No.221 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その23

このお話はフィクションです

その23の1

「そう言えばお師匠様、お聞き下さい。
大変、大変、大大変な事が起こったのでございます」
「エッ、何。
まさか悪い知らせじゃないだろうな」
「大丈夫、大丈夫でございますよ」
「・・・・・・・そう、で何」
「私ね、以前の記憶が、ほぼ完全に戻りましたの」
「へー、何時から」
「それが、変な話ですけれど、あの地震の時からでございます。
倒れてきたものに挟まれ、激しく揺らされていた時、突然昔の記憶が戻ってきたのでございます」
「そうか、そうか、それは良かった。
でも私が聞いている所では、記憶喪失の者の記憶が戻った際は、記憶を失っていた間に経験した出来事は、全く覚えてないと言う事じゃったが?」
「私もそのように聞いておりました。
所が不思議な事に、私の場合は、人生のある時点で、過去と現在の間に突然、障壁が出来、過去が遮られていただけだったようなのでございます。
従いまして、それが取り払われてしまった後は、記憶を失う前の人生と、失って以降今日に至るまでの人生が、なんの違和感もなく、すーっと、繋がったのでございます」
「フーン、と言う事は、前の記憶が戻っても、わしの所での出来事も、何の違和感もなく一つの人生として、すんなり繋がって覚えているというのか」
「さようでございます。不思議でございますね。
もしかしたら、それも、これも、私の今後に、何らかの役割を期待されておられる、阿弥陀如来のお導きによるものでしょうか」
「私のような一介の(いっかいの:つまらぬ一人の)尼僧には、阿弥陀如来の深いお計らいなど、わかるはずもないが、この場合は、どう考えても、阿弥陀如来の、御計らいによるもののようじゃな」
「しかしお師匠様、私、以前の記憶が戻ってくれたのは嬉しゅうございますが、困った事に、そいつは、沢山の煩悩どもも、一緒に連れてきてしまったのでございます。
怒り、恨み、悲しみ、憎しみなどといった煩悩どもに、もみくちゃにされて、迷い、悩み、苦しむようになってしまったのでございます。
こんな弱い今の私に、果たして、阿弥陀如来のご期待に応えられるようになれると、お思いでしょうか。
これじゃー、詐欺師になったような気がして、門徒の皆さまの前で、澄ました顔をして、法話なんかできそうもございません」
「そりゃー突然、過去の記憶が戻ってきたんだから、それも、記憶した当時の感情を伴って、蘇ってきたんだから、それに振り回され、混乱しているのは、当たり前だよ。
そういう時はなー、一人で思い悩んでいないで、蘇った過去を、怒り、憎しみ、恨み、悲しみといったその時々の感情を含めて、新たに思い出しながら、洗いざらい、人にお話しなさることじゃよ。
話すことが、煩悩から解放されて、楽になる第一歩なんですよ。
お話なさる事によって、内に籠って、貴女を苦しめている、数々の煩悩が、表に出てきて、きちんと認識できるようになり、客観視できるようになります。
それが煩悩を浄化する第一歩なんですからね。
恥ずかしかったり、辛すぎたりして、話し難いようでしたら、私に話すと思わないで、阿弥陀如来に、お話しなさる心算で、お話なさったらどう?」

その23の2

「私のお話を、お聞きになりまして、お師匠様はどう思われました?
私は、私の人生の、あまりの恥ずかしさと、あまりの陰惨さに、自分のことながら、話している途中で、頭に血が上ってきて、大声をあげながら、わけのわからぬ言葉を喚き(わめき)散らし、そこら中を走り回りたくなるほどでございました。
お師匠様の下に在って、学びましたことを、懸命に思い出しながら、湧き上ってくる怒りや、恨み、悲しみ、憎しみ、恥ずかしさなどといった煩悩を抑え込み、消しさろうとするのでございますが、消しても、抑え込んても、蘇った過去をなぞるたびに、新しい煩悩が、澎湃(ほうはい:盛んな憩いでおこるさま)として湧き起こり、その煩悩に翻弄され、惑わされそうになっている自分がいるのでございます。
こんな迷いが多くて、弱い人間である私に、人様を、阿弥陀如来の許へと導いていく資格がありますでしょうか」
「何を言っているのだ。
私が、いつも言っているだろ。
そういう弱い所のあるのが、普通の人間なんだと」
「人間はね、生きている限り、どんな人間だって、煩悩から、逃れる事は出来ないもんなんだよ。
煩悩と言うのは、厄介な奴でなー。上手く押さえつける事ができたかなとか、上手く消滅させてしまえたかなと思っても、それはほんの一瞬の事でしかないんだよ。
直ぐに、次から次へと、新たに生れてきては、私共を苦しめるものなんです。
悟りを開いた人間と、そうでない凡夫との違いというのはなー、悟りを開いた人間は、煩悩を無理やり押さえこもうとしたり、心の中から消し去ろうとしたり、追い出そうとしたりするのではなくて、煩悩が存在する事自体、普通と認識し、それに惑わされることなく、心の平穏を保ち続けられるようになっている人間の事なんだよ」
「煩悩の存在を、普通として認める?
そしてそれに惑わされることなく、平穏を保つ?
情けない事に、今の私には、そんな事、出来そうもございません。
どうしたらそのような境地に達する事が出来るのでしょうか」
「どうしたら?
お前、勉強したり、修行したりすることによって、悟ることができると思っているだろう」
「さようでございますが。
そして、出来ましたら、自分もそうなりたいと思っております」。
「しかしなー、私等のような凡夫には、それは土台(どだい:もともとの意)、無理な話なんじゃよ。
昔から、そういった境地に達するために、沢山、沢山の人間が、難行苦行だとか、瞑想行、万巻の書の読破などをしてきたもんだよ。
でもなー、その中で、どれだけの人間が、本当の悟りの境地に達しえたと思う?」
「さあ?・・・」
「悲しい事に、本当に悟りの境地に達しえたと思われる人は、多分ほんの僅かだと思うよ。
新しく宗派を開いた教祖達の中には、夫々の方法で悟りの境地に、達しておられるかもしれんが、
その宗派の後を継いでいる人達となると、宗派本山のお偉いさんとなっている人達の中にだって、
はて、どれだけいらっしゃることやら」
「そう言われますと、さようでございますね。
そうなりますと、それじゃー、私のような、無知蒙昧な(むちもうまい:何も知らないの意)罪深い女人(にょにん)は、何をしたって、未来永劫、救われないということなんでしょうか」
「違うだろ、そう言っているんじゃないよ。
私がいつも言っている、お聖人様(親鸞聖人)の御言葉を、もう一度、思い返して御覧。
阿弥陀如来を頼み、一心不乱に南無阿弥陀仏の称号を唱えて、阿弥陀如来にお縋り(すがり)するものは、文字も読めないような、無知蒙昧な尼女房のようなものであっても、大悪人のような罪深い者であっても救われるとおっしゃっているだろ。
だから、お前も、悩みや苦しみの全てを、阿弥陀仏にお預けして、ただ一心不乱に御称号(ごしょうごう)をお唱えなさい。
そうして、無心になって、ひたすら阿弥陀如来に、お縋りなさい。
そうなされば、現在、お前を苦しめている煩悩なんか言うまでもなく、全ての悩み、苦しみを、阿弥陀如来が、お引き受け下さって、その大きな掌(たなこころ)の中に、包み込んで下さいますからね」
「私はね、かねがね、お前との出会いを含め、お前の身の上に起こった、過去の出来事の全てが、阿弥陀如来のお計らいによるものではないかと思うんだよ。
先程、過去にお前の身の上に起こった、不幸な出来事の数々をを聞いて、この十年余の、お前の信仰への取り組みの真剣さと、ひた向きさも、さもありなんと合点がいった。
お前は、過去に、お前の身の上に起こった出来事の経験を踏まえて、仏の弟子として、この世で悩み苦しんでいる多くの者達を、阿弥陀如来のお傍へと導いて行く役割を、宿命として、担わされて生まれてきた人間に違いないんではなかろうか」
「そういわれましても、お師匠様。
そんな大役、今の私では。務まりそうもありません。
煩悩に惑わされ、迷路に入りこんでしまっている、こんな私が、どんな顔をして、門徒の皆さんの前に立って。お話しろとおっしゃるのです?」
「構わん、構わん。
先ほども言ったように、真宗だけでなく、どの宗派であっても、僧侶達の殆どが、真の意味での悟りを開いているわけじゃないんだから。
それどころか、僧侶達の多くは、悟る事なんか諦めてしまっているのが、現状なんだからね。
にもかかわらず彼等は、いかにも覚者然(かくしゃぜん:悟りを開いた人らしいようす)として、経典を読み、信者達に説教をしているではないか」
「それは知っております。
でも私、そんな似非(エセ:似て非なる)坊主にはなりたくないのでございます」
「だがな、だからと言って、私はそういった僧侶を責める事ははできんと思うぞ。
なぜなら、先ほども言ったように、悟るきる事が出来ない、時に煩悩に翻弄され苦しみ悩んでいる、そんな性(さが)を持っているのが、生身の人間であり、僧侶といえども、その多くは、そういった悲しい性を持ってうまれてきた、一人の人間なんだから。
しかし、例えそうであっても、そういった僧侶達によって、救われたり、平穏な気持ちで、生きていけるようになったり、安らかな気持ちで死んでいくことができたりした人達が、沢山いるではないか。
だからそれでも良いんだとは思えんか」」
「今のお前は、取り戻した過去の記憶と、一緒に甦ってきた、煩悩どもにに翻弄され、戸惑い、困惑して、迷路に入りこんでしまっているように、思えてならんのだが、違うか」
「はい、お師匠様のおっしゃるとおりでございます。
次から次へと現れてくる煩悩どもに、心が掻き毟られて(かきむしられて)、心休まる時がございません。
いっそこの身体が、悲鳴を上げるくらい、痛みつけてやったらと思う衝動にかられる時がございます。
私を苦しめている煩悩を追い出す為には、そういった修行をするしかないんではないかと」
「そうか、それほどまでに思い詰めているのか。
しかしなー、そんな事をしても無駄な事は、御釈迦様がとっくの昔、おっしゃっているではないか。
確かに難行だとか苦行をしていると、それによって、生命が悲鳴を上げるほどになった時、一時的に煩悩から解放され、恍惚感に満たされる事があるような話は聞いている。
でもなー、それはあくまで一時(いっとき)の事で、気力、体力の回復と共に消えてしまうものだそうだよ。
だから、それを永続させる為には、修験者のように、現世とのつながりを断ち、すべての妄執を断ち、生涯苦行に明け暮れなければならないみたいだよ」
「そうでしょうか。
だったら、私は、どうしたらよいのでございましょう」
「だから、先ほどから何度も言っているだろ。
私どものように、現世に住処(すみか)をもっている凡夫は、生きている限り、煩悩から逃れる事なんかできっこないと。
故に、お聖人様(親鸞聖人)の御教えに従い、心を無にして、一心不乱に南無阿弥陀仏の御称号を唱えながら、阿弥陀如来のお袖にお縋りすることだと。
貴女もそうなさい。
そうなされば、阿弥陀如来が、必ずその大きな愛の手の中に、お前の悩みや苦しみを掬い(すくい)あげ、お救い下さいますからね」
「本当にそうでございましょうか?」
「お前、失っていた記憶が戻る迄は、それを信じ、無心で、そうしていたではないか。
それともそれは、私の手前そういった振りをしていただけだったんか?」
「そんな事はございません。
失っていた記憶が戻ってくるまでは、お師匠様のおっしゃる事を信じ、何も考えることなく、無心に阿弥陀如来を信じ、阿弥陀如来に、私の全てを委ねておりました」
「そうだろう。
それが一番良かったんだよ。
でもお前の場合、阿弥陀如来を信じるようになってから、まだ十年そこそこで、日も浅い。
そこえ、今度の大地震の衝撃で、阿弥陀如来を信じていなかった過去の記憶、それは阿弥陀如来を信じていなかった時代のお前の記憶であり、修羅の道を歩んでいた時代のお前の記憶であるが、それがその時代の煩悩を山ほど引き連れて、甦ってしまったのである。
それゆえに、記憶を失くした時以前のお前の心と、記憶を失くしていた時代のお前の心、それは無心に、間如来を信じることができた心であるが、その心と間に、葛藤が起こっていて、無心に阿弥陀如来のお慈悲に縋る事が出来なくなってしまっているように私には思えるのじゃが」
「さようでございます。
豊かな人間や、権力を握っている者はあくまで強く、貧しい者や、権力に遠い者は、あくまで弱い。
虐げる側に立つ者は、強くて、何をしても赦され、虐げられている側に立つ者は、弱くて、何かにつけて泣かされる。
悪い奴だって権力や富を握れば、咎めれれることもなく、世の中を闊歩でき、
真面目に、正直に生きていても、権力を持たない者や、貧しい者は、蔑まれ、疎まれ、虐げられて、泣いていなければなりません。
神様や仏様がいらっしゃるにも関わらず、こんな不公正が罷り通る世の中を、不審に思う心と、無心に阿弥陀如来を信じていた心との間に葛藤が起り、今までのように、無条件に、全てを阿弥陀如来に委ねる(ゆだねる)事が、できなくなってしまっているのでございます」
「理詰めに考える傾向の強い、本来のお前、仏の弟子になる前のお前が、顔を出してきている今は、そのようになるのも無理なかろうのー。
しかしそれはなー、今生(こんじょう:いま生きている間の生)と言う、短い単位での損得、正邪を計るからそうなるんだよ。
私達の今生での生命なんか、生と死を繰り返しながら、因果の理の支配の下、輪廻転生を繰り返し、延々と生きているそんな命にとってはなー、
仮の宿においての、ほんの一時(いっとき)の時間に過ぎないんだよ。
だから、お前が今、とやかく言わなくても、宿縁の中、連綿と繋ぎ続けいかねばならない命にとっては、今生で、どんなに羽振りが良くても、神仏を恐れない行いをしたものには、来世、更には来々世といった長い期間をかけて、(早い奴には今生において)付けが廻り、報いを受けなければならないことになっているんだからね。
ところでお前、今では、阿弥陀如来の存在そのものさえ、信じられないようになっているのかい」
「いいえ、無論信じております。
今日私が、このように生きていけますのも、一重に、阿弥陀如来のお計らいのお陰と、感謝はしております。
ただ、己のエゴの為に、私達親子を、そして何の罪もない自分の家来や領民達までも、奈落の底に突き落とすような酷いことをした、あの悪の権化のような東だって、死ぬ間際に、もし御称名をお唱えし、阿弥陀如来にお縋りさえしていたら、救われていたのかと思うと、なんとも、釈然としないのでございます」
「そりゃー、お前、お聖人様の御言葉の読み違えだよ。
書物と言うのはなー、そこに書いてある文字だけでなく、その前後や、それまでに書かれている他の書物を参照して、行間に隠されている文字まで読み解かなくちゃいけないんだよ。
南無阿弥陀仏のお言葉は、阿弥陀如来に帰依し、お縋りし、阿弥陀如来に身を委ねますと言う意味なんだよ。
だからどんな悪人でも、阿弥陀如来に深く帰依し、御称名を唱えることによって、妄執を捨て、八正道実践を心掛けるようになれば、救われると言う意味で、悪いやつが、悪い事をしながら、何の反省もなく、何の善行を施すでもなく、死の際に(きわ)ただ口先だけで、御称名を唱えれば、救われるとおっしゃっているわけじゃないんだからね」

(注)八正道(はっしょうどう):仏教修行の基本徳目:正し見解、正しい思考(思惟:しゅい)、正しい言語行為、正しい行為、
正しい生活、正しい努力、正しい想念、正しい精神統一

はい、なんとなく納得出来た気がいたします。
今日からは、迷うことなく、阿弥陀如来のなさることを信じ、事あるごとに、御称名をお唱えし、ひたすら阿弥陀如来にお縋りする事にします。それによって、全ての妄執や、煩悩に囚われることのない、真の意味での、自由で、平穏な生きかたのできる世界、すなわち、この世にあっては悟りの世界、あの世へ行ってからは如来のお傍、極楽浄土に行けるよう努力していこうと思うことができるようになりました。
私、まだまだ、未熟者で、この後も、何度も何度も、思い悩み、苦しみ、躓いたり(つまずいたり)迷ったりすることでございましょう。
しかしこれもまた、お師匠様のおっしゃる通り、それが人であるが故の“業”と割り切り、隠すことなく人前に曝けだし(さらけだす)、そんな弱い私が、阿弥陀如来に身を委ね、お縋りする事によって、数われている姿を、身をもって皆さん方にお示しするつもりです。
そしてそれによって、私と同じように、煩悩や妄執に囚われ、惑わされて、困惑している人々にたいして、阿弥陀如来にお縋りすることによって、救われる事をお教えしようとおもいます。そしてなにものにも囚われることのない、真の自由で、平穏な世界、すなわちこの世に在っては悟りの世界へ、あの世にあっては浄土へと、人々を、導いていくつもりでございます。
ですから、どうか安心してお任せください
それより、お師匠様、大変お顔色がすぐれないようでございますが、お身体の方は大丈夫でしょうか。
お疲れでしたでしょうに、未熟者の私を教える為に、長い間、お時間をとらせてしまって、本当に申し訳ありません。
お教えは、何時までも聞いていとうございますが、今日はこれくらいにして、どうかもう、お休みなさって下さいませ。
お師匠様がお休みされている間の、檀家のお守は、不束ながら私が、お師匠様とご相談しながらではございましょうが、懸命に務めさせていただきます。
ですからどうか安心して、ごゆっくり、お休みなさって下さい。」

以下その24に続く