかっとりますが、どうか遠慮せんと、まずは家に上がって、ゆっくりしていっておくりゃーせ」
「いえいえ、もうこんなお時間ですので、お手数をおかけしては申し訳ありません。ですから軒先をお借りするだけで結構でございます。
どうかお構いなく。
それに私、生菩薩やなんて、そんな事言われるような、そんな立派な僧侶ではございません。
もしそんな人がいらっしゃるのでしたら、多分それは、同じ名前を持った、別人だと思います。
未熟者で、まだまだの私に、そんなことを言われますと、恥ずかしくて、ますますお言葉に甘えるわけにはまいらなくなってしまいます」
「何をおっしゃる。
あなた様は、芥見村、無量壽庵の照道尼様でございましょ?」
「はいさようでございますが」
「そんなら、噂のお方に違いありません。
そんなことおっしゃらんと、どうか、どうか、お上がりになってください。
それにお食事もまだでしょ?」と言った後、奥に向かって
「おっかあ。おっかあ。
どえらい尼さまが、寝るとこがないで、困っとりゃあすと。そんだもんで、家に泊まってもらう事にした。
いいやろ。
それから、なんか温かいもんでも、出してくれんか」と亭主。
「そんな事、急にいわれても、もう火も落としてしまっとることやし」とやや困惑した様子の、女の声が返ってまいりました。
「もう、本当に軒先だけで結構でございますから、どうかお構いなく。
それに、食事の方も、今日のご供養にお供えましたおにぎりが、まだ残っておりますので、それで済ませますから、本当に、本当に、ご心配なさらないでください」。
「それみー、お前さんがそんな言い方するもんやから、尼様が遠慮して、外で寝るといって、聞きゃーせんがや。
おまはんも、はよー、こっちへ来て、生菩薩様とまでいわれとりんさる有難い方のお顔を拝ませてもらいんさい。
こんな事はこんなど田舎では、今後とも二度とありゃせんことなんやから」
その26の2
「それで今日は川辺の郷のほうで、この震災や、その前のいろんな戦で亡くなりんさったお方のご供養を、してきてくださったという話やけど、どうやった?
皆、うまい具合に、成仏していきんさった?」
「ありがたいことに、皆さん、阿弥陀如来のお助けによって、成仏されたようでした。
突然、身に降りかかった不慮の死のために恨みだとか、憎しみ、悲しみ、心残りなどの為に、成仏することができず、これまで霊となってあの地を彷徨っていらっしゃった人々のお顔には、どのお顔にも、とても穏やかな表情が浮かんでまいりまして、西の空の彼方へ飛び去っていかれましたからね」
「そうでしたか、そうでしたか。そりゃあよかったなも。
あの地の戦争だとか地震によって、思いもかけない突然の死を迎えなければならなくなった人達の霊も、皆、さぞ喜んどりゃーす事やろな。羨ましいこちゃ」
「またどうして?」
「だって、わっちらの村で死んだもんときたら、お寺から遠い上に、門徒もまんだこの村では少ないもんで、ろくな回向も(回向・・仏事を営んで、死者の成仏を祈る事)受け取りゃせんのだわ。こんなこといっちゃあなんやけど、この村の門徒ときたら、貧乏人ばっかりやもんで、お布施もたんと(沢山)はようださんのやわ。だもんでか、あの大震災以後、一度もお坊さんが、この村へは来てくれえせんがね」
「そうですか。それはさぞお困りでしょう。何時もは、どこのお寺に、お願いしていらっしゃるんですか?」
「関の貞観寺さんに頼んどったんやけど」
「あそこは大きくて門徒さんも沢山いらっしゃいますから、今度の大震災のように、あちらこちらでお亡くなりになった場合は、ここのような遠い所までは、なかなか手が回わらなかっただけなんではないでしょうかね。
「そうやろか、ほんとに遠いからだけやと思やあす?
でもさあ、偉いお人だとか、大地主、大金持ちなんかの所へは、遠かろうとせっせと通っとりゃあすという噂やけど。
地獄の沙汰も金次第と言われとりんさるように、この世の中、お寺さんだって結局は、金、金、金の、金が物を言う世界になっとるんと違うか?。
だもんで、わっちらのような貧乏人の所は、何かにつけて、後回しにされているんやないやろか」
「そうでしょうか。貞観寺のお坊様方だって、一日も早くこちらへも、来なくてはと、気は急いて(せいて)いらっしゃるのではないかと思いますよ。
でもあの寺は、門徒さんも沢山いらっしゃるでしょ。
だから今度の大震災のように、一度に、沢山の人がお亡くなりになったような場合は、ご供養しなければならない人がああまりに多過ぎて、ここのような遠い所までは、なかなか手が回らないだけではないでしょうかね」
「そうやろか、今度の大震災以後、わっち、お寺やとか、お坊様のおっしゃる事を、あんまり信じられんのやけど。
わっち、つくづく思うんやけど、どれほど一生懸命、阿弥陀如来にお縋りしたって、結局お金の払えんようなわっちらみたいな貧乏人は、供養もろくにしてもらえんのやから、極楽浄土へは行けん事になっとるんやないやろか」
「そんな事は、絶対ありませんよ。お金だとか、宝物、権力などといった、この世において、世俗の人間どもが手に入れるために、血眼(ちまなこ)になっているようなものなんか、所詮、仮の世であるこの現世においてのみ価値があるものであって、死後の世界、すなわち来世においては、なんの価値もないものなんですからね。
この世に在るもので、あの世へ行っても尚、価値あるもというのはね、この世に生きている間に行った、善行と、深い信仰心だけなんですよ。
沢山のお金や、強い権力に物をいわせて、お坊様に大切にしてもらったり、優先的に沢山のお経をあげてもらったりされたからと言って、その人や、その人の縁者達が優先的に救われるわけでは、決してありませんからね。
貧者の一灯という言葉、ご存じでしょ。
百俵のお米を持った人から、寄贈された一斗のお米より、一升の米しか持っていない人がお出しになった、一握りにも満たないような僅かなお米の方に、仏さまは、より高い価値をお認めくださるのですからね。
貧しい人は、貧しければ、貧しいなりに、自分がその時できる精一杯のこと、自分の欲望を少し抑えなければならなくなる程度、すなわち、貴方方が、「これを他の人や、仏さまの為に差し出すのは、惜しいなあ。これがあったらもっとましな生活をすることができるのになあと思える程度の物や金を、困っている人や、仏の教えを広めるのに役立てようと、ご寄進になれば、それで十分で、とても大きな功徳を積まれたことになるんですよ。
仏様にはそれで充分解っていただけ、喜んで頂けるんですからね。
だから貧しいからと言って、極楽へ行けないなんて事は絶対にありませんよ。
そんな寂しい言葉は、二度と口にしないでください」
「そうやろか。
庵主様が、そのようにおっしゃるんやったら、そうなんやろうけど、わっちらが頼んどる寺の坊さんたちは、ちょっと違うように見えてしょうがないんやけど」
「貞観寺の住職さんだって、そんなことは百もご存じだとは思うんですよ。
でも悲しいことに、あそこのように大きくなってしまわれますと、信者を獲得して、教えを広め、そしてそれを維持していくためには、とても沢山のお金が要りますでしょ。
だから、本末転倒、傍から見てるもんには、金、金主義で、お金持ちや、権力者の方ばかりへ、顔を向けているように見えがちになっているんじゃないでしょうかね」
「こんなことを私が言いますと、あんたも、『同門だから庇っていやあがる。
所詮あんたも、真宗のお坊さん、同じ穴の貉(むじな)なんだなー』と思われるかもしれません。
でもね、誤解しないで聞いてほしいんですが、私、寺を経営していくために、そうせざるを得なくなっている、貞観寺さんの立場を、理解し、同情もしてるんですよ。
しかし、だからといって私、そのやり方が、正しい事だとは決して思っていませんからね。
ただ、一般的な話としてお話しますと、宗教というのはね、これは、私たちの信じている真宗に限った事ではなく、どの宗教にも当てはまる事なんですけどね。
宗教というのは、その教えに共鳴し、それを信ずる人が増えてくるにつれ、組織化が必要になってまいります。
組織化する事によって、布教活動がスムーズに行われるようになり、信者さんはどんどん増えていきます。
しかし一方、それに伴って、その組織を維持し運営していくために必要な人やお金も、どんどん増えてきます。
更に、信者をより増やし、より信仰心を高めてもらう為のお膳立てとして、荘厳な建物や、中に祀る金ピカの仏像、仏具(仏教の場合はですが)、そしてそれを広めるための荘厳な宗教行事の執行などが必要となります。
またそれらを執り行う為の僧侶を始めとするいろいろな仕事をする人手も必要です
そうなりますと、その為のお金もまた、更に必要となりますよね。
こうして、宗教というものは、信じる者の数が増え、大きくなっていくに連れ、信者の増加と、それによって必要となるお金とが、鼬ごっこに増えていくことになるものなんです。
この為、貧しい信者さんたちから集める浄財だけでは足りなくなり、どうしても、お金持ちや、権力者に頼らざるをえなくなっていくのです。
そして、宗教というのは、悲しい事に、最初にその宗教を始められた、宗祖だとか、教祖の理念とは、全く違った形のものへと変容してしまいがちなものなんです。」
その27へ続く