No.95 お婆さんの昔話 弘法さまの話 「幸せの泉、悲しみの泡(あぶく) 第3部」 

その12

田植えも終って、農作業が一段落し、人々の手も少し空いていたある夜、半月にもならない月が西の空に落ちるのを待って伝衛門は、そっと家を抜け出しました。
月のすっかり沈んだ夜空は、真っ暗で、黒い着物に身を包んだ彼の姿は、すっぽりと包み込まれておりました。田植えの終った田んぼから聞こえる、蛙の鳴き声も、伝衛門の立てる、微かな足音を消す手助けをしてくれていました。時々頭の上を横切っていく、1,2匹の蛍の光だけが、彼の黒い影を時々仄かに浮かびあがらせては消えていきます。
おみよの家の傍まで来た伝衛門は、あたりを窺いました。しかしもうかなり更けた夜の事、周囲には誰もみあたりませんでした。それでもかれは、家の周りを一回り廻って、誰もいないことを、もう一度確かめました。それからおみよの家に近づくと、中の様子をそっと窺いました。
家の中はひっそりとしていて、中からは、何の音も聞こえてきませんでした。安全な事を確かめた伝衛門は、入り口に近寄ると、声を押し殺して、おみよの名を呼びました。2,3回呼んだ時でしょうか、ごそごそと中で動く音がして、誰かが起きてくる気配がします。伝衛門は咄嗟に物陰に身を隠しました。万一、おみよでなかった場合を考えたからでした。
入り口の内側から、「どなたですか。」という声。それは間違いなく、あの恋しいおみよの声でした。
「俺、俺、伝衛門。今、外に出られるか。」と伝衛門。がさがさと葦束を押しのけて現れた、おみよは、そこにあの懐かしい伝衛門の姿を認めると、「わーっ、伝衛門。会いたかったよー。」と小さく叫びながら抱きついてきました。
顔は、もう涙でぐちゃぐちゃです。「俺も。」強く抱き締めながら伝衛門も囁きます。二人はもう気でも狂ったように、抱き合い、頬を擦り合わせました。二つの身体が一つに溶け合ってしまうほどに、二人は強く抱き締めあいました。何度も何度もお互いの存在を確認しようとするかのように、強く抱き締めました。
それからどれほどの時間が経ったことでしょうか。ふと冷静に戻った伝衛門は、「こんな所を、誰か他の奴等に見られたら、大変。」「少しの間、家を抜け出すことが出来ない?できたら、もっと人目に付かない、落ち着いた場所で話したいのだが。」と囁きます。「いいよ。お婆も寝入ったばかりの所だから。もともとうちは、お隣からは遠く離れていて、こんな夜遅くに、訪ねてくる人もいないだろうけど。」と言う、おみよの上気した身体からは、乙女の薫りが、色濃く立ち上ってまいります。
「じゃー、川原の、あの柳が茂っている突堤、あそこなら、誰も来ないだろうから、あそこへ行こう。」と伝衛門は先に立って歩き出しました。「待って。でも念のため、お婆の様子を見てくるから。」といいながら家の中に入った、おみよは、髪を撫で付け、紅を差しました。それからお婆の様子を窺って、ぐっすり寝入っているのを確かめると、安心したように、ソット抜け出してきました。

 

その13

柳の茂る川原に着いた二人は、待ちきれなかったかのように、再び激しく抱き合いました。肌という肌をくっつけ、互いの歯が、音を立てるほど強く唇を合わせました。しばらく見ないうちにめっきり美しくなり、女らしさを増した、おみよの身体から立ち上る、女らしい薫りや、纏わり(まとわり)つくような滑らかな女の肌の感触は,彼の理性を奪ってしまうものでした。伝衛門は、考える事を止めてしまいました。ただ本能に身を任せ、おみよの身体を弄り(まさぐり)ました。
おみよの気持ちも、同じらしく、喘ぎ、もだえ、一層強く絡みついてまいります。会えない間に募った男への思いが、彼女を大胆にさせているようでした。彼女は、身も心も男に委ね(ゆだね)ました。男は何度も何度も求め、女もそれに応じました。自分たちの先行きへの不安に怯えながら、それを打ち消そうとするかのように、二人は、何度も、求め合い、愛を確かめ合いました。
しかし、その一時の情熱の嵐が去った後に、再び二人に襲ってくる、未来への不安は、拭い去りようもありませんでした。その夜、二人が、それを口にすることはありませんでした。ただ次の逢瀬の時と場所を約束しただけでした。もしそれを口にしたとき、今の幸せは、泡沫(うたかた)のように消え去ってしまうであろうという、この愛の宿命を予感していたからでした。

 

その14

その夜二人は、もしどちらかが都合が悪くて、来られなくなったときの為に、この場所に、次に会う時期を示し合わす、合図を残す事に決めました。この為,その後は、以前よりは少し会いやすくなりました。お互い都合のいい時を示し合わせておいて、会えるようになりました。若い二人は、会えば、互いの身体を貪りあいました。しかし、会えば会うほどに、別れが辛く、物足りなさが募るばかりでした。
しかも、この二人を取り巻く状況は益々悪くなっておりました。伝衛門の所では、あまりに話しに乗ってこない伝衛門の態度に、痺れを切らした父親が、伝衛門の承諾もなく、勝手に、他の部落の長の娘との縁談を進めようとしていました。
一方、おみよの方も、おみよの美貌を聞きつけた、この地の地頭から、妾奉公に出して欲しいという話が、長を通して、舞い込んできていました。もし、おみよが、自分の所に来てくれるなら、およし婆さんには、たっぷり金を下して、一生楽をさせてやるし、村の年貢も少し負けてやるという好条件までついていました。
こうなりますと、人は現金なものです。今まで冷たくして、近寄りもしなかった連中が、さかんにおよし婆さんの機嫌をとり、顔色を窺うようになりました。幼い時からおみよのことを可愛がってくれていた長も、「無理は言わないけれど、出来たら、地頭の所に行ってもらえないだろうか。」と頼みます。
村の事などどうなってもいいと言っていたおよし婆さんでしたが、食うや食わずの、この貧しい生活から抜け出し、新しい屋敷に、女中まで付いた生活が待っているというこの話には、心が動きました。およし婆さんはもう、おみよの意向とは関係なく、地頭の世話になる事を決めてしまっていました。(註:当時はこういう話は親がかってに決めてしまって、子供の感情や意思などあまり考慮されませんでした。)

 

その15

二人が会っている間に話す、会話の内容も次第に深刻になってきました。伝衛門は、もはや二人が結ばれる道は、家を棄て、部落を棄てる以外に方法がないと思うようになり、おみよにも、およし婆さんや、家を棄て、一緒に逃げるよう迫ります。
おみよも、それしか道がないということは分かっているのですが、一人残される、およし婆さんの事を思うと、なかなか逃げる決心ができませんでした。自分が逃げた後、目の不自由なおよし婆さんに、どんな生活が、待っているのかと思うと、どうしても(逃げる)踏ん切りが、付かなかったのでした。
しかし彼女が、ぐずぐずしているうちに、妾奉公の話はどんどん進められていってしまい、地頭の所に行くのは、一ヵ月半後の、満月の夜と決まってしまいました。
自分と親子ほども年の違う、半白髪の男から愛撫されている姿は、想像するだけで、身震いが出るほどに嫌でした。
話が現実味を帯びてきた今では、もはや、伝衛門の言う通り、どこかに逃げるより道はないと思えました。二人は相談して、逃げるのは、今日より半月後の、朔日の夜半と決めました。そしてそれまでにいろいろ準備を整える事にしました。
おみよは、およし婆さんの事を思うと、心が痛み、およしの顔をまともに見ることが出来ませんでした。いつも心の中で、手を合わせておりました。しかし、もともと目が不自由な上、地頭からの下さり物の山に、有頂天になっていたおよしは、そんなおみよの気持ちに気付くはずもありません。
「お前のお陰でこんな幸せな後半生が迎えられるようになろうとは。もうこれで、お前もわしも、ひもじい思いをせずと済む。ほんにありがたいことじゃ。」と、単純に喜んでおります。日々の食い物にも困るような生活を続けてきたおよしは、この妾奉公によって、おみよにも幸せが来ると、信じきっているようでした。
おみよは、ちくちくと心がいたみました。しかし何も言わずに俯いた(うつむいた)まま、ただ黙って聞いていました。せめて自分のいなくなった後のおよしばあさんの為にと、おみよは、せっせと準備をしました。繕い物をすませておいたり、干し肉や、くすぶり肉を蓄えたりと、忙しく準備しました。
伝衛門もまた、家を出る準備に追われました。自分の家から、少しずついろいろな物を持ち出してきては、あの沼の近くの木の洞の中に隠しました。保存食や、金子(きんす)、そしてちょっとした、日働きに出る時用の農具といった物を、持ち出してきては隠しました。二人が落ち着いた先で、おみよに、少しでも苦労を少なくしてやろうとの考えに基づく準備でした。
貧しいおみよは、何も持ち出してくることは出来ませんでした。彼女が出来た事は、せいぜい、伝衛門の持ち出してきたものを、運びやすいよう束ねたり、隠してある物を見つかり難いように、さしあたりカモフラージュしておいたりするくらいでした。しかしそれでも、二人は幸せでした。二人でする、それらの作業は、新鮮で、とても楽しい事でした。希望に胸を膨らましていた彼らには、未来への何の不安も感じていませんでした。

 

その16

おみよが妾奉公に上がる日が近づくに連れ、九朗太も焦りました。
このままでは、おみよは、自分の手の届かない所にいってしまうと思うと、いても立ってもいられなくなりました。彼女が、妾奉公に出る前に、盗んででも、一緒になりたい。一度でいいから、自分の思いを遂げたいと思うようになりました。九朗太は、毎夜おみよの家の周りをうろつき、おみよを拉致する機会を窺っておりました。
そして悲劇は起こりました。それはおみよが伝衛門と逃げる日と決めていた前々日の夜の事でした。伝衛門との最後の打ち合わせのためと、時間よりすこし早めに、いつもの場所にやってきたおみよが、そこに見たのは、ニヤつきながら待っていた九朗太の姿でした。おみよは咄嗟に逃げようとしました。
しかし全く警戒してなかったおみよには、逃げる余裕がありませんでした。あっという間に、捕まえられ、転がされてしまいました。押さえ込まれ、猿轡(さるぐつわ)をかまされ、両手足を縛られて身動きも出来ません。九朗太は、ゆっくりと自分の下着をはずすと、やおら、おみよの両足を持ち上げ、彼女の中に入ってきました。
それは悪夢のような時間でした。叫ぶ事もできず、動く事もできなかった彼女は、涙を流しながら、ただ九朗太を眺めていました。
やがて終ったらしく、おみよから離れた九朗太が、「どうだ、俺のは、良かっただろう。一度俺とまぐわった女は皆、絶対に俺から離れられなくなるんだから。」と自慢げに耳もとで囁きます。
放心して、身動きもせず、ただ涙をながしているおみよの姿に安心したのか、彼女の口を塞いでいた猿轡をはずしながら、九朗太は更に続けました。「これから、俺と一緒に逃げないか。あんな地頭のようなヒヒ爺や、お前の優男なんかより、俺の方がずっといいぜ。一生、面白可笑しい暮らしを、させてやれるぜ」と。
それを聞いて、はっきり意識がもどってきたおみよは、身もだえしながら、叫びました。まだ少女の気質の抜け切らない勝気なおみよは、こんな男に自分の大切な物を奪われたと思うと悔しくてなりませんでした。だから思わず言ってしまったのでした。「嫌なこったー。あんたなんか、私の伝衛門に比べたら、月とスッポンよ。くすぐったくて、気持ちが悪かっただけ。こんな事して。絶対許さないから。いつか、きっと地頭様に言いつけてやる。」とさも憎憎しげに言い返しました。
それを聞いた九朗太は逆上しました。今まで九朗太が相手にしてきた女達は、お金で相手をしてくれる女たちばかりで、お得意様の九朗太に、そんな嫌な事を言う者はいませんでした。だから女からそんな辱めを受けたのは始めてでした。九朗太は、自尊心を、ひどく傷つけられました。その上、万一この事を、地頭に言いつけられたらと思うと、とても心配になってきました。もうおみよをそのまま帰すわけにはいかないと思いました。
そこで、まだ横たわっていた、おみよの身体に馬乗りになると、「この性悪女め、こうしてやる。」と叫ぶなり、おみよの首を思い切り絞めてしまいました。突然おみよの身体から力が抜け、ぐったりとなってしまったことで、彼女が死んでしまったのが分かった九朗太は、しばらく、放心したように、ぼんやりと、おみよの亡骸を眺めていました。
もともと気の小さい、小悪人でしかなかった九朗太は、自分のやったことの罪の重さに、震えていたのでした。しかし、やがて、遠くから、誰かがやってくる足音を聞きつけると、あわてて、おみよの亡骸を背負い、足を引き摺り、よろめきながら、その場を離れていきました。

 

その17

足音の主は、約束していた時間より、少し遅れてやってきた伝衛門でした。出掛けにちょっとした用事が起きて遅れた伝衛門は、もうとっくに、そこに来ているはずの、おみよの姿が、そこに見当たらない事に、不審を覚えました。
悪い予感に胸騒ぎがしてなりませんでした。今頃になって気が変わって来られなくなってしまったのだろうかとか、誰かに見つかって、此処にでてこられなくなってしまったのだろうかとか、待っているうちに、沼に落ちてしまったのではないだろうかといった、悪い想像ばかりが次々と浮かんでまいります。しかし同時に、悪戯(いたずら)好きの彼女の事、自分を驚かす為に、そこいらあたりに隠れているだけかもしれないとか、自分のように、出掛けに、出るに出られない用事が出来て、遅れているだけかもしれないとか、自分が少し遅れたので、拗ねているのかもしれないといった希望的な考えも浮かんできました。
伝衛門はともかくしばらく待つことにしました。伝衛門は、おみよの名を、時々呼び、あたりを探しながら、しばらく待っていました。
しかしおみよの姿を見る事はありませんでした。伝衛門の心配はどんどん膨らんできました。夜中の事、あたりは暗くて、直ぐにはどうしようもありません。何か手がかりになるものをと思っても、草の生い茂った川原は、真っ暗で、何も見えず、それもできませんでした。心配しながらも、伝衛門はその夜は一旦、自分の家へ引き揚げるより仕方がありませんでした。

 

その18

翌朝、夜が明けるのを待って再びそこにやってきた伝衛門は、その場所の草がなぎ倒され、人が争った形跡があるのに気付きました。同時に茂った草の中から、おみよの物とおもわれる、女物の腰のものと、男の下穿きが残されているのに気付きました。
伝衛門は、おみよの身に、一方ならぬ事が起こっていることを確信しました。もう周りの人間の思惑を気にしているどころではありませんでした。
伝衛門は直ぐに、いつもやってきていた商人に、隣の部落の様子を、探ってくるように、頼みました。一方自分は、3,4人の若い衆を連れて、おみよの立ち寄りそうな場所を捜し歩きました。しかし何も手掛かりは得られませんでした。
ただ隣の部落の様子を探らせた商人からは、重要な情報が入ってきました。何でも、地頭の家に妾奉公に上がるはずだった娘が、昨晩から行方知れずになっているという噂でした。そして同時に、夕べ遅く帰ってきた九朗太、それはかねて、おみよが、自分に付きまとう嫌な男として、愚痴を言っていた男の名前でしたが、「そいつの態度がどうもおかしい、なんか知っているのではないか。」と近所の人が噂しているという話も、持って帰ってきました。

 

その19

おみよの部落では、娘の行方を捜して、朝から大騒動でした。
何しろ、地頭の所に妾奉公に出ると決まっていた女がいなくなったのですから、大変です。このままでは、地頭からどんな咎めを受けるか分かりません。彼女が行きそうな場所は、全て探しました。彼女が逃げたのでないかと考えて、街道筋にあるあちらこちらの部落にも、彼女を見かけなかったかと、聞いて歩かせましたが、彼女の消息を知ることはできませんでした。
どこにも見つからなかったので、午後からは、村中総出で、川沿い一帯をずっと川下のほうまで探していきました。川の中は無論の事、川原の草の中、湿地帯の葦原、あちらこちらにある沼の中にいたるまで探し歩きました。
捜索も三日目、お昼過ぎの事でした。大人達はもう皆、草臥れて(くたびれて)しまって、思い思いの所に座って休息をとっていました。
しかし子供たちは、初めての経験に興奮して、その間もじっとしておれず、大人たちの休んでいる間も、大人たちが止めるのも聞かないで、あちらこちらに、潜り込んでは、その辺り一帯を探し回っておりました。そうした、腕白盛り(わんぱくざかり)の子供達の一群が、大人たちが恐れて近寄らなかった、あの底なし沼の中に、何か変な物が浮かんでいるのを見つけてきたのでした。
子供たちの呼ぶ声に駆けつけた大人たちは、そこに浮き上がってきている女の下半身を認めました。
足首の所で硬く結ばれた足は、既に魚や鳥に食いちぎられたのか、皮膚が一部剥ぎ取られ、骨や肉がはみ出しておりました。むき出しになった下半身は、ガスで腹が、異様に膨れ上がっております。
大人たちは慌てて子供たちを遠ざけると、がやがやと騒ぎながら、女の亡骸を引き上げました。
目玉が飛び出し、青膨れに膨れ上がった女の顔にはあの美しかったおみよの面影はどこにも残っていませんでした。しかし、その身につけている物から、それがおみよであることは、間違いありませんでした。

以下第4部(最終編)に続く