No.98 子孫のために美術品も遺さず? 前篇

この話はフィクションです。たまたま類似した部分がありましても、それは偶然の一致で、実在の人物、事物とは全く関係ありません。

子孫に美田を残さずという諺はよく聞きますが、美術品の場合は、はたしてどうでしょう?

 

その1

先日、以前、私のうちにお勤めしていらっしゃった小母さんのところを訪ねた時の事です。小母さんの家のお隣にあった、磯川内科の三階建が無くなって、がらんとした空き地に変わってしまっていました。「あそこの家、無くなってしまったけど、どうされたのかしら。」と小母さんに尋ねますと、「それがねー、先生が亡くなられたのは知っているでしょ。最近奥さんも亡くなられてしまってねー。跡は息子さん達が継がれたのだけど、こちらには住まないからというので、結局売ってしまわれたのよ。」「でもあの建物って、建ててからまだ15年くらいしか経ってなかったんじゃないの。それにあれって鉄筋だったでしょ。壊すにも、大変なお金が掛かったでしょうに、どうして、医院としてそのまま売られなかったのかしらねー。とても流行っていた先生だったから、そうされれば、それなりの値段で売れたでしょうに。」「私ら近所の者も、前に、あそこに勤めていた者も、皆そういって惜しがっていたけどねー。何しろ子供さんたちがされる事だから・・・。世間知らずの坊ちゃん、嬢ちゃんだから、いいようにされてしまったんじゃないの。」「それであの土地は誰が買われたの。」「近くの産婦人科の先生が買われて、なんでも妊婦さん専用のスポーツジムを造られるそうよ。」「へー。ずいぶんやり手だねー。でもあの先生、磯川先生の所の息子さんと同級生だったんじゃない。それなら高く買ってあげたのかしら。」「そうでもないらしいのよ。噂だけど、あの先生、結構やり手で,そんなこと考慮してくれる人じゃないみたい。あの土地、結局、建物の壊し賃にもお金が掛かったもんだから、売られても、どれだけのお金にもならなかったという話よ。」「フーン。そういえば磯川先生、斉藤真一の絵をたくさん集めていらっしゃったと聞いていたけど、それどうされたのかしら。」「さあー、斉藤真一という人の絵かどうか、私らには分からんけど、ダンボールの箱に入った絵なら、沢山あったけどねー。だけど、建物を壊す前の日、箱に入れたまま、解体屋が他のガラクタや、いろいろな家具なんかと一緒に、トラックに積みこんで、全部持っていってしまわれたがね。あの先生、陶器なんかも随分良い物買い集めていらっしゃったから、いい花瓶も沢山在ったんだけど、それも皆、解体屋に持って行かれてしまったがね。壊す前日の朝だったかなー。他のガラクタと一緒に花瓶なんか沢山、野積みしてあったから、塵として棄てられるのかなと思ったものだから、それなら一つくらい貰っておこうと思って、良さそうなのを一つ選んで、横の方に除けておいたんだけど、それもちゃんと見つけて持って行ってまったところを見ると、やっぱ、価値を知っていたんだろうね。」「小母チャンがお勤めしていた時、先生が買われていた絵、どんな絵だったか、見たことない。」「よう覚えとらんなー。確か、買われる度に、その買った絵、掛けて、しばらく楽しんでおられたような気がするけど、どんな絵だったかなー。書斎の壁に掛けては、しばらく楽しんおられたけどなー。」「そう、で、どんなような絵だったか、全く覚えていない。」「さあー。なにしろ小母ちゃん、あんまり絵には興味がなかったからねー。どうだったかなー。」「うーん、ぞっとするような暗い顔した女の絵が多かった様な気がする。そうそう、なんだか暗く寂しい感じの背景の中に、白い顔、細長い頚(くび)、まるで冥府から迷い出てきたような哀しそうな表情をした女が、浮かんでいるような絵が多かったような気がする。気味が悪くて、1回見たら、もう充分といった感じの絵だったなー。先生、なんでこんな絵、好きなのかしらと思ったのを、思い出したわ。」「そう、多分それが斉藤真一の絵だったのよ。で、それらの絵どうなったか知らないわねー。」「有名な人の絵だなんて、誰も知らなかったから。あの日、山ほど積まれていた段ボール箱、多分あれがそうだったんじゃないかなー。」「勿体無い事されたわねー。奥さんも知らなかったのかしら。子供たちにもちゃんと教えておかれればよかったのに。」「それがねー、あそこ、大分前から、家の中がぐちゃぐちゃで、家族間のコミュニケーションなども殆どなかったからねー。先生が入院しておられた時だって、誰も見舞いにもこなかったもの。一人ぼっちの寂しい死に方だったそうだよ。」「どうして。奥さんだって、ついていらっしゃったんじゃないの。」「夫婦仲があまり好くなかったからね。その上、奥さん、何時も体の不調を訴えておられたから、先生の入院先の病院にも、あまり顔をだされなかったみたい。」「へー。気の毒に。でも子供さんだって、二人もいらっしゃるでしょ。」「それが子供さんたちともいろいろあったみたいで、子供さん達も、先生が亡くなられる数年前から、殆ど家に寄りつかれなかったみたい。」「どうなってしまったのかしらねー。先生、私達の小学校の校医さんだったけど、その当時は、とても仲良さそうにお見受けしていたけど。気さくな、良い先生だったじゃないの。子供さん達だって、当時は随分可愛がっておられた気がするけど。」「お金が出来たからかしらねー。医院を新築されたころから、いろいろあったみたい。お金もあんまり入ってくるようになると、却って不幸を呼ぶのかもしれんねー。うちらくらいの、貧乏人が、一番幸せなのかもしれん」「そういえば小母ちゃん、あそこに長い事勤めていらっしゃったから、ある程度事情知っていらっしゃるんじゃない?先生の亡くなられた後も、ずっと奥さんとは親しかったんでしょ。」「特に親しかったというわけじゃないけど、他の人よりはね。でも他所の家のことは、あんまり人様に話す事じゃないから」「少しぐらいなら良いでしょ。ねー。教えて、教えて。もう奥さんも亡くなってしまっておられる事だし。子供さんたちだって、もうこちらに住んでいらっしゃらないのだから、いいでしょ。」

 

その2(以下小母ちゃんの話)

あそこ、ご夫婦は恋愛結婚で、奥さんは、先生がたまたま当直のアルバイトに行っていた先の看護婦さんだったそうです。その時、良い仲になってしまって、結婚されたのですが、先生のほうの実家はかなりの旧家でしたから、中学校を卒業しただけ、準看の資格しかもってない奥さんとの結婚は、随分反対だったようです。先生の方も、子供が出来てしまったから、やむを得ず結婚されたみたいなところもあったようで、「そこからもうボタンの掛け違いが始まっていた」と何かの拍子に先生がぽつんと言われたのを聞いたことがあります。
ファニーフェイスで、少し舌足らず、間の伸びた、甘ったるい話し方をされる奥さんは、小柄なだけに、若い時は、さぞかし可愛かったろうなと思わせる方でした。幼い子供のように甘えん坊で、人に頼り、なんでも人にやってもらおうとされるその性格も、若い時は頼りなげで、可愛らしくみえて、男心をそそったであろうと思われます。若いときは、何をしても何を言っても、その可愛さゆえに許されました。しかしそういった性格も、年を取り、董(とう)が経ってまいりますと、通用しなくなってまいります。一緒に生活し、事業をし、子育てもしていかねばならないようになってまいりますと、その裏返しで、そのとき良いと思ったことが、全て鼻についてまいります。間の伸びた話し方は、忙しくて気が立っている時など、いらいらさせられます。語調の甘ったるさも耳障りです。無邪気に思ったことをそのまま口に出されるその性格は、デリカシーのなさに映ります。まして、何事にも人頼り、人にしてもらうのが当たり前で、人の為、何かをしようとする気持ちや、返す気のない人との生活は、吸い込むだけの、ブラックホールと向き合っているようで、エネルギーばかり消耗し、草臥れてしまいます。内気で大人しそうに見えたその人柄も、愚図で頭の回転が鈍く、直ぐに反論できなかっただけで、反論しなかった分、内に篭らせていて、いつまでも執念深く、ネチネチといい続けるから、もっと厄介でした。

 

その3

一方、先生のほうはと申しますと、社交的で世話好き、一見した所、豪放で快活、仕事熱心なとてもいい先生のように見えます。所が、中に入ってみますと、実は我侭で、短気、頑固で、思うように出来ないと、直ぐいらいらし、一旦言い出したら聞かないという所がありました。女性に対しても、とても優しいのですが、それは他所ゆきの顔で、他人の女性に対しては誰にでもそうだというだけでした。寂しがりやで、気が多く、母親の温もりを求めて彷徨う、掴まえ所のない愛の旅人のような所もありました。したがって奥さんは奥さんで、掴まえ所のない主人の愛を求めての格闘の日々や、彼女の能力を超えた、家事や子育てに対する過剰な期待や要求、怒りっぽさ、頑固さ、そして何時も上から押さえつけるような話し方、言い出したら聞かない性格などに、次第に草臥れてしまいました。そもそも彼女は、幼児みたいな性格の人でしたから、子どもを産んだ事自体が、ミスマッチだったのです。奥さんは男性から愛され、王女様のように傅かれる(かしずかれる)生活を夢見て結婚してきたのです。ところが彼女が直面した実生活は、そんな甘いものではありませんでした。家事、子育て、主人の手伝いと、毎日、毎日が格闘であり、戦争のような日々です。段取りも、整理もあまり得意でない彼女は、何をするにも鈍く(のろく)、間違えたり、もたもたしたりしがちです。家の中も乱雑にし放題になっていて、全く片付いていません。そんな彼女に対して先生は、いらいらしどおしで、途中で取り上げ、自分でやってしまったり、口を出したりします。何事も先生の思い通りに、てきぱきとできない彼女に、いらいらして、腹をたて、人前も構わず怒鳴ったり、罵倒したりもされました。もともと日常の雑用処理が苦手な彼女が、がみがみ責められる物ですからたまりません。怒られているうちにだんだん萎縮してしまい、自信を失い、ますます間違えるようになったばかりか、しまいには一人では何も出来なくなってしまったのです。
又一言ごとにいろいろ言われているうちに、思っていることを、口にする事もできなくなってしまいました。楽しくて、親切、頼りがいがあると思って嫁いで来た先が、頑固で横暴、口うるさい専制君主の所だったのですから、奥さんはたまりません。しかし彼女は離婚しても帰る先もありませんでした。耐えるしかありません。その為、そうしたストレスもただただ我慢しておりました。しかしそうした我慢をしているうちに、自信をなくし、心まで病んでしまいました。
医院を新しく建て替えた頃には、閉じこもりのような状態になっていました。夫婦の間の会話も、途切れがちになりました。対人恐怖症のようになり、知らない人と話す事を極端に怖がり、外にもあまり出られなくなり、家に引篭もりがちで、人とのお付き合いも、ごく親しくしている人以外とは、ほとんどなくなってしまいました。開業した当初は、夫婦ともに、まだ若く、互いに愛情も残っており、仕事に対する情熱もありましたから、脇見をしたり、余分の事を考えたりすることもなく協力して、何とかやっていたのですが、仕事の方が軌道にのり、子供たちの手も離れ、医院も新しく立て替える事が出来るまでになってまいりますと、お互いの欠点ばかりが目に付き、我侭が出てまいるようになりました。それでも、それまでの愛情の余熱と、二人で始めた家業への情熱、子供への愛着による妥協と我慢の産物として、しばらくは外見的にはとり繕える程度に、なんとか成り立っていましたが、それも時間の問題で、時と共に亀裂が広がっていったのでした。それぞれが自分の生活を追い求め、相手の非を責めました。奥さんの方は無意識のうちに、ご主人の横暴と、頑固さに対する抗議だったのでしょうか、内に篭もってしまい、心を病んでしまいました。絶えず不定愁訴(註:不定愁訴とは頭が重いとか、頭が痛い、腹が痛い、胸が苦しい動悸がする、心臓が苦しいなどなどの、いろいろな症状を訴えるのに、その割に、それに相当するきちんとした身体の異常が見つからない訴えを言います)を訴え、何もかも主人とお手伝いさん任せにして、自分は何もしなくなってしまったのです。一方先生の方は、家庭内で癒されない心を癒そうとするかのように、時間があると出歩き、週末になると、毎週のように海外に出かけるようになりました。そちらで、女漁りに精をだしておられるという、もっぱらの噂でした。こうして夫婦の間はまったく冷え切り、下のお子さんが高校に行かれるようになった頃には、二人の間の会話もなくなり、生活の便宜と世間体のためにだけ、一緒に住んでいるといった感じのご夫婦になってしまっていました。

 

その4

こうした家庭環境で一番被害を受けるのは、いつの世でも子供です。子供達は、物心つくようになってから、家庭内で父や母が笑って会話をしている姿をみたことがありませんでした。一家団欒とか楽しい家庭という物を、知らずに育ってきました。母親は家の事、自分の事で精一杯、子供たちにまで手が回りません。従って優しくて家庭的な母親像は、あこがれても持つことはできませんでした。子供たちの身の回りに気を配ったのは、お手伝いをしていた私(小母さん)と先生でした。先生は短気でとてもうるさい人ですが、細かい気配りのできる人でした。子供たちが幼かった頃はとても可愛がり、気の付かない母親に代わって一生懸命、子供たちに気を配っていました。しかしなんといっても、仕事をもった男親の事、どうしても細かい所まで行き届かず、子供達は寂しい思いをしたことも再々でした。又短気で頑固ですから、子供たちの言い分なんか何も聞いてくれません。一方的に自分の意見を押し付け、それが聞き入れられないと、怒り、怒鳴りつけて言い分を通そうとされました。こんなとき、普通の家庭なら母親が緩衝役となって間を取り持って、うまく収めてくれるのでしょうが、彼女たちの家ではそれがありません。直接ぶつかることになります。子供が成長し、自我が発達してくるにつれ、当然のようにぶつかり合う機会はますます増えます。しかし一方的で、反論、反駁を許さない父親の横暴は、反論が許されなかっただけに、子供たちは一方的に傷つきました。そしてこうしたことが度重なっているうちに、親子の間には、修復不可能なほどの溝が生じてしまいました。長女は家庭での満たされない愛の寂しさを紛らせかのように。(親の愛情の)代償を外に求め、放課後自宅に帰らず、巷を遊んで歩くようになっていきました。最初のうちは同じように、家庭に不満を持つ女友達と遊び歩いていただけでしたが、高校3年生になったころからは、男友達ができ、その子達と遊び歩くようになりました。そしてそうこうしているうちに、飲みに行った先のバーテンと懇ろ(ねんごろ)になり、同棲するようになってしまったのです。彼女は高校3年も終わりごろになると、殆ど家に寄り付かなくなり、卒業式への出席も妊娠5ヶ月の子供を腹に抱えて男の家からといった状態でした。
長くなりますから、二回に分けさせてさせていただきました。次回は2週間後 位に掲載させていただくつもりです。
なお、次章に、こういったコレクションに対する私の思いが綴られておりますから、できましたらそこまでお読みいただきたいと思っております。

No.97 第一印象と鑑定

その1

人と人とが付き合って行く上で、第一印象というのは非常に大きな働きをするような気がいたします。無論、第一印象が全てではありません。それほど第一印象が良くなかった場合でも、お付き合いをしている間に、良い人だという事が分かってくる場合だってありますし、逆に、第一印象では、良かったのに、後で裏切られる事も多々あります。しかしこういった間違いも、人生経験などといった学習によって、年をとるにつれ間違える事は少なくなっていくように思います。
第一印象は、本能的な警戒心に、経験だとか、伝聞、読書などといった学習による知識が積み上げられる事によって獲得してきた、瞬間的な判断能力と思われますが、出会った瞬間に、自分と、他者と間合いを計るこの働きは(例えば、敵か見方かだとか、自分の役に立ちそうかそうでなさそうかなどを計る働き)、人類という種族にとっても、人個人においても、自然界で生き延び、更に繁栄していく上で、非常に大きな役割をはたしてきたとおもわれますし、又今後とも重要な役割を担っていくに違いないと思われます。

 

その2

この第一印象は又、美術商が、美術品を見たとき、それが、本物か、贋物かを見分ける際にも、とても重要です。
このお話は、私が独立して間もない頃のお話ですが、私のところに、「藤田嗣治、小磯良平の絵を売りたいから、一度見にきてくれないか」という電話があったことがあります。
私どもの所では、このような場合、お互いの負担を少しでも少なくするために、お売りになりたいと言うご希望のお客様から、事前に、出来る限り詳しく、その絵に関する情報を送っていただき、予めその作品についての知識を得ておいて、お伺いする事にしております。
今度売りたいといってこられて作品は、送られてきた作品も鑑定書も、写真でみる限りでは、はっきりとした、疑わしい点は見当たりませんでした。(註:私が独立したての頃は未だ、インターネットが今ほど普及してなくて、作品の詳細を知りたい場合は、主としてこのように写真に頼っていた時代でした)しかしその時は強く意識しませんでしたが、送られてきた写真をみた瞬間、潜在意識に、なんとなく引っ掛かるところがあったようです。良い作品に出会った時に感じる、いつもの喜びが感じられません。お訪ねする約束の日になっても、なんとなく気が進みません。そこで、仲間の画商Kさん(この人、真贋を観分ける目のとても秀でている人で、絵画の鑑定については、私の師匠格の人です)に頼んで、私の画廊の番頭という事で、一緒に来てもらうことにしました。

 

その3

通されたのは、お電話を下さった方の会社の応接室で、そこには、Y,Kodamaサインの入った風景画(パリ風景)がかけてあります。案内に出ていらっしゃった奥様のお話では自分の所は、建設業を営んでいらっしゃるとの事でした。
私達はご挨拶もソコソコに、早速ご主人から絵画をみせていただくことにしました。
出してこられた絵は、小磯先生の作品は、椅子に座った婦人像で、横向きに座って、顔だけ斜めにしている、先生の絵によくある構図です。一方藤田先生の作品は、猫をだいた少女で、これまた、しばしば見かける図柄です。しかしそれらの絵を見た瞬間は、「違う、これは小磯良平先生のものじゃない」、「こちらも、藤田嗣治先生の作品にしてはおかしい」と感じました。しかし、じっと見ているうちに、違和感が薄れ、次第にそれらしく見え出してきてしまいました。
私は思わずKさんの方を見ましたが、彼は何も言いません。ただ黙って私のすることを見ているだけです。
私は次に、絵画についている鑑定書を拝見させていただきました。小磯先生の作品には、梅田画廊の、藤田先生の作品には、東京美術クラブの鑑定書といった具合に、夫々所定の鑑定機関名の入った鑑定書もついております。どちらも、今まで見てきた所定鑑定機関の鑑定書の様式をとっており、鑑定書の印も、ほぼ間違いなさそうです。私はもう一度、作品の方に目を戻しました。すると、じっと見ているうちに、益々目がその作品に馴染んできてしまって、本物ではないかとさえ思うように、なってしまいました。そしてその見方を正当化する、いろいろな理屈が、私の心の中に芽生えてまいりました。例えば「先生達が描かれた沢山の絵の中には、こういうふうな雰囲気の絵も混じっているのではなかろうか」とか「売り絵として描かれた絵なら、こういうふうに多少雑な描き方の絵も入っているのではなかろうか」というふうに。
念のために、来歴を聞いてみました所、ご主人が言われるには、「今から20年くらい前のことですが、家を建てた際、施主から、株だったか商品相場だったかで、大損を出してしまったので、お金を払うことが出来なくなってしまったと言われて困った事があります。その時、その代金の代わりにということで、これらの絵はもらってきたものです。だからそれ以前のこの絵の来歴は、私には分かりません。でも、この絵の元の所有者は、大きなお茶の問屋さんを営んでいらっしゃった方で、昔からの大金持ちの家ですから、私は安心してもらってきました」との事でした。

 

その4

間違いなく本物だと信じていらっしゃる様子のここのご主人さんは、「で、この2点、いくらで買っていただけますか?」ときりだしてこられました。しかし、迷っている私は、とっさに返事が出来ません。最初に見たときに感じた、「違う」「本物じゃない」という印象が気になります。「・・・・」と返事をするのを躊躇している私を見て、「もしご希望なら、今此処にかけてある、児玉の絵も一緒にもっていってもらっても良いのですが。三点だったら、幾ら出してくださいますか」と畳みかける様に聞いてこられます。
どのように返事したものかと、迷っている私を見かねたのか、私についてきてくれた、Kさんが「すみません。チョットうちの社長と二人だけで相談させてもらいたいと思いますから、少しだけ、お時間いただけませんか」と助け船を出してくれました。
私達二人が部屋の外に出ようとしましたところ、ご主人は「どうぞ、此処でご相談なさってください。私の方が、席を空けさせてもらいますから。それで、どれくらい時間をみておいたら良いでしょうか」と聞かれます。「それほどお時間を取らせません。ほんの5分か10分程で結構でございます」とKさん。「それでは、この電話、内線で自宅に繋がっておりますから、ご相談が終わりましたら、お電話ください」と言われて、ご主人は出て行かれました。

 

その5

「オイちゃん、あんたこれ買う気」とKさんが聞いてきました。「うーん、どうしたものか、迷っていた所。最初見た瞬間は、怪しいと思ったんだけど、じっと見ているうちに、だんだん本物らしく見えてしまって」「駄目だよ,オイちゃん。こういうものを観る時は、最初の印象を大事にしなくちゃー。作品を観る目というものは、長い間見ていると、だんだんその作品に目が馴染んでしまって、贋物に対する違和感がなくなってしまうものなんだから。その上、人間というのは悲しいことに、頭の中で、もし本物だったら、これくらいで買う事ができれば、これ位儲かるだろうなといった、そろばん勘定までするようになるだろ。そうすると、ますます目が曇ってしまうんだからね。私だったら、絶対に買わないよ」「大体、これらの作品、鑑定書からして、本物じゃないと思うよ」「ほんと。どうして分かった」「それは企業秘密。既にもらってある、これらの絵と鑑定書の写真をもっていって、夫々の絵の所定鑑定機関に問い合わせてごらん。それも勉強だから、但し鑑定書のサイズはきちんと測っておいたほうが良いよ」と言われてしまいました。

 

その6

ご主人に、どのように切り出したら良いかと迷いましたが、決まらないままに出たとこ勝負でいくことにして、ご主人に入ってきてもらいました。
「いろいろ検討させて頂きましたが、今度のお話、もう少しこちらで調べさせていただいて、それからお返事させていただくということにしたいと思いますが、それで如何でしょう」と切り出してみました。するとご主人は「良いですよ。でもこんなきちんとした鑑定書まで付いているというのに、なお、何を調べるというの?」と大分、ご不満そうです。「申し訳ありません。私どもとしましては、精一杯のお値段で、いつも買わせていただいておりますものですから、それだけに、どうしても慎重にならざるをえないものですから。一日二日のうちにお返事させていただく心算ですから、少しの間だけ、お待ちくださいませんか」「なお大変恐縮ではございますが、この鑑定書のサイズを測らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」と申しました。すると社長さんは「結構ですよ。但し、他からもお話がきておりますから、そちらが私の思っているような条件で買って下さるといわれましたら、そちらと決めさせていただくことになりますが、それでもよろしいですね」と言われます。私の心の中には、未だ少し未練がありましたが、それだからと言って,他に売られてしまうのを防ぐために、預かり金を置いておくには危険すぎる作品のように思われます。そこで決心して、「分かりました。それではそういう事で、よろしくお願いします」と言うことで、2通の鑑定書のサイズを測り、その家を辞去してまいりました。

 

その7

帰りの自動車の中で私は、Kさんに尋ねました。「どうしてあれらが駄目だと分かったの」と。ところがKさんは、「企業秘密。あんたが自分で勉強しなさい」と笑いながら言って教えてくれません。「意地悪、ねえ、教えて。教えて。どケチ」と私。「困るなー、やんちゃ娘には。仕方がない、教えてあげることにするか」とKさん。さらに続けて「じゃー聞くけど、最初にあれらの作品を見た時、貴女、どうしておかしいと思ったの。それらの作品の写真を見ながらもう一度、じっくり順序だてて考えて、言ってごらん。どう、何処がおかしいと思った」「うーん。藤田の作品は少し表情が甘くシャープさが足りないような気がした。それと少女の背景の建物などの描き方が雑である事、猫の前足が、不自然な形をしている事などかなー。でも何より、問題だと思ったのは、はっきりと言葉にしてはいえないけれど、全体としてみた時、藤田の絵と感じが、全く違うという風に感じられたことが一番大きかったのではないかしら」「そう、その通り、それが一番大切なんじゃないかなー」「じゃー小磯の方は?」「小磯の方もやはり、一番大きかったのは、今まで見てきた小磯の絵と見た感じが、全く違うと言う事だとおもう。この絵には、小磯の女性像に見る、あのきりっとした感じが伝わってこないもの。こまかいところを一つ一つあげるとすると、顔の表情が小磯らしくない、背景の書き方がやはり雑、特に椅子の木製の肘掛部分など、椅子とのバランスが悪くて、今にも折れそうに思える、全体として、モチーフの捉えかたが甘いという事かなー」「それだけ見ていて、どうして買おうと思ったの」「うーん、今駄目だと思って見たから、欠点を上げることができたけど、瞬間的には、なんだか違うなと思った程度でしょ。でも作品としては、あんまり良く似せて出来ているので、見ているうちに、だんだん、違和感がなくなってしまったのね」
「鑑定書で何か気付かなかった」「この人たちの鑑定書を、それほど沢山に見てきたわけでないから、はっきりとは言えないけど、鑑定書は間違いないのでは」と私。「それが違うのだよ、どちらも真っ赤な偽物、何もかにもうまく似せて作ってあるけど、微妙なところで違っているんだね。こういうところが(この詳しい説明は、贋作者に情報を与える事になりますから伏せさせていただきます)まったくちがっているんだよ」「でも鑑定書が例え本物であっても、私は買わなかったと思うよ」「どうして、貴女が言うとおり、見た瞬間、これは、藤田の絵でも、小磯の絵でもない。応接室の児玉も,児玉じゃないと思ったからね。多分、同一の贋作者が描いている物だと思うよ」「エーッ、どうして」「だってもう一度思い返してごらん。どの絵も確かにそれぞれの作家の特徴を似せて描いているけど、絵がかもし出す雰囲気としては、三つとも同じように感じなかった」「そう言われればそうだねー。なるほどよく分かった。さすがKさん、すごい。でも私、そこまでなれるかしら」
「大丈夫。こんなの、経験積み重ねだから。沢山見て、沢山勉強すれば、自然に正しい観
方が身についてくるものだから」「こういった作品を見る上で一番大切なことは、さっきも言ったように、第一印象、即ち見た瞬間に感じるその絵から受ける感じです。その後、細かい点について検討する時は、本物らしさを探すのでなく、本物としては、おかしいと思う点を探していく事です。そうすると自然に真贋は見分けられるようになりますから」「話を飛ばして悪いけど、その第一印象って、感みたいなところもあるでしょ?だったら感の悪い人は、良い美術商になれないということ」「確かに感は大事だと思う。でもねー、それは本物を沢山見るという経験によって、練磨される部分が大きいから、沢山見れば、誰でも、ある程度の正確さでなら、感じられるようになると思う。そういう点では、オイちゃんなんか、感もいいし、沢山の作品に当たる機会にも恵まれているから、直ぐ私なんか追い抜いてしまうと思うなー。その節は、私が貴女のところに助けを求めに行くことになるから、その時は頼むね」「またまたご冗談を。でも助かったわ。本当に今日はありがとうございました」

 

その8

その後、それらの作品を主として取り扱っておられる有名画商さんにも後学の為に、写真と鑑定書を持っていって問い合わせてみました。
すると、どなたも、Kさんの言われたとおりのご指摘でしたが、そのとき聞きに行った先の一人の画商さんが「Oさん。悪いけど、この絵、他の画商が、確か2ヶ月前にも、全く同じような話をして、聞きにこられたことのある絵ですよ。その時駄目だと、はっきり言っておいたのですがねー。」と言われるのです。
あの売主の社長さんの、その時の話では、これらの作品は、未払いの建設代金の代わりとしてもらってきてから以後、一度も人に見せたことがないとの、お話でしたのに変な話です。
あれからもう十何年、お陰さまで非常に沢山の経験をつませていただき、人をみる目も、物を観る目も格段に進歩をしたと思います。しかし、この世界、奥が深くて、まだまだ勉強不足、毎日が研鑽の日々です。何の道も、極めるという事は、本当に険しくて、難しい事です。