No.212 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その14

このお話はフィクションです

その14

それからどれほどの時間が経った事でしょう。
「美貴、美貴、美貴だろ」と肩を揺すって呼ぶ声に、私は自分が、薄暗い部屋の中にいる事に気付きました。
びっくりした私は、その手を払いのけると、慌てて部屋の隅へと逃げ込みました。
背中に当たっている俵の臭いに混じって、カビ臭い土の臭いや、籠城の為に貯蔵してある、色々な食べ物の臭いが、突然どっと鼻に襲いかかってまいりました。
「美貴、美貴、私だよ、私、お父様」と聞き覚えのある男の声。
薄明かりの中、かすかに判別できる男の顔は、まさしくお父様のお顔でした。
「わー、お父様、お父様」私はお父様に抱きつくと、思いっきり大声を上げて泣き出しました。
それまで止まっていた涙が、次から次へと流れ出てきて止まらなくなってしまいました。
同時に、信光を失った悲しみと、信光を殺した兄・頼正への憎しみが、新たに、甦ってまいりました。
美貴を抱いている、父・頼貞の目からも、涙が流れ始めました。
「お父様、信光が、信光が」
「何、どうした?信光殿がどうしたと言うのだ?」
「ワーッ、ノ、ノ、ノブミツが、やられてしまった―、ワー」
「エッ、信光殿もやられたのか、誰に、頼正にか」
「直接、やったのは、誰か分からない奴等だけど、命令しているのは頼正」
「そうか、信光殿もやられなさったか、これで、わしの国も終ったかもしれんなー」
「お父様の所は守っている侍が随分いたのでしょ。それがどうして?」
「今の時代、他家でこういう事が起こった例を、散々見させてもらってきたんだから、もっと、もっと用心しておるべきだったんだろうなー。
けれど、まさか、自分の子供に限って、と言う思いがあったもんだから、それが仇(あだ)となってこの体たらく。
我ながら情けないし、信光殿はじめ、諸将に、申し訳ない」
「そうよねー。
夫も、こういう事態が起こるかもしれないと、前々から思ってはいたみたいで,お父様にも、その事を進言して、対策を考えてもらわなければと言っていましたんですよ、
でもね、それがこんなに早くなるとは思っていなかったみたい。
夫としては、今度の会議で、お父様も、頼正兄も両方が立つようにしさえすれば、さしあたっては、丸く収められるのではないかと言っていたんですから。
それがまさか。その会議前に、頼正が事を起こすなんて、あいつ、馬鹿じゃないの。
そんなことしなくたって、領主の座はちゃんと自分のものになったのに。
信光も、随分用心はしていたのですが、そのまさかが、仇となって、頼正派のやつらに先を越されてやられてしまったというわけ。
悔しいなー。
頼正兄が、もう少し待ってくれさえすれば、頼正めの立つように考えてくれていたのに。
ほんとうに、悔しい―」
「お城の回りには、お父様派らしい武将だとか、兵士達の死骸がごろごろ転がっていましたわ。
だから、お父様派の武将達は、殆ど全滅かもしれないわね。
あの人達だって、まさか、今日、こんな事になるなんて思ってもいなかったでしょうから、連れてきた、家来の数も少なかったでしょうし、どうしようもなかったんでしょうね」
「で、この後、私や、お父様はどうなると思う?
まさか直ぐに殺そうというのじゃないわよねー」
「分からん。
なにしろ、今度の仕掛けは、頼正一人でやった事ではなさそうだからなー。
妻が捕らえられてない事や、随分沢山の兵士が動員されている所から考えると、妻の実家の三木(みつき)めが、後ろで、糸を引いているに違いない。
そうなると、これは大変なことで、お前も、わしも、助からんかもしれんぞ」
「夫が亡くなってしまった以上、私は、生きていても仕方がない身だから、殺されたってかまわないけど、
康継や、安乃さん始め、山岐一族の人達の事だけが、気掛かりだわ。
もう康継は、無事にあの新天地へ着いたかしら。
私がいないから、叔父さま達を困らせているんじゃないだろうか。
山岐一族の者達は、全員、上手い具合に、あの谷から退去できたかしら」
「谷からの退去って?
それどういうこと?」
「実はねー、お父様。
夫は、『自分がいる限り、お父さんと、お兄ちゃんとの間で起こる後継者争いによる戦は、避けられそうもない。
でも、もしそうなった場合は、この国は、どこかの大名の餌食になってしまうだろう。
だから、そうなる前に、自分は身を引くつもりだ』とかねがね言っていたの。
そこで、お父様には無断で、申し訳ないことですが、頼正兄が領主になった場合、嫌がらせに備えて、十日くらい前から、谷の一族の者達を、少しずつ、他の地へと、移していましたの。
更に、今度の会議がもつれ、万一、私達が捕まったり、殺されたりといった事件が起こった場合は、残っている谷の住民全員が、直ちに、あの谷から退去する手筈になっていたのです。
ですから、私達がやられた後、直ぐに、頼正達に、あの谷へ、攻め込まれでもしていない限り、山岐の一族は、もう今頃は、頼正らの手の届かない所まで行ってしまっているはずです」
「フーン、そういう事か。
それにしても手際のよい事で。
信光殿は、前々から、そのような事を言っていたからなー。
きっと、今度の会議の前に、その話をするつもりだったんだろう。
あまり、わしが強く引きとめていたものだから、言いそびれていたんだろうが、気の毒な事をしてしまったなー。
でも、あいつは、天才的な戦略家だったから、あいつの才能が惜しくて、ついつい強く引き留めてしまっていたんだよ。
娘婿である信光殿に、頼り切っていた所もあるし、もっともっと出世してほしいという欲もあったものだから、ついなー。
それにしてもまっ事、惜しいことをしたなー。
悔しいよのー」
「夫が亡くなってしまった今となっては、どうでもいい事ですけど、夫は、そういった栄達を望んではいませんでしたの。
あの人は無欲な人で、望んでいたのは、戦(いくさ)のない世の中がくる事だけだったんです。
そんな平和な世の中で、『皆、特に真面目に働く者達が、穏やかに、そして幸せに暮らしていけるような世の中になって欲しい』と
いつも、口癖のようにいっていましたんですから」
「そうか、気の毒な事をしたなー、良い婿殿だったのになー。
お前が心配している、山岐一族の立ち退きについては、絶対、上手く行くから大丈夫だよ。
わしが考えるに、まず頼正一派の連中達程度の頭では、今度の反乱を起こすことだけで精一杯で、信光殿が、一族全員を引き連れて、谷を出ていくなんてことは考えもつかんことだと思う。
だから、頼正派の連中は、信光一族の動きに、何の注意も、警戒もしてなかったはずだ。
故に、山岐の一族は、何の妨害も受けることなく、やすやすと谷から脱出していくことが出来たと思う。
それに、もう一つ、反乱を起こした頼正達が、反乱に成功した後、真っ先に手を打たなければならない先は、お前の所ではないと思う。
わしを支持していた連中の中には、途中で異変に気付いて、引き返して行った武将も沢山いるし、今回の反乱によって、わしの城で討たれた連中も、それぞれの居城を守っていた家来達が、まだいるはずだ。
誰が考えたって、そいつらが、このまま黙って引き下がってくれるとは思えないだろ。
もし頼正たちが、このまま何もせず放っておいたとすると、早晩彼ら頼貞派の武将達が手を組み、陣容を整えて、反撃してくるのは明らかでしょ。
それ故、頼正たち反乱軍としては、彼ら頼貞派の武将達同士が手を結び、反撃の陣容を整える前に、先制攻撃によって、この地から、頼正派の武将達を一掃しておかなければ、と考えるのは、理の当然だよね。
そうなると、頼正たち反乱軍が、三木氏から余程大きな支援でも受けていない限り、わし達を破った後、最初に、山岐一族を、攻撃すると言う選択肢は、まずないと思うなー。
なにしろ山岐一族というのは、とても手強い相手で、中途半端な軍勢では、攻め切れるものでない事は、このあたりではよく知られているところだからね。
わしの計算では、山岐一族への攻撃が始まるのは、わしの派の連中を屈服させた後になるだろうから、五から六日後という事になるだろうな、多分」

その15へ続く