No.193 廻る糸車、西施像奇譚 その14

このお話はフィクションです

その45

寛永寺14代貫主(かんす)公慈入道親王は(註:フィクションの中での存在です。史実と異なります)、隠退間際であった事もあってか、別にそれほど詮議(せんぎ:評議・検討すること)されることもなく、幕府から申し入れのあった、西施の姿が描かれたその軸の奉納を、すんなり、お受け入れになりました。
寛永寺の僧侶たちの中には
「この軸には、西施という女人の怨霊が宿っていて、それを持ったものには、不幸が降りかかり、身を滅ぼすと言われております。
大御所様さえ忌避なさった、そんな験が悪い(げんがわるい:縁起が悪い)絵を、当山でお引き受けしてよろしいのでしょうか。
奉納の為に、あれを、こちらにご持参なさった、ご使者のお話から推察いたしますに、幕府に残された記録によって、その事をお知りになった、幕府のお偉方様方が、この軸に宿る、西施の怨霊の呪いを避ける為に、(この軸を)当山に、押しつけようとされているのだとしか考えられません。
よく考えてみれば、そう言う理由でもなければ、このような千五百年以上も前に画かれた、天下の名画を、幕府が、手放すはずがございません。
どうか、もう一度、お考え直しを」と、この軸の受け入れを、思い留まられる様、貫主に進言してくる者も、少なくありませんでした。
しかし貫主は、「そのような心配は、するに及ばぬ。
幕府を取り巻く今の厳しい情勢から、お偉様方が、縁起をお担ぎになって、自分たちの手元に置く事を、躊躇われる(ためらう)のであろう。
しかし考えてもみよ、どんな名人の筆になったものであろうと、画は、所詮、画に過ぎなかろう。
恨みを持って亡くなった西施が描かれている軸だからと言って、こんな画に、我が寺一門の祈願に対抗して、なお仇をなす事が出来るような、そんな大きな力が備わっているなんて、あろうはずがなかろう。
幕府のお偉方も、別にこんな貴重な軸を、本院に奉納すると迄、覚悟されなくても、我らに、その軸に付いている悪霊だとか、怨霊等の除霊、退散祈願を、お頼みして下されば、それで良かったのじゃよ。
幕府のお偉方達も、年を召されたせいか、臆病になられたものよのー。
だから構わぬ。
こちらは、ひょんな事から、思わぬお宝が手に入る事になって、大儲けじゃ。
大切に保存させていただく事にしましょうぞ」と皮肉っぽく仰せられ、一向にお聞き届けになりませんでした。
更に「お言葉をお返しするようで申し訳ありませんが、万一という事もございます。
万一、この軸に付いているといわれる怨霊が暴れ出し、当山に仇をなすような事になりますと、被害は、この根本中堂(本坊)だけに留まりません。この山にある、全ての寺院に累(るい・・かかわりあい)が及ぶ恐れがございます。
どうしても、この根本中堂で、あれを、保管なさるというのでございましたら、恐ろしい事が起こらないよう、せめてこの軸の周りに、結界(けっかい:聖なる領域と俗なる領域を分けること)を張り巡らす事だけでも、お許しいただきたいのでございますが」と寛永寺の境内にある、他の寺々〈子院〉の住職等も加わって、嘆願しました。
しかし貫主は、
「そもそも当院は、東叡山と称せられているように、鬼だとか、怨霊、怪異などと言った、異形の者から、この江戸の町を守り、そこに住む人々の安泰を願って、建立された寺院である。
その寺が、悪霊や、怨霊、鬼、妖怪などといった、異形の物達の祟りや、憑依(ひょうい:霊にとりつかれること)を恐れ、この西施像の軸の奉納を断ったり、或いは僧侶たちがそれを恐れて、あたふたしたりしている事が、外に漏れでもしようものなら、何の為の東叡山かと、幕府から嘲られる(あざける)だけでなく、江戸の町民どもからも、笑いものになりましょうぞ。
本来この寺では、その境内その物が,清浄域となっている上に、寺院の中は、あまたの御仏がおいでになり、その広大無辺のお力と、我が寺院の僧侶達の法力によって、守られているはずです。
それなのに、何ゆえその上、この根本中堂(御本坊)の中に、更に結界を設け、その中に、この軸を保管しなければならないのか。
屋上屋を架す(おくじょうおくをかす:無駄なものをこしらえること)様な、そんな愚かな真似をしなければならないほどに、我が寺院の、僧侶たちの祈りの力は、当てにならないと言うのか。
我が寺院の僧侶達の祈り力が、その程度の物であると、お前達が思っているのであれば、それ以上、何をか、いわんやである。
わしは、仏の力も、そなたたちこの寺の僧侶たちの祈りの力も信じている。故に、この中に更に、結界を設けるなどという、愚かな行いをするつもりはない」とおっしゃって、お許しになりませんでした。

その46

西施の姿が描かれたその軸が、奉納された際、寛永寺では、悲運の死を遂げた、西施の霊の鎮魂と、その成仏を祈願しての、一大法会が催されました。
寛永寺境内にある、寺の主だった僧侶の全てが参加して行われたそれは、幕閣の代表の参列も得て、近年稀にみるほど盛大なものでした。
これによって、貫主の決定にもかかわらず、その軸の、寺への受け入れに、多少の懸念を禁じえなかった、寛永寺の寺僧たちや、その境内にある子院の住職達も、少しは安心したようでした。
根本中堂(御本坊)の後ろ側にある書庫に、納められた西施像の軸は、回りに、結界こそ張られておりませんが、他の美術品や貴重な書籍類とは離れて、書庫の中の貴重品保管場所で、その片隅に、ポツンと置かれておりました。
そして、この書庫の管理責任者である、貫主並びに、寛永寺の執行役員達の許可がなくては、開けてはならないという厳重な管理の下におかれていました。
大御所様さえ、直接所有するのを忌避された、曰く(いわく)つきのその軸です。
しかも、その軸に関わった者達には、とんでもない不幸が訪れた事が、記録に残されております。
従って、貫主の意向がどうあれ、寛永寺の僧侶たちから、その軸に対する怖さ、気味悪さを拭い去りきる事は出来ていませんでした。
故に、寺の中から、その軸を見たいと願い出た者など一人もいませんでした。
それどころか、寛永寺の中では、その軸の事を、話題にする事すら、憚られるような雰囲気となっていました。
こうしてその軸は、誰からも触れられることないまま、貴重品置き場の片隅に放置させられているうちに、やがて、その軸が、書庫の中に保管されている事すら、殆どの僧侶たちの記憶から消え去ってしまいました。

その47

時は幕末、日本は一つの時代が終わりをつげ、やがて迎えようとしている、新しい時代の、黎明期に当たっておりました。
寛永寺においても、第14代貫主、公慈入道親王(註:フィクションの中の人物で、実在の14代貫主と関係ありません)はご隠退になり、新しい第15代貫主には、まだ20歳そこそこであった、清澄入道親王(フィクションの中での存在で、実在した15代貫主とは関係ありません)がお就きになりました。
恒例に従っての、業務の引き継ぎを終えられ、ほっとされた公慈入道親王が
「そう言えば、私の在世中、幕府からおかしなものを奉納されましてな、その取扱いには、ほとほと困惑いたしましたわ」と語り始められました。
すると、面倒な引き継ぎ業務に,退屈して、辟易(へきえき:閉口する事、たじろぐ事)されていた、お若い、清澄入道親王は、さっそくその話に乗ってこられ
「ヘー、それは、それは、で、幕府から、何を奉納されてきたのですか」と、身を乗り出されます。
「女の人が描かれている古ぼけた軸なんですけどね。
何でも、三国時代の曾不興という人の手になる名画とか言われているものです。
私はまだ見てないものですから、本当の所は分かりませんが、幕府に残されていた記録によりますと、東照宮に祀られている大御所様さえ、ご執心だったほどの名画だとか。
しかし、何しろ、それには、係わったものに、とんでもない不幸が訪れるという言い伝えがついていましたから、大御所様は、直接自分の手元に置くのを躊躇われ(ためらう)、自分の信用する譜代藩士の所にお預けになったという代物です」
「それを又どうして私どもの寺に?」と15代貫主。
「今は、こんな時代でしょ。幕府だって、明日は、どうなっているか分からないような時代です。
だから幕閣のお偉方様達が、その来歴の記録から、もしそれを幕府が持った場合は、幕府にその祟りの累(るい:かかわりあい、まきぞえ)が及ぶのではないかと怖気をふるってしまわれ(おぞけをふるう:恐ろしがっている状態)、私どもの所に奉納されたと言う訳です」
「へー、それで」と第15代貫主
「所が、ここの僧侶たちといったら、何しろ、頭の古い、頑固者の上に、臆病者ばかりでしょ。
その上、御仏に仕える身でありながら、今一つ、御仏のお力や、自分たちの祈願の力を信じ切ってない奴らばかりです。
だから、大御所様さえ、祟りを恐れられたような品を、受けるなんて、とんでもない。そんなものは、預かれないといって、幕府に、お返しせよだとか、どうしても受けざるを得ないというのなら、お寺の中に結界を張った場所をつくり、その中で、この軸は保管するようにして欲しいなどと、言ってきましてねー。
そりゃーもう大変でしたよ。
何しろ当寺の僧侶たちだけでなく、この境内にある、子院の住職達さえ加わって言ってきたんですから」といかにも、苦々しげに、続けられる、第14代貫主。
「それで、その軸は、今何処に保管されているのでしょうか」と第15代貫主。
「確か、この根本中堂の裏手にある書庫だったと思うが、どう、そうでなかったか」と振り返られ、第14代貫主は、後ろに控えていたお付きの僧侶に御尋ねになりました。ところが、
「さあ、確か、そうだったと思いますが、私、何しろその場所に近づいた事もありませんので」とお付きの僧侶の返事です。
苦笑い(にがわらい)をされた第14代貫主は
「この調子でしょ。僧侶のくせに、皆、迷信家ばかりで、怖がって、あの軸には誰も近寄ろうとしないんですよ。
そのせいで、私も、今だに、あの軸の中身の画を、見せてもらってないのです」とおっしゃいます。
「それで、あの軸を保管されるようになってから、何か変わった事でも起こりました?」と第15代貫主が御尋ねになりますと、
「そんな物、何も起こるものですか。保管する前も、してからも同じ。平穏無事。何も変わりませんよ。全く、静かなものです」と第14代貫主。
「そうですか。そのようなお話をお聞きしますと、その画、是非とも拝見したいものですな」と第15代貫主は、興味津々と言った顔で申されます。
「そうですなー、一度は御覧になられた方がいいのでしょうね。本物か、写しか、私には分かりませんが、もし本物なら、何しろ1500年以上も前の名筆で、中国八絶の一人と言われた、曾不興の手になるものですからね。
こういった美術品にご興味を持っておられるという、第15代さんなら、是非とも御覧になるべきでしょうね。
ただ、実際に御覧になろうとした時は、ここの僧侶たちがどう出るか、それがちょっと気掛かりですけどね」と第14代貫主。
「それと、その画、噂によりますと、じっと見ていると、そのうち、画が描かれている女人のあまりの美しさと、婀娜っぽさに(あだっぽい;美しくなまめいたようす)、魅了されて、それに、魂を引き抜かれてしまうそうですよ。だから、御覧になるとしたら、よくよくお気をつけになった方が良いかもしれませんね。何しろ第15代さんは、まだお若いですからなー」と冷やかすように付け加えられる、第14代貫主でした。

その48

清澄入道親王が、その軸をお開きになって、画を御覧になったかどうかは、記録に残されておりませんから不明です。
しかし15代貫主清澄入道親王と当時、上野の山に在った寛永寺をはじめとする多くの寺々が、その後まもなく起こった、旧幕府軍を主体とする彰義隊と薩長軍を主体とする新政府軍との戦い(上野戦争)に巻き込まれ、悲惨な運命を辿る事になった事は、衆目の(しゅうもく:多くの人々)の知るところです。
清澄入道親王が寛永寺貫主にお就きになった少し前頃より、新しい時代への流れは、急速にその速度を速めました。
清澄入道親王が、貫主に、お就きになったのと同じ年と月に(1867年10月)には、15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)は、大政を奉還。
更に、翌1868年4月10日、江戸城を明け渡しに及び、ここに250年以上続いた徳川家による幕藩体制は完全に崩壊、薩長による新政府が発足する事になりました。
しかし、この体制を承服できなかった、彰義隊をはじめとする、旧幕府軍兵士や、旧新撰組の兵士たちは、15代貫主、親王寺宮、清澄入道親王を擁立して、上野の山に立てこもり、最後の抵抗を試みました。
しかし圧倒的な武力、兵力を誇る大村益次郎率いる、新政府・討伐軍の前には抗すべくもなく、1868年7月、僅か一日の戦いで殲滅され、親王寺宮でもあった、清澄入道親王は、奥州、会津藩を頼って、落ち延びていく破目に陥ってしまわれました。
寛永寺を始とする上野の山の寺々の被害は甚大で、その戦いによって、寛永寺境内に在った寺の殆どが焼失してしまいました。
この時、燃え上がった寺々の炎と煙は、天を覆い、地を這い、まさに山全体が燃えているような有様だったと言われています。
中でも一際〈ひときわ〉高く燃え上がったのが、寛永寺根本中堂書庫から上がったと思われる火の手でした。
その勢いは強く、激しく、この世のすべてを焼き尽くし、天まで届くかと思われるほどだったと伝えられております。
遠くからこの戦いの行く手を眺めていた、江戸の町の人々や、逃げ伸びてきた寛永寺の僧侶たちの中には、この時、燃え上がった炎の中から、真っ赤な服を身に纏った女が現れ、真っ赤に燃え上がる髪を振り乱しながら、やや南よりの西の方向に向かって、舞うように、飛び去っていく姿を見た者がいたとの事です。
寛永寺に納められた西施像の軸の因縁を知る者達は、ある者は「ああ、これでやっと西施様の霊魂も、成仏され、西方浄土へと旅立って行かれたのだろう」と語り、ある者は、「西施様の霊魂は、これでやっとこれまで、閉じ込められていた、あの軸から解放される事が出来、懐かしい生れ故郷に向かって帰って行かれたのだろう」と語りました。

その49

後日譚
西施の怨霊の祟りの為かどうか分かりませんが、寛永寺は、上野戦争で焼失した後
根本中堂(ご本坊)跡地を含め、上野の山に在った寺々の敷地は全て、明治政府によって没収され、1873年には公園用地として指定されてしまいました。
これによって、1875年に、川越に在った喜多院(天海上人の住んでおられた寺)の移築による、本坊の再興が認められるまでは、寛永寺は一時廃寺状態となっていました。
また、15代、寛永寺貫主清澄入道親王は、落ち延びた奥州での戊辰戦争にも敗れ、
1868年9月新政府に降伏、1870年には還俗して、元の宮家に復帰、一時蟄居(ちっきょ:自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させること)させられておりました。
しかし、やがてそれも赦され、1884年、台湾征討軍、近衛師団長として台湾に出征されました。
ところが征途、台湾全土の平定を見ることもなく、マラリアの為、1895年、享年48歳の若さで現地にてお亡くなりになってしまわれました。
一部の人々が囁いていますように、そのような、清澄入道親王改め後白河宮靖人親王(やすひと親王:フィクションの中の人物名です)の台湾における病死まで、西施像の呪いのせいにするのは、その軸がもう、燃えて無くなってしまっている事から考えますと、思い過ごしかもしれません。
しかし、1500年以上もの間続いて祟ってきた、西施という女の呪いの強さから考えますと、そんな事は、絶対ないと、否定し切れないのは、私が、頑迷固陋な(がんめいころう:古い考えに固執し、新しい考えに馴染めない事)迷信家だからでしょうか。
これも仮定の話で、歴史上の出来事に、もしもはありません。
従って本当にそう言う事になっていたかどうかは、分かりませんが、
その軸を、上野の寛永寺に奉納する事を決めた際、それを推進する立場にあった老中の一人、御津藩主、山野忠常(註:フィクションの中の人物で、実在の人物ではありません)は、
晩年、「もしあの時、あの軸を、寛永寺にお納めないで、江戸城の書庫に収めていたららと思うと、考えただけで、ぞっとするよ。
こんな事を言うと、文明開化のこの時代、何をばかな事をと、今では軽蔑されるかもしれないが、江戸の町が火の海にならずに済んだのは、あの軸を、江戸城の書庫に収めさせなかったおかげだと、今でも、わしは信じているよ。
もし、そうしていたら、わしだって、今のように、無事に生きてはおられなかっただろう。
ほんに、女の恨みは恐ろしい。クワバラ、クワバラ!」と身近にいる者に、時々思い出したように、述懐される事があったそうです
江戸城が無血で新政府軍に明け渡され、江戸の町が焦土とならなくて済んだのは、紙一重の幸運があったからにほかなりません。
その時、交渉に当たった勝海舟は、後々、「万一の場合は、江戸の町を焦土にする事も覚悟して、西郷隆盛との交渉に当たった」と語っておりますから。
よって山野忠常の述懐を、あながち(一概に)迷信に憑りつかれた(とりつかれる)老人の戯言(たわごと:たわけた言葉、妄言)とは、言い切れないものがあるように思えてなりません。
終り。