No.122 病んでなお 夢は絵の中、駆け巡る その2(ある老コレクターの話)

このお話はフィクションです似たような名前、事柄がありましても、偶然の一致で、実際の事件、人物とは関係ありません。

 

その5

小父さんが、便所に立っていかれると、それを待っていたかのように直ぐ、小母さんが切り出されました。
「実はね、あの人が買っておいた絵、今から2年前、次男が開業する時、開業資金の足しにと、あの人に無断で、殆ど売ってしまったの。
どうせあの目でしょ。もうはっきり見えないのだから、ばれることはないだろうと思って。でも万一のために、額の中には、本物の絵画の代わりに、そのカラーコピーがいれてあるわ。だから箱を開いた時、びっくりしないでね。話も合わせてくださらない。」
「あの人、本当に絵が好きで、買った絵の事、今でもとても良く覚えているらしいのよ。ほかの事はずいぶん呆けているのにね。今までも、時々見たいと言って聞かないことがあったわ。だけど、私一人では、あんな重いものを、此処まで運んでくるのも大変なら、絵を箱から出したり入れたりするのも一苦労でしょ。だから、又誰か来たときに見ようねといって、今までごまかしてきたのよ。うまくやって下さいね。お願い。」と小声で言われます。

 

その6

倉庫の中には、絵の入っている箱が、20点近く、並べられていました。箱に書かれた作家名は、小磯良平、梅原龍三郎、藤田嗣治、荻須高徳、織田広喜、東山魁夷、中島千波、林武、ロートレック、ルノアール、ピカソ、シャガール、セザンヌ、棟方志功などなど、そうそうたる名前ばかりです。
小父さんを倉庫に連れていらっしゃった小母さんは、窓際に椅子を置くと、「お父さん、それじゃ、此処に掛けて見ることにしたら。でもあんまり根をつめたら駄目よ。えらくなってきたら、直ぐに言ってね。それではご迷惑でしょうが、あけみちゃんお願いします。絵は光の加減から、この辺りにおいていただくと、良いと思うけど、どうかしら。何かお手伝いする事あったら、させてもらうから言ってね。」と言いながら、椅子から1,5メートルくらい離れた場所を、指差されます。

 

その7

「小父ちゃん、本当に、すごい人の作品ばかり集めたのねー。これならお金がかかったのも頷けるわ。でもピカソや、ルノアールなんか、当時だって、億じゃ、きかなかったんじゃない。」といいますと、
「無論外国の物は、油絵じゃないよ。しがない歯医者風情がそんなもの買えっこないからね。でもどうしても欲しかったから、版画でも良いからといって集めたわけ。でも版画としては、超一流の作品ばかり集めた心算だけどね。」
「そう、で、どんな作品なの。」
「それ。その箱の上、見てもらえば分かると思うけど、ルノアールだったら、“落ち穂拾い”、“花飾りの少女”、ピカソは“ランプ”だとか、“貧しき食事”、シャガールだったら “ダフネスとクロエの中の、バッカスの宮殿、サイン入り”、セザンヌの“水浴”といった具合に、代表作ばかり集めてはあると思うけど。」
「フーン。すごいねー。そりゃ下手な画商より、よほど良いもの持っていらっしゃるわ。」「お元気になられたら、又じっくりみせてね。」
「で、今日は、どれから見てくれるかな。」
「そうですね。お身体に触っても行けませんから、今日は、数点見せてもらうだけにしようと思うけど、どうかしら。小父ちゃんが、今一番に見せたいと思っている作品はどれかしら。」
「そうだなー。じゃー、まず小磯先生の作品からみてもらおうか。」
言われるままに小磯先生の名前の書いた箱の中から作品を出し、小父ちゃんから、1.5メートルくらいの所に立てかけました。小父ちゃんは、椅子に掛けたまま、身を乗り出すようにしてその絵に見入っておられます。
伯母ちゃんから聞いている話では、「
絵を見せても、今なら、色の塊とその輪郭が漠然と見えている程度だから、1.5メートルも離れた所に置いて、額のガラス越しに見せるだけなら、絶対に分かりっこないから大丈夫よ。」
と言われてはいましたが、あまり熱心に見ておられるので、コピーに替わっているのが、今にもばれるのではないかと、こちらはひやひやです。
「この絵はねー、今からもう40年以上も前に買った絵だけど、私の一番好きな絵でねー。確か田舎の小さな歯科診療所から、ここに引っ越してきて間もない時に買ったんだよなー。」と小父ちゃんは、小母ちゃんに同意を求めるように言われます。
「そう、まだ此処の診療所に移って間もない頃で、患者さんがやっとついてくるようになり、経済的に、なんとかやっていける目途がついたばかりの時だったわ。私はまだ、そんな事に大金をつぎ込むことに反対だったのだけど、お父さんは、どうしてもほしいといって、きかなかったのよねー。」
「この紺絣の着物を着た、モンペ姿の少女が醸し出している、清純な雰囲気。しかしその時代を背負って、いろいろな事に耐えているような凛とした顔つきを見ていると、胸がキューッといたくなると同時に、たまらない懐かしさを覚えるんです。だからどうしても欲しくなってしまってね。
あけみちゃんのお父さんなら知っていると思うけど、昔の女は、皆そうだったんだよね。母親のように、悲しみや苦しみを背負い込んで、優しく包み込んでくれるような所があったんだよなー。
この絵は、私の青春時代の淡い思い出の、一ページでもあるんだよ。懐かしいなー。
あの学徒動員にいっていた先で、大空襲に遭った時、一緒に防空壕に逃げ込んだ、あの女学生,その人に面影が似ているんだけど、あの人、今どうして、いるだろうなー。」
「憎らしいでしょ。いつでもこの絵を見ると、こんな事を言うのよ。そんなもの、今頃は私と同じような、お婆ちゃんになっているに決まっているのにねー。」と冗談めかしていわれる小母ちゃん。
でも目は笑ってはいません。女ですから、幾つになっても、他の女性の事を言われるのは、嬉しくない様子です。
「お母さんも、良く辛抱して、やってくれていると思うよ。こんな俺に、よくついてきてくれたと、何時も感謝しているんだから。」と小父さん。
「お世辞ばっかり。本当はそのひと(女)こと、今でも思っているくせに。」
「あほらし。戦争中の事だもの、手も握ってないわ。爆撃の、あの命の瀬戸際に立たされた一時を、肩を寄せ、見詰めあいながら、恐怖の時間を共有しただけのひと(女)だよ。それも今となっては、もう遠い、遠い昔の、淡い思い出の中の一ページでしかないんだから。今は何よりも、お母さんが一番。お母さんあっての、俺だと、何時も感謝しているんだから。」
といいながら、小父ちゃんは、慌てて話題を変えられました。
「ではあけみちゃん、次は荻須先生の絵を見せてくれない。」と。

 

その8

「あけみちゃん達より、年下の人にとっては、外国旅行なんて、珍しくもない事だろうけど、小父ちゃん達のような、年齢の人間にとっては、外国は、やはり遠い異国で、高嶺の花。結局、憧れだけで、終ってしまっている人の方が、多いんだよねー。小父ちゃんも本当は、芸術の都パリに、一度は行きたかったのだけど、この調子じゃ、結局行けずじまいで、終ってしまいそうだなー。あけみちゃんは、パリは?」
「商売の関係で、時々行っているよ。」
「どう、いい街。いろんな画家が、あれほどほれ込んで、画材にしているんだもの、悪いはずはないわなー。」
「この荻須の絵を見ていると、あれほどいろいろな画家を惹きつけて止まなかった、パリの街の息吹きが、今にも聞こえてきそうな気がしてねー。
限りなく惹きつけながら、それでいて冷淡に突き放してくる、そんなパリの街の冷ややかさや、外見、華やかな街並みから伝わってくる、街の憂鬱、そして異邦人故に感じる、哀愁と孤独が、ひしひしと伝わってくるような気がして、どれだけ見ていても、飽きないのだよ。」といいながら、うっとりとした顔つきで見ていらっしゃる姿は、まるでパリの街角に立って、実際にその街並みを、眺めていらっしゃるかのようです。
「本当はね。医院を辞めたら、二人で、パリにいく予定だったんだよなー。だけど俺がこんな具合になってしまったから、行けなくなってしまって、こいつには、ほんとに悪い事したと思っているよ。」といかにも残念そうに小父さん。
「大丈夫よ、お父さん。替わりに私は、香港に行かせてもらっているから。私は美味しい物を食べる事と、買い物以外は、あまり興味ないから、香港で充分。」と小母ちゃん。
「そうなんだよなー。この人は、こういった方面には、全く興味がないんだよなー。もし俺が死んでしまったら、この集めてあるもの、その後、どうなってしまうのかと思うと、心配でねー。
変な風に処分してしまわないように、ひろみちゃん、ちゃんと見とったってね。頼むね。」
と頼まれる小父ちゃんの真剣な顔。本当に、絵を愛しておられる、その姿を見ていますと、もう既にカラーコピーに替わってしまっているものを見せている自分が、まるで詐欺の共犯者になったような気分です。なんだか小父ちゃんに悪くて、胸が痛く、これ以上、絵を見せるに、忍びなくなってしまいました。
そっと小母ちゃんの方を見てみますと、小母ちゃんも、悪そうな顔をして、ウインクしながら、片手で拝むようにして、謝っておられます。「うん分かった。きちんとしてあげるから大丈夫だよ。
それに滋さんにしても、聡さんにしても(小父さんの子供達)、もう少し経って余裕が出来ると、こういったものに、興味が出てくるようになると思うしね。だから小父ちゃんが、それまで頑張って、生きていてあげなくちゃ。」

 

その9

「小父ちゃん、草臥(くたび)れたんじゃない。もうそろそろ下に降りようか。」
「いや、まだ大丈夫、次は藤田先生のを出してくれ。」
「この小鳥を持った少女、口を少し尖らせて、いかにもおきゃんという感じが出ていて、可愛いと思わない。
藤田先生の描いている子供って、きっと先生の心の中に住んでいる、先生の子供達なんだろうなー。(註4:藤田先生に本当の子供はいません)
男の子も女の子、みんな可愛いけど、特に女の子が可愛いよね。ちょっと澄まして、これから入っていこうとする、大人の世界を見据えているような、思春期前の少女像にしても、おきゃんで、今にもお喋りし出しそうな、少女の姿にしても、初めてモデルになって、緊張し、画家の方を見詰めながら、よそ行きの顔をしている、あどけない幼い女の子の顔にしても、皆、皆可愛いねー。」
「小父さんは、女の子がいなかったから、藤田先生が自分の描いた子供たちに注いでいる愛情が、分かるような気がするのだよねー。」(註5:そういえば、藤田先生の言葉に、私の描く子供たちは、私の心が生み出した子供たちであるといったような言葉があったような気がします。)
「そうそう、あけみちゃんも小さいとき、結構おきゃんで、おマセで、小悪魔みたいな所があって結構、可愛かったなー。
小父ちゃんなんか、あけみちゃんに引っ張りまわされていたもの。それが嬉しくて、何時もあんたに、お土産持っては、会いに行っていたけど、もう、覚えていないわなー。随分昔の事だからなー。」
「そんな事ないわよ。だって何時も、とても珍しい玩具持ってきてくれていたもの、忘れるはずないじゃん。あの歩いて話す人形だとか、バービー人形なんか、まだ、ついこの間まで、宝物みたいに、大事にしていたんだから。」
「そー、それなら嬉しいけどねー。そう言えば、小父ちゃんが悪くなってから、時々顔を覗かせてくれるの、あけみちゃんだけだもんなー。ありがとな。」
「別に、いいよ。小父ちゃんの事、心配で、顔出しているだけでから。」
「ところで小父ちゃん、随分、根を詰めて見るから、疲れたんじゃない。もうこの辺で止めにしようか。」
「うん少し疲れたかな。でももう一枚だけ、見せて。」
「そうそれなら、どれにする。でも、もうこれっきりにしようね。後で、身体がえらくなるといけないから。」
「そう。もうそれっきりにしてやって。又この間みたいに救急車を、呼ばなきゃーならなくなったら、困るから。そういえば、この人、あまり大き過ぎて、救急車に入らなくて、消防自動車の指揮車で病院に運んでもらったのよ。救急車は只だけど、消防自動車だとお金取られるのよねー。あけみちゃん知っていた。」とおばちゃん。
「へー、そうなの。知らなかった。それじゃー、ますます大変だ。じゃー、この次で本当に終わりにしようね。」

 

その10

「そうだなー、後一枚と言うと、迷うなー。東山先生のも見たいし、棟方先生の絵も見たいし、梅原先生の絵もいいしなー。うーん、どれにしょうかなー。そうだ、あけみちゃんにとっては、つまらないかもしれないけど、やはり、ピカソの貧しき食事を見せてもらう事にするか。無論、それって、初版の高い方の版画じゃないけどね。」
(注6:ピカソの貧しき食事は、最初に、銅版をおこしたその時、アルシュ紙に刷られた約30部位の(この最初に刷られたものは、販売目的でなかったために、部数が確実ではありません)作品と、後に、ボラールによって版潰れを防ぐメッキをしてから刷られた和紙27部(29部かも)のものとVan Gelder紙に刷られた、250部のものがあります。無論メッキ前に刷られた分は、殆ど市場に出てこず、もし出てきたとしても、その価格は1億円近いお金がいるといわれております。}〔註7 版画の歴史(メルマグ連載記事):ダッドアート発信:参照〕
「どう、この確かな描写力と技術、これが弱冠22歳のときの、二作目の銅版画というのだから、驚きでしょ。ピカソが並の画家でないことを良く示していると思うんだよなー。まだ世間に認められるに至らず、貧しさの中、野心と挫折の間(はざま)で揺れ動いていた頃の、ピカソの心情がよく投影されていると思わない。青年期特有の、野心と自負心が、世間という壁に当たって挫折し、その苛立ちと、焦燥の中、世間に背を向け、虚無の泥沼をもがきながら、冷やかな目で貧しさを見据えているようにみえるこの絵に、強く惹かれるんだよねー。
戦後のあの物のなかった、自分たちの青春時代の、屈折した感情と重ね合わせて、考えているからかも知れないけどね。
ピカソは、キュビズムという革新的ジャンルの作品を生み出したという点で、確かに偉い画家であり、またその時代の作品は、絵画史の上から、非常に面白いとは思うけど、心に響く作品としては、小父ちゃんは、やはりこういった青の時代の作品を推すなー。こんなこと、専門家に言っちゃ失礼だけど。」と力説されます。
そこには、あの生気(せいき)を失ったような顔をして、床の上にだらしなく、横たわってらっしゃった、呆けたような姿はありません。
昔の、あの愉快で闊達だった頃の小父ちゃんが、戻ってこられたかのようです。目まで、きらきらしてきています。
「すごいねー。よく知っていらっしゃるので、私のでる幕なんかないわ。それにしても、物凄い記憶力。ぜんぜん普通じゃないの。小父ちゃん素晴らしい。」
「それがねー。不思議な事に、自分が好きだったもの話や、昔の話になると、良く覚えているのよ。でもねー、最近の出来事や、それほど興味がなかったことは、すっかり忘れてしまっているの。悲しいでしょ。」と小母ちゃん。

 

その11

「小父ちゃん草臥れたでしょう。今日はもうこれで、終わりにしようね。なんだか、げっそりした顔に、なっちゃっているよ。」
「うん、分かった。確かに、少しえらくなったかもしれん。もう横になりたい。お母さん、早く、下につれていってよ。」
「あけみちゃんありがとね。でもこうして、絵を見させてもらうと、折角、諦めようとしていたのに、この世への未練が残ってしまって困るなー。」と、小父さんは、とても寂しそうな顔されます。
そこには本当に絵画を愛し、それを集めてこられた、真のコレクターの姿がありました。自分がコレクションした絵に関しては、目が見えなくなり、実際には見ることが出来なくなっている今でも、その絵の大まかな輪郭と、色の塊と言った視覚的刺激があたえられただけで、本物の絵が、眼前に再現されてくるようです。その絵と、その絵にまつわる思い出について語っておられる、そのお姿は、いかにも幸せそうです。
実際に見ておられるのは、本物とは似ても似つかない、カラーコピーであるにもかかわらずです。小母ちゃんも罪なことをされたものです。これほど愛しておられたものを、生木を裂くように引き裂いて、内緒で売り払ってしまわれたのですから。
売られた絵に、もし心があったなら、絵のほうも、「小父ちゃんのところに、帰りたいよー。」と、泣いているかもしれないとさえ思えます。
何しろそれほど愛されていたのですから。
それでも考えてみれば、小父ちゃんは幸せな人だったと思います(皮肉じゃなく、本心でいっているのです)。
若いときに、好きな絵画を集めておかれたお蔭で、病んでなお、好きな絵の世界の中を遊び回っておれるという、こんな心豊かで楽しい、人生の終末期を、迎えることができたのですから。しかも妻の背反(はいはん:そむき従わない事)によって、自分の愛したコレクションが、知らないうちに、無価値な紙くずと替わってしまっているにもかかわらず、これまた、病気のお蔭で、まったく気付かないままに、人生を終っていけるのですから。

おわり