No.151 ある文化人の転落の軌跡 その4
このお話はフィクションです似たような事件、地名、人物が出てきたとしても、偶然の一致で、実際の事件人物とは全く関係ありません。
その11
弱り目に祟り目とはよく言ったもので、美術館の運営経費に困っている所へ、さらなる難題がもちあがってまいりました。
“花咲かおる”のお兄さんから、「直ちに、原画の賃貸使用料を払って頂きたい。もしこのまま支払って頂けないのであれば、展示してある絵画は、ことごとく引き上げさせていただきます」と通告してきました。
花咲画伯のお兄さんとしては、最初、美術館設立の話がもちあがった時の話から、美術館の開館後は、かなりの額の原画貸付料金が入ってくると思っておりました。
所が、美術館が立ちあがって一年経っても、一円のお金も、入ってこないものですから、腹を立ててしまいました。
「てっきり、(井田氏に)騙された」と思いました。
お兄さん、最初は、弟(花咲かおる)の遺した挿絵原画に、それほど価値があるとは思っていませんでした。
だから、興味もなく、それらは、押し入れの中に放りっぱなしにしてありました。
ところが、それらの絵が発見された時、新聞の地方版にのったことにより、沢山の人が、それを見る為に訪ねて来、更に、見に来た人達は口々に、その(花咲先生の挿絵原画の)素晴らしさを絶賛していったばかりか、最後は、美術館を作る話さえ持ち上がったのです。その為、お兄さんは、この絵に大変な金銭的価値があると誤解してしまいました。
(註:この時、集まってくれた人たちが絶賛したのは、この原画の、金銭的価値と言うより、資料的、芸術的価値を認め、絶賛したものです。それは必ずしも、イコール金銭的価値と言う訳ではないのですが、業界の事情に詳しくない花咲画伯のお兄さんには、そんなこと分かるはずがありません。彼は、この挿絵原画には、随分な金銭的価値があると思いこんでしまっていました)
その12
井田氏は、さっそく花咲先生のお兄さんの所に出かけ、美術館の現状を説明し、使用料の支払えない理由を理解してもらおうとしました。
しかしここ何年間も、ほとんど寝たきりで、世間の状勢を知らないお兄さんに、それを理解してもらうのは、とても困難でした。
「貴方はいろいろおっしゃるけど、あの原画が発見された時、見に来た人達はみなさん、私の弟の絵画には、大変な価値があるとおっしゃってくれましたよ。
それをお貸しているのに、一円も払っていただけないのでしたら、私としては、もう、そんなにまでして保存していただかなくてよろしいから、希望者があったら、その人に譲りたいと思います。
なにしろ私、こういう状態で、人にお世話にならなければならない身ですから、お金が要ります。
しかもこの後、寿命もそれほどないと思います。
でしたら、弟の遺してくれたもので、すこしは良い思いをさせてもらっても、罰は当たらないと思うのです」とお兄さん。
「いや、そうはおっしゃいますが、あれだけの絵です。それをまとめて買って、きちんと保存してやろうという人は、そうはいらっしゃいません。
まして美術館を始めてしまった今では、もしお買いいただいたとしても、その人に一定期間は美術館に展示してもらわなければなりません。そうなりますと、買う人はますます限定されてしまいます。
ですから、買い手を探すのがとても難しいのが現状です」と井田氏
するとお兄さんは、
「でも美術館設立のお話が出た時には、月々かなりの賃貸料金をお支払い頂けるとのことでしたでしょ。
それが、殆どいただけないというのでは、契約違反です。
それなら、私としては、お貸ししてある絵画は引き揚げさせてもらい、当方で売る段取りをつけさせてもらっても良いと思っているのですが、それは駄目とおっしゃるのですか」
「もしそうなら、どうしてだめなのでしょう?」とお兄さん
「確かに、開館以来、全くお支払いしていないのは、誠に申し訳ないとは思っております。
しかし契約では、最低5年間は借りられる契約になっております。また借り賃は、月々の、利益の10パーセントお支払いする事になっておったはずです。
従って、先ほど、帳簿をお見せしてご説明いたしましたように、利益が全く出てないのですから、お金を支払わないからと言って、契約違反とは言えないと思うのですが」と井田氏。
「理屈ではそうかもしれませんが、最初の説明とあまりに違うというのは、おたくたちの見込み違いによるものですから、その点では、全く責任がないとはいえないのではないでしょうか。
第一、私、貴方方(あなたがた)の最初の説明から、それを当てにして、お金を使ってしまいました。
所が、話が違って、それから一円も入ってこないものですから、困っています。
今後の事を考えると、不安でなりません。
もしまとめてでは、すぐに買い手が見つからないとおっしゃるのでしたら、
私としては、一部を、バラ売りにしてもらっても、一向にかまいません。
何でも良いから、ともかくお金にして下さい。あれだけ沢山あるのですから、1,2枚くらい抜きとって売ったとしても、或いは、1シリーズくらい売ったとしても、他から分かるはずがありません。
ですから、そんな風に売っても構わないんじゃないですか」とお兄さん。
お兄さんは、この挿絵原画に、それほど愛着心をもっていませんし、保存の意義や必要性も、あまり感じていません。
お兄さんにあるのは、挿絵原画は、弟の遺していってくれた、財産であり、売れば、大変なお金になるものであるという考えだけです。
従って、当座の自分の生活費のために、挿絵原画がバラバラにばらして売り払われ、散逸してしまっても、かまわないと思っておられる様子です。
「申し訳ありませんが、それだけはお許しください。
“花咲かおる”の挿絵原画は、本となったすべての挿絵の原画が、そっくりそのまま、全部揃って残っている所に価値があるのです。
もしこの中から、皆さんが欲しがる図柄の絵だけを抜きとって、切り売りしてしまったり、或いは、人気のある挿絵本一冊分の原画だけを売ってしまったりしたら、この挿絵原画コレクションの価値は半減どころか、殆ど無くなってしまいます。
郷土の誇りである弟さんの偉業を後世に残すためにも、どうかそれだけはご勘弁ください」と井田氏は懸命に頼みました。
しかしお兄さんは、「そんな事私の知った事ではありませんよ。私としては、今さしあたりのお金が必要です。
どんなに価値があるものとしても、今、一円にもならないのでしたら、私には価値が無いと同じです。
だから後の事なんかどうでもいいですから、なんとか今、お金にしてください」
「『どうしても売らないで欲しい』とおっしゃるのでしたら、いくらでも良いですから、貴方が買ってくださいよ」と言ってききいれません。
井田氏としては、買い取る資力があるのであれば、すぐにでも買い取りたいところでした。しかし美術館の為にお金を使ってしまった、今の井田氏には、そんな資力は残っていません。
その13
何度も何度も花咲先生のお兄さんを説得し、お願いした結果、弟の挿絵原画を保存する事の意議について、お兄さんも、多少は分かってくれるようになりました。
そして他人である井田氏が、花咲先生の画業を尊崇し、多大の借金をしてまで、弟の挿絵原画を保存しようとしてくれている、その努力と心意気にたいして、多少は感謝の念を持ってくれるようになったようでした。
そして、弟さんの挿絵原画を、ばらして売り払う事だけは、思い留まってくれる事になりました。
でもお兄さんが、お金を欲しがっている事には変りありません。
そこで、話し合った結果、挿絵原画をばら売りする代わりに、花咲先生が、若い時から描き貯めてこられた、数十点にも上る油彩画の方を売ってお金にするという事で話が付きました。
この場合、美術館運営経費にも困っている現状から、それらが売れた時は、お兄さんと美術館が、その売上金の二分の一ずつを分け合う取り決めにして了解してもらいました。
この当時、井田氏は、“花咲かおる“美術館の啓蒙と、美術館維持経費ねん出のため、高山市関係の物産展などの催事がある時、それに便乗する形で、花咲先生の挿し絵原画、出張展覧会を開き、そこで、人気のある挿絵原画のコピーだとか、絵ハガキを販売しておりました。
このとり決め後は、そこに、“花咲かおる”の油彩画も並べて売ることができるようになりました。
油彩画家として見た時、花咲かおるは、技術的には非常に完成度の高い絵画を残しております。
しかし、あまりにも器用すぎて、絵ごとに、異なるいろいろな画家の作風が顔をだし、特に若い時の作品はそうでしたが、一貫したオリジナリティに欠けているように思われます。
彼が、中央画壇で脚光を浴びることができなかったのは、ここに原因があったのではなかろうかと推察されます。(独学に近く、画壇で力のある、先生の引きがなかった事にも原因があったでしょうが)
悲しい事に絵画と言うのは、中央画壇である程度名前を売った画家の作品とか、地元にフアンを持っている画家の作品で無いと、なかなか売れません。
その為か、花咲生成の油彩画の場合も、買っていってくれたのは、花咲先生の高校教師時代の教え子だとか、先生の知り合いがほとんどで、その売り上げは、予想していたほどにはなりませんでした。
その14
井田氏のさまざまな努力にもかかわらず、美術館の経営は一向に楽になりませんでした。
次第に、家賃だけでなく、水道光熱費も滞りがちとなり、水道、電気、ガスは何度も止められそうになりました。
しかし、井田氏はこの挿絵原画コレクションをとても大切に思っており、なにがあっても、それの散逸だけは避けたいと思っておりました。
その為、この頃になりますと、自分の手元での保存、展観(てんかん:作品・品物を広く一般に見せること)には拘らなくなりました。
散逸させず、一括して、大切に保存してくれる人さえ見つかれば、そこへ譲ってもかまわない、とさえ思うようになっていました。
そのような保存先を探して、あちらこちらに口を掛けました。
しかしこの不景気です。出版不況はそれに輪をかけております。
その為、思うような購入先はなかなか見つかりませんでした。
こういった絵本を出していた事のある、あちらこちらの大きな出版社にも声をかけても見ましたが、見向きもしていただけませんでした。
お土産店や、ねずみ講まがいの販売形式を取っている怪しげな商社などといった所に興味を示すところもありましたが、
しかし話が進むに連れ、購入目的が怪しげで、売った後のこの原画の行く末が案じられるような話ばかりでした。
その15
そのような時、市内の骨董商から、美術館のグッズ売り場だとか、出張美術展の時の絵ハガキ売り場に、その骨董商の持っている作品も並べて売って貰えないかという話が舞い込んでまいりました。
売り上げの25パーセントものお金を手数料として、美術館にバックしてくれるという美味しいお話です。
骨董業界の実情を知らない井田氏にはそれはとても魅力的なお話に見えました。
何しろ、並べて売るだけで、沢山のお金が入ってき、しかも並べる商品は、すべて鑑定書の付いた確かな品物ばかりで、美術館に迷惑をかける事は絶対に無いというのですから。
井田氏は、早速、その話に乗ることにし、その骨董商の持ってきた商品を、あたかも美術館の館蔵品ででもあるかのように、“花咲かおる“の油彩画と並べて売り始めました。
浅茅氏が、坂本繁二郎の作品を買ってきたのは、この様な出張美術展が、高山市の物産館で開かれていた時でした。
その16
この骨董の委託販売によって、一時的には、美術館の運営は、一息つく事ができました。
しかし、困った事に、骨董商から販売を委託された作品は、その殆どが、美術館の館蔵品と言う品格を備えたものではなかったのです。
例えば、柿右衛門作と言う、鑑定書のついた花瓶の場合でいいますと、それは、柿右衛門の手になる、乳白手(濁し手)の作品ではなく、柿右衛門窯の作品でした。
確かに鑑定書はついていましたが、その鑑定書は、なんとか有田焼振興会とかと言う所からでたもので、鑑定書としては、業界的には殆ど価値のない物でしかありませんでした。
同じ柿右衛門と言っても、作家物と、窯ものとの間には、金額的に雲泥の差があります。
しかし、どちらも、柿右衛門には違いありません。それを、窯物としては、やや高目の価格で(註:もしそれが作家物だった場合は、大変な拾い物といってよい価格設定になっていました)買わされたというだけです。だから、法的には、どうしようもありません。
このように、古書だとか、古画、古陶磁等を扱う、骨董品の世界では、贋物とは言えないまでも、怪しげなもの或いは、美術的な価値からすると、随分格が落ち、価格的には随分下がるような品物を、上記のように一級品の価格よりはかなり安いけれど、そうかと言って、格が落ちる品物としてはかなり高いといった価格設定で売っている場合が少なからずあるようです。(註:そうでない骨董を扱う業者さんも沢山いらっしゃいますから、全ての骨董商の事を言っているわけではありません)
骨董店が“花咲かおる“美術館に委託して売らせた品物には、このような類のものが少なくありませんでした。
美術館で売るという事で、箔を付け、お客さんにあたかも掘り出し物のような錯覚を起こさせて買わせるという商法の片棒を担がされていたわけです。
買った後、その事に気付いたお客さんから、苦情を言ってきた人もいましたが、骨董の鑑定と言うのは難しく、明らかに贋物であると証明するのはとても困難です。たとえ鑑定書が業界内では通らない人のものであったとしても、本当に存在する鑑定機関で、そこから見解の相違と言われればどうしようもありません。また価格が品物の質の割に、高かったとしても、これまた価格設定は業者の価値づけに任されておりますから、問題になるほど高くない限り、そう言われてしまえば、購入者としては、どうしようもありません。
しかし、井田氏と美術館の名前を信じて買ったものであったけに、裏切られたという思いは強く、そう言った人達は、美術館や、井田氏の事を、まるで詐欺師でもあるかのように言いふらすようになりました。