No.207 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その9

このお話はフィクションです

その9

人生の大半を戦場と家との往来で明け暮れている間に、斎木頼貞は還暦を過ぎ、髪も髭も、真っ白に変わってしまいました。

この間の、世の中の変化には著しいものがありました。
情勢を読み違えたとか、与する(くみする)相手の選択を誤ったとか、時の流れに乗り損ねたなどなどによって、消えていった、小さな城持ちの小領主や郷士は、この(中濃)地方だけでも、少なからぬ数に上っております。
考えてみると大変な時代でした。こんな時代を良く生き残ってこれたものだと頼貞はつくづく思いました。

しかし私(頼貞)に、一息ついている時間などありません。
世の中の情勢を眺望しますに、既に、数カ国にまたがる様な大きな領地を手に入れ、力を蓄えた領主、即ち後の世で戦国大名と呼ばれている頌主達が、あちらこちらに出現し始めております。
そしてその、夫々が、天下を目指して、蠢動(しゅんどう:うごめくこと)を始め、そのような動きに、当地方もまた、無縁ではなくなりつつあったからでございます。
飛騨一円を、制圧し更なる飛躍を狙って、中濃地方に手をのばそうとしている三木(後の姉小路)、甲斐の国一円を治めた武田、駿河、遠江(とおとみ)、三河を手に入れた今川、尾張一国を治めるようになった織田、そして主家を乗っ取り、美濃の主となった斎藤道三(後に織田と縁を結ぶ事になります)などなど面々が、この地方の領主や、国人、郷士達に、脅迫や、甘言、謀略を入り混ぜながら、自分の勢力下に引き込むために、動きを強めているからです。
この十数年の間に、戦闘の様相も、大きく変わってしまいました。
これまでは、城攻めと言っても、この地方では、せいぜい百か二百の侍達とその供である仲間(ちゅうげん)や小者達による小競り合い程度でしたが、最近では既に一つの地方を勢力下においた、いわゆる戦国大名の後ろ盾を頂いたもの達の争いとなり、あちらこちらの小領主や国人、郷士達から、かき集められた、何千、何万の兵士が加わった、大がかりな攻防戦へと変わってしまいました。
城も変わりました。

以前に作られた城は、現在の私どもの城のように、山の上に、主として木と土で造られたものが殆どでしたが、最近では、回りに堀を巡らせ、更に石垣を築き、その中に、鉄、石、木、土で造られた、天守閣をはじめとする建造物群が築かれているようになってまいりました。
従って、城の攻防戦も激しいものに変わりました。
一つの戦いよって生ずる、戦死者や負傷者の数も、以前とは比べものにならないくらい夥しい(おびただしい)数に上がるようになってしまっています。
武器も大きく変わりました。

最近では南蛮渡来の種子島(火縄銃)とかいう武器が加わり、それに伴って、爆裂弾の原料となる火薬も誰もが容易に手に入るようになりました。
婿の信光殿達の使っていた爆裂弾などは、もう今では秘法でなくなってしまったのです。
こうした武器の登場によって戦いの様相も一変しました。
天下に名をとどろかせた豪傑が、仲間だとか(ちゅうげん)、百姓上がりの小者達からなる鉄砲隊の、一発の弾丸によって、あえなく討ち取られたなどといった場合も珍しくなくなってしまいました。
比較的少ない人数で、大軍を引きつけて戦うことができた(大軍と言っても今のように何万、何十万とは規模が違いますが)従来の山城型の名城も、新しい兵器の出現と、少々の人的な損害なんかものともせず、押せ、押せといわんばかりに、何万の兵士が、怒涛のように押し寄せてくる、人海戦術の前には、無力です。

木々は薙ぎ倒され、草や灌木は踏み潰され(つぶされ)、天守閣までの途中、要所、要所に作られていた砦も、砦や天守閣を取り囲むようにして作られている廓(かく)も、所詮、木と土で作られているものですから(昔からの山城の場合ですが)、雨霰(あめあられ)と打ち込まれる、爆裂弾や火矢、鉄砲玉の前には、無力で、あっという間に破られ、蹂躙され、さほど日数を費やす事もなく、山頂の天守閣の所まで攻め上られてしまいます。
山頂付近に建ち並ぶ天守閣を始めとする、建物群も、所詮、木と土でつくられた建造物でしかありませんから、攻め上がってきた敵軍によって、あえなく炎上の上、落城というのが、通常の末路です。

注1:ごく稀には、その前に、領主とその側近だけがこっそり逃げのび、後に再起を計る場合も少なくありませんでした。

注2:当時のお城は山城が主で、天守閣も、その他の建物群も、砦も、それを取り囲むようにして作られている廓や掘割などといった外構も、土と木で作られているものが、殆どでした。堀、廓などの外構、天守閣や住居、倉庫、砦等といった建築物に石垣が組まれ、鉄が使われるようになるのは、それより少し時代が下がってからです。

落城の場合、哀れなのは、侍達と共に籠城していた、彼らの家族や、領民たちです。
逃げ遅れ、捕らえられた武将や兵士たちは、敵方の部将として、戦力に組み込まれる場合もありました。
しかし、城の主たる将その一族は、その多くが、その場で首を刎ねられてしまいました。
籠城に加わった領民達の中で、役に立ちそうもない老人だとか、幼子などは、厄介物として、その場で殺されるか、戦場に打ち捨てられてしまうことになります。
幼児期を脱し、労働力となりうる子供だとか、家臣の家族、そして領民達は(多くは農民でしたが)、男は奴隷として、又女は奴婢だとか女郎として売り飛ばされてしまう事も珍しくありませんでした。
例え、籠城に加わっていなくても、負けた国の領民たちには、同じような運命が待っている場合も少なくありませんでした。

注:歴史には庶民の生活なんか出ていませんから、あまり知られておりませんが、戦国時代では、戦争に勝った側が、人狩りと称して、負けた側の武士の家族や、領民を捕らえ、奴隷として売り払った場合も、少なくなかったのです。
 何しろ戦国時代の日本は、何処もとても貧しい時代でした。したがって勝った側にとっては、人も又、戦費を賄う(補填する)ための、非常に重要な戦利品でした。

捕虜として捕らえられた者のうち、最も悲惨だったのは、女、なかでも未だ色香の残っている年齢の女達でした、そういった女達は、兵士達によって戦場で慰め物にされたたあげく(多くは輪姦でしたが)殺されたり、奴婢や女郎として売り飛ばされたりする運命が待っていたからです。
落城の際、領主の奥方だけでなく、侍女や下女たちに至るまで、城と運命を共にする事の多かったのは、忠義の為、領主や奥方の死に殉じたと言うより、凌辱(りょうじょく;辱めを受ける、女を暴力で犯す)されたり、売り飛ばされたりするのを避けるためと言う所が大きかったようです。
考えれば、戦(いくさ)と言うのは、既に大きな領地を勢力下におさめ、沢山の家臣を持ち、天下を目指している大名〈後世戦国大名と呼ばれている人達〉たちは別として、我々のようにやむなく参戦しているような小領主には、戦いに勝ったからと言って、それほど良い事はありません。
戦えば死亡や負傷によって、多数の家臣を失った上、馬鹿にならない戦費が掛かります。
だからと言って、それを誰かが補填(ほてん)してくれるわけでもありません。
負ければ先ほども申しましたように、全てを失うだけでなく、家臣や領民に
塗炭の苦しみを味あわせる事になりかねません。
だから、私としては、戦なんかなるべくしたくありません。
しかし、この地方の状況は、困った事に、それを許してくれそうもないのでございます。
この機に乗じて、隣国を併合し、勢力を広げようとする野心的な領主も出てきていますし、いわゆる戦国大名の元に走り、その配下となって、自分の勢力を広げようとする武将達も、あちらこちらに出てきています。

戦国大名と手を結び、その力をバックにして、近隣の国々を支配下に置こうとする領主もいれば、近隣の領主の家の内紛に乗じ、その一方に肩入れする事によって、その領土を自分の勢力下に治め、さらにそれを足場にして、その地方一帯を、自分の勢力下に置こうと暗躍する領主や武将も出てきています。
こういった者達は、抵抗したり、従わなかったりした場合、最終的には武力で屈服させ、従わせようとするのが普通です。
だから、どんなに避けようとしても、いずれは、何らかの形の戦に、巻き込まれる時が来るに
違いありません。
本当に頭の痛いところです。

その10へつづく