No.133 お坊さまと白尾の狐 その4(お婆ちゃんの昔話より)

このお話はフィクションです似たような所がありましても、実際に起こった事件、実在の人物とは、全く関係ありません。

 

その10

その夜、台所近くの部屋で寝ていた若い女中は、夜中に扉が開く音に、目を覚ましました。
様子が分からぬままに彼女は、布団の中で身を固くして、耳をたてました。
するとその音に続いて、何者かが忍び込んできたように感じられます。
「泥棒?」と思った瞬間、身が竦んで(すくんで)声も出ません。彼女は身を固くしたまま、お布団の中で震えておりました。
しかし忍び込んできたものは、その後、一向にそれ以上進んでくる様子がありません。
足音もしません。
ただ一回、台所でバタンと何かが、何かが落ちた音がしただけです。
「さては悪戯狸(いたずらたぬき)めが、またやって来たな」と思った彼女は、寝床から立ち上がると、傍にあった箒を掴み、忍び足で台所に向かおうとしました。
その時です。何かに噎せた(むせた)ように激しく咳き込む子供の声が響いてまいりました。
「あっ、あの厄介息子だ」と咄嗟に察した彼女は、あわてて台所へと駆けつけました。
するとそこには思った通り、掬佐が真っ赤な顔をして、今にも息が止まりそうなほどに咳き込んでおりました。彼女は慌てて駆け寄ると、掬佐の背中をトントンと叩きながら、水を少しずつ与えました。やっと咳が収まってきたので、ホッとした彼女が辺りを見回しますと、台所は、大変な事になっているではありませんか。
掬佐の回りには、噎せた時に噴き出した飯粒が、まわり一杯に散らばっております。
手には手掴みした時の飯粒が、口の回りには慌てて押し込んだ時の飯粒がくっ付いております。
噴き出した時に散らばったご飯粒は、蓋を開けたままになっている飯櫃の中にも入ったに違いありません。
彼女は、それ以上掬佐が、何かをしでかさないように柱に括り(くくる)つけると、その足で、奥様を呼びにと奥へ入っていきました。

 

その11

間もなく不機嫌そうな顔をした継母の彩乃がやって来ました。
夜遅くまで、帳簿仕事をしていて、やっと寝入ったばかりの時に起こされたのですから、気分の良いはずがありません。
もともと頭痛持ちの彼女は、しかめた顔を少し傾け、両手で、側頭部を挟むように抑えながらやってまいりました。
すると目に入ってきたのは、このあり様です。彼女は激怒しました。
もともと自分に全く懐かないばかりか、赤ん坊の時から、自分に敵意に近い感情をむき出しにする知恵足らずの(当時は皆から、そういう風にみられていました)掬佐に対し、憎悪に近い嫌悪感を持っていました。
その掬佐が、大胆にも台所に忍び込んで飯泥棒を働いたばかりか、お櫃(おひつ)にあったご飯を全部駄目にしてしまったのです。
台所の上り框(かまち)一杯に散乱している飯粒、その真ん中に置かれた、蓋の開いたお櫃(ひつ)、そして部屋一杯にたちこめる悪臭、その様子を見た瞬間、彩乃は「カーッ」と頭に血が頭に上って、我を忘れてしまいました。
「もう、お前という子は。どうしてこういう事をするの。
御飯を与えてなかったわけでもないに。
今日と言う今日は、もう許さないんだから。お前なんかもうこうしてやる」
というやいなや、彩乃は柱にくくりつけられ、不安げに、上目遣いで自分を眺めている掬佐の頬を、思い切りぶっ叩きました。
それまでも随分嫌っておりました。
しかし人目もありますから、さすが手をあげるような事はしませんせんでした。
しかしこの時の彼女は、もはや理性を失ってしまっていました。
叩かれて、反抗的な目をして、じっと自分を睨みつけてくる掬佐の目が、余計に彼女の感情を逆なでします。
いつもでしたら、自分のそばに近寄ってくるのさえも疎ましく(うとましい)思っていた掬佐の身体を、横抱きに抱き抱えると、お尻をむき出しにして、思いっきり叩きはじめました。
痛みと恐怖に顔を歪ませ、苦痛から逃れようと、身体をよじらせながら呻き(うめき)もがく掬佐も見ているうちに、彼女の心はより一層残忍になっていきました。
掬佐のお尻はもう真っ赤に腫れあがって、所々血が滲み出始めてさえおりましたが、それでも構わず、彼女は思いっきり叩き続けました。
それまで外聞を恐れて、掬佐に対する感情を抑えていただけに、それが一挙に爆発しました。
彼女の心には、叩けば叩くほど、掬佐が苦痛の呻き声を上げればあげるほど、一種の残忍な、快感すら沸き起こって来るようになっておりました。
叩いても、叩いても、泣きもしなければ、謝ろうともしない、そんな掬佐の態度は、彼女の逆上した心に油をそそぎ、一層残忍にします。
お尻からは血が飛び散り、ぐったりとなってしまっていても尚、彼女は思い切り叩き続けました。
彼女自身の手が腫れあがり,掬佐のお尻から流れ出る血と、失禁した糞尿で、汚れてしまったのも気にすることなく、気が狂ったように叩きつづけました。
掬佐にあまり好意を持っていなかった女中のお加代でしたが、さすが、幼い子供が、そこまでされているのを見るのは、忍びなくなってまいりました。
「奥様、もうその辺でどうぞ。
これ以上されますと、坊ちゃまが、死んでしまわれます。それに奥様のお着物も、汚れてしまいますし」と言って袖を掴んで止めに入ります。
女中の言葉に我に返った彩乃は、お尻が真っ赤に腫れあがって、そこから血が噴き出し、気を失ったようにぐったりとし、尿ばかりか、大便まで漏らしている掬佐の姿を見てあわてました。
すぐに、お加代に言いつけて冷たい水を汲んでこさせると、それを口に含ませました。
同時に、手ぬぐいを水に浸して、お尻の血を拭き取り、汚れを拭ってから(ぬぐう)濡れ手ぬぐいを当てて冷やしながら、横にしました。
しばらく横になったまま唸っていた掬佐でしたが、やがて意識を取り戻してきた掬佐の態度は、彩乃には、前より一層憎々しげに映りました。
もう自分に対して、何の恐れも抱いていない様にみえました。
ゆっくり起き上がった掬佐は、何も言わず、悪びれた様子もなく、彩乃に向かって、睨みつけるような一瞥を加えると、そんまま、よろめくような足取りで外に出ていこうとします。
彩乃には、その姿は7歳やそこらの子供とは思えないほどふてぶてしく映りました。
再び逆上した彼女は、
「泥棒猫め。お前なんか、もう家の子供じゃない。どこにでも好きな所にお行き」というと、
お加代に言いつけて、門の外へと放り出し、閉め出してしまいました。

 

その12

門の外に放りだされた掬佐は、しばらくの間、門扉(もんぴ)を叩きながら、「中に入れてください」と哀願(あいがん)し続けました。
しかし、家の方からは、何の音も返って来ませんでした。
彼はしばらくの間、門扉を叩きつづけました。しかし家の中から何の反応もありません。
物置小屋以外の世界を殆ど知らないで育った幼い掬佐にとっては、突然夜中に、外に放り出されて、この後、どうしたら良いのか見当もつきません。
掬佐は、本当の所は、継母の彩乃が思っているほど、ふてぶてしくしていたわけではありませんでした。まだ7歳の幼い男の子です。
悪い事をした所を見つかって、ただ動転して、どうしたら良いかわからず、固まってしまっていただけでした。
見つかった時は、「しまった」と思いましたし、いけない事をしたとも思いました。
ただ、不幸な事に、人の心を感じる事のできる彼は、彩乃の姿を見た瞬間、彼女の憤怒が並々ならぬものである事を感じ取り、
「もうどうにもならない」と観念してしまったのでした。
それで彩乃の出方を、目を見開いたまま、窺がって(うかがう)いたにすぎません。
「お前なんか、もう家の子じゃない。出ていけ」と怒鳴られた時だって、
意識がぼんやりしている掬佐には、それ迄、何があったのか、何が起こったのか、まだはっきり理解できませんでした。
ただ「出ていけ」と言われたから、その場から、出ていこうとしただけです。
そしてその時、「もう終わったのかしら」と何気なく継母の顔色をチラッと窺っただけでした。
それを、心に後ろめたい所のある彩乃が、誤解し、全て悪い方に悪い方にととり、ふてぶてしい顔で睨んだと取ったに過ぎません。
それまで、彼は、それほど継母の事を恨んでいたわけでもなければ、憎んでいたわけでもありませんでした。
自分を嫌い、憎んでいるらしい感情が伝わってまいりますから、怖い人と思って、なるべくそばに、近寄らないようにはしていましたが、ただそれだけです。
だから、泣きも喚き(わめき)もしなかったのは、「泣いても喚いても(わめく)、許しを請うたとしても、もうどうにもならない」と観念してしまったからにすぎません。だから、されるままになっていたのでした。
なにしろまだ7歳の子供の事です。大人に怒られている最中に、いろいろ考える等と言う、大それた事をしている余裕なんかあるはずがありません。怒られている時は、ただ痛かったし、怖かっただけでした。

 

その13

冬の夜の外の世界は、風は冷たく、全てのものが、瞬く間に凍りつくほどでした。鼻をつままれても分からないほどに暗い、その暗闇には、得体の知れない何かが、潜んでいて、今にも襲いかかってくるかのような不気味さがありました。
絶え間なく襲ってくる寒さと恐怖に震えながら、「お義母さん(おかあさん)、お義母さん、もうしません。もう二度としませんから、お許しください。どうか、どうかお願いします」と門扉を叩いて哀願しました。
しかし彼を放り出した女中のお加代は、彼を追い出すと直ぐに、家の中へと戻ってしまったようです。
どれほど頼んでも門の内側には、人の気配はなく、何の物音も返ってきませんでした。
冷たい北の風は、容赦なく掬佐に吹き付け、薄着のままに放り出された彼の身体からは、容赦なく(ようしゃ;ゆるすこと)体温を奪っていきます。
寒さが次第に彼の意識を奪いとっていきました。門扉を叩く音は次第に弱くなり、時々襲ってくる眠気の為に、中に呼びかける声も途切れがちになっていきました。
頭が下がり、身体が今にも地面に崩れ落ちそうになります。
しかし崩れ落ちることはありませんでした。そうなる寸前に、突然顔をゆがめ、飛び上がっては目を覚まします。
身体を動かすと強くなるお尻の痛みが,眠り込んでしまうのを妨げているようでした。
しかし、そのころになると、彼にはもう、門扉を叩いたり、声をあげたりする力は残っていませんでした。
目を覚ましたといっても、壁に凭れた(もたれた)まま、目を見開き、首を横に振るだけです。
そしてそれほど間をおく事もなく、やがて、瞼(まぶた)は再びトロンと下がって、今にも眠りこみそうになっていきます。
誰も見ている人はいませんでしたが、もしその時、彼を見ている人がいたとしたら、そんな彼の回りを、いくつかの、何か黒い影のようなものが飛び回り始めたのが見えたはずです。
その黒い影は、頭の上や、顔の回りをぐるぐる回りながら、耳元の所を通るたびごとに、キーキーという、金属棒で硝子をこする時のような不愉快な音を立てます。
それに応じてうなずいたり、首を振ったりしている掬佐の様子から、やつらが掬佐に、何かを話しかけ、嗾けている(けしかけている)ように感じられます。
やがて掬佐は、黒い影に誘われ、導かれているように、その黒い影に従って歩き始めました。
彼の顔からは、先ほどまでの、おどおどした、頼りなげな感じはすっかり消え失せていました。代わりにその表情からは、憎しみと憤りの感情が噴き出しておるようになっていました。
彼は足を引き摺り、引き摺り、一足ごとに襲ってくる、お尻の痛みに顔を歪めながら、ゆっくりゆっくり家から離れていきました。
その歩みはとてもゆっくりで、姿が彼の家から見えなくなるまでには、かなりの時間がありました。

次回へ続く