No.172 一粒の米にも その7
(おばあちゃんの昔話より)
このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物とは無関係です
その21
戻ってきた観佐衛門は、なおも、お金を貸してくれる人を求めて、あちらこちらを駆けずり回りました。
しかし、このような、水害で荒れ果てた農地の所有者に対して、お金を融通してくれるような奇特な人は現れませんでした。
無論、お金を借りる際、廻船問屋に委任してある莫大な運用金の話しもしました。しかしそんな不確実で、しかも危ない話なんかに、耳を傾けてくれる者は、何処にも現れませんでした。
そこで、せめて仮提(仮の堤防)だけでも、梅雨が来る前に完成させようと決心した観佐衛門は、各部落の主だったものを集め、計画を話し、一家に最低一人はこの作業に参加するよう求めました。
しかし、村落の人々の中には(ほとんどが、8代目観佐衛門の小作人でしたが)今回の水害によってあまりにも大きな被害を受けた為、このままこの部落に留まった方が良いか、それともこの部落に見切りを付け、他へ移ろうか、と迷っている者が少なからずいました。
地主と小作の関係は、田畑の貸し借りがあってこそ成り立つ関係です。
小作達は、耕地を借りていたいが為に、地主の言う事を聞き、頭を下げているに過ぎません。
農地を借りる必要がなくなれば、下手(したで)に出る必要を感じません。
今回のように、もう農地を借りるのは止めにして、他所に移っていこうと考えている者たちが沢山いるようになりますと、地主の威光は及び難くなります。
以前なら(それは観佐衛門家が隆盛な時ですが)、否も応もなく、二つ返事で受け入れていた観佐衛門の要請でしたが、今回はすんなり聞き入れてはくれませんでした。
集まった部落の者たちは、部落の人々の生活が今は大変である事を理由に、賃金無しで、川の水の締め切りと、仮提建設作業の様な労役に駆り出される事に難色を示しました。
彼等は代表者を立て、「今はこんな状態で、私たちは、大水で被害を受けた家の中の整理だけで手いっぱいでございます。
しかも今度の水害で、家の中の物の殆どが、駄目になってしまっています。
その為、今日では、その日、その日を凌いでいくのだけで精一杯でございます。
今度の工事が、村人たちの為の緊急を要する工事である事も、私達村人の為の工事である事も、よく分かっております。
しかし、今申し述べましたように、私どもの家の状態が、そのようでございますから、いくら地主様のお頼みでも、日当無しの仕事に出るわけにはまいりません。
そもそも、今回、被害に在った土地の殆どが、地主様のものでございましょう。
そうなりますと、地主様が、身銭を切って、小作である私達を、お助け下さったとしても、罰が当たらないのではないでしょうか」と言って、すんなり応じてはくれませんでした。
そこでやむなく、400文(今の8000円ほど)の日当で、近在の部落からも人足(力仕事に従事する人)を集め、工事を進める事にせざるをえませんでした。
その22
仮提の完成した夜、あの大川の氾濫の日以来、金策に、藩への陳情に、工事の監督に、と殆ど不眠不休で、先頭に立って働いていた観佐衛門が、突然亡くなってしまいました。
お風呂からあがって、久しぶりの休息を楽しんでいた時、突然、激しい胸痛に襲われ、そのままあの世へ、と旅立ってしまいました。
その夜、機嫌良くお酒を飲んでいた観佐衛門が、
「まだこの辺りの部落には、予備として、苗床に放ってある晩生稲の(おくて稲)苗があるはずだ。
それを集めてきて、駄目になった苗の後に捕植すれば、今年もなんとかなるだろう。
明日は、小作人を2,3人つれて、出来るだけ沢山、予備の苗を買い集めてこようと思う。
祐貞、お前もついてきておくれ。
小作たちにも、充分配ってやれるほど集められるといいのだけどなー」と語っていたのが最後の言葉でした。
しかし観佐衛門は、洪水の後始末にとんで歩くようになった頃から、自分の運命をうすうす感じていたようでした。
奥様が無くなった後、家の財布の一切をまかし、執事のように、家の中のきりもりをさせていたお米には、
「私に万一の事があった時は、祐貞の事、くれぐれも頼んだぞ。
あいつは人が良過ぎる上に、世間の事を、未だ何にも知らないからなー。
もし私に何かがおこり、あいつだけに、任せなければならないような事になったら、今のままのあいつでは、この家は持つまい。
腹の内を容易に見せようとしない使用人や小作達を使いこなしていくのは容易なことじゃーないし、
家をやっていくためには、頭を下げて歩かなければならない事も出てくるであろうが、今のあいつじゃ、そんなことだって、出来っこないだろう。
更に、私がいなくなり、あいつ一人になったとすると、上手い事言いながら、近寄ってくる奴らに、いいようにされてしまうのではないだろうか。
何しろあいつは、人が良いからな。」
その23
父観佐衛門の突然の死に、祐貞は頭を抱え込んでしまいました。
8代目勘左衛門が作っていった仮提は、その年の梅雨はなんとか乗り切る事が出来ましたが、あまりに急ごしらえだった上、そういった工事の経験のない者達ばかりによる仕事だった為に、その年の8月の終わりに訪れた台風に、耐えられませんでした。(註:当時でもこういった工事には、今でいう土木技師みたいな精通している人がいて、その指導のもと、行われるのが普通でした)
濁水は、普通の堤防よりやや低く、未だ仮ごしらえだった新しい堤防を難なく乗り越え、削り落とし、祐貞達の村落を再び水浸しにしてしまいました。
切れた堤防から流れ込んできた濁水は、前回の水害後も、この村落に残って頑張っていた人々の家も、そして田も、畑も再び呑み込んで、大量の塵、砂礫を含んだ、泥水の下に沈めてしまいました。
村落の土手はあちらこちらで寸断され、前回の氾濫で抉り(えぐり)取られた決壊部は、さらに大きくなり、土手は、広範囲に亘って(わたって)、形すら無くなってしまいました。
しかし祐貞の手元にはもう、切れた土手を修理するお金どころか、今度の台風によって家が水に浸かったり、流れてしまったりして困っている人達を当座に救済するお金すら、殆ど残っていませんでした。
殆ど用をなさなくなってしまった土手を見た村の人々は、ただ茫然とするばかりでした。
殆どの住人が、今後どうしたらいいのか、見当もつかなくなっていました。
そうかといって、こういうときに頼りになった地主の観佐衛門は、亡くなってしまって、もういません。
村人たちは、唯、思い悩むばかりでした。
その24
急逝した父親を、内輪だけでの仮の埋葬で済ませ、
父親が亡くなった翌日から、苗を買いに走りまわり、やっとの思いで集めてきて作った稲も、開花期を前にして訪れたこの台風によって、穂を出したまま倒れ、水に浸かって(つかって)しまいました。
(註1:葬式に時間をとられていると、作物を作付する時期を逃してしまう恐れがありましたから仮葬ですませました)
(註2:本葬は、取り入れが終わった後、すなわち秋まで待って行う予定でしたが、実際には、いろいろあり、それも後回しになってしまって、本葬が実際に行われたのは、十数年後となってしまいました)
前回の水害による用水路の損傷から、今年の稲作は無理だというので、代わりに慌てて作付した粟や高黍(きび)等といった、お米に替る作物も、収穫を前にしての、この台風の襲来によって、半分以上がなぎ倒され、その上、続いて起こった川の氾濫によって、実って間もない穂先が、水に浸かってしまいました。
自分が生まれて初めて作った稲も(水害で枯れたり弱ったりしてしまった苗を取り除いて、新しい苗に植え替えたのですが)、粟や高黍も、全てが水に浸かってしまっているのを見た祐貞は、全身の力が抜けてしまいました。
父親が、殆ど全財産と言っていいほどのお金をつぎ込んでまでして作った仮提は、呆気なく流され、跡形もなくなってしまいました。
前回の水害後、慌てて補充して植えた稲も、種をまいて作った粟、高黍も、収穫の時を目の前にして、泥水の下になってしまいました。
蛭に血を吸われながら行った田植え、真夏のカンカン照りの中、腰の痛みを堪え、汗まみれになりながら行った何度もの草取り、朝晩見回ってきた水の管理などといった3カ月余の懸命の努力が、たった一度の台風によって報われる事もなく、流されてしまいました。
前回の洪水後、荒れ果てていた土地を、片付け、耕し直してまでして、作付した粟や高黍も、ほかの野菜も、これまでの努力の全てが、水に流されてしまいました。
「この3カ月余、一体、自分は何をしていたのだろう。これまでの努力や苦労は何だったんだろう」
と考えると、祐貞は何もかにもが、虚しく、何をする気にもなれなくなってしまいました。彼にはもう、動く気力すら残っていませんでした。
唯唯、ぼんやりと、村を覆っている泥水を、眺めておるだけでした。
その25
話は少しさかのぼりますが、
観佐衛門が亡くなるとすぐ、お米は、それまでこの家に仕えてくれていた、作男達や、女中たち全部を集めました。
そして「みなさん、これまでいろいろありがとうございました。さて皆さんも薄々、お察し下さっているのではとは存じますが、今のこの家の経済状態では、これ以上皆様方に働いてもらっているわけにはまいりません。
皆さん方もご承知のように、蔵の中のお米や、雑穀類も、先般の洪水時の炊き出しや、村人達への配布によって、間もなく底を突きます。
お金も堤防の修復や、小作の人達に貸した苗の代金や、種の代金の支払いで、使ってしまって殆ど残っておりません。
このままここに留まっていただきましても、来月からは御給金を、お支払いできません。
今までいろいろ尽くして下さいました皆さん方に、こんな事を申しますのは、誠に心苦しいのでございますが、この月をもってお辞めいただかざるをえません。
どうか事情をお察しくださいまして、よろしくお願いします。
なお、こういったお話は、本当は若旦那様から言って頂くべき事だと言う事は、重々分かって居るのでございますが、長年お世話になってきた皆さん方に、そんな薄情な事は言い辛いとおっしゃるものですから、私のようなものが、代わりに言わせていただくことになりました。
失礼な点はくれぐれもお許しください。
なお、こんな状態でございますから、長年お勤めいただいた皆様方に、何もして上げる事はできません。
せめてものお礼の印に、旦那さまや、奥様の着ていらっしゃった、お着物を、差し上げたいと若旦那様が申されておりますが、いかがいたしましょう。
よろしかったら、この家をお立ち去りになる前、奥の部屋にとりにきて頂きたいと思います。
皆さん方夫々に、似合いそうなお着物を2、3枚ずつ、選んでありますから」と申し渡しました。
(註:その当時は、こういった地主の来ていた着物は絹織物が多く、古着であっても、結構なお金になりました)
祐貞の家の懐事情を薄々感じていた使用人達は、こういう話が、早晩出てくるであろう事を、みんな覚悟していました。
だから、この話が出てきたからといって、別に驚きも、慌てもしませんでした。
また若旦那の気性や、これまでの経緯から考え、そういう話をする役は、お米だろうと、うすうす思っていましたから、それを特別咎めだて(とがめる)する者も出ませんでした。
むしろ、そんな役割を果たさねばならないお米に同情して、
「偉いねー、お前、せいぜい頑張るのよ」だとか
「お前、貧乏くじを引いたわね。可哀そうに。いくら旦那様に御恩になったからと言って、こんな中身も、ろくすっぽ入ってないような財布をまかされても、迷惑よね-。
そんな役回り、早く見切りをつけて、これからの自分の身の振り方を考えなさいよ」
「お前、この家に留まると言うの。
ならせいぜい頑張るといいわ。
でもね、情に流されて、道を間違えないようにね。
お前が、旦那様の遠い親戚と言うので、旦那様御夫婦に、特に目を掛けてもらっていたのは知っているよ。
だからといって、おまえは、あくまでこの家の使用人でしかないのだからね。
ここに最後まで残って、この家の面倒を見なければならない義理は無いのよ。
お前の器量なら、これから先、お前をお嫁に欲しいと言ってくれる人も一杯出てくるだろうね。
その時、自分の先行きをどうするかについて、今から考えておきなさいよ」だとか、
「いまの状況だと、この次訪れる水害によって、この家も含めて、村そのものがなくなってしまうかもしれないのよ。
今はまだ、この家、少し高い所に建っていたから、洪水から免れる事が出来ているけど、堤防を直せないようなら、早晩この家だって、危なくなるのよ。
命が惜しかったら、ここで辞め、皆と一緒に、逃げ出した方が、貴女自身のためよ。
情にほだされ、今ここに残るという選択をしたら、後々後悔する事になるわよ。
余計に辞め難くなり、この家と、共倒れという事だってあるんだから」などなどと言って、くれました。
しかしお米の決心は変わりませんでした。
あれほど可愛がってくれた亡き観佐衛門御夫婦のご恩に報いるためにも、何があろうと、
旦那様のお頼みどおり、若旦那様が頑張っておられる間は、彼についていこうと思っていました。
だからみんなの言葉には、何も言わず、ただにっこり笑って、頭をさげておりました。
その日を境に、使用人達は、一人去り二人去りと、辞めて出ていきました。
そしてその月の終わりまでには、殆どいなくなってしまいました。
続く