No.96 お婆さんの昔話 弘法さまの話 「幸せの泉、悲しみの泡(あぶく) 第4部」 

その20

行方不明になっていた、娘の死体が、あの底なし沼から上がったという噂は、その日のうちに、伝衛門の耳にも届きました。
彼の心配していた通り、おみよは殺されていたのでした。両手、両足を縄で結わえられ、下半身をむき出しにされて、沼の底に沈められていた、おみよの無念さを思うと、後悔と(自分がきちんと時間通りに行っていればという後悔です)、腹立たしさに、気が狂いそうでした。
頭の中は真っ白でした。胸は息をするのも苦しいほどに詰まっております。抑えようのない動物的な怒りが、腹の底から次々に突きあがってまいります。伝衛門は時々異様な声を上げながら、自らの頭を柱にぶっつけ、周りにある物を手当たり次第に、拳骨で殴りつけました。額は切れ、手の皮膚は裂け、流れ出る血で、顔も手も真っ赤に染まっておりました。しかしそれを気にすることもなく、痛みも感じないかのように、何度も何度も、それを繰り返しておりました。
やがて伝衛門は、何事かを決心したかのようにキリッとした顔になり、部屋を出ると、弟の所に立ち寄り、弟の所で、しばらく何かを小さな声で話していました。時々聞こえてくる、弟の悲鳴にも似た、何かを制止しようとする悲痛な声は、彼が並々ならぬ事をしようとしていることを物語っております。
話し終わった伝衛門は、ポンと弟の肩を叩くと、後は何も言わずに、たった一人で家を出て行ってしまいました。彼を見送る弟の顔には、涙があふれ出ておりましたが、彼の顔には涙はありませんでした。ただ何かをしようと、心に決めた男の、強い決意が漲って(みなぎって)いただけでした。

 

その21

引き上げられてきたおみよの亡骸を見た九朗太は、急に気分が悪くなり、青い顔をして、そのまま家に帰ってしまいました。
その夜行われた、おみよのお通夜の席にも、他の同じ年頃の若い衆達が、皆、顔を揃えている中、九朗太だけは姿を見せませんでした。
九朗太の両親は、「今朝から気分が悪いといっていたのを、私らが、無理に捜索に加わらせたところ、余計に悪くなってしまったので、先ほどから、家で寝させています。『おみよさんには、生前とても親しくさせていただいておりましたから、何が何でも出席させていただく』と息子は言っていたのですが、そんな状態でしたから、無理をして出席させて、倒れられでもしようものなら、却って皆さんに、ご迷惑をかけることになるからと、私が止め、今夜は失礼させてもらうことにしました。本当に、ごめんなさいね。」と言い訳を、言って歩いていました。
しかし、平素の九朗太の行状(ぎょうじょう)や、今回、おみよがいなくなった後の挙動などから、九朗太に不審を抱いていた連中は多く、彼らは、陰でこそこそと、自分たちの憶測を話しておりました。

 

その22

九朗太は家で床に臥せっておりました。両親がお通夜に出た後の家の中は,九朗太とまだ幼い弟妹達だけでした。
弟妹達はもうとっくに眠りについておりましたが、九朗太は、眠れませんでした。目を閉じると、恨めしそうなおみよのあの顔が現れて、彼に負ぶさってまいりますから、眠ることができません。気分は悪く、身体はけだるく、頭は眠りたがっているのですが、あのおみよの恨めしそうな顔が眠る事を許してくれませんでした。少しでもうとうとしようものなら、あの顔が、恨めしそうに睨み付けながら、目の前に迫ってまいります。彼はまんじりともせず、床の上で、寝返りを繰り返しておりました。
そんな彼の枕元に、突然黒い影が現れました。
驚いて見上げている九朗太に向って、「静かにしろ。俺と一緒に外に出てもらおうか。もし騒げば、この子らも巻き添えを食う事になるから、そう思え。」と胸元に、刃物を突きつけながら、耳元で囁きます。
九朗太は従うより仕方がありません。素直に出てきた九朗太を、竹藪の中に連れこむと、「おみよを殺したのは、お前か。」とその男が聞きました。
もともと気の小さい九朗太です。そうでなくても、朝から、おみよの亡霊の出現に怯えていた所へ、突然の屈強な男の出現です。気が動転して言葉も出ません。九朗太は震えながら、首を横に振るのが、精一杯でした。
「じゃー、あの日、ほらおみよが、いなくなったあの日の夜、お前はどこに行っていた。聞くところによると、お前、その日は、とても遅かったそうじゃないか。」と畳み掛けてまいりました。しかし九朗太は、何も言わずに、ただ首を横に振り続けるだけでした。夜目にもはっきり分かるほどにガタガタ震えています。
「最後に、もう一つ聞くが、これは誰の物だ。お前のじゃないのか。」と言いながら、男は男物の下穿き(したばき)を、彼の鼻先に突きつけました。それはまさしく、九朗太が、あの日着けていたものでした。しかし九朗太は、やはり首を横に振りました。がガチガチと鳴っていた歯の音が、一層高くなってきました。
男は焦れった(じれった)そうに、「そうか、あくまでそう出るか。お前がそう出るならしかたがない。これからあの池、ほらおみよが沈んでいたあの池へ、行ってもらおう。おみよがやられたと同じように、お前の手足を縛って、あの池の中に、一晩中、漬け込んでおいてやる。もしお前が言う通り、何もしてないのなら、一晩そこにいたって、無事でいられるだろうから、心配要らないものな。でも、もしも、お前がやって(殺した)いたら、お前は、おみよの幽霊に取り殺される事になるんだからな。」というと、準備してきた縄を取り出し、九朗太の両手を縛ってしまいました。
九朗太は、見栄も外聞もなく泣き出しました。「許してくれ。確かに俺がやった(殺した)。そんなつもりはなかったのだ。だけど、あんまり小生意気な事を言ったので、ついかっとなって、やってしまった。でも信じてくれ、本当に最初は、殺すつもりなんか、なかったんだから。ごめんなさい。本当にごめんなさい。あそこへ連れて行くのだけは、許してください。」もう、きちんと立っておれなくなったのか、土の上にペッタンと座り込んでしまって九朗太は、しゃくりあげながら何度も頭をさげます。
それをしばらく黙って眺めていた男は、やがて「分かった。でもやはり許してやるわけには行かんなー。お前にも、おみよと同じ悲しみを味わってもらわないことにはなー。そうでないと、おみよも浮かばれないし、俺も気が済まないから。」と言ったかと思うと、刃物の先を、九朗太の胸元深く押し込みました。

 

その23

翌朝おみよの部落では、またまた大騒ぎとなりました。
家の近くの竹藪の中で、血に染まって殺されている、九朗太の遺骸が見つかったからです。
九朗太の両親、中でも父親は、「これは、おみよを誑かし(たぶらかし)、弄んでいた、お隣の部落の長の息子の仕業に違いない。それに気付いたうちの息子が、あの男には注意しろと、前々から何度もおみよに言っていたのに、おみよの奴、息子の言う事を聞かないから、こんな目にあってしまったのだ。家の息子は、それを知っていたものだから、口封じに殺されたに違いない。このままでは気がすまない。絶対敵(かたき)をとってやる。」
「大体となりの奴等、いつの間にかどんどん田んぼを広げてきて、いつの間にか俺達の堤防と、くっつくまでにしてしまったが、怪しからぬ(けしからぬ)話よ。もともとあの土地は、俺達のご先祖様が、魚や、獣を獲っていた土地だったのに。こっちが黙っていたら、どれだけでも付け上がってくるんだから。これは、この機会に、がつんと言ってやらねば気がすまん。みんなも協力してくれ。」と息巻きます。
しかし、九朗太がおみよに嫌われていた事や、それにもかかわらず、おみよに付き纏っていた事は、皆知っていました。だから、おみよが殺された時、彼女を殺した犯人は、九朗太ではないかと皆疑っていたところでしたから、いまさら、そんなことを言いだされても、さすがに、誰ものってきませんでした。「まあ、まあ、今日のところは、その辺で。それよりまず息子さんを弔ってやりましょうよ。」と言って、その場は納めてしまいました。

その日、驚かされる事はそれで終りませんでした。たまたま、おみよの通夜をしていて、その眠気を覚まそうと、土手に上がった一人の男が、先ほど、九朗太の父親の口に上がったばかりの、例の隣部落の連中が、朝から総出で、川上から川下まで何度も何度も船を流しては、川底を浚って(さらって)いるのをみつけたのでした。
知らせを聞いた、部落の連中は、皆、色めき立ちました。
黙ってどんどん土地を広げ、水争いでも、いつも無理ばかり言ってくる隣部落の連中の事です、(註:これはおみよの部落側の人の言い分です。伝衛門側の部落の人間は、おみよ側の部落の奴は無茶な事ばかり言うと思っています。)今度は何をするつもりかと、心配でたまりません。
皆はもう、おみよや、九朗太のお弔いに関っているどころではなくなりました。皆、土手の上に集まって、隣の連中が、何をしようとしているのかと、心配そうな顔をしながら、じっと眺めておりました。

 

その24

お昼近くの事でしょうか。川下の船の方から、「おーい、見つかったぞー。おーい。おーい。見つかったぞー」という声が川原に響きました。
その声を聞きつけた、川の中を浚っていた船々も、川原で探し物をしていた人の群れも、一斉に、そちらの方に集って行きました。
やがて集まった人々は、4人で担いだ白い布に包まれた物を真ん中に、それを取り囲んで、ぞろぞろと動きだしました。取り囲んでいる人々の嗚咽の声が、風に乗って、見ているこちらの部落の人々の耳にまで途切れ途切れに、聞こえてまいります。
こちら側の一人が近寄って、その列の後ろのほうにいた一人を捉まえて、聞きました所、「川に身を投じて亡くなった、長の息子の遺体が上がってきたのだ。」と言います。
先ほど、九朗太の父親が言っていた男の事です。伝衛門の亡骸が、彼の部落に帰っていくまで、土手の上から見送った、おみよの部落の人々は、あまりにも一度に起きたいろいろな事件に、皆、どう考えたらいいのか、自分たちはこれから、どういう風にしたら良いのか、分からなくなっていました。その為、皆、その場は何も言わないで、おみよの葬儀の方へと戻っていきました。
しかしその日、部落の人々の中では、その噂でもちきりでした。2人以上よると必ずといっていいほど、その話がでてまいりました。
長を始めとする、村の長老達も困惑していました。おみよが、隣部落の長の息子と付き合っていた事すらしらなかった、部落の長老達には、今度の事件の経緯が、まだ掴めていません。
にもかかわらず、変死した娘が、地頭の所へ妾奉公に上がる事になっていた娘だったのですから、地頭の所へは、早急に、何らかの、報告をしなければならなかったからです。
だから彼らは困りました。その報告の内容の如何によっては、地頭の怒りを買う事になり、自分たちにもお咎めが及ぶ可能性があります。個人的なお咎めに止まらず、年貢を上げてくるとか、耕作地の半減などといった部落全体に及ぶ、報復的な咎めをうける事だってありえたからです。
その上もう一つ困ったことには、部落で、一番に煩さ(うるさ)方の長老の息子、九朗太が、この問題に関っていたことでした。
自分の息子が正しいと信じている九朗太の父親は、隣部落の長の所へ、抗議に行く事を求め、自分の取り巻き連中を集めて、騒いでいるからです。しかし変死した娘は、なにしろ普通の娘ではありません。地頭と深い関りのある娘です。ここで下手に騒ぎを大きくしますと、例え、九朗太の父親の言うとおり、九朗太に非がなかったとしても、この事件に乗じた、地頭からの、不当な報復的干渉によって、隣部落だけでなく、こちらの部落までも、酷い目に遭わされる可能性だってありえます。(註:泣く子と地頭に勝てないという諺がありますように、当時は地頭の非条理とも言える無理難題によって、農民は随分苦しめられていた時代です。)長老達はほとほと困ってしまいました。
その日の夜遅く,お隣部落の長が、こちらの長の所を訪ねてきました。隣部落の長は、その夜は、自分の息子、伝衛門のお通夜でしたが、それにもかかわらず、しかも、今まで諍いの絶えなかった、おみよの部落の長の所へ、たった一人で、こっそりとやってきたのでした。

 

その25

伝衛門の父親は、伝衛門の弟から、伝衛門が死んだ理由を聞き驚きました。
と同時に長の立場として、これは騒動を大きくしてはならないと、とっさに判断しました。そこで自分の悲しみを抑え、単身、おみよの部落の、長の下へと訪ねて行ったのでした。
彼は、おみよと、息子伝衛門との恋の経緯、そして息子が、九朗太に、ああいうことをしなければならなかった理由を、次男から聞いて知っている限り、詳しく話しました。そして最後に付け加えました。
「息子、伝衛門はこの事件によって、私たち二つの部落が争うようになり、それによって、咎めが,自分だけでなく、二つの部落の皆にまで、及ぶ事を心配して、自ら命を絶つことを選びました。」
「個人的な感情だけからすれば、私にも言いたい事はいろいろあります。しかし此処は、息子の意思を尊重して、お互い、穏やかに事を収めたいと思いますが、いかがでしょう。二人で何とか、うまく収めるようにもって行きませんか。」と提案しました。
無論、おみよの部落側の長にも異存はありません。
こうして一番、問題になりそうなおみよの件については、「たまたま魚を獲りに行った沼で、足を取られて溺死してしまった」という事にし、伝衛門と九朗太の件については、「個人的な争いから、弾みで九朗太を殺害してしまった伝衛門が、それを悔んで、自分の親や九朗太の親へのお詫びにと、自ら命を絶った」といいう事で片付けようということで話がつきました。
当時、こういった閉ざされた部落では、部落民同士の結束は非常に強く、事が公になれば、自分たちに不利が及ぶような事件では、一旦事が決まりますと、幼い子供にいたるまで、一致結束して、絶対に秘密を漏らさなかったものでした。従って、今回の事件が、このよう形で、闇に葬られてしまう事になったのも、別に珍しい事ではありませんでした。
ただ問題は、一人騒いでいる九朗太の親をどう宥める(なだめる)かでしたが、事件の真相を聞かされては、かねてからの、自分の息子の非行をうすうすは知っていただけに、彼も、矛(ほこ)を収めるより仕方がありませんでした。
これで、この件は無事に終りましたが、可哀そうなのは、あの二人でございます。愛し愛され合っていた二人が、今も、まともに祀られ(まつられ)ないままに、墓まで別々に葬られ(ほうむられ)ているのですから、その魂が、迷うのも当たり前でございます。
どうかお坊様の力で成仏させてやってください。お願いします。長の長い話をが終わった時には、もう東の空は白ずみ始めておりました。

 

その26

話を聞き終わった僧侶は、その晩は一睡もしていなかったにもかかわらず、直ぐに立ち上がって、護摩行(ごまぎょう)の準備を始めました。
花や水を並べた、台の中央には、僧侶の懐中から、とりだされた、大日如来の持仏が祀られました。
こうして準備があらかた整った頃には、今日のご祈祷を参拝する、村人達も、ほぼ全員集まってまいりました。集まったのは、この部落の住民だけでありませんでした。お隣の部落の住民達も,殆どがやってきました。
護摩行は三日三晩に及びました。その間、僧侶は、寝る事もなく、食べることもなく、僅か(わずか)に時々、水で口を潤す(うるおす)だけで、護摩を焚き(たき)、経を上げ続けました。
こうして三日目の朝が開けたとき、僧侶は持っていた杖を土の上に突き刺し、そして空に向って呼びかけました。
「これで貴方達二人の霊は救われました。貴方達の悲しみは、この杖の跡から湧き出る泉の底に、泡として、閉じ込めておきます。今は、もう迷うことなく成仏してください。私は、今日、此処に集まり、祈る者達全てが、子々孫々にいたるまで、あなた達を祀り、その悲哀を伝え、二つの部落が、永久に争わない事を皆に誓わせました。そしてその証として、此処にひとつの泉を授けておきます。両の村が、再び諍い(いさかい)起こし、このような悲劇を起こすようなことがありましたら、泉の底に閉じ込められている、あの悲しみの泡はその封印が解かれ、大いなる泡として噴出すると同時に、この泉は涸れ果てるでしょう。それと同時に、このあたり一帯は、大いなる災厄に見舞われる事になるでしょう。」と大声で叫ばれた後、ばったりと倒れてしまわれました。

 

その27

僧侶はそれから丸三日間、死んだように眠り続けられた後、村長の家を辞去していかれました。
僧侶が去っていかれたその日には、前日から降り続いている雨で、もう長良川の水嵩(みずかさ)は増え、村落の用水には水が溢れ、草木は蘇って、既に緑の芽を吹き始めておりました。
僧侶は去り際に、ご祈祷の時、お突き刺しになった、杖をお抜きになりました。引き抜かれた後の残された、穴からは、護摩祈祷の時、お約束になったとおりに、清らかに水が、滾々(とうとう)と噴き出してきました。
僧侶はその泉を、杖で指し示しながら、村長(むらおさ)と、およしに向っておっしゃいました。
「あなた方こそ、仏の御心を知っておられる方々です。あの時、あなた達の下さった水は、本当にありがたいものでした。今後も決してその慈悲の心を忘れないようにして下さい。私は、美しい心のあなた方二人に、この泉を預けておきます。」
「この泉の水には、眼病を治す力が、備わっておりますので、およしさんの眼は、朝晩この水で、眼を洗うことによって、必ず治ります。」
「なお、この後、この泉の霊験を頼って、沢山の人々が、此処にやって来るようになるでしょうが、その人々に、その人達が、自らの意思で上げていく以上のお金を、決して求めてはいけません。又、人々が上げて行ったお金を、自分達だけのために、使ってもいけません。その金は、困っている人々がいる時、その人達を助けるためのものですから。」と言い遺され、雨の中へと消えていかれました。

 

その28

その泉は、弘法様の泉として、その後、何百年もの間、語り継がれ、大切にされていたという話です。滾々と水が湧き続けるその泉は、どんな旱魃(かんばつ)にも、水が涸れる事はなかったとも言います。村長は、その泉の前に、小さなお堂を作り、弘法大師様をお祀りすると共に、可哀そうな二人の御霊を慰める事にしました。
およしは、その堂守として、その泉を管理しながら、残りの人生を終ったといいます。無論およしの眼は、その泉の水のお陰ですっかりよくなったと伝えられております(註:科学的に考えれば、多分トラコーマのような結膜炎を患っていたのが、綺麗な水で洗顔した事によって、治癒したのだろうと考えられます)。
しかし、何世代もの時が経つうちに、二つの部落は、いつの間にか融合して一つになってしまって、もう争う必要もなくなりました。
弘法様を祀ってあった、あのお堂も、今では朽ち果て影も止めて(とどめて)おりません。弘法様の言い伝え伝説も、いつの間にか、人の口に上がらなくなってしまいました。
弘法様の泉として、大切にされてきたあの泉さえも、地形の変化や、度重なる土手や、用水路の改修、あちらこちらの田の中に掘られるようになった、自噴する深井戸などの影響を受け、次第にその水量は少くなっていき、今日では、その所在さえもはっきりしません。最後に泉から、大きな泡(あぶく)が出たかどうかは知りませんが、その後、この地方が、あの時のような大災害に襲われたという記録は残っておりません。
幾度もの旱魃も、百閒掘りとも言われる、深井戸の自噴水のおかげで、昔のような被害を受ける事はなかったと言われております。しかし本当は、これも弘法様が、水道(みずみち)をつけて置いてくださったお陰です。
弘法大師様は決して、今もお亡くなりになってはおられません。生きたまま仏様の姿になって、全国を廻り、困っている者を助け歩いていらっしゃいます。あんた達子供も大人も、何事もない今のうちから、弘法様を信じて拝んでいてくださいね。そうすると、困った時には、きっとお助け下さるから。と言う言葉で、お婆さんの長い、長い話は終わりました。

 

先日、祖父の家のあった村へ行った折、この話を聞かせてくださったお婆さんの家の辺りに行って見ましたが、その家は、もう無くなってしまって、モダンな最近のプレハブ住宅に代わっておりました。あのおばあさんがその後、どうなったかは、故郷に住む者もいなくなった今では、知る由もありません。

No.95 お婆さんの昔話 弘法さまの話 「幸せの泉、悲しみの泡(あぶく) 第3部」 

その12

田植えも終って、農作業が一段落し、人々の手も少し空いていたある夜、半月にもならない月が西の空に落ちるのを待って伝衛門は、そっと家を抜け出しました。
月のすっかり沈んだ夜空は、真っ暗で、黒い着物に身を包んだ彼の姿は、すっぽりと包み込まれておりました。田植えの終った田んぼから聞こえる、蛙の鳴き声も、伝衛門の立てる、微かな足音を消す手助けをしてくれていました。時々頭の上を横切っていく、1,2匹の蛍の光だけが、彼の黒い影を時々仄かに浮かびあがらせては消えていきます。
おみよの家の傍まで来た伝衛門は、あたりを窺いました。しかしもうかなり更けた夜の事、周囲には誰もみあたりませんでした。それでもかれは、家の周りを一回り廻って、誰もいないことを、もう一度確かめました。それからおみよの家に近づくと、中の様子をそっと窺いました。
家の中はひっそりとしていて、中からは、何の音も聞こえてきませんでした。安全な事を確かめた伝衛門は、入り口に近寄ると、声を押し殺して、おみよの名を呼びました。2,3回呼んだ時でしょうか、ごそごそと中で動く音がして、誰かが起きてくる気配がします。伝衛門は咄嗟に物陰に身を隠しました。万一、おみよでなかった場合を考えたからでした。
入り口の内側から、「どなたですか。」という声。それは間違いなく、あの恋しいおみよの声でした。
「俺、俺、伝衛門。今、外に出られるか。」と伝衛門。がさがさと葦束を押しのけて現れた、おみよは、そこにあの懐かしい伝衛門の姿を認めると、「わーっ、伝衛門。会いたかったよー。」と小さく叫びながら抱きついてきました。
顔は、もう涙でぐちゃぐちゃです。「俺も。」強く抱き締めながら伝衛門も囁きます。二人はもう気でも狂ったように、抱き合い、頬を擦り合わせました。二つの身体が一つに溶け合ってしまうほどに、二人は強く抱き締めあいました。何度も何度もお互いの存在を確認しようとするかのように、強く抱き締めました。
それからどれほどの時間が経ったことでしょうか。ふと冷静に戻った伝衛門は、「こんな所を、誰か他の奴等に見られたら、大変。」「少しの間、家を抜け出すことが出来ない?できたら、もっと人目に付かない、落ち着いた場所で話したいのだが。」と囁きます。「いいよ。お婆も寝入ったばかりの所だから。もともとうちは、お隣からは遠く離れていて、こんな夜遅くに、訪ねてくる人もいないだろうけど。」と言う、おみよの上気した身体からは、乙女の薫りが、色濃く立ち上ってまいります。
「じゃー、川原の、あの柳が茂っている突堤、あそこなら、誰も来ないだろうから、あそこへ行こう。」と伝衛門は先に立って歩き出しました。「待って。でも念のため、お婆の様子を見てくるから。」といいながら家の中に入った、おみよは、髪を撫で付け、紅を差しました。それからお婆の様子を窺って、ぐっすり寝入っているのを確かめると、安心したように、ソット抜け出してきました。

 

その13

柳の茂る川原に着いた二人は、待ちきれなかったかのように、再び激しく抱き合いました。肌という肌をくっつけ、互いの歯が、音を立てるほど強く唇を合わせました。しばらく見ないうちにめっきり美しくなり、女らしさを増した、おみよの身体から立ち上る、女らしい薫りや、纏わり(まとわり)つくような滑らかな女の肌の感触は,彼の理性を奪ってしまうものでした。伝衛門は、考える事を止めてしまいました。ただ本能に身を任せ、おみよの身体を弄り(まさぐり)ました。
おみよの気持ちも、同じらしく、喘ぎ、もだえ、一層強く絡みついてまいります。会えない間に募った男への思いが、彼女を大胆にさせているようでした。彼女は、身も心も男に委ね(ゆだね)ました。男は何度も何度も求め、女もそれに応じました。自分たちの先行きへの不安に怯えながら、それを打ち消そうとするかのように、二人は、何度も、求め合い、愛を確かめ合いました。
しかし、その一時の情熱の嵐が去った後に、再び二人に襲ってくる、未来への不安は、拭い去りようもありませんでした。その夜、二人が、それを口にすることはありませんでした。ただ次の逢瀬の時と場所を約束しただけでした。もしそれを口にしたとき、今の幸せは、泡沫(うたかた)のように消え去ってしまうであろうという、この愛の宿命を予感していたからでした。

 

その14

その夜二人は、もしどちらかが都合が悪くて、来られなくなったときの為に、この場所に、次に会う時期を示し合わす、合図を残す事に決めました。この為,その後は、以前よりは少し会いやすくなりました。お互い都合のいい時を示し合わせておいて、会えるようになりました。若い二人は、会えば、互いの身体を貪りあいました。しかし、会えば会うほどに、別れが辛く、物足りなさが募るばかりでした。
しかも、この二人を取り巻く状況は益々悪くなっておりました。伝衛門の所では、あまりに話しに乗ってこない伝衛門の態度に、痺れを切らした父親が、伝衛門の承諾もなく、勝手に、他の部落の長の娘との縁談を進めようとしていました。
一方、おみよの方も、おみよの美貌を聞きつけた、この地の地頭から、妾奉公に出して欲しいという話が、長を通して、舞い込んできていました。もし、おみよが、自分の所に来てくれるなら、およし婆さんには、たっぷり金を下して、一生楽をさせてやるし、村の年貢も少し負けてやるという好条件までついていました。
こうなりますと、人は現金なものです。今まで冷たくして、近寄りもしなかった連中が、さかんにおよし婆さんの機嫌をとり、顔色を窺うようになりました。幼い時からおみよのことを可愛がってくれていた長も、「無理は言わないけれど、出来たら、地頭の所に行ってもらえないだろうか。」と頼みます。
村の事などどうなってもいいと言っていたおよし婆さんでしたが、食うや食わずの、この貧しい生活から抜け出し、新しい屋敷に、女中まで付いた生活が待っているというこの話には、心が動きました。およし婆さんはもう、おみよの意向とは関係なく、地頭の世話になる事を決めてしまっていました。(註:当時はこういう話は親がかってに決めてしまって、子供の感情や意思などあまり考慮されませんでした。)

 

その15

二人が会っている間に話す、会話の内容も次第に深刻になってきました。伝衛門は、もはや二人が結ばれる道は、家を棄て、部落を棄てる以外に方法がないと思うようになり、おみよにも、およし婆さんや、家を棄て、一緒に逃げるよう迫ります。
おみよも、それしか道がないということは分かっているのですが、一人残される、およし婆さんの事を思うと、なかなか逃げる決心ができませんでした。自分が逃げた後、目の不自由なおよし婆さんに、どんな生活が、待っているのかと思うと、どうしても(逃げる)踏ん切りが、付かなかったのでした。
しかし彼女が、ぐずぐずしているうちに、妾奉公の話はどんどん進められていってしまい、地頭の所に行くのは、一ヵ月半後の、満月の夜と決まってしまいました。
自分と親子ほども年の違う、半白髪の男から愛撫されている姿は、想像するだけで、身震いが出るほどに嫌でした。
話が現実味を帯びてきた今では、もはや、伝衛門の言う通り、どこかに逃げるより道はないと思えました。二人は相談して、逃げるのは、今日より半月後の、朔日の夜半と決めました。そしてそれまでにいろいろ準備を整える事にしました。
おみよは、およし婆さんの事を思うと、心が痛み、およしの顔をまともに見ることが出来ませんでした。いつも心の中で、手を合わせておりました。しかし、もともと目が不自由な上、地頭からの下さり物の山に、有頂天になっていたおよしは、そんなおみよの気持ちに気付くはずもありません。
「お前のお陰でこんな幸せな後半生が迎えられるようになろうとは。もうこれで、お前もわしも、ひもじい思いをせずと済む。ほんにありがたいことじゃ。」と、単純に喜んでおります。日々の食い物にも困るような生活を続けてきたおよしは、この妾奉公によって、おみよにも幸せが来ると、信じきっているようでした。
おみよは、ちくちくと心がいたみました。しかし何も言わずに俯いた(うつむいた)まま、ただ黙って聞いていました。せめて自分のいなくなった後のおよしばあさんの為にと、おみよは、せっせと準備をしました。繕い物をすませておいたり、干し肉や、くすぶり肉を蓄えたりと、忙しく準備しました。
伝衛門もまた、家を出る準備に追われました。自分の家から、少しずついろいろな物を持ち出してきては、あの沼の近くの木の洞の中に隠しました。保存食や、金子(きんす)、そしてちょっとした、日働きに出る時用の農具といった物を、持ち出してきては隠しました。二人が落ち着いた先で、おみよに、少しでも苦労を少なくしてやろうとの考えに基づく準備でした。
貧しいおみよは、何も持ち出してくることは出来ませんでした。彼女が出来た事は、せいぜい、伝衛門の持ち出してきたものを、運びやすいよう束ねたり、隠してある物を見つかり難いように、さしあたりカモフラージュしておいたりするくらいでした。しかしそれでも、二人は幸せでした。二人でする、それらの作業は、新鮮で、とても楽しい事でした。希望に胸を膨らましていた彼らには、未来への何の不安も感じていませんでした。

 

その16

おみよが妾奉公に上がる日が近づくに連れ、九朗太も焦りました。
このままでは、おみよは、自分の手の届かない所にいってしまうと思うと、いても立ってもいられなくなりました。彼女が、妾奉公に出る前に、盗んででも、一緒になりたい。一度でいいから、自分の思いを遂げたいと思うようになりました。九朗太は、毎夜おみよの家の周りをうろつき、おみよを拉致する機会を窺っておりました。
そして悲劇は起こりました。それはおみよが伝衛門と逃げる日と決めていた前々日の夜の事でした。伝衛門との最後の打ち合わせのためと、時間よりすこし早めに、いつもの場所にやってきたおみよが、そこに見たのは、ニヤつきながら待っていた九朗太の姿でした。おみよは咄嗟に逃げようとしました。
しかし全く警戒してなかったおみよには、逃げる余裕がありませんでした。あっという間に、捕まえられ、転がされてしまいました。押さえ込まれ、猿轡(さるぐつわ)をかまされ、両手足を縛られて身動きも出来ません。九朗太は、ゆっくりと自分の下着をはずすと、やおら、おみよの両足を持ち上げ、彼女の中に入ってきました。
それは悪夢のような時間でした。叫ぶ事もできず、動く事もできなかった彼女は、涙を流しながら、ただ九朗太を眺めていました。
やがて終ったらしく、おみよから離れた九朗太が、「どうだ、俺のは、良かっただろう。一度俺とまぐわった女は皆、絶対に俺から離れられなくなるんだから。」と自慢げに耳もとで囁きます。
放心して、身動きもせず、ただ涙をながしているおみよの姿に安心したのか、彼女の口を塞いでいた猿轡をはずしながら、九朗太は更に続けました。「これから、俺と一緒に逃げないか。あんな地頭のようなヒヒ爺や、お前の優男なんかより、俺の方がずっといいぜ。一生、面白可笑しい暮らしを、させてやれるぜ」と。
それを聞いて、はっきり意識がもどってきたおみよは、身もだえしながら、叫びました。まだ少女の気質の抜け切らない勝気なおみよは、こんな男に自分の大切な物を奪われたと思うと悔しくてなりませんでした。だから思わず言ってしまったのでした。「嫌なこったー。あんたなんか、私の伝衛門に比べたら、月とスッポンよ。くすぐったくて、気持ちが悪かっただけ。こんな事して。絶対許さないから。いつか、きっと地頭様に言いつけてやる。」とさも憎憎しげに言い返しました。
それを聞いた九朗太は逆上しました。今まで九朗太が相手にしてきた女達は、お金で相手をしてくれる女たちばかりで、お得意様の九朗太に、そんな嫌な事を言う者はいませんでした。だから女からそんな辱めを受けたのは始めてでした。九朗太は、自尊心を、ひどく傷つけられました。その上、万一この事を、地頭に言いつけられたらと思うと、とても心配になってきました。もうおみよをそのまま帰すわけにはいかないと思いました。
そこで、まだ横たわっていた、おみよの身体に馬乗りになると、「この性悪女め、こうしてやる。」と叫ぶなり、おみよの首を思い切り絞めてしまいました。突然おみよの身体から力が抜け、ぐったりとなってしまったことで、彼女が死んでしまったのが分かった九朗太は、しばらく、放心したように、ぼんやりと、おみよの亡骸を眺めていました。
もともと気の小さい、小悪人でしかなかった九朗太は、自分のやったことの罪の重さに、震えていたのでした。しかし、やがて、遠くから、誰かがやってくる足音を聞きつけると、あわてて、おみよの亡骸を背負い、足を引き摺り、よろめきながら、その場を離れていきました。

 

その17

足音の主は、約束していた時間より、少し遅れてやってきた伝衛門でした。出掛けにちょっとした用事が起きて遅れた伝衛門は、もうとっくに、そこに来ているはずの、おみよの姿が、そこに見当たらない事に、不審を覚えました。
悪い予感に胸騒ぎがしてなりませんでした。今頃になって気が変わって来られなくなってしまったのだろうかとか、誰かに見つかって、此処にでてこられなくなってしまったのだろうかとか、待っているうちに、沼に落ちてしまったのではないだろうかといった、悪い想像ばかりが次々と浮かんでまいります。しかし同時に、悪戯(いたずら)好きの彼女の事、自分を驚かす為に、そこいらあたりに隠れているだけかもしれないとか、自分のように、出掛けに、出るに出られない用事が出来て、遅れているだけかもしれないとか、自分が少し遅れたので、拗ねているのかもしれないといった希望的な考えも浮かんできました。
伝衛門はともかくしばらく待つことにしました。伝衛門は、おみよの名を、時々呼び、あたりを探しながら、しばらく待っていました。
しかしおみよの姿を見る事はありませんでした。伝衛門の心配はどんどん膨らんできました。夜中の事、あたりは暗くて、直ぐにはどうしようもありません。何か手がかりになるものをと思っても、草の生い茂った川原は、真っ暗で、何も見えず、それもできませんでした。心配しながらも、伝衛門はその夜は一旦、自分の家へ引き揚げるより仕方がありませんでした。

 

その18

翌朝、夜が明けるのを待って再びそこにやってきた伝衛門は、その場所の草がなぎ倒され、人が争った形跡があるのに気付きました。同時に茂った草の中から、おみよの物とおもわれる、女物の腰のものと、男の下穿きが残されているのに気付きました。
伝衛門は、おみよの身に、一方ならぬ事が起こっていることを確信しました。もう周りの人間の思惑を気にしているどころではありませんでした。
伝衛門は直ぐに、いつもやってきていた商人に、隣の部落の様子を、探ってくるように、頼みました。一方自分は、3,4人の若い衆を連れて、おみよの立ち寄りそうな場所を捜し歩きました。しかし何も手掛かりは得られませんでした。
ただ隣の部落の様子を探らせた商人からは、重要な情報が入ってきました。何でも、地頭の家に妾奉公に上がるはずだった娘が、昨晩から行方知れずになっているという噂でした。そして同時に、夕べ遅く帰ってきた九朗太、それはかねて、おみよが、自分に付きまとう嫌な男として、愚痴を言っていた男の名前でしたが、「そいつの態度がどうもおかしい、なんか知っているのではないか。」と近所の人が噂しているという話も、持って帰ってきました。

 

その19

おみよの部落では、娘の行方を捜して、朝から大騒動でした。
何しろ、地頭の所に妾奉公に出ると決まっていた女がいなくなったのですから、大変です。このままでは、地頭からどんな咎めを受けるか分かりません。彼女が行きそうな場所は、全て探しました。彼女が逃げたのでないかと考えて、街道筋にあるあちらこちらの部落にも、彼女を見かけなかったかと、聞いて歩かせましたが、彼女の消息を知ることはできませんでした。
どこにも見つからなかったので、午後からは、村中総出で、川沿い一帯をずっと川下のほうまで探していきました。川の中は無論の事、川原の草の中、湿地帯の葦原、あちらこちらにある沼の中にいたるまで探し歩きました。
捜索も三日目、お昼過ぎの事でした。大人達はもう皆、草臥れて(くたびれて)しまって、思い思いの所に座って休息をとっていました。
しかし子供たちは、初めての経験に興奮して、その間もじっとしておれず、大人たちの休んでいる間も、大人たちが止めるのも聞かないで、あちらこちらに、潜り込んでは、その辺り一帯を探し回っておりました。そうした、腕白盛り(わんぱくざかり)の子供達の一群が、大人たちが恐れて近寄らなかった、あの底なし沼の中に、何か変な物が浮かんでいるのを見つけてきたのでした。
子供たちの呼ぶ声に駆けつけた大人たちは、そこに浮き上がってきている女の下半身を認めました。
足首の所で硬く結ばれた足は、既に魚や鳥に食いちぎられたのか、皮膚が一部剥ぎ取られ、骨や肉がはみ出しておりました。むき出しになった下半身は、ガスで腹が、異様に膨れ上がっております。
大人たちは慌てて子供たちを遠ざけると、がやがやと騒ぎながら、女の亡骸を引き上げました。
目玉が飛び出し、青膨れに膨れ上がった女の顔にはあの美しかったおみよの面影はどこにも残っていませんでした。しかし、その身につけている物から、それがおみよであることは、間違いありませんでした。

以下第4部(最終編)に続く

No.94 お婆さんの昔話 弘法さまの話 「幸せの泉、悲しみの泡(あぶく) 第2部」 

その6

おみよが13歳になった年の秋の終わりの事でした。
その日、いつものように葦の生い茂る沼地へとやってきたおみよが、岸辺近く、直ぐ足元に、大鰻をみつけ、それを獲ろうと、沼の中に足を踏み入れた時の事です。ずるりと滑った彼女の足は、沼地の真ん中の方に引きずりこまれてしまいました。
そこは、表面からは、それほどの深さがあるようにはみえませんでしたが、堆積した柔らかい泥土によって、覆われていたその場所は、足が届かないほどに深い沼でした。陸に上がろうと、もがけば、もがくほど池の真ん中へ、深みへと引き込まれていってしまいました。最初は腰のところまでくらいしかなかった水面が、もがいている間に、いつの間にか、乳のところまで来てしまっていました。脚にまとわり付く水と泥土はとても重く、身動きも出来ません。おみよは、沼の方へと倒れこんできていた葦の茎の塊を掴むと、動くのをとめて、大声で助けを求めました。
しかしこんな荒地の事です。どこからも何の返事も戻ってきませんでした。何度も何度も助けを呼んでいるうちに、声は次第に嗄れしまい、声も出なくなってしまいました。秋の日は短く、太陽はいつの間にか西に傾き、燃えるような夕日が真っ赤に西の空を染め始めるようになってきました。おみよはもう、寒さと、疲労で半分気を失いかけておりました。時々口から洩れる泣き声も、よほど耳を澄まさないと聞こえないほどになってしまっていました。彼女はもう何も考える事が出来ませんでした。ただ懸命に、葦にしがみ付いていただけでした。
その時でした。ガサガサと葦を押し分ける音がして、一人の男が現れました。此処の近くの池へ、魚を獲りにきていた男は、その帰り道、沼の方から、女のすすり泣くような奇妙な音がするのを聞き、何かと思って、やってきたのでした。そこに、沼の中で葦につかまって辛うじて浮いている少女を見つけて、彼は驚きました。最初は人間でないと思いました。夕日に照らされながら、時々しゃくりをあげている、その少女の姿は、とても美しく、神秘的でした。沼の魔物が自分を誘惑するために現れたのではないかと思えるほどでした。
男はしばらく黙って、彼女を眺めておりました。彼女はもはや男の存在にも気付かない様子で、ただ、ただ、しっかりと葦の茎束にしがみ付きながら、放心したような顔を、時々ゆがめては、しゃくりを上げておりました。
やがて男は決心したように、自分の腰縄の端に、上着を結ぶと、彼女の方に投げかけて叫びました。「おーい。しっかりしろ。早くこの服に掴まれ。」と。声で気付いたおみよは、その上着にしがみ付きました。「しっかりつかまっていろよ。最初はゆっくり引くけれど、焦って、自分で動こうとするな。ただ摑まっていろ。でも絶対に離すな。少し岸に近づいたら合図をするから、今度はそこに浮かんでいる流木に掴まり直せ。」といいながら、その綱を引っ張る男は、身体つきこそ、ガッシリしておりますが、顔にはまだ多少あどけなさの残っている少年でした。
流木に届くまでは、とても時間が掛りましたが、流木に持ち替えてからは直ぐでした。おみよが、流木に掴まり直すと直ぐ、彼はその流木を抱え上げ、一気におみよを、ひき上げてくれました。ひき上げられた途端、おみよは今までの寒さと、疲労、そして助かったと思った安堵感から、気を失ってしまいました。

 

その7

時々、パチパチと火のはぜる音に気がついたおみよは、裸で、葦の上に寝かされている自分にきづきました。
若い男の臭いのプンプンする着物が身体の上には掛けられておりました。あたりはもう既に薄暗く、燃え上がる火の傍で、枯れ木や、枯れ草、枯れた葦をせっせと投げ込んでいる、男の黒い影がみられました。彼女の襤褸雑巾(ぼろぞうきん)のような着物も、火の近くに立てられた木の枝の先につるして乾かしてありました。
男の姿は裸でした。着ていた上着は、彼女を助けたとき、底なし沼に沈めてしまい、残りの着物も、おみよに貸してしまったからです。
下着だけの姿で、寒空の下、時々身震いしながら、懸命に火の世話をしている男のたくましい姿をみているうちに、おみよは、なんだかわからないが、胸の内が熱くなってくるのを感じました。
おみよが、気が付いたのに気付いた男は、彼女の方を振り返ると「気がついたか。大丈夫か。それにしても、一体、何をしていたんだ、あんな所で。でもよう頑張ったなー。」と言います。
大人びた、その言い方とは裏腹に、声には未だ、少年らしさが残っております。焚き火の光の中に、チラチラと映しだされる顔立ちは、彫りが深く、とても整っておりました。年の頃は15,6歳、子供から大人へと移ろうとしている時期の少年のように思われました。
自分とあまり年の違わないように思われるその男が、自分の方を見ているのに気付いたおみよは、全身を真っ赤に染めて、掛けられている服の下の身を縮め、くるりと後ろを向きました。自分の生まれたままの姿を知られていると思うと、恥ずかしくて、お礼の言葉を言うのも忘れてしまっていました。
「もう少し待ってろ。直ぐに着物も乾くからな。それまでは俺の着物で我慢してろ。」彼も美しい彼女を意識し始めてか、背を向けたまま、ぶっきらぼうにいいます。
「腹が減っているだろう。俺がさっき獲った魚を、今焼いたから,それを食べて、元気を出せ。」と言って後ろを向いたまま差し出してくれました。
「ありがとう。」と辛うじて礼を言って、おみよは受け取りましたが、直ぐに口をつける気にはなれませんでした。生まれたままの姿で、横たわっている自分のあられもない姿を思うと、どうしていいかわかりませんでした。手渡された魚を持ったまま、おみよは、もじもじしていました。しかし悲しいことに、身体は正直でした。焼けた魚のいい香りに、お腹はグルグルと鳴りだし、唾は、口いっぱいに広がってまいります。貧しい彼女は、昨日の夜から、充分の食事を摂っていなかったのでした。
お腹のなる音を聞いた男は笑い出しました。「御免、御免。その格好では、女の子だもの、人前で食べ難いわなー。もう着物もあらかた乾いたから、食べるのは着物をつけてからにしな。」と言いながら、おみよの着物を抛り(ほうり)投げてよこしました。

 

その8

男の語るところによりますと、彼は、幼名は源太、今の名前を伝衛門と言い、彼の祖父の時代に、おみよ達の部落の、すぐ下(しも)の土地へと移り住んできた、一族の長の息子でした。
彼ら一族は、以前は何処かの主君持ちの侍だったとかで、男達は皆、力もあり、一族としてのまとまりもよく、しかも資金力もあって、道具も揃っておりました。したがって、みるみるうちに、荒地を開墾し、耕作地を拡げていきました。それにつれて、土手もドンドン延長し、いつのまにかおみよ達の部落の輪中と、隣あわせになってしまっていました。
こういった隣同士の輪中というのは、開墾地の拡張や、水争い、土手の強さ、高さを巡って、昔から、どこでもいざこざが絶えないものです。(当時は、大水が出た時など、どこの土手が先に切れるかどうかで、部落の運命がきまりました。隣の輪中の土手が先に切れてくれれば、そちらに水がなだれ込んでいきますから、水位が一挙に下がり、そのため隣の部落は助かる場合が多かったからです。従って、土手の高さとか強さを隣同士でどうするかで、いつも喧嘩の種になっていました。又、田に水を取り入れる場合などは、用水路の一部を堰きとめ、水位を上げて、夫々(それぞれ)の田の方へ、水を誘導するわけですが、せき止める時期とか場所を巡って、同じ部落内でも争いが絶えないくらいですから、利害関係が対立するだけの隣部落との場合などは、激しい争いが、頻繁に起こるのは、当然の帰結でした。)
おみよの部落と、伝衛門の部落との間も、この例にもれず、それこそ犬猿の仲といって良いほどに仲が悪く、いざこざが絶えませんでした。子供同士でさえも、顔を見合わせると、集団でやったり、やられたりと角を突き合わせるような関係でした。縁談話なども、隣の部落との結びつきは避け、わざわざ隣部落を飛び越した、向こう側の男女との間で纏めておりました。
こんな状況でしたから、おみよが、隣の部落の娘と知った伝衛門は驚くと同時に、とても悲しみました。彼は、おみよが語ってくれた不幸な生い立ちに、すっかり同情してしまいました。そして、それにもめげず、明るく、懸命に生きている美しいおみよに、すっかり好意を持ってしまったのでした。
伝衛門は、何とか彼女を幸せにしてやりたいと思いました。しかし今の彼には、どうしてやりようもない事、それどころか、好意を持つこと自体が許されない事である事も分かっておりました。
一方、おみよの方も、伝衛門に対して、その外見の格好の良さもさることながら、そのさっぱりした、男らしい気性に、すっかり心を奪われてしまいました。命を助けて貰った事に対する、感謝の気持ちも手伝って、彼を慕う気持ちは、話すほどに、どんどん膨れ上がり、いつのまにか、人の思惑など気にならなくなってしまっていました。
自分の帰りをひたすら待って、腹をすかしているであろう、おばばの存在も、隣近所の口うるさい女房連中の事も、すっかり忘れて、話に熱中していました。彼を見つめているだけで、身体は熱くなり、胸が高鳴りました。心は天に昇ったかのように高揚し、雲の上を歩いているかのように軽やかに踊っていました。この一時(いっとき)、辛く悲しかった今までの事は、全て遠い世界へと押しやられ、ばら色のそよ風だけが彼女の周りを流れておりました。
おみよを、愛しいと思うようになっていったのは、伝衛門も同じでした。焚き火の下、楽しそうに笑う、おみよを見ていると、その華奢な体を思い切り抱き締めてやりたいと思うほどに、愛しく思いました。丸く、大きく、澄み切った瞳に見つめられると、自分の魂が、おみよの身体の中に吸い込まれ、彼女と一緒になっていくように感じました。
おみよはとても利発で、話はとても面白く、いつまで話していても飽きさせません。伝衛門もまた、彼女が傍にいてくれるだけで幸せでした。何もしなくても、何も話さなくても、一緒にいるだけで心が満たされました。
二人は離れ難い運命のようなものを感じていました。もはや言葉は必要でなくなりました。二人を隔てる空間も時間も消えました。二人だけの閉ざされた世界の中で、黙って座っておりました。照らし出す焚き火の明かりを挟んで、いつまでも、いつまでも、ただ見詰め合っておりました。揺らめく炎は、そんな二人の運命を暗示するかのように、強い風に煽られて、時々消えそうに揺らめいておりました。

 

その9

どれほどの時が経った時のことでしょうか。風に乗って運ばれてきた、伝衛門を呼ぶ、大勢の人のざわめきに、二人は、突然、現実の世界へとに引き戻されました。
見渡すと、遠く伝衛門の部落の方から、伝衛門を探す人々の声と、沢山の松明の明かりが近づいてくるのが見えます。
「こんな所を、皆に知られたら大変。もう二度と会えなくされてしまう違いない。送っていくから、逃げよう。走れるか。」と言うと、伝衛門は焚き火を消し、おみよの手を引いて、走り出しました。
道もはっきりわからないような真っ暗な沼地を、伝衛門は、まるで自分の家の庭のように迷いなく、ものすごいスピードで草を掻き分けながら駆け抜けていきます。
おみよもどちらかというと活発な女の子で走るのは苦手ではありませんでしたが、さすがに男の彼のスピードには付いていけません。引っ張られる手は痛み、息は切れます。しかし痛くて苦しいのですが、秘密を共有していると思うとそれが嬉しく、ただただ一生懸命に付いて走りました。
おみよの家の入り口近くまで来ると、伝衛門は、「じゃー、又三日後。昼下がりに、あの場所で。」とおみよの耳元に囁き、暗闇の中にさっと溶け込むように消えていきました。しばらく伝衛門の消えたあたり見送っていた彼女は、やがて何事もなかったかのような顔をして、家の中に入っていきました。
しかし始めて握られた男の手の感触に、顔は上気し、胸はどきどきしておりました。思い出す度に、恥ずかしさで、顔が赤くなって来るのですが、心は踊りだしたいほどに弾み、身体は火がついたように火照ってまいります。
家ではおよし婆さんが、あまりおみよの帰りが遅いので、心配して待っておりました。しかし幸いなことに、眼病を患っていて目が不自由な、およし婆さんは、おみよの微妙な変化に気付きませんでした。もともとあまり付き合いのなかった近所の人たちですから、あの口うるさい女房連中に気付かれることもありませんでした。
夫の死んだ後に受けた、世間の冷たい仕打ちから、およしは、近所の連中を恨んでいました。従って今回も、誰にも知らせなかったからです。
しかし、あまりにも遅いおみよの帰りに、一人でヤキモキしながら帰りを待っていましたから、それだけに、およし婆さんの怒りは強く、その夜の小言はきつく、長くなりました。
一方、伝衛門の方は、少し遠回りして、自分を探してくれている人々の方に辿り着くと、何食わぬ顔をしてみんなの前に顔を出しました。
「ご迷惑をお掛けしました。実は魚とりに夢中になっているうちに、暗くなり、路に迷ってしまったようです。どうも同じ場所をぐるぐる廻っていたようです。皆さんの松明のおかげで、やっと方向がわかり、帰ってくることが出来ましたが、ほんとうに危ないところでございました。ありがとうございます。」とお礼を言ってから、更に続けました。
「それにしても、あんな所で迷うとは。前から時々行っていた場所だったのに。狐にでも化かされたのでしょうか。」
「そういえば今日、あの土地で恐ろしい光景に出会いましたよ。あの柳が、突堤の所に茂っているあの湿地、あそこの大川から少し中へ入った所にある大きな沼、あの沼、一見すると、それほど深いようには見えませんが、実際には底なしみたいです。間違って足を踏み入れたら最後、チョットやソットでは出られないようですよ。現に今日、あそこを通った時、偶然、あの沼で小鹿が溺れているのを見たのですが、その小鹿、もがけばもがくほどに、ずるずると、沼の泥のなかへと引き込まれていってしまって、どうしてやりようもありませんでした。可哀そうに思って、助けてやろうと思ったのだが、あっという間にしずんでいってしまって、助けてやりようがなかったのです。あの沼には、あまり近寄らない方がいいかもしれませんよ。何か得体の知れない不気味なものを感じますから。」と独り言のように言いながら、部落の人達が、この後、あの沼地に近寄らないように牽制しておきました。
捜索に加わった村の衆は、伝衛門の思惑など知るよしもありませんから、伝衛門の父親が出してくれた振舞い酒に、したたかに酔って、「良かった、良かった。坊ちゃんが無事で何より。それにしても、あの怖いもの知らずの源太坊ちゃんでさえ、気味悪がるような所なら、あまり近寄らない方がいいだろうなー。お互い、気をつけることにしよう。くわばら、くわばら」と口々に言いながら、千鳥足で帰っていきました。

 

その10

二人はその後、時々、口実をみつけては、その沼地で二人だけの時間を持つようになりました。
最初のうちは兄妹のように、その沼地を駆け巡って、追いかけっこをしたり、並んで座って語り合ったり、冗談を言いあったりしていただけでした。それでも二人はとても楽しく、幸せでした。他の人達の目を気にする二人にとっては、それは僅かな逢瀬でしかありませんでしたが、お互いの顔を見、言葉を交わし、一緒にいる時間を持てただけで、充分幸せでした。
伝衛門はおみよのためにと、いつも魚や,野兎などを捕まえておいては、渡してくれましたから、おみよが、皆から怪しまれることもありませんでした。
二人で過ごす、この夢のような時は、瞬く間に過ぎて、2年あまりの時がすぎました。
おみよも、もう16歳に近く、背丈も大人と代わらないほどに伸び、体つきも、ぐんと女らしくなってまいりました。
もともと可愛かった顔立ちは、大人っぽさを加えて、輝くように美しくなり、すらりと伸びた手足は、小鹿のようなしなやかさです。もうどんなにおんぼろの着物を着けていても、その美しさは隠しようがありません。彼女の美しさは、遠く離れた村々にまで伝わり、あちらこちらの部落から、できれば自分のお嫁さんになってもらいたいと思った男達がやってくるようになりました。
こうなりますと、部落の男達も、放って置いてはくれませんでした。年頃の若い男の子達から、言い寄られるようになったのは、いうまでもなく、年配の、もうすでに所帯を持っている男達の中からさえもが、隙あらば、物にしようと、色目をつかう輩が出てくる始末でした。
この為、部落の女達からは、疎んじられ、意地悪をされました。彼女たちは、寄って集って(たかって)、彼女を貶める(おとしめる)ような噂を流しました。しかし考えてみれば、女達も可哀そうでした。なにしろ男達の関心は、おみよの方にばかり集まり、亭主も若い男達も、振り向いても、もらえなくなったのですから。
こうして女達からは目をつけられ、男達からは付きまとわれるようになったおみよは、以前のように気楽に、出歩き難くなり、2,3度すれ違って伝衛門と会えなかった後は、会う手段がなくなってしまいました。
男達の中でも、特にしつこく付きまとうようになったのは、その部落では、長に次ぐ力を持った長老の家の息子、九朗太でした。
何かと理由をつけては、おみよの家に立ち寄り、親切そうに、彼女達の世話をしようとしだしました。
しかしその九朗太は、昔、およし婆さんの亭主と息子夫婦が亡くなった時,およし婆さんに辛く当たり、村八分にするように村の衆を焚きつけた、張本人の息子でしたから、およしは、この男の事を快く思っていませんでした。
そのため、九朗太が何を言ってきても、寄せ付けようとはしませんでした。彼がどんなに物を持ってきても、仕事を手伝ってくれようとしても、甘い言葉をかけて近寄ってきても、おみよも、およし婆さんも、傍にも寄せ付けません。冷たくはねつけるだけでした。
しかし冷たくされればされるほど、熱くなるのは恋の常です。男は、一層、熱くなり、一層しつこく、付きまとうようになりました。こういった事が重なって、おみよの行動は一層窮屈になり、なかなか家を抜け出すことができなくなってしまっていました。
おみよがどんなに伝衛門と会いたいと思っても、会う機会をつくれません。おみよは、伝衛門のことを思って毎日、密かに(ひそかに)泣いておりました。若くて、一途なおみよにとっては、伝衛門が全てでした。彼以外の男は、どんな金持ちも、どんな権力者も、目に入りません。降るほどにやってくる縁談を断り、蜜に集まる蟻のように寄ってくる男達を袖にしながら、ただひたすら、伝衛門からの連絡を待っておりました。

 

その11

伝衛門の方でもいろいろ問題が起きていました。
18歳といえば当時はもう大人です。一人前の大人として扱われるようになった伝衛門は、いよいよ家の後継ぎとして、若長として、部落の皆を率いて働かなければならない立場になっていました。もう以前のように、一人で気楽に、出歩く事が難しくなってしまっていました。どこに行くにも、下僕がついてまいります。
もう一つ厄介な事は、親から結婚を急きたてられるようになったことでした。逞しくて、男前、その上気風もいい伝衛門ですから、以前から、部落の娘達は皆、彼のことを憧れていました。所が近頃では、年頃の娘を持った、近隣の有力者の親たちもまた、彼の噂を聞きつけて、何とか自分の娘を嫁に貰って欲しいと申し込んでくるようになっていました。しかし、彼もまた、次々もちこまれる縁談に、見向きもしませんでした。もう18歳にもなったのだから、いい加減、嫁を決めて欲しいと願っている両親は、気が気でありません。いつまでもぐずぐずしていて、いっこうにその気になってくれない伝衛門に、周囲のものも、やきもきし始めました。長老達は強引に身を固めるように迫るようになり、両親は哀願するようになりました。
伝衛門もまた切羽詰っていたのでした。親たちから、他の娘との結婚を勧められるほど、おみよへの思いは募るばかりでした。しかし、親の思惑や自分の立場を考えると、諍い(いさかい)あっている部落の娘、それも、その部落で最下層に属するような家の娘を、嫁にしたいとは言い出せませんでした。そのうえ最近は、会っていませんから、おみよの気持ちも分かりません。伝衛門もまた悶々とした毎日を送っておりました。
もしかしたらという思いから、狩に出たり、漁に行ったりした時、あの思い出の、沼地近くに立ち寄ってみるのですが、しかし、そこに彼女の姿を見かけることはありませんでした。彼女の来ていた事を示す痕跡も見つかりませんでした。風の便りに聞く、おみよに対する縁談の噂は、一層彼の恋心をかきたて、彼の心を焦らせました。(註;当時このような辺鄙な土地では、文字を読み書きできる人はとても少なく、殆どいません。特に女性はほとんど文字をよめませんでした。従って、今のように、文で連絡を取り合うなどということはできません。)
彼女への思いに耐えかねた伝衛門は、とうとう意を決して、おみよに、直接会って、彼女の気持ちを確かめることにしました。

以下第3部に続く