No.94 お婆さんの昔話 弘法さまの話 「幸せの泉、悲しみの泡(あぶく) 第2部」
その6
おみよが13歳になった年の秋の終わりの事でした。
その日、いつものように葦の生い茂る沼地へとやってきたおみよが、岸辺近く、直ぐ足元に、大鰻をみつけ、それを獲ろうと、沼の中に足を踏み入れた時の事です。ずるりと滑った彼女の足は、沼地の真ん中の方に引きずりこまれてしまいました。
そこは、表面からは、それほどの深さがあるようにはみえませんでしたが、堆積した柔らかい泥土によって、覆われていたその場所は、足が届かないほどに深い沼でした。陸に上がろうと、もがけば、もがくほど池の真ん中へ、深みへと引き込まれていってしまいました。最初は腰のところまでくらいしかなかった水面が、もがいている間に、いつの間にか、乳のところまで来てしまっていました。脚にまとわり付く水と泥土はとても重く、身動きも出来ません。おみよは、沼の方へと倒れこんできていた葦の茎の塊を掴むと、動くのをとめて、大声で助けを求めました。
しかしこんな荒地の事です。どこからも何の返事も戻ってきませんでした。何度も何度も助けを呼んでいるうちに、声は次第に嗄れしまい、声も出なくなってしまいました。秋の日は短く、太陽はいつの間にか西に傾き、燃えるような夕日が真っ赤に西の空を染め始めるようになってきました。おみよはもう、寒さと、疲労で半分気を失いかけておりました。時々口から洩れる泣き声も、よほど耳を澄まさないと聞こえないほどになってしまっていました。彼女はもう何も考える事が出来ませんでした。ただ懸命に、葦にしがみ付いていただけでした。
その時でした。ガサガサと葦を押し分ける音がして、一人の男が現れました。此処の近くの池へ、魚を獲りにきていた男は、その帰り道、沼の方から、女のすすり泣くような奇妙な音がするのを聞き、何かと思って、やってきたのでした。そこに、沼の中で葦につかまって辛うじて浮いている少女を見つけて、彼は驚きました。最初は人間でないと思いました。夕日に照らされながら、時々しゃくりをあげている、その少女の姿は、とても美しく、神秘的でした。沼の魔物が自分を誘惑するために現れたのではないかと思えるほどでした。
男はしばらく黙って、彼女を眺めておりました。彼女はもはや男の存在にも気付かない様子で、ただ、ただ、しっかりと葦の茎束にしがみ付きながら、放心したような顔を、時々ゆがめては、しゃくりを上げておりました。
やがて男は決心したように、自分の腰縄の端に、上着を結ぶと、彼女の方に投げかけて叫びました。「おーい。しっかりしろ。早くこの服に掴まれ。」と。声で気付いたおみよは、その上着にしがみ付きました。「しっかりつかまっていろよ。最初はゆっくり引くけれど、焦って、自分で動こうとするな。ただ摑まっていろ。でも絶対に離すな。少し岸に近づいたら合図をするから、今度はそこに浮かんでいる流木に掴まり直せ。」といいながら、その綱を引っ張る男は、身体つきこそ、ガッシリしておりますが、顔にはまだ多少あどけなさの残っている少年でした。
流木に届くまでは、とても時間が掛りましたが、流木に持ち替えてからは直ぐでした。おみよが、流木に掴まり直すと直ぐ、彼はその流木を抱え上げ、一気におみよを、ひき上げてくれました。ひき上げられた途端、おみよは今までの寒さと、疲労、そして助かったと思った安堵感から、気を失ってしまいました。
その7
時々、パチパチと火のはぜる音に気がついたおみよは、裸で、葦の上に寝かされている自分にきづきました。
若い男の臭いのプンプンする着物が身体の上には掛けられておりました。あたりはもう既に薄暗く、燃え上がる火の傍で、枯れ木や、枯れ草、枯れた葦をせっせと投げ込んでいる、男の黒い影がみられました。彼女の襤褸雑巾(ぼろぞうきん)のような着物も、火の近くに立てられた木の枝の先につるして乾かしてありました。
男の姿は裸でした。着ていた上着は、彼女を助けたとき、底なし沼に沈めてしまい、残りの着物も、おみよに貸してしまったからです。
下着だけの姿で、寒空の下、時々身震いしながら、懸命に火の世話をしている男のたくましい姿をみているうちに、おみよは、なんだかわからないが、胸の内が熱くなってくるのを感じました。
おみよが、気が付いたのに気付いた男は、彼女の方を振り返ると「気がついたか。大丈夫か。それにしても、一体、何をしていたんだ、あんな所で。でもよう頑張ったなー。」と言います。
大人びた、その言い方とは裏腹に、声には未だ、少年らしさが残っております。焚き火の光の中に、チラチラと映しだされる顔立ちは、彫りが深く、とても整っておりました。年の頃は15,6歳、子供から大人へと移ろうとしている時期の少年のように思われました。
自分とあまり年の違わないように思われるその男が、自分の方を見ているのに気付いたおみよは、全身を真っ赤に染めて、掛けられている服の下の身を縮め、くるりと後ろを向きました。自分の生まれたままの姿を知られていると思うと、恥ずかしくて、お礼の言葉を言うのも忘れてしまっていました。
「もう少し待ってろ。直ぐに着物も乾くからな。それまでは俺の着物で我慢してろ。」彼も美しい彼女を意識し始めてか、背を向けたまま、ぶっきらぼうにいいます。
「腹が減っているだろう。俺がさっき獲った魚を、今焼いたから,それを食べて、元気を出せ。」と言って後ろを向いたまま差し出してくれました。
「ありがとう。」と辛うじて礼を言って、おみよは受け取りましたが、直ぐに口をつける気にはなれませんでした。生まれたままの姿で、横たわっている自分のあられもない姿を思うと、どうしていいかわかりませんでした。手渡された魚を持ったまま、おみよは、もじもじしていました。しかし悲しいことに、身体は正直でした。焼けた魚のいい香りに、お腹はグルグルと鳴りだし、唾は、口いっぱいに広がってまいります。貧しい彼女は、昨日の夜から、充分の食事を摂っていなかったのでした。
お腹のなる音を聞いた男は笑い出しました。「御免、御免。その格好では、女の子だもの、人前で食べ難いわなー。もう着物もあらかた乾いたから、食べるのは着物をつけてからにしな。」と言いながら、おみよの着物を抛り(ほうり)投げてよこしました。
その8
男の語るところによりますと、彼は、幼名は源太、今の名前を伝衛門と言い、彼の祖父の時代に、おみよ達の部落の、すぐ下(しも)の土地へと移り住んできた、一族の長の息子でした。
彼ら一族は、以前は何処かの主君持ちの侍だったとかで、男達は皆、力もあり、一族としてのまとまりもよく、しかも資金力もあって、道具も揃っておりました。したがって、みるみるうちに、荒地を開墾し、耕作地を拡げていきました。それにつれて、土手もドンドン延長し、いつのまにかおみよ達の部落の輪中と、隣あわせになってしまっていました。
こういった隣同士の輪中というのは、開墾地の拡張や、水争い、土手の強さ、高さを巡って、昔から、どこでもいざこざが絶えないものです。(当時は、大水が出た時など、どこの土手が先に切れるかどうかで、部落の運命がきまりました。隣の輪中の土手が先に切れてくれれば、そちらに水がなだれ込んでいきますから、水位が一挙に下がり、そのため隣の部落は助かる場合が多かったからです。従って、土手の高さとか強さを隣同士でどうするかで、いつも喧嘩の種になっていました。又、田に水を取り入れる場合などは、用水路の一部を堰きとめ、水位を上げて、夫々(それぞれ)の田の方へ、水を誘導するわけですが、せき止める時期とか場所を巡って、同じ部落内でも争いが絶えないくらいですから、利害関係が対立するだけの隣部落との場合などは、激しい争いが、頻繁に起こるのは、当然の帰結でした。)
おみよの部落と、伝衛門の部落との間も、この例にもれず、それこそ犬猿の仲といって良いほどに仲が悪く、いざこざが絶えませんでした。子供同士でさえも、顔を見合わせると、集団でやったり、やられたりと角を突き合わせるような関係でした。縁談話なども、隣の部落との結びつきは避け、わざわざ隣部落を飛び越した、向こう側の男女との間で纏めておりました。
こんな状況でしたから、おみよが、隣の部落の娘と知った伝衛門は驚くと同時に、とても悲しみました。彼は、おみよが語ってくれた不幸な生い立ちに、すっかり同情してしまいました。そして、それにもめげず、明るく、懸命に生きている美しいおみよに、すっかり好意を持ってしまったのでした。
伝衛門は、何とか彼女を幸せにしてやりたいと思いました。しかし今の彼には、どうしてやりようもない事、それどころか、好意を持つこと自体が許されない事である事も分かっておりました。
一方、おみよの方も、伝衛門に対して、その外見の格好の良さもさることながら、そのさっぱりした、男らしい気性に、すっかり心を奪われてしまいました。命を助けて貰った事に対する、感謝の気持ちも手伝って、彼を慕う気持ちは、話すほどに、どんどん膨れ上がり、いつのまにか、人の思惑など気にならなくなってしまっていました。
自分の帰りをひたすら待って、腹をすかしているであろう、おばばの存在も、隣近所の口うるさい女房連中の事も、すっかり忘れて、話に熱中していました。彼を見つめているだけで、身体は熱くなり、胸が高鳴りました。心は天に昇ったかのように高揚し、雲の上を歩いているかのように軽やかに踊っていました。この一時(いっとき)、辛く悲しかった今までの事は、全て遠い世界へと押しやられ、ばら色のそよ風だけが彼女の周りを流れておりました。
おみよを、愛しいと思うようになっていったのは、伝衛門も同じでした。焚き火の下、楽しそうに笑う、おみよを見ていると、その華奢な体を思い切り抱き締めてやりたいと思うほどに、愛しく思いました。丸く、大きく、澄み切った瞳に見つめられると、自分の魂が、おみよの身体の中に吸い込まれ、彼女と一緒になっていくように感じました。
おみよはとても利発で、話はとても面白く、いつまで話していても飽きさせません。伝衛門もまた、彼女が傍にいてくれるだけで幸せでした。何もしなくても、何も話さなくても、一緒にいるだけで心が満たされました。
二人は離れ難い運命のようなものを感じていました。もはや言葉は必要でなくなりました。二人を隔てる空間も時間も消えました。二人だけの閉ざされた世界の中で、黙って座っておりました。照らし出す焚き火の明かりを挟んで、いつまでも、いつまでも、ただ見詰め合っておりました。揺らめく炎は、そんな二人の運命を暗示するかのように、強い風に煽られて、時々消えそうに揺らめいておりました。
その9
どれほどの時が経った時のことでしょうか。風に乗って運ばれてきた、伝衛門を呼ぶ、大勢の人のざわめきに、二人は、突然、現実の世界へとに引き戻されました。
見渡すと、遠く伝衛門の部落の方から、伝衛門を探す人々の声と、沢山の松明の明かりが近づいてくるのが見えます。
「こんな所を、皆に知られたら大変。もう二度と会えなくされてしまう違いない。送っていくから、逃げよう。走れるか。」と言うと、伝衛門は焚き火を消し、おみよの手を引いて、走り出しました。
道もはっきりわからないような真っ暗な沼地を、伝衛門は、まるで自分の家の庭のように迷いなく、ものすごいスピードで草を掻き分けながら駆け抜けていきます。
おみよもどちらかというと活発な女の子で走るのは苦手ではありませんでしたが、さすがに男の彼のスピードには付いていけません。引っ張られる手は痛み、息は切れます。しかし痛くて苦しいのですが、秘密を共有していると思うとそれが嬉しく、ただただ一生懸命に付いて走りました。
おみよの家の入り口近くまで来ると、伝衛門は、「じゃー、又三日後。昼下がりに、あの場所で。」とおみよの耳元に囁き、暗闇の中にさっと溶け込むように消えていきました。しばらく伝衛門の消えたあたり見送っていた彼女は、やがて何事もなかったかのような顔をして、家の中に入っていきました。
しかし始めて握られた男の手の感触に、顔は上気し、胸はどきどきしておりました。思い出す度に、恥ずかしさで、顔が赤くなって来るのですが、心は踊りだしたいほどに弾み、身体は火がついたように火照ってまいります。
家ではおよし婆さんが、あまりおみよの帰りが遅いので、心配して待っておりました。しかし幸いなことに、眼病を患っていて目が不自由な、およし婆さんは、おみよの微妙な変化に気付きませんでした。もともとあまり付き合いのなかった近所の人たちですから、あの口うるさい女房連中に気付かれることもありませんでした。
夫の死んだ後に受けた、世間の冷たい仕打ちから、およしは、近所の連中を恨んでいました。従って今回も、誰にも知らせなかったからです。
しかし、あまりにも遅いおみよの帰りに、一人でヤキモキしながら帰りを待っていましたから、それだけに、およし婆さんの怒りは強く、その夜の小言はきつく、長くなりました。
一方、伝衛門の方は、少し遠回りして、自分を探してくれている人々の方に辿り着くと、何食わぬ顔をしてみんなの前に顔を出しました。
「ご迷惑をお掛けしました。実は魚とりに夢中になっているうちに、暗くなり、路に迷ってしまったようです。どうも同じ場所をぐるぐる廻っていたようです。皆さんの松明のおかげで、やっと方向がわかり、帰ってくることが出来ましたが、ほんとうに危ないところでございました。ありがとうございます。」とお礼を言ってから、更に続けました。
「それにしても、あんな所で迷うとは。前から時々行っていた場所だったのに。狐にでも化かされたのでしょうか。」
「そういえば今日、あの土地で恐ろしい光景に出会いましたよ。あの柳が、突堤の所に茂っているあの湿地、あそこの大川から少し中へ入った所にある大きな沼、あの沼、一見すると、それほど深いようには見えませんが、実際には底なしみたいです。間違って足を踏み入れたら最後、チョットやソットでは出られないようですよ。現に今日、あそこを通った時、偶然、あの沼で小鹿が溺れているのを見たのですが、その小鹿、もがけばもがくほどに、ずるずると、沼の泥のなかへと引き込まれていってしまって、どうしてやりようもありませんでした。可哀そうに思って、助けてやろうと思ったのだが、あっという間にしずんでいってしまって、助けてやりようがなかったのです。あの沼には、あまり近寄らない方がいいかもしれませんよ。何か得体の知れない不気味なものを感じますから。」と独り言のように言いながら、部落の人達が、この後、あの沼地に近寄らないように牽制しておきました。
捜索に加わった村の衆は、伝衛門の思惑など知るよしもありませんから、伝衛門の父親が出してくれた振舞い酒に、したたかに酔って、「良かった、良かった。坊ちゃんが無事で何より。それにしても、あの怖いもの知らずの源太坊ちゃんでさえ、気味悪がるような所なら、あまり近寄らない方がいいだろうなー。お互い、気をつけることにしよう。くわばら、くわばら」と口々に言いながら、千鳥足で帰っていきました。
その10
二人はその後、時々、口実をみつけては、その沼地で二人だけの時間を持つようになりました。
最初のうちは兄妹のように、その沼地を駆け巡って、追いかけっこをしたり、並んで座って語り合ったり、冗談を言いあったりしていただけでした。それでも二人はとても楽しく、幸せでした。他の人達の目を気にする二人にとっては、それは僅かな逢瀬でしかありませんでしたが、お互いの顔を見、言葉を交わし、一緒にいる時間を持てただけで、充分幸せでした。
伝衛門はおみよのためにと、いつも魚や,野兎などを捕まえておいては、渡してくれましたから、おみよが、皆から怪しまれることもありませんでした。
二人で過ごす、この夢のような時は、瞬く間に過ぎて、2年あまりの時がすぎました。
おみよも、もう16歳に近く、背丈も大人と代わらないほどに伸び、体つきも、ぐんと女らしくなってまいりました。
もともと可愛かった顔立ちは、大人っぽさを加えて、輝くように美しくなり、すらりと伸びた手足は、小鹿のようなしなやかさです。もうどんなにおんぼろの着物を着けていても、その美しさは隠しようがありません。彼女の美しさは、遠く離れた村々にまで伝わり、あちらこちらの部落から、できれば自分のお嫁さんになってもらいたいと思った男達がやってくるようになりました。
こうなりますと、部落の男達も、放って置いてはくれませんでした。年頃の若い男の子達から、言い寄られるようになったのは、いうまでもなく、年配の、もうすでに所帯を持っている男達の中からさえもが、隙あらば、物にしようと、色目をつかう輩が出てくる始末でした。
この為、部落の女達からは、疎んじられ、意地悪をされました。彼女たちは、寄って集って(たかって)、彼女を貶める(おとしめる)ような噂を流しました。しかし考えてみれば、女達も可哀そうでした。なにしろ男達の関心は、おみよの方にばかり集まり、亭主も若い男達も、振り向いても、もらえなくなったのですから。
こうして女達からは目をつけられ、男達からは付きまとわれるようになったおみよは、以前のように気楽に、出歩き難くなり、2,3度すれ違って伝衛門と会えなかった後は、会う手段がなくなってしまいました。
男達の中でも、特にしつこく付きまとうようになったのは、その部落では、長に次ぐ力を持った長老の家の息子、九朗太でした。
何かと理由をつけては、おみよの家に立ち寄り、親切そうに、彼女達の世話をしようとしだしました。
しかしその九朗太は、昔、およし婆さんの亭主と息子夫婦が亡くなった時,およし婆さんに辛く当たり、村八分にするように村の衆を焚きつけた、張本人の息子でしたから、およしは、この男の事を快く思っていませんでした。
そのため、九朗太が何を言ってきても、寄せ付けようとはしませんでした。彼がどんなに物を持ってきても、仕事を手伝ってくれようとしても、甘い言葉をかけて近寄ってきても、おみよも、およし婆さんも、傍にも寄せ付けません。冷たくはねつけるだけでした。
しかし冷たくされればされるほど、熱くなるのは恋の常です。男は、一層、熱くなり、一層しつこく、付きまとうようになりました。こういった事が重なって、おみよの行動は一層窮屈になり、なかなか家を抜け出すことができなくなってしまっていました。
おみよがどんなに伝衛門と会いたいと思っても、会う機会をつくれません。おみよは、伝衛門のことを思って毎日、密かに(ひそかに)泣いておりました。若くて、一途なおみよにとっては、伝衛門が全てでした。彼以外の男は、どんな金持ちも、どんな権力者も、目に入りません。降るほどにやってくる縁談を断り、蜜に集まる蟻のように寄ってくる男達を袖にしながら、ただひたすら、伝衛門からの連絡を待っておりました。
その11
伝衛門の方でもいろいろ問題が起きていました。
18歳といえば当時はもう大人です。一人前の大人として扱われるようになった伝衛門は、いよいよ家の後継ぎとして、若長として、部落の皆を率いて働かなければならない立場になっていました。もう以前のように、一人で気楽に、出歩く事が難しくなってしまっていました。どこに行くにも、下僕がついてまいります。
もう一つ厄介な事は、親から結婚を急きたてられるようになったことでした。逞しくて、男前、その上気風もいい伝衛門ですから、以前から、部落の娘達は皆、彼のことを憧れていました。所が近頃では、年頃の娘を持った、近隣の有力者の親たちもまた、彼の噂を聞きつけて、何とか自分の娘を嫁に貰って欲しいと申し込んでくるようになっていました。しかし、彼もまた、次々もちこまれる縁談に、見向きもしませんでした。もう18歳にもなったのだから、いい加減、嫁を決めて欲しいと願っている両親は、気が気でありません。いつまでもぐずぐずしていて、いっこうにその気になってくれない伝衛門に、周囲のものも、やきもきし始めました。長老達は強引に身を固めるように迫るようになり、両親は哀願するようになりました。
伝衛門もまた切羽詰っていたのでした。親たちから、他の娘との結婚を勧められるほど、おみよへの思いは募るばかりでした。しかし、親の思惑や自分の立場を考えると、諍い(いさかい)あっている部落の娘、それも、その部落で最下層に属するような家の娘を、嫁にしたいとは言い出せませんでした。そのうえ最近は、会っていませんから、おみよの気持ちも分かりません。伝衛門もまた悶々とした毎日を送っておりました。
もしかしたらという思いから、狩に出たり、漁に行ったりした時、あの思い出の、沼地近くに立ち寄ってみるのですが、しかし、そこに彼女の姿を見かけることはありませんでした。彼女の来ていた事を示す痕跡も見つかりませんでした。風の便りに聞く、おみよに対する縁談の噂は、一層彼の恋心をかきたて、彼の心を焦らせました。(註;当時このような辺鄙な土地では、文字を読み書きできる人はとても少なく、殆どいません。特に女性はほとんど文字をよめませんでした。従って、今のように、文で連絡を取り合うなどということはできません。)
彼女への思いに耐えかねた伝衛門は、とうとう意を決して、おみよに、直接会って、彼女の気持ちを確かめることにしました。
以下第3部に続く