No.90 金縛り(科学があまりに進みすぎるのも) (後編)

その5

それではあの瞼の裏に見えた、女の顔は一体何だったのでしょう。私はついこの間まで、この現象こそ、人智を越えた何物かの現象を証明するもので、そういった人智を超えた存在例えば霊魂のようなものが引き起こしてくる現象だと思っていました。しかし残念なことに、脳科学によりますと、どうもこれは、夢の一種にすぎないようです。それは、睡眠から覚醒し始め、脳や感覚器官の働きが完全に覚醒時の状態になる直前にみた夢で、その為、目覚めの後も、比較的鮮明に記憶していただけのようです。
夢というのは、脳が睡眠状態になり、外界からの情報が殆ど入らなくなったとき、或いは正確に認識しなくなったとき、代わって、記憶の読み出しがさかんに行われるようになる事によって起こってくる現象です。ノンレム睡眠よりレム睡眠への移行によって、やや活性化してきた脳の記憶領域が、記憶の貯蔵庫から情報を活発に読み出すようになります。こうして読み出された情報はやや活性化している脳の働きによって、主として視覚的な映像と運動感覚として合成され、認識されます。これが夢を見るという現象です。記憶の読み出しがどのような仕組みでおこなわれ、そしてそれが、どのような仕組みで合成されてくるのかは、まだ解明されていません。しかし末端の感覚器官や、各種の臓器から送られてくる情報の不完全な認識が、記憶の貯蔵庫の中から夢の材料になる物を呼び出す刺激になったり、夢の合成に関与したりしてくる場合があることは分かっています。例えば睡眠中に尿意を催してきた時、水に関連する夢を見やすいとか、腕が身体から落ちたとき、自分が高い所から落下する夢を見る、胃の具合が悪いとき食べ物の夢を見る等などは、その例で、皆さんにも思い当たることがおありだと思います。
金縛りのときに認識した不気味な気配や、女性の顔のようなものも、このような仕組みによって生まれてきたものと考えられます。布団や筋肉の重さが伝える不完全な感覚刺激ないしはその認識が、脳に記録してあった、不気味な物の存在の記憶と結びついて、そのような視覚的な映像を呼び出し、夢として合成してきたものと考えるのが妥当のようです。

 

その6

20世紀、特にその半ば以後における、文明の進歩と科学知識の普及は、自然に対する畏敬の心を駆逐し、汎神論的な考えや、妖怪変化の存在などを未開人的な思想、迷信などと片付けてしまいました。今では、山々や河には神がおわしまし、木々に精霊が宿り、暗がりには妖怪変化が住み、川には河童が、野山では狐や狸がいて、人を騙すなどといった話は、民話の世界に生きているだけで、存在を信じている人は、よほどの田舎へ行っても、見なくなってしまいました。私が子供の時いらっしゃったような、太陽や月に手を合わせ、日々の自然の恵みに感謝するといった人の姿も、最近ではめっきり見なくなりました。人々はそういったものの全てを、ごく日常的な当たり前の自然現象としてしか考えられなくなってしまっています。僅か数十年の間に随分の変わりようです。さらに1900年代後半以後の科学の進歩と関連しての各種テクノロジーの進歩とそれに基づく各種検査機器の発達は、各種の研究に飛躍的な発展をもたらしました。
中でもDNA研究は、その解析、体外受精、遺伝子操作、遺伝子治療、クローン動物の誕生、DNAの合成の試み(これは将来人工生命体の誕生を生み出す事に繋がります)などなどによって、生命の神秘や生命の誕生の秘密にまで立ち入ろうとしております。またコンピューターの発展による人工知能の進化、人工衛星打ち上げ、観測機器の進歩などに基づく天文学の発展は宇宙誕生の秘密にまで迫るものです。今では人は、神に取って代わってその座を占めようとしているかのようです。

 

その7

脳科学の分野においても、各種検査器具の出現によって、脳の働きが視覚的に解析できるようになり、それらの検査機器の発展、DNA解析、遺伝子操作などといった他の学問の研究の成果ともあいまって、脳の働きと、精神作用との間に密接な関係があることが証明されてきました。今後更なる、それら機器の発展が予測されていますが、それによって、人の心の動きそのものを、より明確に、より具体的に捉える事のできる時代が遠くない将来において来るであろうと思われています。
そのような時代になれば、私たちが聖なるもの、神秘なるもの、霊なるものと考えていた世界は、すべて脳の働きによって創りだされた観念的な虚構の世界に過ぎず、それらの世界は、脳細胞を(という事は肉体をということですが)離れては存在しない事がより明白になってくるに違いありません。長い間、民話で伝承されてきた河童や天狗、そして人を化かす狐狸の類が、文明の発達とその普及と共に忘失されていったように、死後の世界とか霊魂などといった、肉体をはなれた超自然的存在は無論のこと、神や仏といった、神秘的なものの存在までも、人の心の中から消え去っていくことになるであろうと思われます(今既に日本では、形式的、便宜的に信じているだけの人は別として、神そのものの存在を本当に信じている人の数は非常に少なくなっているように思われます。)
こうした時代が到来しようとしている今日、アートはどのような方向に向っているのでしょう。人は何に美を感じ、何に感動するのでしょう。アートは、時代を先取りするといわれています。1900年代、半ばから始まった無機的なモダンアートの濫立と、そのめまぐるしいまでの変遷は、このような無味乾燥時代や、精神的混迷時代到来の前兆ではないかと思えてなりません。やがて来るべき、心の砂漠時代、そこに咲く花が、どんな花か、見当もつきません。或いは花も咲かない無味乾燥な砂原が、延々と広がるだけの荒涼たる世界となっているのでしょうか。そんな世界でもいる、黄金の輝きを求めてさ迷う妄執の亡者の姿、想像するだけでぞっとしませんか。