No.105 藤田嗣治の戦争画によせて そう思えばそうであり、そう思わなければそうでない 

その1

言語が、私たち人間同士のコミュニケーションの最大の手段であるにもかかわらず、俳句だとか小説などといった言葉で伝える文学のような、作者の真意、感情、主張などが比較的伝え易いと思われる文学作品においてさえも、受け取る側の、生い立ち、環境、教育、感性、知識、宗教、倫理観、現在置かれている立場などによって、受け取り方が全く違ってしまう事が間々あることは、皆さんもご承知のとおりです。
まして深く考えないで、出してくる言葉によって取り交わされる、日常会話などにいたっては、自分の思っている真意の半分も伝わっていないと感じる事が少なくありません。
プロデューサ、監督などといった、製作者の意図を最も伝えやすい、映画や、演劇などといった言語、視覚、聴覚の結合による総合的な芸術表現においてさえも、観ている側の受け取り方、感じ方は、人によってさまざまです。
製作者側の意図は、ある程度伝える事が出来たとしても、受け止る方は、それに共感してくれるとはかぎりません。その人の、現在置かれている立場だとか、それまで生きてきた歴史(環境もふくめて)、倫理観、宗教、知識などなどによって、受け取り方はさまざまだからです。
特に、絵画のように、視覚に訴える事によってだけ成り立つ表現芸術では、作家の意図とは別の、いろいろな解釈や受け取り方が生じ得ます。
事実、作家の評伝や展覧会や画集などに載っている解説等をみていましても、同じ作家の、同じ絵でありながら、一つの絵についての受け止め方が、人によってかなり違っていることがすくなくありません。
しかしこれは、考えようによっては、このような視覚芸術に於いては、観る側に、かなりの裁量が許されている事を意味しているように思います。
言い換えますと、私たちが、絵画を観る際、その作品に自分自身を投影し、感じたままに見、解釈し、想像して観てくる自由が、他の芸術表現以上に大きいということです。

 

その2

 

ところで藤田嗣治については、戦争中、軍部に協力して、戦争画を描いていた咎(とが)によって、戦後、戦争責任を取らされそうになったことは良く知られている所です。
しかしその描かれていた絵画の内容については、戦後、戦争画の多くがGHQに接収、焼却されてしまい、残されたものもすべてが、戦争の資料として本国に送られ、アメリカ陸海軍の博物館に所蔵されており、1970年に返還された後も、一般公開されることなく、東京国立美術館に保管されたままになっていた関係上、戦後世代の私たちは、殆ど何も知りませんでした。
藤田の戦争画についても、勇壮な日本兵の姿や、敗走する連合軍の惨めな姿が描かれ、戦争を賛美し、戦意の高揚を図る、軍部のプロパガンダに協力したグロテスクな絵画であろう程度の認識しかありませんでした。
所が、2006年開催の、藤田嗣治生誕120周年記念展に展観されていた戦争画を見て私のそれまでの認識は、根本から覆されました。
あの展覧会を観られた方は、お感じになられたと思うのですが,「サイパン島同胞臣節を全うす」にしても「アッツ島玉砕」、「決戦ガダルカナル」にしても、それらを見て、血沸き肉躍るような、わくわく感とか、敵を倒し、征服したときの至高の高揚感は伝わってまいりません。
あの暗い画面から発散してくるものは、戦争というものの悲惨さ、残酷さであり、伝わってくるのは、むしろ戦争に対する嫌悪感とさえ言えるものでした。
これらの絵画は、それを描いた人の立場が替っていて、平和主義者とか、第二次世界大戦の敵性国家、欧米の作家による作品であったとしたら、或いは日本が戦勝国側に位置し、自由と民主主義を守る立場に立つ国に属していたと仮定するなら、ドラクロワの戦争画に匹敵する大傑作として世界の絵画史に残されたであろうとさえ言えるものだと思います。
ところで、藤田の評伝などでみる限り、戦時中の藤田の言動に、藤田があの第二次世界大戦に反対していたという記録はありません。
諸参考資料から考えても、藤田がこの戦争を批判しながらも、やむなく軍に協力し、代わりに、密かに厭戦の思いを、これらの画中に託したのだとも思えません。
そうだからといって、これらの絵画を見る限りでは、藤田が戦争を賛美し、武力による、領土の膨張、即ち植民地主義的な思想を絵の中に忍ばせているとも思えません。藤田はこの絵画で一体何を私たちに伝えようとしたのでしょう。

 

その3

これをとく鍵は藤田の性格と当時の日本がおかれていた状況にあるのではないでしょうか。
民主政治の下、自由を謳歌している今日の日本では想像も出来ませんが、戦中の日本の思想統制は非常に厳しいものがあり、戦争に反対する事は、虐待と死を意味しました。
人道主義、平和主義を唱えるためには相当な覚悟が必要な時代でした。特に藤田のように欧米帰りで、コスモポリタン的な生き方をしてきた人間に対しての官憲の目は厳しく、常にスパイの嫌疑が付きまとっていた時代でした。社会の風潮もまた好戦的で、戦争賛美一色に染まっていて、その中にあって、それに反対する事は国賊とまで言われ社会的に圧殺されかねない時代でした。
そのような社会で、藤田が生き延びていくには、積極的に軍部に協力する姿勢をとるより他に方法がなかったのだろうと思います。幸いな事に彼は、異国フランスでの生活にもすんなり溶け込んでいけた事でもお分かりのように、非常に環境順応性が強い性格のようでした。
軍医の父を持った彼の育ってきた環境も、受けてきた当時の日本の愛国教育も、そして異郷での生活経験も、藤田の愛国心の醸成に一役かったにちがいありません。
藤田はたいした抵抗もなく、戦争画を描く世界にのめりこんでいけたのです。自由と平等、個人の尊重を基調とするフランスにおいて、その自由を満喫する生活をしていたにもかかわらずです。彼がフランスでの生活において恩恵に浴してきた自由や個人の権利の尊重は、レジスタントだとか、内部葛藤、体系的な学問によって獲得したものではなくて、生活の中で自然に経験してきた物にすぎなかっただけに、フランスでの生活が長かったにもかかわらず、自由と平等を重んじ、個人の権利を尊重するといった、欧米的な反ファシズム思想、人道主義などのバックボーンを獲得するにはいたっていなかったように思われます。
藤田は、自らの意思で戦争画制作に関与し、その中枢にあって活躍をした事は間違いありません。
しかしながら、それでは戦争が終った後、画壇から非難され、彼一人だけが、戦争責任を取らされそうになったほどに、好戦的な軍国主義者であったかというと、必ずしもそうではなかったようです。
対戦中、戦争画に夢中になっているように見えた藤田を心配した平野政吉が(秋田の大地主にして美術コレクター。秋田美術館コレクション収蔵の藤田の作品の大半を購入した人)「戦争画などは純粋芸術ではない」と苦言を呈したのに対して、「あれは記録画のようなものだから」と言ったきり何も言わなかったそうです。
またある時は、秋田までやってきて、平野に「パリに帰りたい」とも言ったとも言われています。({聞き書き:わがレオナルド藤田}朝日新聞1983年1月11日)(「藤田嗣治」:湯原かの子著・新潮社刊より)
戦争画ばかりを描かされている事に対して、やはり忸怩(じくじ)たる思いがあったようです。
これらの発言からは、「画によって国のために働く」と言う公式の場での、藤田の建前的な発言とは別の、パリの自由な空気をすってきて、自由を愛した、芸術家としての藤田の本音が垣間見えます。
又藤田が戦争画の制作に本腰を入れるきっかけになった「ハルハ河畔の戦闘」の図(ノモンハン事件を下にしてして描いた作品)の場合も、注文主の要請に基づいて描いた、日本兵の勇猛果敢さを称えた図柄とは別の、それと対をなす作品があり(現在は紛失して所在不明)、それをみせてもらった内輪の画家仲間や美術ジャーナリストの話によりますと、(これは無論軍部には内緒でしたが)、その作品には赤黒く燃え上がる戦場に、破けた軍服から足や腹をむき出しにて、累々と横たわる日本兵の無惨な屍(しかばね)と、その上を踏み潰していくソ連戦車の姿が描かれていたという事です。(「藤田嗣治」田中穣著:新潮社刊)こういった藤田の言動から考えますに、藤田の絵には、はっきりした思想的なメッセージはなかったのだと思います。ただ戦争画というジャンルに興味を持ち、それを記録画のように、リアルに描く事に熱中しただけのようです。藤田は、彼の戦争画において、職人のように、いかにリアルに臨場感をもって描けるかという技法の進展、新機軸の創出に拘った(こだわる)のですが、軍国主義的な考えに同調し、それの広宣流布の思いを絵の中に内含させておくというまでにはいたらなかったようです。
このような彼の戦争画における思想性の欠如は、既に戦時下においても指摘されていたところで、今泉篤男は「陸軍作戦記録画優秀作品評」と題する論評において(「美術]昭和19年5月号」)「現代画家のなかで、この画家(藤田の事)位に物の姿を描き出す事に気軽な愛執をもっている人は稀有である。芸術とか何とかいう以前にも、描くという事に子供のように熱中できる画家なのである。」・・・・「藤田の芸術の場合は、しかしその変化、進展は主として視覚的な取材の拡大、技法の進展に置かれており、戦争画というものの構想の内面的な変化、深まりではないように見られる」と言っております。
要するに藤田は、戦争の持つ、その怪奇性や、異常性を描きだす事に興味を持ち、それをリアルな臨場感を持った作品として、画面に表現することに心血を注いではいますが、そこには職人的な絵師の技への拘りは存在していても、思想性は欠如していたということです。
彼は戦争の無惨さ、惨酷さを描きだしておりますが、それは彼がそれらを表現する事自体に陶酔して行っているに過ぎず、そこには、戦争に反対してそれを批判するとか、賛美して推進しようとしたとかという、彼自身の意図は入っていないと思われます。

 

その4

しかしながら今になってみますと、藤田の戦争画は、思想的なメッセージを包含させることなく、戦争が引き起こした奇怪かつ異常な場面を、リアル感を持たせて表現しているだけの故に、かえって戦争という人間の愚行の惨酷さ、悲惨さを浮き彫りにしているように思います。
敵も味方もなく、死というものに直面した時の人間の恐怖、緊張、非嘆、絶望そして何の個人的な関係もない人同士が、憎しみあい、殺しあう異常さ、愚かさなどが、偏った思想や感傷によって一方向に誘導していくのではなく、記録画のように第三者的な目を持って描き出しておりますだけに、却って観る人に強いインパクトを与えるように思われます。観る人に、その人自身の頭で考えた、その人自身のいろいろな感慨を想起させてくるのではないかと思います。
ともあれ、藤田の戦争画は、なんと言っても傑作です。藤田作品の中でも、最も優れた作品が揃っているジャンルの一つだと思います。
世界の戦争画史の中でも、傑作に属する作品群だとさえ言えるのではないでしょうか。
しかしそこには藤田の思想的なメッセージは含まれておりませんから、それをどのように観、そしてどのように感じるかは、観る人の裁量に大きく委ねられている作品であるといえます。
観る人自身が、その作品にどのような心を投影して観るかによって、受け取り方はさまざまになりうる作品だというわけです。
皆さんは藤田の戦争画にどのような感じをもたれましたか。江戸時代の怪奇画に対した時のように、その異常さ、怪奇さだけに目を奪われ、恐ろしいとか気味が悪いと感じられただけでしょうか。
それとも戦争という人が行う蛮行の愚かさ、陰惨さに恐怖や嫌悪を感じましたか?
その業のような人間の愚行に深い悲しみを感じませんでしたか?
或いは愛国心が湧きたち、殺戮し合うその場面に、手に汗を握るような興奮や舌なめずりをしたくなるような嗜虐性を覚えられましたでしょうか?

No.104 遺されていたお宝?

このお話はフィクションで、実在の事件、人物とは全く関係ありません。

遺された財産の多少にかかわらず、遺産を巡っての、兄弟姉妹の争いは、非常に多くなっているそうです。相続をめぐっての争いの結果、兄弟姉妹のその後のお付き合いが、無くなってしまったというお話なども、よく耳にする所です。
私の知人の家の母親がなくなった時もそうでした。
この家、子供は4人姉妹、皆、それぞれ他家に嫁ぎ、一家を構えており、家を継いでいる者は誰もいません。その為、父親の死後、母親はずっと独りで暮らしておりました。
父親の生存中は、長女・恵美夫婦を跡継ぎにと考えていたようですが、長女夫婦の方は、財産は欲しいとおもっていますが、親の面倒を見たり、両親の死後、この家の跡継ぎとして、親戚づきあいだとか、仏様のお守をしたりするという事なんか真っ平と思っております。その上長女に特有の自分本位で、我儘,KYな所のある人でしたから、親子の気安さもあってか、母親の嫌がることでもズケズケ言うところがありました。
所が、母親の方はだんだん年をとってまいり、健康も損ねていますから、気弱になってきております。その為、若い頃のように、子供達と対等にやり合うだけの気力も、力も無くなっています。しかし親としての気位だけは残っておりますから、それだけに、子供からずけずけ言われる事は、強く応えるようでした。
その為、父親の死んだ後は、母親は、長女夫婦を後継ぎとは認めなくなっていました。親子の関係も、疎遠となり、長女が母親の所を訪れる事も殆どなくなっていました。
次女・裕子も又自己本位な人で、人からやってもらうのは当たり前、人の為には何もしようとしない女でした。それに非常に性格が強く、親といえども、容赦しません。何事につけても、自分の言い分を通し、押さえつけてしまうところがありましたから、子供の時からなんとなく母親は毛嫌いしておりました。その為、結婚式とか葬式といった、家の行事の時以外には、殆ど行き来がなくなっておりました。
結果母親は、面倒見がよく、優しく接してくれて、嫌な事をずけずけ言わない三女・君江を頼りにするようになり、病気になってからは、すっかり彼女を頼って、彼女に面倒を見てもらっておりました。
こんな状況の母親がなくなりました。その為、三女と四女・彩香に財産を自由にされてしまうのではないかと警戒する、長女、次女連合と、何もしなかったくせに長女面して財産だけは、取ろうとしていると思っている、三女、四女連合が激しく対立し、お通夜の時から、死者なんかそこのけでの角付き合わせが始まりました。
その争いに輪をかけたのが、母親の死後一週間目に出てきた遺書の存在でした。それには、自宅、預貯金、株券の殆どを三女に相続させ、残りのわずかな不動産だけをみんなで分けるようにと記されておりました。
見つけたのは三女で、何でも母親の遺品を整理しようとしている時、仏壇の片隅から見つかったとの事でした。その為、長女や次女は、遺書そのものの存在に疑いをもちました。
この遺書の真贋から始まり、これが、母親の意識が正常な時に、自発的に書かれたものかどうかといった所まで疑う、長女、次女連合と、それが正当なものであると主張する三女、四女連合との間で、激しいやり取りが繰り返され、一時は裁判にまで持っていこうかという所までいきました。
しかし、こうした争いも一年以上になりますと、互いに倦んでまいります。多少冷静に判断できるようになってまいります。いろいろな人から情報を集めることにより、裁判の勝敗の行くへも、大よその見当がつくようになってまいります。裁判する事による損得も勘定出来るようになります。
この為、間に立った司法書士のとりなしもあって、金融資産、土地の分割は、三女の、多少の譲歩のもと、大体は、母親の遺言通りに分ける事で、何とか決着がつきそうになってまいりました。
この分割案について四女は、もともと三女と仲が良かった上に、母親の亡くなるだいぶ前から、内緒でいろいろな物を貰っていましたので、(母親のすぐ近くに嫁いでおりました関係で、母親が元気な時から、何かと言うと母親に頼まれ、足代わりになって、こまめに用事をしていました。その加減だったのでしょう。母親がまだ元気なうちから、投信だとか、株券の一部をちょくちょく、彼女名義に変更してくれていました)何の異論もなくすんなり承諾しましたが、長女、次女の方はかなり不満そうで、まだまだ何かあれば、ひと波乱ありそうな雰囲気でした。
所が、ここにまだ、遺言書には、何の記載もない、宝石、絵画、道具類中でも富岡鉄斎の絵と小林古径の絵、そして、母親がお茶を習っている時に買い集めた茶道具類の分け方という難題が待っておりました。
母親の実家は、母親が結婚した当時は、とても裕福な呉服屋さんでした。その母親が、結婚の時、お嫁入り道具の一つとして実家からもらってきたのが、この二本の軸でした。母親の常々自慢していたところによりますと、これらの絵、特に鉄斎山水図は母親の父親が大金を払って買ったもので、非常に価値の高い物だとの事でした。母親はこれを家宝のようにとても大切にしておりました。従って姉妹の誰もがそれが価値ある作品である事を知り狙っておりました。病床で三女に話していた母親の考えでは、この絵も含めて、宝石、衣類、そしてお茶道具などの家財道具全てを、この家を相続する三女に持っていて欲しいと言うことだったようです。しかし、それは三女だけが聞いていただけで、他の誰もが知りません。従って、三女がそれらを相続することには、皆絶対反対です。三女が母親の意向を伝えても、誰も信じません。充分すぎるくらいに取っておいて、それでも不足で、その上、宝石や道具類まで独り占めしようとするのかと、怒りだす始末です。彼女達の意見では、三女はすでに充分すぎるくらいもらったのだから、宝石や、道具類については、遠慮して欲しいと言うものです。
こうして相続問題は再び暗礁に乗り上げてしまったように見えました。
その時、この相続に関して、ずっと相談に乗っていてくれていた老司法書士が、三女に「君江さん、お母さんの気持ちを大切にして、相続を決めようとされる気持ちは、よく分かります。しかし相続の事で裁判までもっていくというのはどうでしょうね。裁判まですれば、姉妹の間の亀裂は決定的なものになってしまって、修復が効かなくなりますよ。考えても御覧なさい。年をとった時、親しく話せる身内が回りに一人もいない生活を。子供なんかは、いつかは親元を離れて飛び立っていきますよ。年とってから話し相手になってくれ、頼りになるのは姉妹だけです。裁判にまで、もっていっても、結局弁護士を喜ばせるだけで、痛み分け。残るのは姉妹の不信感だけです。それではあまりにも悲しいと思いませんか。お母さんの意向はそれとして、他の財産を分けた時と同じように、貴女も少し譲る事にして、まとめる方向にもっていった方が良いのではないでしょうか」と諭します。
「宝石だとか、書画、骨董に関しては、分けることが出来る物は4人で分け、分けることのできないものは売って金銭に替えて分け事にされてはどうでしょう。そもそも宝石や、書画骨董なんて、売る段になると、皆さんが思っていらっしゃるほどに、金銭的価値はないものですよ」と申します。
即断で決心がつきかねた三女は、一応「妹と相談して」という事で帰ってきて、早速四女彩香に彼女の意見を聞きました。四女もまた長い争いに、倦んできておりました。それに万一裁判になって、細かく母親の財産を洗い直された場合は、母親から生前に、他の兄弟に内緒で貰った金融資産の事が、全てばれてしまう恐れもありました。
従ってその案を聞いたとき、不承不承という顔でしたが、「君江ちゃんがいいというのならそれで良いじゃない。家の為、母の為に、何もしようとしなかったお姉ちゃん達が、お宝の分け前を平等に取っていくと思うと、一寸癪だけどね」と言って、賛成してくれました。
「本当に絵とか抹茶茶碗も、みんなで均等に分けるの。でもあんなものどうして分けるのよ」と四女が聞きます。
「私としてはお母さんが大切にしていた鉄斎の絵だけは本当は貰っておきたいと思っているのだけどね。それだけくれれば、他の物は、みんなで好きなように分けてもらってもかまわなのだけど、どう思う」と三女。「そう、しかしあれは皆が狙っているから、チョット無理かもしれないと思うわ。私、私は出来れば小林古径の白鷺が欲しいんだけど。これ、もしも、誰も何も言わなかったら、私が貰う事にしようかなー」と四女。「良いんじゃない。うまい具合に、誰も何も言わなかったら、そうしなさいよ。しかしお姉ちゃんが、お母さんの死後、家の中をあちらこちら見て歩いていたから、多分気付いていると思うよ」「まず皆の様子みてからにしなさい」という事で話が終わりました。
書画骨董や宝石の分配はやはりすんなりとはいきませんでした。鉄斎の絵は、みんなが夫々、自分の所に欲しいと思っていました。宝石類は4人姉妹で、なんとか分ける事ができましたが、抹茶茶碗や、絵は分割することができませんからすんなりとはいきません。特に富岡鉄斎の絵は、お母さんがあんなにも大切にしていた物だから、とても価値があるに違いないと、姉妹皆が思っているだけに、簡単にはいきません。従って、最後は、売ってお金にして分けるより仕方がないと言う事になりました。母親の気持ちでは、これだけは子孫に伝えていって欲しいと思っていたようですが、この絵は1000万円以上もすると姉妹は皆思っていますから、誰も譲ろうとしません。
三女はその絵は、自分の手元に置いてやることが、一番母親の喜ぶ事だろうとは思いました。しかしそうは申しましても、絵画に何の趣味も持っていない彼女は、自分の相続した財産の中から1000万円以上ものお金を持ち出してまで、その絵を、自分の手元においておく気にはどうしてもなれませんでした。そこで、みんなの言うとおり、売ってお金で分けることに同意しました。その時長女が「そういえば小林古径の軸もあったと思うけど知っている」と言い出します。「うん、知っているよ。これもお母さんがお嫁入りのとき実家から貰ってきたんだってね。確か鉄斎の軸と一緒に長持ちの中に入っていたと思うよ」と返事しながら三女は四女の顔を見て苦笑しました。「それも一緒に持っていって売ってきてよ。あれだって結構お金になるらしいわよ」と長女。「お母さんがお茶を習っているときに使っていた抹茶茶碗はどうする。私、お茶はやってないから、価値があるのかないのか解からないけど。どうなのいい物ある」と四女。「この間少し見せてもらったけど、あまり価値がありそうな茶碗はなかったわよ。でもお母さんの使っていたものだし、もし皆さんがそれほど欲しくないなら、私今、お茶を習っているから、形見として貰いたいわ」と次女。「欲しいならもっていっても良いけど、中里何某とかという有名な作家の茶碗、買ったようなこと、お母さん昔云ってなかった」と彩香が嫌味たっぷりな口調でいいます。すると「そう、気付かなかったわ。もう一度見直してみるけど、もしそんな茶碗があるのでしたら、骨董屋さんに買い取ってもらって来て下さって構わないわ」と言います。
「それではそういう風に分けるということで良いですね」「後から遺産分割協議書を作って送らせてもらいますから、皆さんの捺印と印鑑証明お願いします」「所でいろいろ売ることになりますが、その時どなたか立ち会ってくれますか。それとも私の一存で売らせてもらっても良いかしら」と三女。「任せるわ」と他の3人。「私も出来るだけ高く売るように心がけますが、後から値段の事、とやかく言わないでね」と君江が重ねて念を押しましたが、皆に異論はありませんでした。
後日、三女は四女を誘って、信用の置けるとおもわれる画廊にそれらの道具類をもっていきました。
彼女達は、良いものだから、物凄い値段で売れるに違いないと思って、張り切ってでかけました、
所が、持っていった画廊のご主人は、少し見ていただけで「そうですか。お母さんのご実家はさぞかしご立派なお家だったのでしょうね。これらの絵も、ご先祖様の素晴らしかった時代の証として、手元において大切になさったらいかがでしょう。分けられないから困るとおっしゃるのでしたら、どなたか代表の人がお持ちになればよろしいのでは」と言うだけで、買おうとはしません。そこで二人が「これっていくらくらいで買っていただける物ですか」と思い切って切り出して見ますと、困ったような顔をしながら主人は、「申し訳ないですが、私どもの扱っている品物とは違っていまして」と言います。「私どもも、遺産相続が絡んでいますから、他の姉妹に報告しなければなりませんから、はっきりおっしゃっていただいた方がいいのですが」と三女が言いますと、「それでははっきり言わせていただきますが、この鉄斎は怪しいと思います。大体こういったものは、絵に相応する箱,共箱などの中に入り、時代にあった表装がしてないと、それだけで価値がなくなってしまうのですよ。箱はどうされました」と画廊の店主。
「箱は多分古くなって壊れてしまったので棄ててしまったと思いますが」
「表装も新しくなっているようですがこれはどうしてでしょう」
「あまりに古くなったものですから、母が京都の表具士さんの所で表装し直したようです」「素人の人はついついそういったことをしてしまうのですよね。こういったものは表装の時代性や程度と、絵との整合性も大切なのですがね。その表具師さんもひどい事をしますね」
「所でこういった古いものは、一般的に鑑定が難しいだけに、最近は所定の鑑定書がついていないと、市で値が通りません。ただ正直にもうしますと、この絵に関しては、鑑定に出すまでもないほどに絵が違っているように思います。鉄斎の絵はこんな弱々しい線ではありません。全体に受ける感じも丸みを帯びていて、柔らかすぎます。もし、どうしてもとおっしゃるのでしたら、鑑定に出すお手伝いをしてもよろしいのですが、多分鑑定料金だけ棄てる事になりますよ」と画廊の店主は言います。「それではこの古径の絵はどうでしょう」と末の妹が勢い込んで申しますと「この絵は印刷に後から手彩色したものです。もし値段をとおっしゃるのでしたら、奮発しても、まあ5千円もあればいいところでしょうね」といわれます。「それではあの鉄斎の絵はいくらくらいで」と恐る恐る君江が聞いてみますと「私どものお店で扱う品物ではありませんから、市(いち)に出して代わりに売る事になるのですが、さあー、いくらになりますか。あまり出来の良くないほうの贋物ですからねー。1,2万円くらいにはなりますかしらね。」という返事。
二人は顔を合わせて黙ってしまいました。あんなに期待に胸を膨らませてやってきたのに、シャボン玉が弾けたように夢が消えてしまったのです。もうあの中里何とかの抹茶茶碗の値段を聞く勇気もなくなりました。二人はしょんぼりとしてそのお店を辞しました。
「何、お母さんの言っていた宝物って、紙くずみたいな物だったの?お母さんは最後まで知らなくて、却って幸せだったわね」「でどうする?又姉ちゃん達、ぶつぶつ言うかもね」「そんなもの好きなように言わしておけばいいのよ。どうせ何しても文句しか言わない人たちだから」「でこの茶碗は」「そんなもの裕子姉さんが欲しがっていたから、あの人にあげましょうよ。そうすれば満足するでしょうから」「それじゃこの絵は」と四女。「価値がないからといって、もし私等が貰ったら、本当は良いものなのに、自分達が欲しいものだから、嘘を言っていると勘ぐられると癪だから、この際、私はもう辞退することにしたわ」と三女。「そうだわね、あそこであんな値段という事は、他所へもって行けば、もっと廉いに決まっているものね。私も辞退しておくことにするわ。なまじもらうと、後いつまでも、騙したとか、余分にあげたと言われかねないものね」と四女も言います。結局鉄斎の絵は長女の所に、古径の絵と茶碗は次女のところに納まりました。妹達は意地悪にも、売りに行った時の様子を詳しく話しませんでした。
「どうも鑑定書が付いてないから、良い値段で売れないみたい。ひょっとすると、鑑定に出すまでもないのでないかとも言われたから、鑑定にもださず、売ることもせずに、帰ってきてしまったわ」「売りに行くのって、なんだか質屋さんに行くみたいな気恥ずかしさがあるから、もうこれ以上、持って歩くのは嫌。だからあなた達が好きなようにしてもいいわよ」と言って、姉達に渡しました。
売りに行った先での詳しい状況を知らない姉達は、「妹達あんな事を言っているけれど、そんなもの、鑑定に出したわけでないから解らないのに。町の骨董屋さん程度が、どれだけ知っているというの。本当は良いものなのに、見る眼がないから、安い値段を言ったのにきまっているわ。そんなものを信じて、要らないと言うなんて、あの子等なんておめでたいんでしょう。お母さんが、あれほど大切にしていたあの絵が、偽物であるはずがないのに。」と喜んで持っていきました。
鉄斎の絵をもらう事になった長女も、古径の絵と茶道具をもらう事になった次女も、直ぐに鑑定に出して、もしも本物だと言うことになった場合は、「もう一度分けなおして欲しい」と言われかねないと思ったものですから、鑑定に出しませんでした。
大きな夢を抱いて、長女も次女も今なお、これらの物を大切にしまっております。これらの作品は、次ぎ、誰かが売りに持っていくまでは、ご先祖様の裕福だった時代の話と一緒に、家宝として、子々孫々に語り継がれていくことでしょう。そして何代か後の相続のとき、誰が相続するかで、再び兄弟間の揉め事の種になるかも知れません。なんとも罪作りなお話です。

終わり