No.121 病んでなお、夢は絵の中、駆け巡る その1(あるコレクターの物語)

このお話はフィクションで、類似した部分があったとしても、偶然の一致で、実在の人物、事件とは関係ありません。

 

その1

私の子供時代から、とてもお世話になっていた方が、ここ4~5年前から、お体を悪くされて療養しておられたのですが、最近容態が急変して、一時危篤状態に陥られたとお伺いしましたので、早速お見舞いに上がりました。
この方、父の友人の一人ですが、女のお子さんがいらっしゃらなかった為か、私のことを、とても気に入ってくださっていて、自分の子供のように、小母さんの説によりますと、自分の子供以上だったそうですが、それくらい大変に可愛がってくださいました。
幼かった頃には、背丈よりも大きい熊さんの縫い包み(ぬいぐるみ)だとか、お話をし、手を繋いでやると、一緒に歩く事ができる、子供時代の私の背丈くらいもあった人形、小学校に通うようになってからは、バービー人形と衣装セットなどといった、ずいぶん高額で珍しい玩具を、お土産として持ってきてくださったものでした。
高校、大学に通うようになってからでも、訪ねて行くと、とても喜んでくださいまして、小母(叔母)さんや私の両親には、内緒ということで、びっくりするような額の小遣いを、そっと手渡して下さったものでした。
私が画商になった時なども、とても心配してくださって、最初のお客として、織田広喜先生の絵を一枚買って下さったばかりか、小父(叔父)さんの友人を紹介してやるといって、わざわざ和歌山まで一緒にいって下さいました。
この小父さん、歯科医院を経営していらっしゃいましたが、70歳の声を聞いて間もなくの頃より、今から5年位前のことですが、目が不自由になり、このまま診療を続けるには、誤診が心配だからと、引退されました。
人間、働けるうちが花とは、よく言ったもので、歯科医院を閉院されました後、まもなく、身体のあちこちの故障が、急に表に出てきて、床についてしまわれました。
以前はとても陽気な、気遣いのよくできる、楽しい方でしたが、寝込まれた後は、気分的に落ち込んでしまわれ、何時も気難しい顔をして、愚痴や繰言ばかり言っておられると聞いております。
先日、お見舞いに行ってきたばかりの、父の話しによりますと、「もう病気の方は、大分持ち直し、以前と変わりないほどになってきておられるが、気分的な落ち込みが酷いので、そちらのほうが問題だろうな」との事でした。
しかし糖尿からくる腎機能障害のために、美味しい物も食べられず、両眼の糖尿病性網膜症のために、物もはっきりと見えない,その上、足もかなり不自由で、歩くのもままならないという話ですから、気が滅入っておられるのも、当然なことだろうと思います。
この小父さん、とても勤勉な方で、歯科医院を経営していらっしゃった頃は、朝から晩まで、仕事一途、他に道楽といっても、せいぜい色々な展覧会に行ったり、画集をみたり、絵画を時々、買っておられたりした程度です。
後は子供を医師にする夢の実現と、自分の資産を増やす事に、全力を傾倒され、それだけで、一生を終ってしまわれたといった感じの方です。
お子さんは男のお子さんがお二人ですが、お二人とも、小父さんの希望通り、医学部に進学され、今では巷でも、かなり評判の良い開業医となっておられます。

 

その2

訪ねていったとき、小父さんはちょうど、うとうとと寝ていらっしゃいました。あのダンディだった小父さんが、骨と皮ばかりになり、大きな身体を折り曲げるようにして、オシメ姿の下半身をむき出しに、床の上に直接、寝転がっていらっしゃる姿は、あまりにも惨めったらしく、哀れです。
小母さんの話では、何をしても気に入らず、頑固で、へそ曲がりな事ばかり言うので、ほとほと困り果てているとの事でした。
食べ物も、カロリーに気をつけるだけでなく、カリュームの摂りすぎにも気をつけなくてはならず、何を食べさせたらいいのか見当がつかないとこぼしておられました。
「それじゃ一時、入院させてもらわれたら。そうでなければ、小母ちゃんが大変じゃない。このままやっていたら、小母ちゃんまで、参ってしまうんじゃないの。」と言いますと。
『それがねー、小母ちゃんだって食事のやり方が、分かるまで、入院していてほしいと思ったわ。でもねー、この人ったら、点滴は嫌だといって暴れるは、タバコは隠れて吸おうとするわ、食事は、まずくて食べられないといって、ぶち空けてしまうわで、看護婦さんたちに、愛想を尽かされてしまってねー。「これ以上、此処にいてもらっても、手の打ちようがないから。」と、体よく(ていよく)家に追い帰されてしまったのよ。』
「そうかといって本人は、そんな事、殆ど覚えていないらしくて、けろっとしているのよ。いい気なものよねー。」
「最近は物忘れもひどくて、人の顔もなかなか思い出せないことがあるらしいの。貴女に対しても、多少、失礼な事があるかもしれないけど、その時は病気に免じて許してやってね。」と小母さん。
「そんなこと構わないけど、それより、小母ちゃんこそ大変だねー。入院が駄目なら、いっそ介護の人でも、頼まれたらどうかしら。」
「それがねー。この人、他の人にしてもらうのは、嫌だと言うのよ。だから手抜きをしながらでも、私がするより仕方がないのよね。まあ、どうせお互い年だから、何か起こっても、その時は、その時と、度胸を据えて、できる範囲でボツボツやっているわ。」と言われますが、あれほど身だしなみに気をつけておられました小母ちゃんが、パーマもかけておられず、髪も白いまま少し撫で付けただけ、口紅もしておられない状態から考えますと、本当のところはきっと、大変なんだろうなと察しられ、それ以上言葉も出ませんでした。
ただ救いは、この小母ちゃん、生来楽天的なところがあり、こんな事態でも、深刻ぶらず、案外明るく振舞っておられる事でした。

 

その3

こんな話をしていたとき、小父さんが目を覚まされました。「小父ちゃん今日は、あけみだよー。分かる。」と言いますと、
寝起きで、しばらくは怪訝な顔をして、こちらのほうを透かすように、見ていらっしゃった小父さんが、やがて、弱々しげな笑顔を、向けられると、「あー、あー、あけみちゃん、良く来てくれたねー。どう、画廊の方はうまくいっている。」と力のない、しわがれ声が返ってきました。
「あれっ、この間、浩子(お孫さん)が来た時は分からなかったのに、あけみちゃんのことは分かるの。浩子が聞いたら、ずいぶんがっかりするだろうね。」と小母ちゃん。
「そんなもん、分かっとったよ。ただ、とっさに名前が出てこなかっただけだが。」
「あけみちゃんって,大田君とこのあけみちゃんだろ。あの画廊やっとる。」と小父さん。「うん、そう、そのあけみ。お陰で何とかやっているよ。それより、小父さんのほうこそ、大変だったんだってね。身体大丈夫、もう、えらくない。」
「うん、そんなにえらくもないし、痛くもない。調子は悪くないよ。ただこいつが(小母ちゃんのこと)煩い(うるさい)のと、食事が“どまずい”のだけが困るけどね。」と小父ちゃん。
「でも、小父ちゃん、あんまり我侭言ったら駄目だよ。病気なんだから。病院の方だって困っていたそうよ。」
「こいつ等、何を言っとるか知らんが、困らせるような事、何にもしとりゃせんがねん。看護婦さんだって、お医者さんだって、皆親切にしてくれとったぜ。看護婦さんなんか、皆、特別に、何度も、顔を出してくれていたぜ。俺が、あんな窮屈な所に,あれ以上いるの、我慢できなんだから、自分で、帰って来ただけだがね。」と小父ちゃん。「よく言うよ。あんた、何にも覚えてないから、そんな事言えるけど、本当は、言う事、聞かないから、嫌われて、追い出されてきたんだから。」と小母ちゃん。「そんな事あるか。お前等は、何時もそんな風に、俺の事を悪く言う。」小父さんは自尊心を傷つけられて、むっとした表情で、返されましたが、語調はすこし、不安そうで、力がありません。
「そうだよね。小父ちゃん、昔から、女の人に好かれていたもの。看護婦さん達にだって、今でも、モテモテなのに、そんな事あるはずないよねー。」と私。
「ところで、この暑さ、毎日、大変ねー。小父さんは、冷房はいれないの。」と言いますと。
「息子が新しい、あれ、ほれ冷暖房両方に使える奴。」
「エアコンの事。」
「そうそのエアコンを新しいのと、付け替えてくれたんだけど、かけると寒くてねー。」
「この暑いのに、寒いの。熱があるんじゃない。」と私。
「熱なんかないのよ。どうしてかしら。この夏だというのに、この人ったら、寒いからといって、冷房、絶対に入れさせてくれないのよ。窓を開けるだけでも、寒いといって怒る時があるの。一体、この人の身体、どうなってしまったのかしらね。」と小母ちゃん。
「寒いから、寒いと言っているだけなのに、こいつったら、こんな所には、暑くておれんと言って、苛めるんだよ。」
「そんな事言うけど、あけみちゃん聞いてよ。この人ったら、絶対に、冷房入れないものだから、この部屋、まるでサウナ状態よ。そんな所に長い事居れと、言うほうが無理よねー。」
「だから、夜は、別の部屋で、寝ることにしているの。そうすると、傍にいないからと言って怒るのよ。でもこの部屋で、一晩中いたら、もう蒸し饅頭になって、身体中ふやけてしまうわ。」と小母ちゃん。
「本当に我侭で、へそ曲がりなんだから。こんな床(ゆか)の上に、直接寝かしておくなんて、変だと思うでしょ。だけどベッドだって、ついこの間、買ったのよ。そのほうが立ち上がるのに、楽だというから。電動式の上等の奴をね。でも三日も経たないうちに、この床の上で、直接寝たほうがいいといって、聞かないんだから。所が今時、物って、簡単に棄てられないでしょ。やむを得ず、4階の座敷にしまっておく事にしたんだけど、4階まで運んでもらうのも大変だったんだから。
その上、何の役にも立たないベッドに、一部屋、占領されてしまうことになってしまって。
ほかにも見てよ。あそこにおいてある、マッサージ機にしても、歩行補助車にしても、皆、三日坊主で、使わなくなってしまって、そのまま放ってあるものばかりなんだから。
今度から、物を買うときは、よくよく考えてからにしてくださいね。」と小母ちゃん。
「あれがあったら、少しは、楽になれるかと思ってだがね。身体がえらいもんで、少しでも、楽にならんかと思って、いろいろ試したくなるんだよ。一生働いてきたんだから、それくらい、自由にさせてくれても、いいんじゃないの」と少し哀願調に小父さん。
「お金が惜しくて、言ってるんじゃないの。今はねー、物を棄てるのも大変だという事が言いたいの。だから、思いついたら直ぐ買うというのは、止めてといっているのよ。」と小母ちゃんは、決め付けるように、断固とした態度でいわれます。
その時の二人のやり取りだけしか、知らなかった私には、その人生の大半を、仕事と家庭の為にだけ費やしてこられた小父さんなのだから、人生の終末近くになった今、多少の我侭なら、聞いてあげても、良さそうに思え、なんだか小父さんが、気の毒に感じられました。
しかし小母ちゃんの後からの釈明によりますと、「あの人に、あんな風に言っているのを聞くと、私の事、なんだか薄情に見えて、あの人が、気の毒に思えるでしょ。
でもね、あの人、もう今では、子供に返ってしまって、欲しいと思ったら、何をいっても聞かなくなるのよ。
今まで買ったものだって、使わなくて、放ってある物、どれだけある事やら。
もう置く所がない程なの。
あれくらい言っておいても、次便利になる物の話をきいたりすると、又買うといって、聞かなくなるのだから。」だそうですから、小母ちゃんの言われるのも最もかもしれません。

 

その4

「良く来てくれたねー。小父ちゃん、あんたが画廊を始めた頃にはもう、患者さんも減り始めていて、あんまり力に、なってやれなかったけど、その後どう。順調。」
「うん。先ほども言ったけど、何とかやっている。」
「フーン。で、今は、どんな絵が売れているの。」「どんな絵といっても、その画廊によって取り扱っている絵も違っているし、一概には言えないけど。でも業界全体の傾向から言うと、最近は外国絵画で名の通っている作家達の、名作に人気が集まっているみたい。中国だとか、ブラジル、インドといった新興国のお金持ちコレクターの影響かなー」
「フーン。それなら、おれは多少先見の明があったかもしれんなー。」
「小父ちゃんは、何を集めていらっしゃったの。」
「何ということなしだがね。画廊さんが持ってきてくれる物の中で、一流の作家の、特に自分が気に入った作品を、買ってきた心算(=心積もり)。だから、当時としては、ずいぶんいいお値段を、払わされたけどね。」
「そういえば、あけみちゃんにも一遍、見てもらおうかな。今だったら、幾らくらいになっているのかなー。大分下がっていたと聞いていたけど、最近、少しは戻ってきたのかしら。」と小父さんが、切り出されます。
その横で小母ちゃんが、困った顔をして盛んに目配せをされます。
どうしてそのような合図をされるのか、その時の私には、分かりません。
てっきり、保管場所から、此処まで運んでくるのが大変だから、止めて欲しいと、言っておられるのだと思って、
「小父ちゃん。絵を倉庫から、ここまで運んで来るの、大変そうだから、又今度にしようか。」といいますと、
小母ちゃんも、「そうよね。あけみちゃんも、忙しい身だから、そんなに時間もないだろうし。」といわれます。
しかし小父ちゃんは、「いや、絵の置いてある倉庫の方に、俺が行くから、大丈夫。小父ちゃんも久しぶりに、見たいし、あけみちゃんも、少しくらいなら付き合ってくれるだろ。」と言ってきかれません。
頭を振りながら、ウインクして、何とか止めさせるように持って言って欲しいという顔をされる小母ちゃんの姿に、
「でも小父ちゃん、まだ、この間ずいぶん悪かったばかりだし、長い事、起きていると、身体が辛くなるよ。」と言ってとめようとしましたが、
「いや、今日は調子がいいから大丈夫。この人は何かとい言うと、わしのしようとすること反対するから、今日みたいに、あけみちゃんが来てくれた時くらいしか、見るチャンスないから。」と言って聞かれません。
「もう、言い出したら、聞かないんだから。私は、出したり入れたりするの、ごめんだからね。」と小母ちゃんはあくまで、反対します。
「俺がいいといっているのだから、いいだろう。俺が見たいんだよ。絵を見ていて悪くなるんなら、それはそれで本望。出し入れも、あけみちゃんに頼むからいいよ。」
と小父ちゃんも、頑固に言い張られます。
「もし、病気が悪くなっても、本当に知らないから。」といいながら、小母ちゃんも、しぶしぶ見に行く事を、認められます。
「でもお父さん、もし5階の倉庫に上がるのなら、あそこのトイレは和式で、お父さん一人では、入れないから、今のうちに此処で、使っといてよ。」と小母ちゃん。

(註1:小父ちゃんのいらっしゃる3階は、洋式トイレで、温水便座になっていました。)
(註2:小父ちゃん、オシメはしていらっしゃいますが、これは知らないうちに、もれる事があるからで、できる限りトイレで用をたすようにしておられるとの事でした。)
(註3 目は不自由ですが、物の大雑把な形くらいは分かるから、この階のトイレなら、慣れているので、杖をつきながらではあるが、壁伝いに、何とか一人で、行くことが出来るとの事でした。)

以下次号に続く