No.96 お婆さんの昔話 弘法さまの話 「幸せの泉、悲しみの泡(あぶく) 第4部」
その20
行方不明になっていた、娘の死体が、あの底なし沼から上がったという噂は、その日のうちに、伝衛門の耳にも届きました。
彼の心配していた通り、おみよは殺されていたのでした。両手、両足を縄で結わえられ、下半身をむき出しにされて、沼の底に沈められていた、おみよの無念さを思うと、後悔と(自分がきちんと時間通りに行っていればという後悔です)、腹立たしさに、気が狂いそうでした。
頭の中は真っ白でした。胸は息をするのも苦しいほどに詰まっております。抑えようのない動物的な怒りが、腹の底から次々に突きあがってまいります。伝衛門は時々異様な声を上げながら、自らの頭を柱にぶっつけ、周りにある物を手当たり次第に、拳骨で殴りつけました。額は切れ、手の皮膚は裂け、流れ出る血で、顔も手も真っ赤に染まっておりました。しかしそれを気にすることもなく、痛みも感じないかのように、何度も何度も、それを繰り返しておりました。
やがて伝衛門は、何事かを決心したかのようにキリッとした顔になり、部屋を出ると、弟の所に立ち寄り、弟の所で、しばらく何かを小さな声で話していました。時々聞こえてくる、弟の悲鳴にも似た、何かを制止しようとする悲痛な声は、彼が並々ならぬ事をしようとしていることを物語っております。
話し終わった伝衛門は、ポンと弟の肩を叩くと、後は何も言わずに、たった一人で家を出て行ってしまいました。彼を見送る弟の顔には、涙があふれ出ておりましたが、彼の顔には涙はありませんでした。ただ何かをしようと、心に決めた男の、強い決意が漲って(みなぎって)いただけでした。
その21
引き上げられてきたおみよの亡骸を見た九朗太は、急に気分が悪くなり、青い顔をして、そのまま家に帰ってしまいました。
その夜行われた、おみよのお通夜の席にも、他の同じ年頃の若い衆達が、皆、顔を揃えている中、九朗太だけは姿を見せませんでした。
九朗太の両親は、「今朝から気分が悪いといっていたのを、私らが、無理に捜索に加わらせたところ、余計に悪くなってしまったので、先ほどから、家で寝させています。『おみよさんには、生前とても親しくさせていただいておりましたから、何が何でも出席させていただく』と息子は言っていたのですが、そんな状態でしたから、無理をして出席させて、倒れられでもしようものなら、却って皆さんに、ご迷惑をかけることになるからと、私が止め、今夜は失礼させてもらうことにしました。本当に、ごめんなさいね。」と言い訳を、言って歩いていました。
しかし、平素の九朗太の行状(ぎょうじょう)や、今回、おみよがいなくなった後の挙動などから、九朗太に不審を抱いていた連中は多く、彼らは、陰でこそこそと、自分たちの憶測を話しておりました。
その22
九朗太は家で床に臥せっておりました。両親がお通夜に出た後の家の中は,九朗太とまだ幼い弟妹達だけでした。
弟妹達はもうとっくに眠りについておりましたが、九朗太は、眠れませんでした。目を閉じると、恨めしそうなおみよのあの顔が現れて、彼に負ぶさってまいりますから、眠ることができません。気分は悪く、身体はけだるく、頭は眠りたがっているのですが、あのおみよの恨めしそうな顔が眠る事を許してくれませんでした。少しでもうとうとしようものなら、あの顔が、恨めしそうに睨み付けながら、目の前に迫ってまいります。彼はまんじりともせず、床の上で、寝返りを繰り返しておりました。
そんな彼の枕元に、突然黒い影が現れました。
驚いて見上げている九朗太に向って、「静かにしろ。俺と一緒に外に出てもらおうか。もし騒げば、この子らも巻き添えを食う事になるから、そう思え。」と胸元に、刃物を突きつけながら、耳元で囁きます。
九朗太は従うより仕方がありません。素直に出てきた九朗太を、竹藪の中に連れこむと、「おみよを殺したのは、お前か。」とその男が聞きました。
もともと気の小さい九朗太です。そうでなくても、朝から、おみよの亡霊の出現に怯えていた所へ、突然の屈強な男の出現です。気が動転して言葉も出ません。九朗太は震えながら、首を横に振るのが、精一杯でした。
「じゃー、あの日、ほらおみよが、いなくなったあの日の夜、お前はどこに行っていた。聞くところによると、お前、その日は、とても遅かったそうじゃないか。」と畳み掛けてまいりました。しかし九朗太は、何も言わずに、ただ首を横に振り続けるだけでした。夜目にもはっきり分かるほどにガタガタ震えています。
「最後に、もう一つ聞くが、これは誰の物だ。お前のじゃないのか。」と言いながら、男は男物の下穿き(したばき)を、彼の鼻先に突きつけました。それはまさしく、九朗太が、あの日着けていたものでした。しかし九朗太は、やはり首を横に振りました。がガチガチと鳴っていた歯の音が、一層高くなってきました。
男は焦れった(じれった)そうに、「そうか、あくまでそう出るか。お前がそう出るならしかたがない。これからあの池、ほらおみよが沈んでいたあの池へ、行ってもらおう。おみよがやられたと同じように、お前の手足を縛って、あの池の中に、一晩中、漬け込んでおいてやる。もしお前が言う通り、何もしてないのなら、一晩そこにいたって、無事でいられるだろうから、心配要らないものな。でも、もしも、お前がやって(殺した)いたら、お前は、おみよの幽霊に取り殺される事になるんだからな。」というと、準備してきた縄を取り出し、九朗太の両手を縛ってしまいました。
九朗太は、見栄も外聞もなく泣き出しました。「許してくれ。確かに俺がやった(殺した)。そんなつもりはなかったのだ。だけど、あんまり小生意気な事を言ったので、ついかっとなって、やってしまった。でも信じてくれ、本当に最初は、殺すつもりなんか、なかったんだから。ごめんなさい。本当にごめんなさい。あそこへ連れて行くのだけは、許してください。」もう、きちんと立っておれなくなったのか、土の上にペッタンと座り込んでしまって九朗太は、しゃくりあげながら何度も頭をさげます。
それをしばらく黙って眺めていた男は、やがて「分かった。でもやはり許してやるわけには行かんなー。お前にも、おみよと同じ悲しみを味わってもらわないことにはなー。そうでないと、おみよも浮かばれないし、俺も気が済まないから。」と言ったかと思うと、刃物の先を、九朗太の胸元深く押し込みました。
その23
翌朝おみよの部落では、またまた大騒ぎとなりました。
家の近くの竹藪の中で、血に染まって殺されている、九朗太の遺骸が見つかったからです。
九朗太の両親、中でも父親は、「これは、おみよを誑かし(たぶらかし)、弄んでいた、お隣の部落の長の息子の仕業に違いない。それに気付いたうちの息子が、あの男には注意しろと、前々から何度もおみよに言っていたのに、おみよの奴、息子の言う事を聞かないから、こんな目にあってしまったのだ。家の息子は、それを知っていたものだから、口封じに殺されたに違いない。このままでは気がすまない。絶対敵(かたき)をとってやる。」
「大体となりの奴等、いつの間にかどんどん田んぼを広げてきて、いつの間にか俺達の堤防と、くっつくまでにしてしまったが、怪しからぬ(けしからぬ)話よ。もともとあの土地は、俺達のご先祖様が、魚や、獣を獲っていた土地だったのに。こっちが黙っていたら、どれだけでも付け上がってくるんだから。これは、この機会に、がつんと言ってやらねば気がすまん。みんなも協力してくれ。」と息巻きます。
しかし、九朗太がおみよに嫌われていた事や、それにもかかわらず、おみよに付き纏っていた事は、皆知っていました。だから、おみよが殺された時、彼女を殺した犯人は、九朗太ではないかと皆疑っていたところでしたから、いまさら、そんなことを言いだされても、さすがに、誰ものってきませんでした。「まあ、まあ、今日のところは、その辺で。それよりまず息子さんを弔ってやりましょうよ。」と言って、その場は納めてしまいました。
その日、驚かされる事はそれで終りませんでした。たまたま、おみよの通夜をしていて、その眠気を覚まそうと、土手に上がった一人の男が、先ほど、九朗太の父親の口に上がったばかりの、例の隣部落の連中が、朝から総出で、川上から川下まで何度も何度も船を流しては、川底を浚って(さらって)いるのをみつけたのでした。
知らせを聞いた、部落の連中は、皆、色めき立ちました。
黙ってどんどん土地を広げ、水争いでも、いつも無理ばかり言ってくる隣部落の連中の事です、(註:これはおみよの部落側の人の言い分です。伝衛門側の部落の人間は、おみよ側の部落の奴は無茶な事ばかり言うと思っています。)今度は何をするつもりかと、心配でたまりません。
皆はもう、おみよや、九朗太のお弔いに関っているどころではなくなりました。皆、土手の上に集まって、隣の連中が、何をしようとしているのかと、心配そうな顔をしながら、じっと眺めておりました。
その24
お昼近くの事でしょうか。川下の船の方から、「おーい、見つかったぞー。おーい。おーい。見つかったぞー」という声が川原に響きました。
その声を聞きつけた、川の中を浚っていた船々も、川原で探し物をしていた人の群れも、一斉に、そちらの方に集って行きました。
やがて集まった人々は、4人で担いだ白い布に包まれた物を真ん中に、それを取り囲んで、ぞろぞろと動きだしました。取り囲んでいる人々の嗚咽の声が、風に乗って、見ているこちらの部落の人々の耳にまで途切れ途切れに、聞こえてまいります。
こちら側の一人が近寄って、その列の後ろのほうにいた一人を捉まえて、聞きました所、「川に身を投じて亡くなった、長の息子の遺体が上がってきたのだ。」と言います。
先ほど、九朗太の父親が言っていた男の事です。伝衛門の亡骸が、彼の部落に帰っていくまで、土手の上から見送った、おみよの部落の人々は、あまりにも一度に起きたいろいろな事件に、皆、どう考えたらいいのか、自分たちはこれから、どういう風にしたら良いのか、分からなくなっていました。その為、皆、その場は何も言わないで、おみよの葬儀の方へと戻っていきました。
しかしその日、部落の人々の中では、その噂でもちきりでした。2人以上よると必ずといっていいほど、その話がでてまいりました。
長を始めとする、村の長老達も困惑していました。おみよが、隣部落の長の息子と付き合っていた事すらしらなかった、部落の長老達には、今度の事件の経緯が、まだ掴めていません。
にもかかわらず、変死した娘が、地頭の所へ妾奉公に上がる事になっていた娘だったのですから、地頭の所へは、早急に、何らかの、報告をしなければならなかったからです。
だから彼らは困りました。その報告の内容の如何によっては、地頭の怒りを買う事になり、自分たちにもお咎めが及ぶ可能性があります。個人的なお咎めに止まらず、年貢を上げてくるとか、耕作地の半減などといった部落全体に及ぶ、報復的な咎めをうける事だってありえたからです。
その上もう一つ困ったことには、部落で、一番に煩さ(うるさ)方の長老の息子、九朗太が、この問題に関っていたことでした。
自分の息子が正しいと信じている九朗太の父親は、隣部落の長の所へ、抗議に行く事を求め、自分の取り巻き連中を集めて、騒いでいるからです。しかし変死した娘は、なにしろ普通の娘ではありません。地頭と深い関りのある娘です。ここで下手に騒ぎを大きくしますと、例え、九朗太の父親の言うとおり、九朗太に非がなかったとしても、この事件に乗じた、地頭からの、不当な報復的干渉によって、隣部落だけでなく、こちらの部落までも、酷い目に遭わされる可能性だってありえます。(註:泣く子と地頭に勝てないという諺がありますように、当時は地頭の非条理とも言える無理難題によって、農民は随分苦しめられていた時代です。)長老達はほとほと困ってしまいました。
その日の夜遅く,お隣部落の長が、こちらの長の所を訪ねてきました。隣部落の長は、その夜は、自分の息子、伝衛門のお通夜でしたが、それにもかかわらず、しかも、今まで諍いの絶えなかった、おみよの部落の長の所へ、たった一人で、こっそりとやってきたのでした。
その25
伝衛門の父親は、伝衛門の弟から、伝衛門が死んだ理由を聞き驚きました。
と同時に長の立場として、これは騒動を大きくしてはならないと、とっさに判断しました。そこで自分の悲しみを抑え、単身、おみよの部落の、長の下へと訪ねて行ったのでした。
彼は、おみよと、息子伝衛門との恋の経緯、そして息子が、九朗太に、ああいうことをしなければならなかった理由を、次男から聞いて知っている限り、詳しく話しました。そして最後に付け加えました。
「息子、伝衛門はこの事件によって、私たち二つの部落が争うようになり、それによって、咎めが,自分だけでなく、二つの部落の皆にまで、及ぶ事を心配して、自ら命を絶つことを選びました。」
「個人的な感情だけからすれば、私にも言いたい事はいろいろあります。しかし此処は、息子の意思を尊重して、お互い、穏やかに事を収めたいと思いますが、いかがでしょう。二人で何とか、うまく収めるようにもって行きませんか。」と提案しました。
無論、おみよの部落側の長にも異存はありません。
こうして一番、問題になりそうなおみよの件については、「たまたま魚を獲りに行った沼で、足を取られて溺死してしまった」という事にし、伝衛門と九朗太の件については、「個人的な争いから、弾みで九朗太を殺害してしまった伝衛門が、それを悔んで、自分の親や九朗太の親へのお詫びにと、自ら命を絶った」といいう事で片付けようということで話がつきました。
当時、こういった閉ざされた部落では、部落民同士の結束は非常に強く、事が公になれば、自分たちに不利が及ぶような事件では、一旦事が決まりますと、幼い子供にいたるまで、一致結束して、絶対に秘密を漏らさなかったものでした。従って、今回の事件が、このよう形で、闇に葬られてしまう事になったのも、別に珍しい事ではありませんでした。
ただ問題は、一人騒いでいる九朗太の親をどう宥める(なだめる)かでしたが、事件の真相を聞かされては、かねてからの、自分の息子の非行をうすうすは知っていただけに、彼も、矛(ほこ)を収めるより仕方がありませんでした。
これで、この件は無事に終りましたが、可哀そうなのは、あの二人でございます。愛し愛され合っていた二人が、今も、まともに祀られ(まつられ)ないままに、墓まで別々に葬られ(ほうむられ)ているのですから、その魂が、迷うのも当たり前でございます。
どうかお坊様の力で成仏させてやってください。お願いします。長の長い話をが終わった時には、もう東の空は白ずみ始めておりました。
その26
話を聞き終わった僧侶は、その晩は一睡もしていなかったにもかかわらず、直ぐに立ち上がって、護摩行(ごまぎょう)の準備を始めました。
花や水を並べた、台の中央には、僧侶の懐中から、とりだされた、大日如来の持仏が祀られました。
こうして準備があらかた整った頃には、今日のご祈祷を参拝する、村人達も、ほぼ全員集まってまいりました。集まったのは、この部落の住民だけでありませんでした。お隣の部落の住民達も,殆どがやってきました。
護摩行は三日三晩に及びました。その間、僧侶は、寝る事もなく、食べることもなく、僅か(わずか)に時々、水で口を潤す(うるおす)だけで、護摩を焚き(たき)、経を上げ続けました。
こうして三日目の朝が開けたとき、僧侶は持っていた杖を土の上に突き刺し、そして空に向って呼びかけました。
「これで貴方達二人の霊は救われました。貴方達の悲しみは、この杖の跡から湧き出る泉の底に、泡として、閉じ込めておきます。今は、もう迷うことなく成仏してください。私は、今日、此処に集まり、祈る者達全てが、子々孫々にいたるまで、あなた達を祀り、その悲哀を伝え、二つの部落が、永久に争わない事を皆に誓わせました。そしてその証として、此処にひとつの泉を授けておきます。両の村が、再び諍い(いさかい)起こし、このような悲劇を起こすようなことがありましたら、泉の底に閉じ込められている、あの悲しみの泡はその封印が解かれ、大いなる泡として噴出すると同時に、この泉は涸れ果てるでしょう。それと同時に、このあたり一帯は、大いなる災厄に見舞われる事になるでしょう。」と大声で叫ばれた後、ばったりと倒れてしまわれました。
その27
僧侶はそれから丸三日間、死んだように眠り続けられた後、村長の家を辞去していかれました。
僧侶が去っていかれたその日には、前日から降り続いている雨で、もう長良川の水嵩(みずかさ)は増え、村落の用水には水が溢れ、草木は蘇って、既に緑の芽を吹き始めておりました。
僧侶は去り際に、ご祈祷の時、お突き刺しになった、杖をお抜きになりました。引き抜かれた後の残された、穴からは、護摩祈祷の時、お約束になったとおりに、清らかに水が、滾々(とうとう)と噴き出してきました。
僧侶はその泉を、杖で指し示しながら、村長(むらおさ)と、およしに向っておっしゃいました。
「あなた方こそ、仏の御心を知っておられる方々です。あの時、あなた達の下さった水は、本当にありがたいものでした。今後も決してその慈悲の心を忘れないようにして下さい。私は、美しい心のあなた方二人に、この泉を預けておきます。」
「この泉の水には、眼病を治す力が、備わっておりますので、およしさんの眼は、朝晩この水で、眼を洗うことによって、必ず治ります。」
「なお、この後、この泉の霊験を頼って、沢山の人々が、此処にやって来るようになるでしょうが、その人々に、その人達が、自らの意思で上げていく以上のお金を、決して求めてはいけません。又、人々が上げて行ったお金を、自分達だけのために、使ってもいけません。その金は、困っている人々がいる時、その人達を助けるためのものですから。」と言い遺され、雨の中へと消えていかれました。
その28
その泉は、弘法様の泉として、その後、何百年もの間、語り継がれ、大切にされていたという話です。滾々と水が湧き続けるその泉は、どんな旱魃(かんばつ)にも、水が涸れる事はなかったとも言います。村長は、その泉の前に、小さなお堂を作り、弘法大師様をお祀りすると共に、可哀そうな二人の御霊を慰める事にしました。
およしは、その堂守として、その泉を管理しながら、残りの人生を終ったといいます。無論およしの眼は、その泉の水のお陰ですっかりよくなったと伝えられております(註:科学的に考えれば、多分トラコーマのような結膜炎を患っていたのが、綺麗な水で洗顔した事によって、治癒したのだろうと考えられます)。
しかし、何世代もの時が経つうちに、二つの部落は、いつの間にか融合して一つになってしまって、もう争う必要もなくなりました。
弘法様を祀ってあった、あのお堂も、今では朽ち果て影も止めて(とどめて)おりません。弘法様の言い伝え伝説も、いつの間にか、人の口に上がらなくなってしまいました。
弘法様の泉として、大切にされてきたあの泉さえも、地形の変化や、度重なる土手や、用水路の改修、あちらこちらの田の中に掘られるようになった、自噴する深井戸などの影響を受け、次第にその水量は少くなっていき、今日では、その所在さえもはっきりしません。最後に泉から、大きな泡(あぶく)が出たかどうかは知りませんが、その後、この地方が、あの時のような大災害に襲われたという記録は残っておりません。
幾度もの旱魃も、百閒掘りとも言われる、深井戸の自噴水のおかげで、昔のような被害を受ける事はなかったと言われております。しかし本当は、これも弘法様が、水道(みずみち)をつけて置いてくださったお陰です。
弘法大師様は決して、今もお亡くなりになってはおられません。生きたまま仏様の姿になって、全国を廻り、困っている者を助け歩いていらっしゃいます。あんた達子供も大人も、何事もない今のうちから、弘法様を信じて拝んでいてくださいね。そうすると、困った時には、きっとお助け下さるから。と言う言葉で、お婆さんの長い、長い話は終わりました。
記
先日、祖父の家のあった村へ行った折、この話を聞かせてくださったお婆さんの家の辺りに行って見ましたが、その家は、もう無くなってしまって、モダンな最近のプレハブ住宅に代わっておりました。あのおばあさんがその後、どうなったかは、故郷に住む者もいなくなった今では、知る由もありません。