No.124 反面教師、唐様で売り家と書く三代目 (気の長いある家のコレクション)前編
この話はフィクションです。たとえ似ている所がありましても、偶然の一致で、実際の人物、事件とは、全く関係ありません。
その1
「どなた様ですか」「ピンポン」と鳴らしたインターホンに答えて女性の声。「奥様でいらっしゃいますか。先ほどお電話いたしました、愛美ギャラリーの大木でございます。今、よろしかったでしょうか」と私。「どうぞお入りになって。玄関のドアの鍵は開けてありますから。チョット手が離せないの。悪いけど、ダイニングキッチンにいるから、ここまで上がって来てもらえる」とインターホン越しの奥様のお返事。
この方、以前といいましても、ちょうどバブルが弾けて、美術品全般が、大暴落していた頃のことですが、私どもから、たまたま何かの名簿で拾って出した案内状をみて、小磯良平先生の作品をお買い上げいただいた方です。この奥様、どういうわけか、私の事をとても気にいって下さって、それ以降、特に用がないのに、何かと電話して来られては、いろいろとお話になります。私も又、育ちが似ている為か、年は違っているのですが、この奥様と、とても気が合います。だから商売を抜きにして、個人的なお付き合いさせていただいております。
その2
キッチンでは、ちょうどお子様に勉強を教えていらっしゃった所でした。「いらっしゃい。もう少し待ってね。もう直ぐ終るから」「どうぞお構いなく、別に急いでいませんから。」「智君、今日は、お勉強しているの。偉いねー」「おばちゃん、いらっしゃい。ママ、もう終わり?」「もう少しよ。そうそう、小母ちゃんにも、チョット新バージョン、ご披露しようか。」「はい、二階から?」「目薬」「猫に?」「小判」「犬も歩けば?」「棒に当たる」「負けるが?」「勝ち」「梨下に冠?」「瓜田に靴」「凄い智君!天才。」と私。智君はチョットはにかんでいますが、とても得意そうです。「九九も少し、覚えたのよね」「ハイ、二二ンが?」「四」「続けて」「二三が六、二四が八、二五十、・・・・・・・・・二九、十八」「三二が六、三三が九・・・・・・・・」「四二が・・・・」「凄い、凄い、大天才、凄いなー、今度ご褒美に、何か持って来てあげなければいけないね。何がいい?」「新幹線」「フーン、新幹線ね。分かった」「きっとだよ。小母ちゃん。約束だからね。忘れちゃー、駄目だよ」「分かった。分かった。ちゃんと持ってくるから」智君は3歳半ば、最近やっと言葉の数が増えてきて、きちんと話せるようになったばかりの子です。しかしお母さんである奥様は3歳の手習いだとか言う事で、3歳になった頃より、いろいろ勉強を教え始めておられます。これが不思議な事に、結構いろいろな事を覚えているのです。私が来るたびに、暗記しているもののバージョンが増加しています。「智ちゃん、今日はお客様もいらっしゃっている事だし、もう終わりにしようね」「終り。もういいの。ねー、小母ちゃん、遊ぼ、ブーンして」やっと解放されてほっとしたのか、智君はとても嬉しそうな顔をして私の所に、へばりついてきました。
「駄目よ、小母ちゃんはねー、今日は、お母さんに御用があっていらっしゃったのだから」「良いの。チョットだけ。ねー、ブーンして。」智君は私から離れません。
「ごめんなさいね。この子ったら、大木さんの事、まるで身内のように思っているみたいで。」
「智、止めなさい。そんな聞き分けのない事、言わないの」
「いいわよ。少しくらいなら。さあ、こっちへおいで」
「ほら、行くわよ。ブーン」私は智君の胴体を横抱きにすると、彼の両手を拡げさせ、飛行機の形をさせながら、テーブルの周りを、小走りに歩きました。
その3
「いつも悪いわねー。」数回テーブルを廻っただけで、息が切れて「はあ、はあ」息をしている私に向って奥様は申し訳なさそうに、謝られます。
「いいえ、いいえ構いませんわ。私だって、智君の事可愛くてたまらないもの。それにしても大きくなったわねー。」
「それによく言うことを聞いて、お利口さんねー。でも、今の時代って、そんなに早くからお勉強させなくてはいけないの。少し可哀そうな気もするけど」
「そうよ。今時、どこの家でも、子供少ないでしょ。だからその少ない子供を一人前に育てるのに一生懸命なのよ。幼児教育をするのなんか、常識よ」
「でも、お宅なんか、資産がおありになるから、そんな幼い時から、あくせく勉強させなくても、良いのではないの?」
「貸駐車場だとか、賃貸マンション、賃貸用の店舗などから、毎月ザックザックとお金が入ってくるんでしょ。智君なんか、将来、遊んでいたって左団扇の身分じゃないの。」
「他所様からはそう見えるらしいのよねー。でも、今時の賃貸経営って、そんなに甘くないわよ。競争は激しいし、経費は掛かるし、固定資産税だってバカにならないのよ。その上相続税、これがまた大変なの。何しろ、三代相続したら、身上(しんしょう:財産)がなくなるといわれているくらいなのですから。それを少しでも減らさないように、無事、次の代へと引き継がせていくのは本当に大変な事なの。」
その4
この奥様のご主人は、お義父様がお亡くなりになった後は、不動産賃貸会社の実質的なオーナーですが、名義上では、妻である奥様が代表取締役をして、自分は大学の研究室にお勤めをしていらっしゃいます。
彼女の話によりますと、彼女のお義父様は、とてもやり手で、日本の高度成長期で、不動産の価格が、ものすごい勢いで値上がりしていった時代に、その波に乗り、今の資産を作りました。非常に先を見る目があった人で、それに運も味方をしたようですが、バブル絶頂期に、高騰していた不動産の一部を売却して、借金の返済に充てました。従って、借金を殆ど無くしてありましたから、バブル崩壊に伴う不動産暴落の痛手もあまり受けずに済みました。しかし、賃貸借物件というのは、ある年数が来ると、古くなって参ります。そうなりますと、大改修か、建て替えを考慮しなければなりません。それをしないと、借り手がなくなってしまいます。
賃貸マンションなどは特にこの傾向が強く、新しい所、新しい所へと、皆さん変わっていってしまわれます。このため、古い建物では、借家人が出て行った後、その修理費に、数年分の家賃相当額のお金をかけなければなりません。
他にも10年毎に屋根の防水、15年毎に外壁の全面再塗装なども必要となりますし、又不意に起こってくる水回りの修理費もみておかなければなりません。
それくらいに、いつも修理するように心掛けていませんと、きちんと家賃を払ってくれる人が、入居してきません。
仮に修理費をあまりかけないで、替わりに募集家賃を下げるような事をしますと、家賃をまともに払えないような借家人が入居してくる可能性が出てまいります。
それほど手をかけていても、3,40年も経ってまいりますと、新築との競争は難しくなってまいります。
したがって全面的な大改修か、建て替えかを考えざるをえません。そして困った事には、お義父様が建てておかれた建物の中には、ちょうどその時期に来ているものが沢山あります。その為に、建て替えの費用の工面もしなければなりませんから、結構大変なんです。
その上、もう一つ、頭を痛めているものとしては、お義父様が亡くなられたとき支払わされた、相続税による借金の返済があります。
お義父様が亡くなった時は、バブルがはじけ、相続税評価額も下がっていた時でしたから、以前に比べれば、比較的少なくて済んでいます。しかしそれでも、その金額はかなりの額にあがり、今でも、かなりのお金を返している始末です。「それやこれやと、本当に頭が痛い事ばかりなんですよ。外からは想像できないでしょうけど」と彼女。
その5
「いっその事、売ってしまわれて、そのお金で、相続税を払う事にされたら」
「そんなわけにいかないわよ。私たちの代で、ご義父様から受け継いだ物を、減らしたなんていう事になったら、亡くなったお義父様に、申し訳ないもの」
「私ね、嫁いできてから、ずっとお義父様の秘書みたいな事して、一緒に仕事させてもらってきたでしょ。その時、お義父様から、いろいろお話を伺いましたから、お義父様のお気持ちが良く分かるの。
お義父様が、貧しさから抜け出すのにどれほど苦労されたかということや、どんなに倹しい(つましい)生活をしながら資産を作ってこられたかということ、そしてこの財産に対する思い入れなどがね。」
「財産というのはね、いつも、殖やしていくように心掛けていないと、減っていってしまうという厄介な代物なの。
しかし宅の主人は、あの調子で学者馬鹿でしょ。お金儲けなんかには、全く関心がありませんの。
だからといって、女の私の才覚では、殖やすまでは行かないでしょ。
そこで、せめて減らさないようにしようと、密かに決心していますの。
幸いなことに、主人、お金を儲けようともしないけれど、贅沢もしない人です。だから何とか、まあまあに、次の代に伝えていけそうな気がしています。」
『お義父様からは、「財産なんて、真夏の氷のようにはかないもの。どんな資産があっても、チョット緩めたら最後、すぐ融けてなくなってしまう」とよく聞かされていましたが、
私も最近、つくづくその通りだと思うようになったわ。』
「お義父様の話によりますと、ご先祖様の中には、実際に、そうやって、ちょっと気を緩めた為に、財産の殆どをすってしまわれた方がいらっしゃったそうです。
だから、そうならないために、これからも気を引き締めて、やっていこうと思っています。そして子供にも、質素、忍耐、勤勉、努力といった家に代々伝わってきた教えを、きちんと叩き込んでおかなくてはと思っていますの」
その6
(奥様のお話)
お義父様の家は、江戸時代初期から、この地で代々続いていた地主の家柄です。江戸時代は、せいぜい、こつこつ荒地を開墾しながら、田畑を殖やしていった程度のこじんまりした地主でした。
しかし当時は、厳しい年貢の取り立てがあって、その収入の大半を、もっていかれてしまっていた上に、旱魃だとか、洪水による大飢饉に絶えず見舞われていましたから、非常に倹しい(つましい)生活をしていたにも拘わらず、財産がどんどん増えていく様な事はありませんでした。しかしそのような倹しさと、勤勉努力の家風が、代々受け継がれてきたおかげで、多少の財産の増減はあったにしても、極端に財産を減らすようなこともなく、何百年もの間、代々の地主として、生き残ってきた家柄です。
この家に、今から150年程前、私達の代から遡ること第4代に、札右衛門という人が出てまいりました。この人、非常に目端の利いた人で、江戸末期から、明治初期にかけての政治体制の変換による大動乱の時期、それに乗じて急激に資産を殖やしました。その頃、一時でしたが、地租が非常に高かった時期がありまして、そのあまりの高額さに、土地を持つことの将来に見切りを付けた地主が沢山でてまいりましたが、そういった人々から、田畑を廉い値段で買い集めることによって、その地方屈指の大地主にまでなりました。しかし札右衛門さんは、大地主となった後も、その生活を変えようとしませんでした。代々受け継いできた家風に従って、質素、倹約を旨とし、華美を禁じました。食事は特別のとき以外は一汁一菜、身につけるものは木綿、朝はまだ星が出ているうちから、夜は星空になるまで外で働き、夜は遅くまで、夜なべ仕事といった生活をしていました。だからといって、ただのケチではありません。ただ無駄なお金を使わなかっただけです。札右衛門さんは、私財を投じて、自分の土地だけではなく、その地区全体の用水池と用水路の整備に努めました。又不作の年などは、年末になると、そういった年のために備蓄しておいた餅米を、小作人たちの家に配って歩いたりもしました。
その7
息子の鉄三郎さんも幼いときからそんな父親の薫陶を受けていましたから、非常に倹約家で、勤勉だったそうです。
しかし子供のときから、大地主の息子さんとして育てられ、周囲からもその目でみられ育ってきた彼は、父親のような事はありませんでした。
迎えたお嫁さんの心構えも違っていました。
お嫁さんは、ふさのさんといいましたが、彼女の実家は、村に入ってからは、他人の土地を踏まなくて、家へ帰ることができるといわれているほどの、桁違いの大地主であった上に、海産物問屋をしていた商家でもありました。
従ってどちらかというと、鉄三郎さんの家より贅沢で、自由な気風の家で育ってきました。だから生活はどうしても、華美にながれがちでした。
それでも、札右衛門さん夫婦が目を光らせていた時は、舅、姑に対する遠慮もあり、まだそれほどでもありませんでしたが、札右衛門さんご夫婦が亡くなりますと、歯止めがなくなり、ごく自然に、贅沢が生活の中に、忍び込んでまいりました。
その上まずい事には、その頃になりますと、周りの人間が、金持ちの息子、鉄三郎さんの事を放っておいてくれなくなりました。
村の顔役として、いろいろな名誉職を押し付けてくるようになりました。
その為、お付き合いの金も増えましたし、あちらこちらに顔を出して、ご馳走を食べる機会も多くなりました。
郡会議員にもなりましたから、衣服にもお金が掛かるようになりました。
そうした影響もあって、家での食事は、以前とは比べものにならないほどに、贅沢なりました。
着る物も、いつの間にか、絹織物が使われるようになってきました。それでも、鉄三郎さんの代の間は、鉄三郎さんが、幼い時から、倹約、勤勉を叩き込まれてきましたから、入ってくるお金を考えずに金を使うといった、そういった事まではしませんでした。また沢山の名誉職を引き受けながらも、家業を疎かにするような事もしませんでした。したがって彼の代も、資産が減らすような事なく、子孫にと財産を伝えました。
その8
所がこの鉄三郎さんの後の淳一さんの代、札右衛門から数え手3代目に当たりますが、彼の代になりますと、ガラリと様子が違ってまいりました。
淳一さんは、4人兄弟の末っ子でしたが、上は皆、女性でしたから、たった一人の男の子として、長男として、とても大切に育てられました。
淳一さんが生まれた頃の鉄三郎さんは、公私ともに忙しい身で、家の中の事にまでは手が廻りません。
従って躾だとか、教育、家計のやりくりといった家の中の事はすべて母親であるふさのさんにまがせっきりになっておりました。
ところがこのふさのさん、お嬢さん育ちで、子供の時から甘やかされて育てられていて、贅沢に慣れておりました上、商家で日銭がはいてくる家で育てられましたから、金銭感覚が多少鈍い所がありました。
その上、自由で、のびのびした家風の中で育てられましたから、子供達にも、あまりガミガミと言うような事はなく自由に育てました。
従って、どの子ものびのびした子に育っていますが、どちらかというと、贅沢で、気侭でした。それでも姉達はまだ、子供時代、姑さんが健在でしたから、良家の子女としての、普通の躾は受けておりましたし、種川家の家風も多少は受け継いでおりました。しかし淳一さんが育つ頃になりますと、そのお姑さんはもう亡くなっていて、いませんでした。淳一さんはただ甘やかされ、自由気侭、我侭一杯に育てられました。結果、金銭感覚の殆どない贅沢三昧な道楽息子になってしまったのでした。
それでも、父、鉄三郎さんが、もう少し長生きしてくれ、二人が一緒に仕事をしている期間が、もうすこし長ければ、又違ったのでしょう。
しかし不幸な事に、鉄三郎さんは、諄一さんが、大学を出ると間もなく、亡くなってしまいました。彼は、世間の事も、仕事の事も、まだあまり知らないうちに、25歳ソコソコで、突然に家督を継ぐことになってしまったのでした。
(※)売家と唐様で書く三代目(うりいえとからようでかくさんだいめ)
初代が苦労して作った家屋敷も、3代目となると売りに出すことになる。商いをおろそかにし、中国風の書体などを凝って習ったおろかさが「売家」のはり紙にあらわれていることを皮肉った句。<<広辞苑より>>
初代はその財を築くために、それこそ夢中になって働いて、文字を習う暇もないほどであったが、その子や孫はその財産を使うばかり。そのうちには悪い遊びも覚え、3代目あたりになると財産といえば自分の家くらいしか残らなくなってしまう。ついには、その家までも手離さなければならず、ただ一つ身についた腕で、売家という文字を唐様のしゃれた書体で書く。祖父の忍苦を忘れて、孫の代で無残に財産を使い果たす意味の川柳。名家や富豪と評判の家で、3代目につぶれる家が多い。
語:唐様=明(みん)の書風をまねた漢字の書体。