No.180 廻る糸車、西施像奇譚 その1
(お祖母ちゃんの昔話、因果は巡る糸車より)
註1:西施・せいし・・・中国春秋時代、越の伝説上の美女の名前。
楊貴妃と並ぶ、中国古代における、傾国の美女の一人。
古代中国4大美女の一人で、彼女のあまりの美しさに、魚も泳ぐのを忘れ、沈んでしまったという伝説が残っている。
彼女、もともとは、貧しい洗濯女に過ぎなかったが、その美貌によって、越王、匂践(こうせん)に見いだされ、,越が呉に敗れた時、呉王、夫差の下に献ぜられました。
呉王、夫差は、まんまとその計略に乗せられ、西施の色に溺れ、政治を怠り、その結果、呉は弱体化し、後に越王に滅ぼされた。
呉の滅亡後は、彼女の美貌に越王、匂践が惑わされるのを恐れた、匂践夫人によって、皮袋に入れられ、長江に沈められたと言われておる。
更に詳しくは文の中ほどにある註をご覧ください。
註2: 奇譚(きたん)・・・世にも珍しい話、
このお話はフィクションです
史実、実在した人物、事件、とは全く関係ありません。地名についても、話しの構成上利用させていただいているだけで、そこに起こった実際の事件ではありません。
その1
郡上霧峰藩の商人(あきんど)丸喜屋藤兵衛は、集金の帰り、自宅への近道として選んだ林道で、道に迷って立ち往生してしまいました。
その道は、長良川の川下にある町や村へ出かける時は、郡上街道へ出るまでの便利な脇道として、いつも使っている、通い慣れた道でした。
ただ、その道は、鬱蒼と茂る木々で覆われ、昼でもなお薄暗い所があり、さらにその木々の梢からもれ込む木漏れ日を頼りに、地面には笹竹や、灌木がびっしり生い茂っていて、それらが、その林道の中まで入り込み、道を狭めたり、塞いだりしていて、行き先を惑わせます。その為、古くからの、町の住人たちでさえも、滅多にこの道は、使っていません。
藤兵衛もまた、その道は、日が未だ高い間だけしか、利用しないようにしておりました。
その日も、藤兵衛としては、日が暮れる前に、家に辿り着く心算でした。
その為、それに合わせて、その前の晩に泊った、関の宿は、早めに出立(しゅったつ:出発すること)しました。
所が途中立ち寄った、上有知(こうずち:今の美濃市)での商談に、思わぬ時間をとられ、郡上街道から逸れて(それて)、この林道に入った時にはもう既に、日は、かなり西に傾いておりました。
藤兵衛とその手代(てだい:使用人)、そして用心棒の三人は、道を急ぎました。
しかし秋の終りは、特に山中ではそうですが、日の落ちるのが早く、予定の半分の道のりも行かないうちに、すっかり日は暮れ、辺り一面が、すっかり闇に包まれてしまいました。
その上、悪い事に、彼らがその道に入って、間もない頃から、辺り一面に霧が立ち込め始め、その濃さは次第に増し、日がすっかり落ちる頃には、厚い雲の中に入った時のように、三尺(約一メートル)先も、見えないほどになっていました。
そんな霧の中を藤兵衛は、自分の勘と経験だけを頼りに、自宅の方向へと、道らしい場所を手探りで探しながら、笹竹や灌木を押しわけ、押し拡げ、進みました。ともかく前へ、前へと進みました。3人とも無言でした。
所が、しばらく進んでいるうちに藤兵衛は、後ろから付いてきているはずの使用人達の気配が、全く感じられなくなっているのに気付きました。
慌てて、振り向いた藤兵衛の目に入ってきた物は、暗闇の中に拡がる、深い霧の世界だけでした。
大声で呼びかけても,返ってくる声はありません。手探りしながら後戻りしても、そこに人の身体を触れる事は出来ませんでした。
藤兵衛はいつのまにか自分が、この霧の深い夜の山中に、たった一人、取り残されてしまった事を悟りました。
遠くから聞こえくる、山犬の(註:昔は日本狼の事を、このようにいっていました)遠吠えが、不気味に耳に響きます。
気の強い藤兵衛もさすが慌てました。
こんな深い霧の中、方向も分からないままに、夜の山中を、闇雲(やみくも:むやみやたら)に歩きまわるのは大変に危険です。
滑落の危険性もありますし、転倒して大怪我をする危険性だってあります。
また動き回る事によって、ますます深い山の中へと迷い込んで、体力を消耗し尽くし、たあげく、衰弱死をした人達の話も、これまで、よく耳にしていました。
だからと言って、身を隠す物一つないこんな場所で、じっと一ケ所に留まっていれば、立ちこめる霧によって、衣服が、ビッショリ濡れになり、それに、秋の終りの、山中の冷え込みが加われば、凍死の危険性が出てまいります。
また、山犬や、クマに襲われる危険も否定できません。
進退きわまり、途方に暮れている藤兵衛に、はっきりとした形をとらない恐怖がジワリ、ジワリと襲ってまいりました。
その2
丸喜屋藤兵衛は、郡上霧峰藩の城下町、鶯谷地区に在る古刹、慈恩院の門前町、乙姫横町に店を構えている商人(あきんど)です。
米、楮(こうぞ:樹皮が和紙の材料となる)、麻、繭、木材、木炭、たばこ等と言った霧峰藩内の産品を、長良川を利用して、上有知(こうずち=今の美濃市)、関、岐阜、桑名等と言った川下の村や町に運んで、そこの商人達に売り捌き、代わりに、酒、塩、その他の食品、布。衣類、刃物、農機具、紙、化粧品などといった日用雑貨を仕入れてきて、藩内の小売店へ卸し売りしする事を表向きの生業(なりわい)としております。
藤兵衛は、もとはこちらの人ではありませんでした。
今から20年ほど前、江戸からこの地に流れてきた、勘助と言う得体の知れない男です。
いろいろと噂はされていましたが、出自(しゅつじ:うまれ)が何処で、江戸の町で何をやっていた人間かと言う事についての、本当の所は、誰も知りません。
でも、トラブルがあった時などに見せる、一言で、人を震え上がらせるようなドスの利いた声だとか、人を震え上がらせるような、冷酷そうな、鋭い目つきは、彼がまともな道を歩んできた人ではない事を物語っておりました。
だから、それを一度でも目にした人達は、怖がり、警戒して、近づかないようにしました。
そして、そういった人の中には、いろいろな噂を流す者もいました。
しかし、そう言った真っ当でない人生を歩いてきた人にありがちなように、勘助は、平生、人に接する時には、別な顔を持っておりました。
すなわち人懐こそうな笑顔だとかと、柔らかな物腰、そして丁寧な言葉遣い、気風(きっぷ)の良さなどと言った顔を、合わせ持っていました。
そして、平生は、そう言った顔しか、人に見せませんでしたから、酷い目にあわされた事のある人以外は、良くない噂があるにも関わらず、普通に付き合っておりました。
その3
江戸での勘助は、霧峰藩の家臣、上村伊織家の日雇い小者として仲間(ちゅうげん)小屋の一角に住まわせてもらっていたのは確かなようです。
しかし、時は江戸時代も末期近くで、江戸幕府による、米穀の出来高を基準とする、禄高(ろっこう:給料)性経済は行き詰まりをみせ、幕府は言うまでもなく、殆どの藩の財政が破綻(はたん)寸前の状態となっていた時代でした。
繭山幸直(まゆやまゆきなお)を藩主とする郡上霧峰藩も、その例外ではありません。
財政は逼迫(ひっぱく)し、借入金は増大の一途をたどり、まさに破たん寸前と言ってもよいような状態でした。
幸直は、財政立て直しのために、検見法の採用徹底と年貢の値上げ、藩内産品の取引にかける、取引税の増税等によって、収入の増加をはかると同時に、藩の経費を減らす為、
藩主自身も、その職に居る為に、余分の経費のかかる、幕府の寺社奉行職や、奏者番(そうじゃばん:江戸幕府の役職、大名や旗本が将軍に謁見する時、姓名進物を披露し、下賜物を伝達する取次役)と言った、役職を辞任し、更に、一部家臣の解雇や、解雇をまぬがれた家臣達の更なる減石(げんこく:禄高の減額)などを行う事によって、藩の財政収支の改善を図りました。
これによって、それまでの減石よって、既にぎりぎりの生活を強いられてきた、霧峰藩の家臣たちの家計は、一層苦しくなりました。
殆どの家で、足軽、仲間、小者、女中と言った、下働きの使用人達の人数減らしが行われました。
勘助もこの時、これによって辞めされた使用人の一人でした。
辞めさせるに当たって当主、上村伊織は、辞めさせる使用人達の便宜を図って、全員に、請人証を手渡してくれました。
その時の勘助は、上村家の使用人と言っても、正式の使用人ではありませんでした。
それより遡る事、数年前のことです。
勘助が20歳の時、故郷での居候生活の未来に絶望して、江戸に出てきたときの事です。故郷からでてはきたものの、手に職を持っているわけではなく、しかも、何の伝手(つて)も、もたない田舎者の勘助を、雇ってくれるところなどありませんでした。
途方に暮れていたその時、たまたま誘ってくれたのが、今一緒に、上村家の仲間小屋の一角に住んでいる男でした。
この男の紹介で、仲間小屋に無料で住まわせてもらえるようにはなりましたが、上村家に、正式の使用人として雇ってもらえたわけではありません。
お伴の必要が出来た時だとか、力仕事や、汚れ仕事をする人間が必要といった、臨時の用事が出来た時だけ、日当で働かせてもらっている、臨時雇いにすぎませんでした。
従って、お金は持たないけれど、時間だけは、たっぷり持っているという生活をしていました。
一般にそう言う生活をしていると、小人(しょうにん:君子に対する言葉で、仁徳や知識のない人の意・・出展は論語)は碌な事をしません。不善をなしがちです。
その日その日を食べていくためには、善悪を言っておれません。例え悪い事で有ろうと、良心に痛みを感じる事もなく手を染められるようになりがちです。
また明日に希望の持てない生活は、人を刹那的にします。そう言った人達に、もて余すほどの時間を持たせれば、よからぬ遊びに時間を費やすだけです。
(註:当時、こういった男達の遊びとは、博打と、遊所通い(ゆうしょがよい:遊郭、遊里の巷)と大体決まっていました。)
勘助の場合も例外ではありませんでした。同じような境遇にある、他所の家臣の小者だとか、仲間達、そして街の遊び人や無頼の徒などと群れて、一般社会の人間には許されないような、悪事や、遊びといった自堕落な生活を送っておりました。
所が、幸いな事に、勘助の、そんな一面をまったく知らない、上村伊織は、他の辞めさせる事になった使用人達と同じように、口入屋(くちいれや:奉公人などの紹介する仲介業者)に差し出す為の請人書を、彼にも渡してくれました。
続く