No.178 一粒の米にも その13
このお話はフィクションです
その47
如水上人がお発ちになるとすぐ、祐貞はお米を伴って、桑名の廻船問屋を訪ねました。
二人は、今回は、きちんとした返済をしてくれる日付についての、確約を貰わない限り、家に戻らないくらいの悲壮な決心で出かけました。
しかし、行ってみると、案ずる事はありませんでした。
訪ねていった二人を見た問屋の主人は、さっそく二人を奥の座敷に招き入れると、
「長い間、有難うございました。お陰で、私の所も、何とか盛り返す事もできました。お金も約束通り、お払いさせて頂きます。
本当に有難うございました。
本当は、近々お訪ねするつもりでおりましたのに、わざわざお越しいただきまして、誠に申し訳ありません」と言って、すんなり、約束通りのお金を、返してくれたばかりか、
大金を持ち歩いては物騒だからと言って、使用人を2人も付け、その人達に金を持たせて、川船で家まで送り届けてくれました。
門の所まで見送って来た、廻船問屋の主人は、最後に、「私どもが、今日あるのは、あの時、お待ちくださった、貴方様のお父様のお陰でございます。
あの時、貴方様の所もお困りの事、重々承知しておりましたのに、こちらも、のっぴきならない事情が出来てしまったものですから、御無理を言ってしまいました。
無理なお願いであったにもかかわらず、それをすんなり聞き入れ下さって、本当にありがたい事でございました。
しかしその為、貴方様方は、随分、お辛い目にお遭いになったことでございましょう。
本当に申し訳ありませんでした。
今度は私どもが、その恩を、お返しする番でございます。
今回、貴方がおやりになろうとしている事業が、このお金で足りなかった場合は、少しばかりでしたら、無利子で用立てさせていただく心算でございますから、どうかその時は遠慮なく、お訪ね下さい」とまで言ってくれました。
その48
それからさらに、8年ほど歳月が流れた、12月の初めの事です。
米の取りいれも終わり、農作業が一段落したその日、以前、8代目観佐衛門を仮埋葬しておいたその場所で、ご先祖供養を兼ねた、8代目観佐衛門の本葬と、弘法大師を祀るお堂の落慶法会並びに、その中に祀られることになっている、弘法大師像の開眼供養が、如水上人の手で、執り行われる事になっておりました。
式場の真正面に座っている青木祐貞改め祐佐衛門、お米の間には、可愛らしくて、利発そうな男と女の二人の子が座り、親子4人の両脇には、祐佐衛門夫婦が、実の親のように慕い大切にしている、 吉六、お兼の二人が正装して、如水上人の到着を待っております。
彼等の回りには、本日の式典に招待を受けた近在の地主たちや、祐佐衛門の小作人たちが、次々に挨拶にやってきて、座を暖めている暇もないほどです。
やってくる人達は皆、豊かそうな服装に身を包み、どの顔も幸せそうな喜びの微笑を浮かべておりました。
始めは独身で入植してきた農家の二、三男坊達でしたが、今では既に結婚して、子供を設けている者もすくなくありません。
貧しい農家の二、三男坊として生れ、嫁を貰うこともできずに、居候のまま、一生飼い殺しで、終わらねばならない運命(さだめ)だった彼らが、妻を娶り(めとり)、子を設け、親を呼び寄せられるほどの幸せを掴む事が出来たのは、全てお大師様と、如水上人様、そして祐佐衛門夫妻のおかげです。
彼等にとっては、如水お上人様は、まさしく生き仏様であり、祐佐衛門夫妻は親にも優る大恩人でした。
しかし、人々がそれを言うと、如水上人は、
「私はまだまだ,未熟な修行僧にすぎません。そんな身を、お大師様のお名前と並べるなどというのは、とんでもないことでございます。そんな畏れ多い事は、どうかお止め下さい」
「私がこの度、ここの治水事業に関わらせていただく事になったのも、それが上手く行きましたのも、全てお大師様のお導きによるものにすぎません」と言われて、この話を打ち切ってしまわれるのが常でした。
だから、この村には、土手にも、ため池にも、用水路にも、どこにも、如水上人のお名が残されてはいません。
後に祐佐衛門、お米夫婦が、弘法堂の中に密かに祀った、托鉢僧姿の無名の僧侶像に如水上人の面影が、唯一残されているだけです。
しかし村人たちの、如水上人を敬い、慕う気持ちには変りありませんでした。
朝には、家族全員で、お大師様と、如水お上人様に対して、その日一日の無事を祈り、夕べには、その日一日が、何事もなく無事に終わった事への感謝の祈りを捧げる事を怠りませんでした。
会場は、小作人達の家族を始め、その親戚、そして、今弘法との評判の高い、如水上人様を、一目、拝みたいと願って集まってきた、近郷、近在の人々で、溢れ、お堂の境内だけでは入りきれないほどとなっておりました。
次から次へと押し寄せる人の波は、そのお堂に通じる道の全てを埋め尽くし、立錐の余地もない有様でした。(註:立錐の余地もない・・密集し極めて混雑している様)
お上人様のおかげで、頑丈な堤防が完成しました。
村人たちはもう今日では、よほどの事が起こらない限り、水害を恐れる必要もなくなりました。
用水路も、全ての田に通じるようになり、それに水を供給する為の溜池も完成しましたから、大干ばつにでも襲われない限り、水田に引く水に困る事もありません。
今ではこの村は、近郷の人々がうらやむほどに恵まれた土地に変わっておりました。
新たに作られた土手に上がって見下ろせば、最悪の水害に備えて、やや小高く土盛りされた住宅地用の土地には、既に、バラックに混じって、本格的な藁葺き屋根の家もちらほら、姿を現し始めておりました。
如水上人が交渉して下さったおかげで、10年間は、年貢を全額、免除されることになっておりますから、その分、祐佐衛門に支払う地代も、他地区の人より、安くなっています。だから、小作人達の懐も他の村の人々より多少、ゆとりがありました。
しかも、各小作人が、借りる事が出来ている土地の広さも、後々、妻や子供が出来てからでも、一家で生活するには充分過ぎるほどの広さが与えられております。
その為、早く開墾を終わって、借りた土地全てに、作付を済ませた者達の中には、既に、住居を構えたり、親を呼び寄せたり、お嫁さんを迎えたりする余裕の出来てきている者も、少なからずおるようになっていました。
子供のいない、吉六、お兼夫婦は、自分の家を、別に構えることはしませんでした。祐佐衛門夫婦に勧められるままに、祐佐衛門の家に数部屋を与えられ、隠居の身分として、そこで気侭(きまま)に暮らすようになっておりました。
しかし働き物の吉六は、仕事から、離れられなかったようで、祐佐衛門や、お米が止めるにもかかわらず、時々、祐佐衛門家が作っている、田や畑に出て、祐佐衛門に使われている作男達を指導したり、監督したり、自らも作業に参加したりしておりました。また、あちらこちらの部落を回り歩いて、経験の浅い、若い小作人達の相談にのったり、指導したりもしておりました。
若くて、経験の浅い小作人達にとっては、それはとてもありがたい存在でした。
今では、吉六は、この地での農業の大先達として、指導者として、なくてはならない存在となっていました。
お兼の方もまた、隠居したからと言って、家の中で漫然と過ごしてはいませんでした。
家の中に、お大師様を祀る一室を作り、在家の身ではありましたが、そこに、夜になると村人達を集め、御大師様の徳を称え、お大師様のお導きによって、会得する事が出来た教えを、広める事に努めていました。
彼女は、
「人も又、この世にある、他の生き物達と同じように、神仏によって生かされている、明日の身も分からないような、か弱い存在の一つにすぎません」
「それ故に、人は誰もが、神仏の御加護無くしてはこの世で、生きてはいけない存在です。
従って、人は常にそれを思い、神仏に感謝し、その恩に報いるよう、努め続けなければならないのですよ」と言う事や、
「この広大無辺な神仏の愛を受けとめる為には、自分たちもまた、それに相応しく(ふさわしい)あるよう、襟を正して行動しなければなりません」
即ち、「わたしたちは、他の生き物の助けや、その命を貰う事なしでは、生きて行く事が出来ない存在である事をよく自覚し、すべての命を大切にし、必要な時以外には、無暗(むやみ)に他の生き物の命を奪わないように心掛けるべきです」
また、「今述べたように、私たちが手にし、口にする全ての物は、他の生き物の命そのものであるか、または、その生き物達が命を紡いで(つむぐ)いく上でとても大切な物です。
人はそれを頂戴して、己の命を紡いでいるのであるが、それが人の手に渡り、利用出来るまでには、或いは口に入るようになるまでには、更に、非常に沢山の人の手や、汗と脂が入っている事をよく認識し、一粒の米、一本の糸といえども、これを粗末にしないように心がけねばなりません。
そもそも、物を粗末にするという事は、神仏の恵みを嘲笑うことであり、また他の生き物達から、彼らが、それを利用して、命を繋ごうとする機会を、奪っている事に他なりません。それをよく知って、日々の行動に誤りなきよう心掛けてください」と言う事などを話して、皆さんを導いておりました。
またお兼は、不幸に苦しんでいる人を見ると「この世は、輪廻転生を繰り返しながら、永遠の命を保ち続ける魂が、修行の為に一時的に滞留する、仮の世にすぎません。
人は、この世に置いて、いろいろな不条理な事や、不幸な目に遭うこともあるかもしれません。
しかしそれは、その人の魂が仏の座に近づく為の試練の一つです。
だから、その事をよく理解し、四苦八苦を超越し、我欲を捨て、仏を信じ、ひたすら善根(ぜんこん=良い報いを招く元となる行為のこと)を積むよう心掛けてください。
そうする事によって貴女は救われます。
万一現世においては報われなかったとしても、来世においては、必ず幸せな世を送る事が出来ますからね」などと言って、不幸に苦しんでいる人々を導き、救いあげるのを日課としておりました。
なお余談ですが、大師堂完成後は、お兼は、その堂守として、大日如来の広大無辺な慈悲のお力と、お大師様の起こされた、数々の不思議や、如水上人のお身体を借りてお授けになった村人たちへの恩徳について語る、語り部として、生涯を終えました。
次回、最終回へ続く