No.125 反面教師、唐様で売り家と書く三代目 (気の長いある家のコレクション)後編

この話はフィクションです。たとえ似ている所がありましても、偶然の一致で、実際の人物、事件とは、全く関係ありません。

 

その9

後を継いだ淳一さんの元には、蜜にたかる蟻のように、いろいろな輩がうまい事を言いながら、集まってまいりました。怪しげな儲け話を持ってくる人だとか、名誉職にと押す人、遊興の巷に誘う人、そしていろいろな珍品を売りつける人などなど、皆、淳一さんの自尊心をくすぐる言葉を連ねながら、手を揉み、腰を低くして、擦り寄ってまいりました。冷静になって考えれば、どの話も、明らかに淳一さんの懐狙いの話ばかりでした。
しかしそれにも拘らず、若くして家長になり、有頂天になっていた若い淳一さんは、それに気付きません。
そんなうまい話に、乗せられ、いろいろな事業に手を出していきました。また皆から押されて県会議員選挙にも打って出ました。
しかし世間知らず、苦労知らずの淳一さんのようなぼんぼんを、すんなり儲けさせてくれるほど、世間は甘くありません。手をつける事業はことごとくうまくいきませんでした。そしてその度に田地が減っていきました。やがて皆から押されるような形で、若くして県会議員にもなりましたが、選挙のために使わされたお金も、チョットやそっとの額ではありませんでした。
そしてその度に、これまた淳一さんの家の田地が少なくなっていきました。この頃が淳一さんの全盛時代でした。淳一さんはお付き合いということで、毎日のようにあちらこちらの宴会に顔を出しておりました。
そんなある時、たまたまその座敷に呼ばれてきた、芸者さんの一人を見初めてしまいました。淳一さんはその芸者さんを、身請け(※注1)して、妾とし、ここでも又大金をはたきました。
淳一さんが妾のために作ってやった家は、とても洒落た家で、妾宅から、直接船に乗って川遊びに出られるほど贅沢な家でした。淳一さんはその妾の家に入り浸り、お金を工面するとき以外は、自宅のほうには、殆ど帰りませんでした。
それに愛想を尽かした奥さんは、まもなく実家へと、帰ってしまいました。
しかし、それでも淳一さんの所業は変わりません。相変わらずお妾さんの家に入り浸って、毎日毎日遊び呆け、贅沢の限りを尽くしておりました。
地主などというのは、どんな大地主でも、入ってくるお金は限られております。入ってくるお金を考えないでお金を使うようなことをすれば、借金をするか、土地を売るしかありません。
にもかかわらず淳一さんは、入ってくるお金の勘定をせずに、お金を使っていましたから財産は、減るばかり。気付いたときには半分以下に減ってしまっていました。
それでも止まらない息子の金遣いに、母親ふさのさんは、次第に恐ろしくなっていきました。
このままいけば、何百年と続いてきたこの種川家も、息子の代で潰れてしまうのではないかと思えたからです。
そこで、親戚会議を開き、今後のことを決めてもらうことにしました。
結果、淳一さんの隠居と、長女の次男、晃司(主人の祖父にあたるひとです)を淳一の養子として迎え、種川家を継がせる事とが決まりました。
淳一さんは最初、自分が若隠居させられることに、難色を示しました。
しかし淳一さんは、もともとやんちゃなだけで、気の小さい人でしたから、分家の大叔父達や、ふさのさんの実家方の伯父、そして姉達のお婿さんといった、年上で、社会的にも地位のある連中から、因果をふくめられますと、嫌といえませんでした。
結局、条件をつけて、隠居する事に同意するより仕方がありませんでした。

 

その10

しかしこれによって、一番貧乏籤を引いたのは、主人の祖父にあたる晃司さんでした。淳一さんは隠居するに当たって、自分と妾が食べていける程度の田地をもらって出て行きましたから、後継ぎとしての晃司さんが引き継ぐことができたのは、種川本家という大看板と、小作料だけでは、食べていくのがやっといった程度の、少しばかりの田地にすぎませんでした。
しかし実際に後を継いでみると、種川本家を背負っていくというのは、とても大変な事である事が分かりました。
いろいろな所への寄付だとか、親戚や、近所、小作人などとの付き合いに使うお金一つをとっても,その額は馬鹿になりません。
落ちぶれたからといって、種川本家としての体面を保つ為には、それらを、少なくするわけにはまいりません。
その上、ふさのさんも、その娘達も、昔の大地主だった時の気分が抜け切っておりません。
ふさのさんは相変わらず、贅沢をしたがりますし、ふさのさんの娘さんたちは、在所(※注2)だからといって、以前どおりに何かと物入りなことを要求してまいります。このため、小作地からの年貢だけでは、とても足りません。
そこで、養子に入ってからも、ずっと、お勤めを続けておりましたが、それでも生活は楽ではありませんでした。

 

その11

一般に不幸はお友達をぞろぞろ連れてやって来るといわれています。
晃司さんのところも例外ではありませんでした。養子に入ってから後、不運が、次々襲ってまいりました。
極めつけは、第二次世界大戦の敗戦でした。これによって、それまでの晃司さん一家の生活は根本的に破壊されてしまいました。
即ち、農地解放によって、小作地の殆どを取り上げられてしまった上、年貢米もその法律によって規制され、ほんの僅かな小作料しか入ってこなくなってしまったからです。
更に運の悪い事に、戦争中、在郷軍人会の分会長をしていたという理由で、公職追放となり、それまでお勤めしていた役所も辞めざるを得なくなってしまいました。
失業、超インフレ、新円交換と預金の封鎖、農地解放による所有農地の殆どの没収、そして食糧不足、生活苦といった戦後の十数年の間にこの一家に襲ってきた苦労は並大抵のものではなかったと聞いています。
そしてそれは晃司さんの息子であった私たちの義父、敏生にとっては、非常に辛い思い出だったようで、終生、自らその頃の話に触れることはありませんでした(したがって義父についての話はもっぱら伝聞によっています)。
しかし、傍からみるところ、その時の辛かった経験が、その後のお金に対する異常ともいえる執念や、情熱のエネルギー源になっていたのは間違いないと思います。

 

その12

「へー、お義父様は随分苦労なさったのねー。じゃー、今のようになられるまでには、いろいろおありだったでしょうね。」
「詳しい事は分からないけど、始めは不動産仲介業者だったそうよ。それをしているうちに、仲介しているより、自分で買って転売したほうが、儲かる事を気付いて、良い出物があったとき、思い切って勝負に出たのが良かったんだって」
「勝負に出るって?」「お義父様が商売を始めたときは、ちょうどインフレの最中、良い土地を買っておけば、必ず値上がりした時代だったそうよ。だから思い切って田舎の土地を全部、換金処分して、もっと町の近くの有望な土地へ、買い換えたのが始まりだったそうよ。」「でも田舎の土地ではそれほどお金にならなかったんじゃないの」
「それがそうでもなかったらしいの。その頃はまだ戦後の食糧がなかった時代でしたから、闇で儲けたお百姓さんたちが、結構良い値段で買ってくれたそうよ。無論それだけでは足りなかったから、お義母様の里からも、随分お世話になったとはいってらっしゃったけど」「それだけだったら、それで終わりでしょ。こんなになるまでには、どういう魔法を使われたのかしら」
「きっと、度胸がおありだったんでしょうね。それから後は、買った土地を担保にしてはより大きな土地へ、そしてより利用価値の高い土地へと買ったり、買い替えたりといった事を繰り返しながら、どんどん大きくなったみたい」
「何しろその後、間もなく、ものすごい不動産ブームが来たでしょ。銀行なんて、一年も経たないうちに買った価格よりずっと沢山のお金を貸してくれたそうよ。だからどんどん有望な土地を買い占めて、今のようになったみたい。」
「でもそれだけじゃ、ビルは建たないでしょ」
「そうよね。無論それだけではないわね。口八丁手八丁で、いろんなスポンサーもつけたみたい」
「噂では、若い時は、随分危ない橋を渡った時もあったらしいわ。それにこんな事、お義父様には聞けなかったけれど、かなり強引な地上げに裏で糸をひいたと言った話も他の人から聞いてるわ。
お金儲けって、奇麗事だけではすまないらしいのねー。だからそれを嫌った主人は、大学に残って、研究者の道を選んだらしいの。昔、チラッとそんなことを主人が言ったのを聞いたことがあるわ」
「お義父様はそういった時、非情な面もある人だったわ。何でも農地解放で、お義父様の所が貧しくなった時、昨日までペコペコ頭を下げていた小作人達が、突然、掌を返すように冷たくなって、酷い目に遭わされた事があったとかで、それからは、他人を信じられなくなられたみたい。
『弱い立場の人間だからといって、同情してはいけない、その時弱いからといって、いつまでも弱いとは限らない。弱い奴等も、立場が変わって、強い側にたてば、平気で酷いことをしてくるのが人間なんだから』と、よくいってらっしゃったわ」
「へー、余ほどの事があったのね」
「そう、あの終戦後の食糧難の時、それまでの小作人たちの所に、食べ物を買いに行ったときも、お金を出しても、物をだしても、「地主なんかに売ってやる物なんかあるものか」といって、何も売ってくれなかったばかりか、野良犬でも追い出すみたいに、冷たく追い払われたそうよ。ほんの少し前まで、お坊ちゃま、お坊ちゃまとペコペコしていた奴らからの仕打ちだっただけに、ショックが大きかったみたい」(註:もともと小作運動の激しかったその地方では、戦後一時、まるで共産党革命前夜のような雰囲気だったそうです)
「そりゃー、辛かったでしょうねー。その頃、お義父様はお幾つ位だったの」「まだ中学生で、一番多感な年頃だったのよね」
「それだけじゃなかったのよ。まだ子供だと思ってか、農地解放などで、急に没落してしまったお義父様達家族の事を『昔、何がし、今、いまいましとはあの人たちの事じゃぞ』などと、後ろから、嘲られた事も再々あったそうよ。だからその時の悔しさが、お義父様のその後の頑張りのバネになったみたい」
「『お金がないのは、首がないより劣る』というのがお義父様の口癖だったもの」
「だからね、私も、子供には、財産があるからといって、それに安住することなく、勤勉努力する事と、お金は大切にする事を、頭の中に叩き込んでおく心算。その為に、今からこうして努力しているのよ」

 

その13

「へー。金持ちも大変なのねー。それにしてはあの時、よく小磯の絵画、買うこと許してくださったわね。そんなお義父様ならそんな物、無駄と言われませんでした」
「そう思えるでしょ。でもそうでないのよ。あれはお義父様の発案なの。主人の家系はもともと美術品が大好きだったみたいで、家には古くからの、いろいろな掛け軸があるのよ。お義父様も、絵が大好きで、画集なんかを買い揃えて、楽しんでいらっしゃったわ。だからお宅の案内状で、小磯先生の油絵を見た時、『こんなに素晴らしい絵が、こんな値段で買えるとは!ちょうど泡銭が入った所だから、これで一つ、その絵、買っておくことにするか。私もね、此処まで種川家を盛り返したんだから、その証を、何か一つくらい子孫に残しておきたいと、ちょうど思っていたところだし』と言うことで買ったのよ」
「そうでしたの、だったら奥様の代でも、何かお一つくらい残しておかれたらどう。良かったら、お値打ちなものご紹介させてもらうわよ」
「駄目、駄目、私たちなんか、今の所、財産を維持していくだけで精一杯ですもの、とてもそこまでは手が廻らないわ。それに未だ、私たちなんか、生きた証を、子孫に残せるような資格もありませんし」
「何しろ家は、私が二代目、息子が三代目でしょ。この子の代で又、身上(しんしょう)を潰してしまわないように、しっかり教育しておくのが先決。今はそれだけで精一杯。もし子供がうまく後を継いで、家を守ってくれるようになったら、その時は又良い作品、買わせてもらうわ。悪いけれど、それまでは、目で楽しむだけにさせておいて」ということでやんわり断られてしまいました。
普通、お金が出来てくると、どうしても気が緩み、贅沢になり、本業を疎かにしがちです。その為、多くの成金はその人一代または次の代で、幽霊の尻尾のように消えてしまっています。
その点、何代にも渡って、続いている家柄の家というのは、子供への教育も含めて、日常の心構えからして違っているのですね。
なお、種川家では、自分の代で、この家の存続と繁栄に寄与したと自負できた先祖は、その証として、なんか一つ、その時代を代表する作家の作品を、遺しておかれているそうです。世の中、気の長いコレクションもあるものです。
私もこの奥様の所へ、そんな作品を納入させていただける日が来る事を、心待ちにしております。まだまだ20年以上も先の話ですが、もしその時がきた時、どんな作家の、どんな作品を納入しようかと、今から楽しみにしながら、あれこれ考えております。

終わり

(※注1)身請け・・・遊女などの身の代金や前借金などを代わって払い、その勤めから身を引かせること。
(※注2)在所・・・郷里(ふるさと)のこと。