その1
ある朝の事です。なんだか重いものが布団の上から圧し掛かって(のしかかって)くるような気がして、目を覚ましました。意識ははっきりしているのですが、身体が全く動きません。目も開けて、確かめてみようとしましたが、瞼も開きません。はっきり分からないのですが、なんだか黒い気配が布団の上に圧し掛かってきています。無言のまま、息も出来ないほどに強く圧し掛かかってくる、その黒い気配、恐ろしさに、思わず声を上げようとしますが、気ばかり焦るだけで、声も出ません。そのうち異様な感じは一つの形をとり始めました。瞼の裏に映し出される、黒白のその世界は、夢をみているようでもあり、目覚めていて幻を見ているようでもあります。誰か定かでない白い顔を持った女性の黒い影が、布団の上に座って、じっと私のほうを見つめています。突然、私の思わずあげた悲鳴が、耳に届きました。その瞬間、魔法から覚めたように、突然息が楽になり、胸に圧し掛かっていた気配は消え去り、手も足も、自由に動くようになったのを感じました。起き上がった私は、眼を開けて辺りを見廻しましたが、あの不気味な物の姿はどこにも見当たりませんでした。手足を動かしてみましたが、頭も身体もすっきりして、何の異常もありませんでした。窓からは、もう既に、薄白い朝の光が差し込み始め、部屋の中も、薄明るくなってきております。あれがいわゆる金縛りだったのだと思った瞬間、何故だかわかりませんが、身震いが起こって止まりませんでした。
その2
朝食の時間、家族皆が揃ったとき、早速その話をしました。妹や弟は「フーン、又お姉ちゃんのオカルト話、大げさな。大体、お姉ちゃんは怖がりだから、そんな変な夢を見るのよ。」と全く相手にしてくれません。しかし、給仕をしていたお手伝いの小母さんは、「お嬢さん、もしかしたらそれ、亡くなられた奥様かも知れませんよ。いつも、いつも、お嬢様の事、気にしていらっしゃいましたから、何かおっしゃりたい事があって、出ていらっしゃったのと違うかしら。最近、何か思いあたる事ありません?」と気味の悪い事を言い始めます。「うーん、別に何もなかったけど。」「そういえばお父さん、お母さんの法事の準備、チョット遅れているんじゃない。もう手配した。」と言いながらも、とても気に掛かります。そんな私に父は、「まだだけど、そんな事、関係ないよ。大体そんなもの見たからと言って、心配する事ないよ。金縛りなどというのは、最近の研究によると、一種の生理現象で、睡眠から覚醒へと移行する間の、ほんの一時、意識レベルと、身体機能の覚醒レベルの間にずれが生じることがあって、それによって起きてくる現象に過ぎないそうだから。心配なら、本を貸してあげるから、後で、自分で確かめてごらん。」といってくれました。
その3
(この章 少し難しい話になっていますが、我慢してお読みください。)
私の理解したところによりますと、睡眠には夢を伴う、浅い眠りのレム睡眠の時間帯と、夢を見ない深い眠りのノンレム睡眠の時間帯とがあるそうです。普通、一つの睡眠で、それを交互に繰り返しており、朝方になるとレム睡眠に移行し、眠りは徐々に、浅くなっていき、そして目覚めるといわれております。レム睡眠というのは、あるレベル以上の強さの刺激を受けたときは、直ぐに目覚める事が出来る程度の、浅い眠りの状態ですが、視る、聴く、触って感じるなどと言った外界からの感覚は、通常、眠りの状態にあるときには、例えレム睡眠のように浅い睡眠のときでも、刺激があるレベル以下の間は、脳のほうには伝わらないか、伝わっても、脳は正確にそれを認識しないようになっています(だから眠りが続くわけです)、末端の感覚器官は働いているのですが、その刺激は一定以上のレベルに達しない限り、脳まで伝達されない、或いは届いても脳は正確にはそれを認識出来ないようになっています。重力に対する感覚も同じように脳には伝わっておりませんから、睡眠中は、重力に対する情報も脳は感知していないか、正確に認識していません。感覚的には無重力の状態の中にいると同じになっています。従って、布団だとか、自分の身体の重みといったものを感じていません。話は少し横にそれますが、飛んでいる夢や、ふわふわと浮いている夢を見やすいのは、この無重力の感覚が夢の内容に反映されるからだといわれております。
一方運動機能で言えば、睡眠中は、随意筋といって、個体が覚醒している時、意思の力で動かすことの出来る筋肉、例えば腕や脚を動かす筋肉などは、弛緩し、だらりとして動かなくなっております。そのため腕にしても、脚にしても、他の人が持ち上げてみるとお分かりのように、身体のどの部分も同じですが、筋肉の働きで支えられていないので、寝ているときは、とても重くなっております。所が先ほども申し上げましたように、睡眠中の脳は、重力を感知していません。従って普通レベルの睡眠状態の間は、(例えレム睡眠のような浅い睡眠状態のときでも、)自分の身体に重みを感じる事はありません。
ところが最初に申しましたように、同じ浅い睡眠であるレム睡眠の中にも、その程度に深浅があります。ノンレム睡眠に近い状態もあれば、覚醒状態に近い時もあります。
それに応じて、外から脳への刺激の伝わり方や、それの脳における認識の程度も違っております。睡眠中の意識レベルも、意識が殆どない状態の時から、自分のおかれている状態をかなり客観的に認識できる、覚醒しているときの状態に近い時まであります。目覚めは、脳が眠りから覚め始め、感覚、運動機能を始めいろいろな神経の働きが、次第に正常に移行していく時期です。所が、この目覚めの時、感覚、運動能力などが正常化してくる時期と、意識レベルが覚醒してくる時期とが、必ずしも一致しないで、ずれが生ずる事がおこります。
その4
金縛りというのは、このずれが大きくなった時に起こってくる現象のようです。意識レベルは既にかなり覚醒してはっきりしてきているのですが、脳への外界からの感覚の伝わり方や、脳でのそれの認識の程度、脳の筋肉への支配能力などはまだ充分に回復していないことによって起こってくる現象です。即ち、意識レベルでは外界の状況を、かなり客観的に分析し、認識できる程度にまで戻ってきているのですが、聴覚や触覚といった感覚はまだ正確には認識できず、筋肉もまだ弛緩したままの時期に起こっているものと思われます。物音一つしない世界で、何かに押さえつけられ、手足をうごかそうとしても動かない、声を出そうとしても出ない現象はこういう状況で起こっております。また何かが布団の上から圧し掛かって来て、息苦しいような感じというのは、重力すなわち、布団の重さや、弛緩した身体の筋肉の重さを、脳が認識し始めている状態です。似たような現象、臨死体験における、幽体離脱などは、この逆で、意識がなくなっていく過程での一時期、低下していく意識レベルと、脳の筋肉に対する支配力や感覚感知、認識能力の低下との間に時間的なずれが生ずる事によって起こっているのだと思われます。