No.127 不釣り合いは不縁の元か 後編

『No.126 不釣り合いは不縁の元か 前編』を読む

このお話はフィクションで、似たような点がありましても、実際にあった事件、実際のいた人物とは全く関係ありません。

後編

 

その5

その後間もなく日本は、中国との戦争が始り、第二次世界大戦へと、世界を相手に争う、戦乱の時代へと入っていきました。
そして、年ごとに不利になる戦況に連れ、物資は不足し、生活必需品でさえ、手に入れるのが難くなっていきました。
どこの家も、その日その日を過ごすための品物を得る事でさえ、難しい時代がきたのです。その為、人々の生活から、骨董だとか、絵画のような美術品を愛するような余裕が、なくなっていってしまいました。
そんなさ中、あの骨董好きだったおじいちゃんは亡くなりました。
そしてそのおじいちゃんを焼いた火葬場の煙が、まだ消えないほどの間に、その辺り一帯を襲った大空襲によって、おじいちゃんの住んでいた辺り一面は火の海と化し、おじいちゃんの愛してやまなかった骨董の数々も、家、蔵、家財道具ともども、殆どが焼け失せてしまいました。僅かに遺されたのは、庭の片隅に作られた、防空壕の中に疎開させておいたものだけでした。
その僅か焼け残った骨董品の中に、あの耀州窯の青磁がはいっておりました。おじいちゃんが、死ぬ間際まで愛してやまなかった形見の品だからというので、他の重要な品々、例えば家系図だとか、代々伝わってきた貴重な骨董品などの中に、おばあちゃんがその青磁も忍びこませておいたのでした。

 

その6

敗戦による混乱と物資の不足は、戦時を凌ぐものでした。
配給されてくる食品だけでは、命を繋ぐ事が困難な時代で、配給品以外には口にしなかった裁判官が餓死した事がニュースになったような時代でした。
農家の人間以外は、誰もが、生きていく為の、闇の食品を手に入れるために、必死に奔走しなければなりませんでした。しかし当時はお金の価値は低く、欲しい物を手に入れるためには、相手の気に入りそうなものを提供するのが一番の近道といった、物々交換が主体の時代でした。
この為、生きていくためには、防空壕の中に疎開させておいた品々を役立てるより仕方がありませんでした。衣服だとか宝石と言った世の中が平穏になりさえすれば、お金さえ出せばいくらでも手に入るものが出ていく時は、諦めもつきました。しかしやっと空襲を免れた、先祖伝来の貴重な品々を出さなければならない時は情けない思いをしました。僅かな食べ物と引き替えに、価値もあまり分かってくれない農家だとか、成り上がりの闇商人の家へと、それらが引き取られて行くのを見送る時は、後ろ髪をひかれる思いがし、そう言ったものを見送る度に、密かに涙をぬぐっていました。
しかしそうは言いましても、防空壕の中に疎開させておいたこういった品々があったからこそ、戦後のあの食糧難の時、なんとか一家の命が繋ったのであり、また敗戦とそれに続いての混乱期を逸早く(いちはやく)乗り越え、また経済的な基盤を確立することができたのでした。

 

その7

戦後、10年という年月が経ちました。
あの青磁の欠けた鉢(正式には、碗というようですが)を、買おうと言ってくれる人は結局ずっと現れませんでした。
その間の、日本の国の復興は著しく、一面の焼け野原だった街の中も、殆どがバラックではありましたが、ぎっしりと家が立ち並ぶようになってきました。日常使う物資も次第に潤沢になり、町の中は、戦前にも負けないほどの賑わいを取り戻してきていました。
人々には、貧しいながらも、平穏な日常生活が戻ってきたのです。
おじいちゃんの一家もまた、戦前に住んでいた家ほどではありませんが、焼け跡に、曲がりなりにも新しい家を建てることができるまでになりました。
暮らしに余裕を取り戻してきたのと歩調をあわせるように、世間では、古い骨董だとか絵画と言った美術品に目を向ける人々の数も、次第次第に増えてまいりました。
闇成金だとか、農家と言った、その価値をあまり認めてくれない人々の家へ入っていた骨董、絵画、美術工芸品といった美術品の類も、彼らの手元を離れ、再び自分の価値を分かってくれる所、自分を愛してくれるコレクター達の下へと(彼らが作った美術館を含めて)戻っていき始めました。
もうその頃は、おじいちゃんの所のおばあちゃんは、80歳を越し、日常の行動にも、不便を感じるようになっておりました。
彼女、家の事は一切、息子のお嫁さんに任せ、自分は新しく建てた家の一室を貰い、そこにこもって、一日の殆どを、寝たり起きたりしているだけの生活となっていました。
彼女は、あの青磁の欠け碗を、とても大切にしていました。彼女には、その青磁の価値は、相変わらず分かりませんでしたが、おじいちゃんの遺して行った唯一の形見として、自分の部屋に持ち込み、まるで誰かと話しているように、その青磁に向かって話しかけるのを、日課としておりました。
「おじいちゃんは、あんなにもお前の事を自慢していたけど、結局、お前は、うちのピンチの時、何の役にも立たなかったね。お前って、本当におじいちゃんが言っていた通りの、大した(たいした)ものだったのかい。それとも本当は価値がないものだったの?あるいは欠けているから、本当の価値を分かってくれる人が出てこなかっただけなのかい?
お前が手元に残っていてくれて、私はとっても嬉しいよ。だけど残されているお前を見ていると、なんだかお前が可哀そうな気もするんだよ。
こうして、ずっとお前を見ていると、おじいちゃんが言っていた通り、お前って、結構、素晴らしいものだと思えるのにね。結局、本当の価値を分かってくれる人が出てくることも無しに、お前はこのままここで終わってしまう運命なんだろうかね」などなど、まるで生きている人に話すように、話しかけておりました。

 

その8

そのおばあちゃんも、それから間もなく亡くなりました。
後に残された子供や孫たちの中には、骨董に興味を持つ物などおりませんでした。従って、あのおじいちゃんの大切にしていた青磁の欠け碗は、再び桐の箱に納められたまま、おばあちゃんが寝起きしていた部屋の片隅に他の物に混じって放置されておりました。
この青磁が、誰からも見向きもされなかったものである事は、子供や孫たちは、皆知っています。その為彼らの頭の中からは、そんな物が自分の家にあった事自体、いつの間にか消え去ってしまいました。

 

その9

おばあちゃんが亡くなって一周忌が過ぎた頃の事でした。
50台半ばとおもわれる男が、おばあちゃんの息子である伯父さんの家を訪ねてまいりました。
彼が差し出した、甲斐不動産株式会社、代表取締役甲斐達也と記された名刺を見ても、伯父さんには、彼が何物で、何のためにいらっしゃったか見当もつきませんでした。
「もうむかしのことで、世代もすっかり変わってしまっておりますから、どなた様も御記憶がないかもしれませんが、私、江戸時代、この市の本町で、商いをさせていただいておりました、甲斐屋吉兵衛の子孫でございます。
この地で商いをしておりました吉兵衛は、僅かな非をあげつらわれ、それを理由に、財産没収の上、欠所、所払いを命じられたのだそうでございます。そのような目に遭わされなければならない理由が分からなかった、三代目吉兵衛は、死ぬまで、それを苦にし、「はめられた。悔しい。いつの日か、あの事件の真相を突き止めてもらいたい」と言っていたそうでございます。
私どもは、その事件後、江戸にと居を移し、そこで細々ながら商いを続けておりました。しかし慣れない土地という事もあり、また資本もあまり持っていない身での商いでございましたから、その日その日を凌いで(しのいで)いくのがやっとやっとで、三代目吉兵衛の無念にまで手を廻しているような余裕はありませんでした。
時代は、江戸から明治へ、世の中は、藩から県へと変わりました。私どもも、もう誰憚る(はばかる)事無く、こちらにも顔を出せるようになりましたが、私どもの家の事情は変わりませんでした。こうして気になりながらも、三代目吉兵衛の為、何もしてやる事が出来ないままに、今日に至ってしまったのでございます
しかし敗戦の混乱に乗じて東京で始めました不動産業がなんとかあたりまして、やっと大きな顔をしてこの地にやってくることができるようになりました。
ところがこの地も、ご多分にもれず大空襲に遭っておりまして、甲斐屋に纏わる(まつわる)資料など、どこを探しても見つける事が出来なくなっていました。
住む人の方も、すっかり変わってしまって、古くから住んでいらっしゃる人は数少なく、新しく他所から入ってきた人が殆どというような状態となっておりました。
更に、古くからこの土地に住んでいらっしゃる家の方も、世代が変わってしまっており、甲斐屋そのものが、この地にあった事さえ知らない人ばかりとなってしまっております。
従って、せめて甲斐屋にゆかりのものでも見つけ、持って帰ってやれたらと思って、探し歩いていたのでございますが、しかしそれも、空襲で、殆どの物が焼け失せてしまった今日では、それも見つける事はできませんでした。
もう諦めて帰るより仕方がないと思いながら、最後に訪ねて行った家で、
『そう言えばうちのおじいちゃんから、戦前、甲斐屋さんから出たという青磁の鉢を、ここ、すなわち貴方の所のおじいさんが自慢しておられたと聞いた事があります。
戦災で、焼けてしまっているかもしれませんが、もしかしたら、今も残っているかもしれませんから、一度聞いて見られては』と教えられたのでございます。」
「どうでしょう。古い中国青磁の碗だったそうですが、そう言ったものに心当たりありませんか。子供の時に見たとか,おじいさんから話を聞いた事があると言った程度でもよろしいのですが。」と言われました。

 

その10

こうしてその欠けた青磁の碗は、再び元の持ち主の下へと戻っていきました。
彼の伯父さんが、何度も辞退されたにもかかわらず、とても喜んだ、甲斐達也氏は、「お爺様の唯一の形見であり、お婆様がとても大切にされていたものを譲っていただくのだから」というので、完品(何処にも傷のない物)と変わらないような大金を置いて、帰っていかれたそうです。
甲斐氏は、よほど嬉しかったとみえて、帰られた後すぐに、伯父さんの所に礼状が届きました。
その封書の中には、あの青磁の飾られている写真が同封されておりました。
立派なガラスケースの中に収まって、飾り棚の上に置かれているそれは、やっと自分の居場所を見つけたと言うように、とても誇らしげに見えたそうです。
この青磁の行く末を心配しながら天国へと旅立って行ったお婆さんの魂も、これでやっと安心している事でしょう。
これなど穿ち(うがち)過ぎかもしれませんが、美術品が人を選び、場所を選んで渡りあるいた一つの例ではないかと思うのです。  終わり

No.126 不釣合いは不縁の元か 前編 

前篇

その1

以前、知り合いの建築屋さん〔大工〕と新築の住宅をお訪ねしたときのお話です。
新建材で出来た当世風の住宅は、ピカピカしていて、見た目にはとても素敵でした。
私など、ただただ感心して、お世辞抜きで褒めちぎりました。
中でも目を見張ったのは、床の間で、杉の天然搾り丸太の床柱と、欅(けやき)の一枚板を使った床板(とこいた)は、その一角だけを際立たせており、チョット不思議な雰囲気をかもし出しておりました。
ご主人の話によりますと、昔裕福だった実家の栄華を偲ぶ便に(よすが)と、そこだけは特別追加料金を払って、造ってもらったとの事でした。
御主人は、「大工さんと一緒に、わざわざ銘木店まで出かけて探し来た、一品中の逸品」だと、とても自慢しておられました。
私など建築に関しては全くの素人です。従ってそういうお話をききますと、ますますありがたみが出て、
「そうですか。本当に素晴らしいです。ここの家、この床の間があるだけで、家全体の風格が上がっているような気がします。」などと褒めちぎって、辞去(じきょ:挨拶をして立ち去ること)してきました。
ところが一緒にいった専門家のご意見は違っていました。
彼は、家から外にでるや否や、「あんな家に、あんな銘木を使うなんて、あそこを造った大工は、一体何を考えていたんでしょう。あれでは、いくらなんでも銘木が、可愛そう過ぎです。
常識のある大工だったら、止めているはずですがね」とご立腹のようです。
「どうして、あんな立派な床の間なら、それだけで価値があるのと違う。」と申しますと、「社長、世の中、なんでもバランスも大切だと思いませんか。女子中学生が、スーパーで売っているような吊り下げの既製服を着ているのに、バッグだけはとても高価なブランド物を持っていた時、どううつります?素晴らしいと思います?変だとか怪しいと思うでしょ。
あの家、他のところは安物の新建材で造ってあるのに、あの部分だけが、飛びぬけ高価な銘木を使っているなんて、丸でちぐはぐで、おかしいですよ。
そう思いませんでした?チンドンヤの貸衣装みたいで、雰囲気ぶち壊しでしたけどね。
あの家としては、比較的お金をかけてあった、あの座敷一つをとってみても、床柱や床板以外の木材は、柱だって、長押だって、天井だって、皆張り合わせの構造材、畳だって下級品、どれ一つとっても、安価な物しか使ってないのに、床の間の床柱と床板だけは無垢材、それも最上級の物を使ってありましたね。しかしあれでは、全く釣り合いが取れなくて、却ってチンプンカンプンでおかしいですよ。家というのは、全体のバランスも考えて造ってもらわなければ。」といわれます。
そういわれて見ますと、その座敷に座ったとき、確かに少し居心地の悪さを感じましたが、それは一所のみ、豪華にしたことによる、バランスの欠如が生み出している違和感だったのですね。

 

その2

取り合わせのアンバランスによって感ずる違和感は、宝石と人、美術品と家、美術品と人との間にも、感じられる事があります。例えば、小さな家の狭い玄関に、子供の背丈より大きい清代の飾り壷が、ゴルフバッグなどと一緒に、雑然と並べてあるのを見たことがありますが、これなど、その家の主(あるじ)の知性を、却って、疑わせるようなものだと思いました。逆に、風格のある立派な家の玄関や、応接室に、印刷の絵や仿製(ほうせい)の品物ばかりが、飾ってあるのを見た時は、とても悲しく思いました。
なんだか、そこの主(あるじ)の品性まで卑しく感じられ、寂しく思った記憶があります。
忌憚なく(きたんなく)言わせていただきますと、そんなものを飾って置かれる位なら、いっそ何も飾られないで、下駄箱の上に、花でも生けておかれただけのほうが、良かったのではないかとさえ思いました。
もしそういったものに趣味がないから、あまりお金をかけたくない、しかし何か飾っておかなければ、寂しいとおっしゃるのであれば、現存作家の作品で、まだ無名ゆえに、価格が張らない作家の作品でもかまいませんから、自分の目で選んだものを、飾って置かれたほうが奥ゆかしくて良かったのに、と思った事があります。
家の中に飾られた美術品とか、調度品は、その家の住人の品格を現すものです。
感性の合わないものを置かれたとしても、居心地の悪さに、いつの日か、どちらかが退場ということになっていくともいわれております。
人が美術品を選ぶように、これは宝石にもいえることですが、名品と言われるような良い美術品も又、人を選ぶとのことです。自分と合わないような持ち主と、出会った名品は、いつか、自分に合った持ち主を求めて、再び旅立っていく運命にあるのだそうです。
もし由緒ある名品を手に入れたような場合は、それに恥じないような品格を養い、経済力を身につけ、その美術品に相応しい環境を整えてやると同時に、限りない愛情を注いでやる事が必要だと、昔、あるコレクターから聞いた事があります。

 

その3

似たようなお話は、車と持ち主にも通じるようです。
以前、知人の息子さんが、友人からジャガーを譲ってもらった事がありました。新車なら2000万円近くもする高級車です。それを中古車とはいえ、20歳そこそこの若さで手に入れ、乗り回す事が出来るようになったわけですから、買った当座は、大喜び。自慢たらたらで、どこに行くのもそれに乗って出かけていました。
所が彼、その車、半年も持ち切れませんでした。なにしろこの車、とんでもなく維持費がかかったのだそうです。ガソリン代もばかになりませんが、それ以上に修理費、これがバカ高いのです。修理を頼む場合、そこらあたりにある普通の修理工場では間に会わない事が多く、その度に専門の代理店にもっていかなければなりませんでした。ちょっとした部品一つをとりかえるのにも、本国から取り寄せなければならない事が多く、時間も、コストもばかになりませんでした。(註;昔の話で今はどうなっているか分かりませんが)
確かに風格のある良い車でした。その車に乗っていくと何処へ行ってもお手に受けてもらえました。ホテルだとか、レストランに行った場合、最上級のもてなしを受ける事が出来ますし、女性をナンパするのも、比較的容易でした。しかしその車に乗って分かった事は、そう言った所で、そう言う対応をしてもらう為には、それ相応の身なりも必要だと言う事でした。そうしないと、せっかく名車に乗っていても、修理工場のお兄さんと間違えられてしまうのだそうです。そうなりますと、こちらにもお金がかかります。身にまとう物だって今迄のように、安物の既製品という訳にはまいりません。洋服は言うまでもなく、時計だって、バンドだって、靴だって、一流の者が要ります。食事をするのも、町の食堂での定食という訳にはまいりません。レストランに入って高い料理を取らざるをえなくなりました。20万円ソコソコの手取りの彼の月収では、もらって来た月収を、全部そう言う物に使ったとしても、とても間に合いませんでした。そうかと言って、親の援助は、買う時の費用までと約束させられております。また、国産の大衆車に乗っているような親に、それ以上、おねだりをする事も出来ませんでした。結局、僅か数カ月乗っただけで、手放さざるをえなくなってしまったのだそうです。
この子にとっては、その車は、不釣り合いという事だったのでしょうね。

 

その4

人と美術品との関係ではどうでしょう。
これは私の年上の友人から聞いたお話です。
彼の母親の実家は、敗戦前は、街の中心街にあって、屋敷の中には、大きな蔵が三つも立っていたほどの大金持ちでした。
その家には、骨董好きだったおじいちゃんが、あまたの骨董の中でも、特に大切にしていた、直径30センチほどの浅鉢がありました。
口縁の一部が欠け、くすんだ黄緑色をした、それは、子供だった私の友人にとっては、何処から見ても薄汚い、口の欠けた只のお鉢としかみえないような代物でした。
しかし、その鉢は、欠けた部分に金継がされていて、その上、立派な桐の箱の中に収められておりました。
おじいちゃんにとっては、その鉢には、特別の思い入れがあるようでした。
何しろ、俳句の友達だとか、絵画や骨董に興味や知識がある好事家達がやって来た時だけに、それを特別出してきて、自慢していたほどでしたから。
子供だった私の友人にはそれが、不思議でたまらなかったそうです。
そこである時、おばあちゃんを捕まえてえて、その訳をそっと聞いてみたことがありました。
所がおばあちゃんも「変だと思うでしょう。おばあちゃんにも、あんな小汚い欠碗(かけわん)のどこが良いのかさっぱり分からないのだよ。そもそもあの碗、もともとは大館医院のものだったんだけどね。ほらお前だって知っているでしょ。あの八幡様の横にある古くからのお医者さん。先祖代々お医者さんで、今でも何とか膏薬という貼り薬と、癇虫(かんむし)退治丸という丸薬で有名なお医者さんの事。」
「うん知っているよ。とても大きなお屋敷に住んでいらっしゃる先生のことでしょ。」
「あそこの先生の所にあったもので、もともとはそこの犬の餌入れになっていたものなんだけどね。」
「偶々(たまたま)大館先生の所でそれを見かけたおじいちゃんが、『犬の餌入れとして使うくらいなら』というので、古伊万里の鉢をもっていって、それと交換してもらってきたのがあの鉢なの。」
「その時、先生は『自分はこういう物に興味はないから、どういう物かよく分かりませんが、確かにこの鉢、私が子供の頃から、上客だけに、使うほどに、大切にされていたものでした。何でもご先祖様が、三代目甲斐屋吉兵衛とかいう商人(あきんど)の病気を治してやった時、命を助けてもらったお礼として、甲斐屋さんが下さったものだときいています。』当時の甲斐屋さんというのは、江戸時時代、本町通りに、大きな店をだしていた、大垣藩でも一、二を争うほどの大商人でした。桑名港には数席の千石船を持ち、この地方の産物を一手に扱っていた甲斐屋さんは、商人ながら、名字帯刀を許され、お殿様にもお目通りを許されているほどの方だったそうです。そんな家からいただいてきたものですから、とても値打ちのあるものとして、大切に扱っていた物だったらしいのです。
所が、その甲斐屋さんが、どういう理由からか、財産没収の上,欠所、所払になってしまわれたでしょ。その為、累が及ぶ事を恐れた私どもの先祖が、甲斐屋さんの名前の入った物は、皆捨ててしまったのです。このお鉢の由来の書かれていた箱も、その時処分されてしまいましたので、どんな価値があるのか、私どもにはわからなくなってしまいました。その上、この鉢自身も、使っているうちに、こんな風に欠からかしてしまったでしょ。だからもうどうしようもないので犬の餌入れとして利用していたのです。
でも高台(普通糸底と言ってる部分)が小さくて、犬の餌入れとしては少し安定が悪いのですよ。だからそのうち棄てなければ仕方がないかなと思っていたところです。(交換にと、おじいちゃんがもっていった古伊万里の鉢をみて)こんなもの頂かなくても、そう言って頂ければ、差し上げましたものを。どうぞ遠慮なく、持って行って下さい。」とおっしゃって、快く譲ってくださったものなんだよ」
「ところがそれがね。後々、耀州窯の青磁碗と言う事がわかってね。それからが大変。おじいさんったら大喜び、ああして欠けた所を金継に出して修理し、あの鉢の為、桐の箱まで作って、大切にしているのよ。
(註;耀州窯の青磁・・・陜西省銅川市を中心に分布する窯で焼かれた青磁、北方青磁とも言われる。宋代に入って焼かれるようになった、オリーブ・グリーンの釉薬で覆われ、片刃彫、型押しによる紋様をもった青磁は色、形、紋様とも優雅で美しく、骨董愛好家から特に珍重されている。)
いくら古い支那の物だと言われてもねー、所詮、欠けたお鉢は、欠け碗でしょ。そんな物に、本当にそんな値打ちがあるのかしらねー。」と言って、おばあちゃんは、その価値を半分疑っていたそうです。
後篇に続く

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