No.112 熊さん八さんの炉辺談議と美術評論

2004年のセントラルリーグ優勝チームは中日ドラゴンズでしたが{ちょっと古い話で恐縮です}、年初の予想でドラゴンズの優勝を予想した野球評論家または解説者は殆ど零だったことがありました。
大相撲の場所前優勝の予想の場合でも、大相撲の解説者達の予想は、ほとんどが前場所の優勝者とか横綱、大関に絞られ、われわれ素人の予想とあまり変わりません。
野球や大相撲の予想が外れるくらいなら、ご愛嬌で済ませる事も出来ますが、経済評論や、政治評論のように、われわれの実生活に直結するような非常に大切な事柄に対する評論家たちとの論評が、思いつきやひらめき、世論の強い影響を受けた大衆に迎合した意見によって形作られたものにすぎなかった場合は、これは大問題です。
こういった意見が政策に反映され、それによって右往左往させられねばならない私たち庶民は、たまったものでありません。
実際、バブル後の財政経済政策や金融政策についての評論家達や、テレビコメンテーター、新聞、そして政治家達の論評はひどいものでした。百家争鳴、まとまりも方向性もなく、場当たり的に述べられたものがとても多かったように思います。こういった、さしたる理論的、ないしは経験的裏付けもないままに、思いつき的に述べられた、熊さん八さんによる炉辺談議とあまり変わりない程度の論評が、政治家たちをミスリードし、日本経済の立ち直りにどれほど悪影響を与えたか計り知れないものがあったのではないでしょうか。
バブル崩壊後今なお、不況から脱出する事が出来ず〈間にリーマンショックがあったとはいえ〉苦しんでいなければならない大きな原因の一つになっているように思われてなりません。
それでは美術評論の世界はどうでしょう。皆さん展覧会の図録に載せられている評論家たちの推薦文、新聞紙上の展覧会の批評、絵画の解説文などを呼んでどう思われますか。
確かな知識に裏打ちされ、難解な、しかし美しい言葉で飾られたその評論は、一読したときにはなるほどと感心させられます。また大変勉強にもなります。
一読するだけでは、美術に関する知識の量が、評論家達は、素人である私どもとは比較にならないほど豊富であると思わせるものを持っています。
従って熊さん八さんによるスポーツ談義や、世情についての炉辺談議のように、庶民が美術評論の世界に、気楽に参加するというわけには参りません。
私達のような素人の観方は、どちらかというと、好き嫌いだとか綺麗、綺麗でない、可愛い。可愛くない、心打たれる、感動させてくれる、それほど心に響かないといった風に、直感的かつ感覚的な観方をして批評するくらいです。従って展覧会などに行った場合は、評論家や学芸員達がしてくれている解説を頼りに、鑑賞してくることになりがちです。
ところが一般的にいって、彼らの解説は、無難と言う事と、客観性が必要という視点から、どちらかというと総花的、常識的で、既存の知識に偏りすぎている所があります。
このために、鑑賞者がそれに囚われ過ぎますと、自分の目で観、自分の心で感じる、本当の意味でのその美術品の鑑賞が出来ないという事になりかねません(コンセプチュアルアート等のような、感覚より、頭で観てくる美術は別ですが)。
こういった方の中には、下手をすると、展覧会で、絵画を観ている時間より、解説を読んでいる時間の方が長いのではないかという風に思われる方もお見かけします。
しかしこういった知に偏った、頭でっかちの観方は、展覧会に行ってきた後、その展覧会について振り返ってみた時、肝心の観てきた絵画についての印象は薄く、何のために展覧会まで行って絵を観てきたか分からないという結果になってしまいます。(私も、始めの頃はこんな風な観方で、知識は頭に詰め込みましたが、肝心の、その日に観てきた絵についての印象は家に帰った頃には、もうあまりなかった記憶があります)
でも、そんな観方をされるのでしたら、家で画集を見ているのとあまり変わりありません。
従って展覧会などで絵画を鑑賞する際は、絵画については全く無知、とかその画家について、全く知らないという場合は別として、一般には、展覧会場に行った際は、その場では、あまり解説や評論に捉われない事が大切だと思います。一旦はその絵画についての批評や解説文から離れ、自分の目で見、自分の心で味わい、そして自分の頭で考えて批評し、気に入った作品ないしは気になる作品については、その印象をしっかり心の中に焼き付けでくるという鑑賞の仕方が大切ではないかと思います。
その日、観てきた、絵画やそれを描いた作家についての知識は、家に帰った後、観てきた美術品の印象を思い返し、図録を紐解き(ひもとき)解説文を読みながら、自分の観方、その絵画とのスタンスを確立していくことが大切ではないかと思います。
ところで、印象派展だとか、写実派作家展、エコールド・パリ展、ピカソ展、フジタ展などなどのように歴史的評価の既にある程度定まっている、物故作家達の展覧会図録についている解説や論評は、そのような絵画傾向の特徴やそれが生まれるにいたった、時代的背景などを解説するのが主たる目的です。従ってその論評や解説に必ずしもオリジナリティが必要であるとは思いません。(それでも、そこには、解説を書いた人自身の視点に基づく、新しい見方、オリジナリティ溢れる論評があっても良いのではと思う事もあります)
ところが、オリジナルな視点での論評、解説を必要とされる、現存作家の個展だとか作家たちのグループ展の場合でも、画集に掲載されている解説や批評が無難な物にすぎないばかりか、新聞の文芸欄や、美術誌に掲載されている、評論家達の解説や、論評さえも、その意見のほとんどが、誰かがどこかで言った事の後追いだとか、やみくもな推奨〈提灯記事といった方が良いものがあります〉、丹念な文献渉猟〈しょうりょう:文献を読みあさる事〉に基づく考察などのどれかにあたるのが殆どで、そこにオリジナリティを見出す事は困難です。
そのような傾向は、すでに世間に認められ、画壇である程度の地位を確立していらっしゃる著名な作家の場合は、特に顕著です。
そこには、歴史を振り返り、未来を見据えての新しい視点でのオリジナリティあふれる評論に当たるものを見つけるのは困難です。
印象派を認めたり、ピカソやピカソ以降の現代美術を見出したりしてきた評論家達の論評のような、そういった類の、革新的な視点が欠けているのではないかと思われ残念でなりません。
そうなりますと、彼らの論評も、権威に弱く、従来の観方からなかなか脱却できない、私たちのような、熊さん八さん的な炉端談義と、さして変わり映えないという事になってしまいます。〈そこにあるのは多少の知識量に違いがあるだけです〉
本来は、愚昧な(ぐまい:愚かで道理がわからない)大衆を啓蒙しながら〈けいもう:知らない状態にあるのを、啓発し教え導く事〉、新しい美術のあり方、方向性を指向する作家を見出し、そういった作家と共同して、時代にあった新しい芸術を創造していく努力をす
る事こそが、評論家諸氏に求められている役割であるにもかかわらずです。
淋しい限りだと思いませんか。皆さんどう思われますか。
註:全ての評論家の先生方がそうであると言っているわけではありませんから、もしお気に触る点がございましたら、失礼の段、お許しください。