この話はフィクションです。似た所がありましても、偶然の一致で、実在の人物、事件などとは全く関係ありません
その1
「佳代ちゃん聞いてよ。もう、酷い目にあっちゃったよ。先にあんたに相談してからやりゃよかったんだけど、大失敗しちゃった」と鶴豊産業の社長、衣川さん。「何、どうしたの、又すけべ心出したんでしょう」と私。衣川さんは私の子供の時からの友人です。彼とは男女の関係を越えての付き合いで、とても気軽に話せる仲間です。仕事熱心な上に、仕事は確か、社交的な性格で、人当たりも良い彼は、誰からも好感を持たれ、本業の方はうまくいっています。所が、すけべ心が強いのが珠に瑕で、時々、一攫千金を狙って、変な投資話に乗っかっては、失敗しております。「韓国のLという作家知っている?」といかにもバツが悪そうに衣川さん。「うん、知っているけど、それが何か?」「無論知っているわなー。そのLの作品だけど、最近、とても上がっているんだってねー」「うん、そう、そりゃもう、一時は、バブルとしか言いようのないような、むちゃくちゃな値段がついていたわ」「やはりそうなんだ。それで今はどう?」「あんた、まさか、それに手を出したんじゃないわね」「それが、ついこの間、それ、買ってしまったんだよ」「えっ、でもLの作品って、かなりの金額だったでしょ」「そう、実はさー。俺の知っている奴が、そのLの作品持っている奴、知っていてさー、そいつが売りたがっているから、乗りで、買わないかという話があったんだよ」「そいつが言うには、『物は確かだから保証する』『何でも○○という画商が既に買いに来ている位だから、値段もわかっている。だから、その値段近くで買えば、間違いない。』『念の為、東京のオークションの方にも聞いてもらったら、今の情勢なら、4000万は固い、うまくいけば、4500万はいく』というんだ。『そこでこちらが、その画廊に先回りして買って、この10月末にある、オークションに出せば、右から左で、最悪でも、軽く500万や600万は抜ける』と言うんだよね」「そう、そんなうまい話があれば、あんたの性格なら、ひと口乗りたくなるのも、無理ないわねー。でも、一言くらい、相談してくれたらよかったのに」「そう、その時、ちらっとそう思って、相手の男に言ったんだよ。ところが、こんなうまい話は、もし画商に洩れたら、絶対に横取りされてしまうから、止めたほうがいいと、止められてしまったんだわ」「ふーん、で、その後どうなったの」「だから、その持ち主の所へ言って、他の画商が買うといっていた値段より、50万余分に出すからという事で、売ってもらってきたんだわ。もう少し高く売りたいとごねられたのを、拝み倒してね」「でも、ど素人が、そんな大金出して、よくそんな話に乗る気になったわね。オークションといったって、あんた、こういった美術品の世界なんて、全くのど素人で、絵画の事なんか、まったく知らないでしょ」「その点は心配ない。もともとこの話、持ってきたのは、韓国の人で、その人、昔から絵のことも、絵の世界の事も詳しい人だから」「その人、本当に信用できるの」「うん、長い付き合いだから、大丈夫と思う。でも万一を考え、ちゃんと俺自身がオークションに立ち会う手筈になっているから」「それじゃーその点ではまあー、安心か」「でもそのLの作品って,最近大分下がっていると聞いているけど、聞いてない?今の情勢で、Lの作品、そんな良い価格までいけるのかしら」「そう、そこが心配なんだよなー。じつは昨日、出品しているオークション会社に情勢を聞いてみたところ、なんでも、『サブプライムローン問題の余波をうけて、韓国経済が急に悪くなったものだから、今回は韓国作家の作品は、全般にどうも弱い。いつもなら5,6件はビット(註:オークションで買いたいという申し出があること)がきているのに、今回は一件の問い合わせもない。なんだったら、韓国のオークションに出されたらどうですか』っていうんだよね」「そうでしょ。情報では、これまでLの作品を、こちらで買い集めては、韓国に運んで儲けていたある画廊が、相場が崩れそうと思ってか、7点近くも一挙に出品するというので、今回は、かなり下がるのではないかという噂よ。多分その画廊は、韓国での値崩れは、もっと激しいと踏んでいるに違いないと思うわ。だからこちらが駄目だからといって、韓国に持っていっても、多分もっと駄目だと思うよ。えらい事になったわねー」「それじゃあんたん所で買ってよ。元値でいいから」「無理。いくらあんたの頼みでも、みすみす損するわけには行かないもの。今お客がいるわけでもないから。でもねー。この話、あんたが乗ったのも無理ないわねー。もし私に話しがあったとしても、あんたが買った時の情勢だったら、乗っていたかもしれないくらいだもの。だって、あんたが買った時というのは、誰もが、Lの作品はまだどんどん上がると信じていた頂点の時だったものね」「そうだろ。俺だって、随分あちらこちらに当たって、これなら大丈夫と思って、乗った話だから」「だけど、こんな事言うと、失礼かもしれないけれど、あんた、昔からこういう話に、うかつに乗りすぎ」「そうかなー。そうでもないと思うけどなー」「そんな事ないでしょ。もう忘れたの。テレホンカードの時も、切手の時も、コインの時だって、いつもそういいながら、損していたんじゃなかったっけ。それも大概ブームの終わり頃になって買っては、ババを掴んでいたような気がするけど」「うーん、そういわれてみればそうだなー。やっぱりチョットすけべ心が強すぎかな」「そう、今度の話だって私達みたいに、本業でやっていても、うまく売り抜けるのは、難しい話なのに、あんた等みたいなど素人が、手を出せるような話じゃなかったのよ」「そうだわなー、で、どうしたら良い」「まあ、直ぐに損するのが嫌なら、持ちこたえて、次のブームが来るのを待つしかないし、そうでなければ、今度のオークションで、損をして売るより仕方がないんじゃないの。ただ持ちこたえたとしても、次、何時ブームが来るか分からないし、絶対くるとも保証は出来ないけどね。運が悪いと、前のテレホンカードの時の二の舞、持ち過ぎて、売ろうと思ったら、何分の一ということだってありうるけど」「困ったなー。それにこのお金、そんなに長い間、寝かせておくわけにも行かない金だからなー」「それじゃ思い切って損きりしたら。でも売った後、直ぐに相場が戻ったとしても、私を恨まないでね。私らにだって、こういう投機性の強くなっている作品の相場は、見当がつかないんだから。どうするかは、貴方達の自己責任。もし相方が、今売りたくないというのなら、多少損して、あんたの持分を買い取ってもらったら。でも、もうこれからは、本
業以外の、こういう投機性の強い商品には、手を出さないことよ。人間は地道に稼ぐのが一番。あんたもともと、商売はうまいんだから」「分かってる。もうこれ以上、おふくろみたいなこといわないでよ」「ごめん、ごめん、あんたと話していると、つい説教したくなっちゃって。じゃー、あんまりお役に立たなくて、ごめんね。今日はもう帰るわ」
その2
後日聞いた話によりますと、結局、衣川さんは出品してあったオークション会社でそれを売り、手数料とあわせて560万円、一人当たり、280万円の損をしたそうです。次、会った時「ああ、ひどい目に遭った。ひどい目に遭った」と衣川さんは、何度もこぼしていました。
最近の美術界を見回しますに、世界的な金余りによる投機資金が、この世界にも流入しているためか、バブルとしか言いようのない価格が付いている作品も数多くみられるようになっています。絵画投資などという、懐かしい言葉も、再びチョクチョク、マスコミの話題に登場するようになってまいりました。しかし、私には、絵画などの美術品を投資の対象にすることに、とても抵抗があります。本来美術品のコレクションなどというものは、お金儲けとは無縁、むしろ好事家や、金持ち達の上品な道楽であり、金食い虫であったはずだったからです。美術品を購入する目的は、その美術品を愛好する事によって、人生を楽しみ、精神生活を豊かにし、高めるところにあったはずです。そこに投資だとか、投機といったお金儲けだけを目的とした不純な動機のお金が、入ってくることには、違和感があります。確かに、長いタームで考えれば、購入しておいた作品が、高騰して、結果としてお金が儲かったなどということはありましょう。しかし最初からそれを目的として、美術品を購入するなどというのは、本末転倒ではないかと思うのですが、これは私が時代遅れの為なのでしょう。
しかし今日の人間生活においては、お金の介在は不可欠です。そしてお金の動く所、欲が蠢き、欲の蠢く所、投資ないしは投機資金が流入してくる事もまた、避けられない現実です。それは、絵画の世界でもまた、例外ではありえません。その結果、絵画の価格は、その美術品の本来の価値とは全く異質な、思惑だとか欲といった不純な動機によって左右され、変動を示すような事がしばしばあるようになりました。それは株取引の世界と似た所がありますが、売買に参加する人の数が少ないだけに、人為的な操作の入りこむ余地が多く、より危険な世界です。数人による買占めと、それに続いての提灯買いによって、容易に相場を操縦することが出来るからです。オークションというと、いかにも公正な価格形成が出来るように思われがちですが、示し合わせた二人が競り合えば、それだけで簡単に価格は操作できます。更にそこに、オークション会社だとか、契約(取り扱い)画廊が仮に加わっているとすれば、もっと容易です(これはあくまで仮定の話で、実際にそういうことが行われていると言っているわけではありませんので、誤解のないように)。そのような所に、衣川さんのような、素人の人が参加するのは、カモが葱を背負って入っていくようなものです。
その3
結論としては、一般にそれを商いとしない人が美術品を買うのは、その美に共感し、価値を見出し、所有する事に喜びを持てる作品の購入に限るべきです。値上がりだけを求めて、感動も共感も覚えないような作品、持っていても満足感を持てないような作品に素人が手をだすのは止めたほうが良いと思います。
幸いに自分の購入しておいた作品に、共感し、価値を認めてくれる人が多くなり、価格が上昇したとしても、それはあくまで結果であって、それを最初から目的として購入されるのはどうでしょうか。もしそれをやろうとされるのでしたら、大火傷をすることを覚悟の上で始める必要があります。しかしそれは博打をするのと変わりないくらいに危険な事です。何故なら、美術品の価格形成は、非常に複雑な因子が絡み合って決まってくる上に、そこには人為的な操作の入り込む余地が多く、私たちのような、それを生業としている者にとってさえも、読み難いものだからです。投機だけを目的にして買い、買ったのは良いが、いざ売ろうとした時、売ろうにも売れない、それでいて、見ていても何の感動も起こらないで、損ばかりが毎日膨らんでいく、そんな作品を抱えての、砂を噛むような日々を想像してみてください。それは本当に辛い日々だと思いますよ。