No.77 錯覚

 ある日の事です。ホテルで何気なく御手洗に入って行きましたら、洗面台のところで 男性らしき二人が談笑しながら 手を洗っていらっしゃるではありませんか。無論そこに入る時 いつものように女性マークの付いた方に入った心算でしたが、その情景に驚き、一瞬、間違えたと思い、びっくりして飛び出しました。しかし出てみてもう一度マークを見直しましても、 やはり付いているマークは女性マークです。いったいどういう事だろうと戸惑っていますところへ、かの手を洗っていらっしゃった男性お二人が、お話しながら出てこられ、前を歩いていかれます。痴漢にしては、あまりにも堂々としていらっしゃいます。怪訝に思って、もう一度その方たちを見直してみましたところ、お二人とも、どうも女性のようです。体格はどちらも背が高く、男性の服を着て、男性の髪型をしていらっしゃるので 一見男性のように見えますが、肌の様子や声、そして肩や、腰つき、お尻の形などは、確かに女性のそれなのです。
 一般に、私たちの日常的な行動は 深く考えたり、よく確認したりするようなことなく、習慣的な瞬間の判断に基づいて行動しているのが普通です。上記のような洗面所に入る時でも、女性マークなど瞬間的に見るだけで、いちいち強く確認していません。従って今回の場合のように 洗面所に入ってみたら 男性らしき人が、二人もいたと言う事になりますと「一瞬、間違えた」と錯覚するのも当然な話です。この場合の錯覚は、二重に起こしています。一つは、外見だけで判断して 女性をてっきり男性だと思ってしまった事です。そしてもう一つは 男性がいる洗面所だから、男性用だと決めつけてしまった事です。二つの錯覚をしてしまったわけです。実際は、洗面所に入る前に いつものように、女性用のマークを見たはずですし、また女性用の洗面所は、入った瞬間、構造的に、そして雰囲気的にも男性用とは異なっていますから、すぐ解ったはずです。にもかかわらず、他のもっと強い情報によって錯乱し、間違った判断の方向に誘導されてしまったという訳です。
 こういった錯覚は、美術品を見る場合にも、しばしば起こりえますから、要注意です。例えば美術館での展示品に、万一、贋物が混じっていましても、殆どの人は気付かないのではないでしょうか。何故なら、殆どの人が、美術館には、本物しか入っていないものと言う、強い先入観を持っているからです。専門家が仮に、美術館の作品に違和感を持ったとしても、贋物であると断定して、美術館に注意を喚起することができる人は、殆どいらっしゃらないのではないかと思います。直感的には、おかしいと思うところがあっても、美術館に飾ってある作品の場合は、もしかしたら、こういう傾向の作品もあるかもしれないとか、 自分の目の方が間違っているのかもしれないと思って、黙っているのが普通ではないかと思います。この例のような場合は、美術館の展示品という強い情報が、他の情報に基づく判断を曇らせてしまっているのです。
判断に売り買いが伴っていない本例のような真贋判定は、あやしいと思ったら、時間をかけて、徹底的に調べる事が出来ますから、まだ良いのですが、私たちのように売り買いを伴っているような場合は、瞬間的な判断が必要となりますから情報の選択がとても重要です。もしも本物ばかりの蒐集品の中に 印刷物に手彩色されたものとか、よく出来た贋物などが一点だけ混じっている場合などは、玄人でも、間違える可能性がでてきます。
 このお話は実際にあった事ですが、ある時、収集品を見せて下さると言うお話で、あるお屋敷を訪れた時の話です。見せていただいた品物は、殆どが間違いのないものばかりで、どれも此れもが、咽喉から手が出るほど欲しくなるような素晴らしい作品ばかりです。所が、一点だけ、どうも気になる作品がありました。お茶をご馳走になりながら「素晴らしい品物ばかりですね。もしもお手放しになる節は、是非当店を通してお願いします」と申しますと、「いやー、どの作品にも愛着があって、どれも 手放し難いのだけど、それほどお褒めいただけるのでしたら、あの品物でしたら、手放しても良いですよ」とおっしゃってくださったのが、気になっていた、例の作品でした。ギョッとした私は「出来れば別の品にしていただきたいのですが」とお願いしてみましたが、ご主人は、その品以外は絶対に駄目だとおっしゃいます。その作品は ある有名日本画家の作品で、額は多聞堂の額に入っていました。(私たちプロの世界では、多聞堂の額に入っていますと、それだけで本物と信用してしまうくらいに、権威のある額です)従って、他の収集品の質から考えても 、自分の目が間違っているのではないかと、考えてしまいました。しかし、じっと見ていますと、やはり違うようです。どうも印刷物に手彩色してある作品のように思われてなりません。そこで「額を外して、見させていただいても、よろしいでしょうか。」と言いますと、ご主人の顔が急に変わって「そんな疑われるような言われ方をするのなら、もう売らない。もともと売ろうなどと、思っていなかったのだが、 お宅に時間を取らせたので、悪いと思って、せめて日当ぐらい出るように、売ってあげようと、思っただけなのですから。もういい。帰って。」とおっしゃって、席を立ってしまわれました。そのまま辞去してきましたが、何とも後味の悪いお話です。その作品が、本物だったか、印刷物だったか、今になっては知る由もありません。又、もし印刷物だった場合、ご主人が知っていて、はめようとする意図があってされたのか、それとも、知らなくて、ただコレクター自身にも違和感があるから、この機会に、売り払っておこうとされただけなのかも分かりません。
 
 私たちのような業者でも、コレクターの家の立派さだとか、表装、額縁、そしてもっていらっしゃるコレクションの質の高さなどといった外形的な情報によって錯覚を起こし、此処のものならまず間違いなかろうと思ってしまいがちですが、そういったものによる、先入観を持っての売買は、非常に危険だということです。従って此れとは逆の場合もありえます。まあそんな事は滅多にない事ですが、蚤の市だとか、旅の途中ぶらりと寄った田舎の骨董屋さん、或いはあまり由緒ありげでもない、ごく普通の家などに、とんでもない名品がおいてあった場合などです。こんな時は、こんな所に、こんな名品がある筈が無いと、頭から思っていますから、その作品にとっては気の毒なことですが、本物であっても、怪しげな品物として、実際の価値を見落としてしまいがちです。従ってこういった所においてある品物の中には、思わぬ掘り出し物が混じっている場合も有りえます。但しその様な僥倖は、ごく稀にしか起こりませんから、よほどの目利きでないかぎり、手を出さないほうが無難です。一般には、こういったものを買ってきた場合、殆どが、 安物買いの、銭失い(ぜにうしない)になってしまっています。人間、欲が絡みますと、それに目が眩み、 冷静さを失い、“銭勘定が先に立っての錯覚”を起こしがちです。しかしその結果は擬物(まがいもの)に騙されるのがおちです。したがって、こういったものを見る時は、まず欲という色眼鏡をはずし、作品そのものの美を、自分の目で見る事が、大切なように思います。くれぐれもご用心、ご用心。

No.76 白い馬から落っこちた王子さまとお姫様(白馬の王子様番外編)

このお話はフィクションで、類似した所がありましても偶然の一致で、実在の人物、事件とは関係ありません。

 

前にお話ししました あの白馬の王子さまと結ばれたお嬢様は 相変わらず幸せそうな生活を 送っていらっしゃるようですが、世の中、そうはいかないことも結構沢山あります。これからするお話も、そのようなお話の一つで、折角乗った白馬から、落っこちてしまった王子さまとお姫様の物語です。
私の友達の一人にワシントンで画商をなさっている女性がいらっしゃいます。最初にお会いしたのは今から10年くらい前の事でしたが、長年連れ添っておられた旦那様と離婚され、画商を始められたばかりの頃でした。 従って取り扱っている絵画は おのぼりさん目当ての いわゆるパン絵の類が殆どで、場所も商店街の外れに近い所でやっていらっしゃいますから 経営は苦しそうでした。しかしその人は、「長い間苦労してきましたから、今の苦労なんて苦労のうちにはいらないわ」「金銭的な苦労も確かに大変ですが、毎日毎日の精神的な苦労に比べれば、問題になりませんわ」と笑っておっしゃるのです。「でもお子さんも、おありの事ですから、かつては愛し愛されていらっしゃったこともおありでしたでしょうに」と申しますと「そりゃー 確かに結婚する前はこれこそ私の王子様だと思いました。デモね、其れが結婚第一日目から、いろいろありましてね。結局この歳になって 落馬という事になってしまったのですよね」といわれます。
以下この少し薹(とう)の立ったお姫様のお話です。
私の家はかっては父が官撰の県知事をしていました程の名門で、兄も、ついこの間まで大蔵省のトップクラスの職にありました。従って子供時代は、其れこそ蝶よ花よと皆さんから大切にされ、幸せ一杯に育てられてまいりました。年ごろになってからの縁談も、降るほどにあったのですが、どの人も今一つ気乗りせず、ぐずぐずとしていました。こうして過ごしておりましたある日の事です。父の所に訪ねて来ていらっしゃった一人の青年が、何処で見られたのか、私の事をとても気に入ってしまわれ、是非是非お付き合いさせていただきたいと申し込んでくださいました。そのお方は、ハーバード大学出身の大秀才で、米国でお仕事をしておられたのですが、とても背が高く、ハンサムで、社交的、しかも長い米国生活で身についておられるレディファーストの振る舞いは、とてもやさしそうで、当時の日本人の青年からは想像もできないスマートさでした。父などは真っ先に気に入ってしまい盛んに薦めます。当時の日本では(終戦後未だ少し立ったばかりの頃でしたから)男女の交際も今のように自由ではなく、異性とお話する機会もほとんどありませんでしたから、いろいろお話して下さる言葉がすべて素晴らしく聞こえ、豊富な知識から繰り出される言葉の数々は、まるで魔法の言葉のように私の心に甘い楔を打ち込み、アメリカ式の洗練された女性への振る舞いは、紳士的で、もの柔らかく、 クモの糸のように私の心を絡めとってしまったのです。いつも先ず私を立て、庇護しながら行動して下さる姿は、まさしくナイト、此れこそ私の理想、白馬の王子様だと思ってしまいました。

所が甘い夢もその時まで、新婚第一日目から悲劇の種子が膨らんでまいりました。新居での第一日目、夕食を終わってテーブルを片づけ始めた時の事です。食べ残しのお魚を捨てようとしました所、夫がさっと立ってきて 怖い顔をして、それを戸棚にしまいこんだのです。私の家では食事の残り物などは、全て捨ててしまうという習慣でしたから、戸惑っていますと、夫は「もったいない事をしてはいけません。未だこんなに残っているのですから、明日の朝の食事に使いなさい」というのです。朝のお食事で其れを食べる時の辛さ、何しろ気持ちが悪くて、でも辛抱して食べようとしたのですが、中々咽喉を通っていかなくて、涙ばかり出てきたのでございます。それから後の毎日が、万事この調子です。お財布はもちろん夫が握り、毎日のお金使いも、日常の食事の買い物を始めとして 鉛筆一本にいたるまで細かくチェックし、余分なものは注意します。日常の会話でも、私が話をすると、少しでも間違っていると、言葉づかいの一つ一つから、論理的な間違いにいたるまで、いちいち間違いを正してきます。しかも、其の正しかたは、先生が生徒に諭すように懇々と説明し、正してくれるものですから、そのうちに主人の前にでると、緊張してしまって、言葉がなかなか出てこなくなってしまいました。それでも、未だ最初のうちは、夫の頭の良さを尊敬し愛していましたから、自分の到らなさと無知を反省し、何とか、この人についていこうと努力しました。
しかしそれも年とともに夢は覚め、次第に夫の本質が分かるにつれ、夫との間の距離を感じる様になってきたのです。特に長男を育てている時の、夫の無関心と非協力は許せませんでした。言葉も不自由な外国での子育ては、想像以上にストレスが多いにもかかわらず、子供が泣き喚いていようと、ぐずついていようと、全く無関心に、いつもと同じように、おしゃれに身を窶して(やつ)出て行く夫の姿を見ておりますと、夫の言う事が何だか白々しく聞こえだし、夫への不満と不信感が、次第に増大していったのでございます。子供が成長してまいりますに連れ、このままでは自分が無くなってしまう。こんな人生で終りたくないと思い 、私も真剣に自立への道を探る事にしました。

夫は、あまり良い顔をしなかったのですが、夫も子供も外に出ている時間を利用して、お友達の店の手伝いに行く事にさせてもらいました。外に出てみますと、もともと社交的な性格でしたから、友達も沢山に出来、お客様の信用もついてまいり、自分に自信もついてまいりました。人とのお話も いちいち考えて話さなくても皆さんが、そのまますんなりと受けて下さいますから、とても気楽です。こうして外に出ている時は、陽気で明るく、夫の前では、借りてきた猫のように慎ましやかにと言った、二重生活をしばらくは続けていたのでございました。ところが其れもいつしか限界がきてしまいました。そうこうしているうちに、夫への嫌悪感から、夫が側に近づいてくるだけで、肌に鳥肌が出るようになってしまったのでございます。こうした私を見かねたか 息子が「どうしても合わないなら、お母さん別れても良いんだよ」といってくれます。そこで私も息子が医大を卒業するのを待って離婚を申し出ました。離婚を持ち出した時の夫は、突然の事だったようで、しばらくは、鳩が豆鉄砲を喰らった時のような顔をしておりました。私の方は、何食わぬ顔をして、従順な妻の役を演じながら、密かに、爪を研ぎ、自立の準備をしていた訳ですから、女とは恐い生き物ですね。
こうして、多少すったもんだはありましたが、財産の分与も終り、今やっと生きているという実感の毎日でございます。馬から落ちてよく見てみれば、白馬も、唯の駄馬でしたし、王子様も唯の中老の男にすぎません。一人になって困惑していらっしゃる侘しげな姿は、長年連れ添ってきただけに、多少気の毒に思います。何しろこちらが勝手に白い馬に乗せ、王子様にしたて そして落馬させてしまったようなものですから。しかし其れだかといって再びあの生活に戻るつもりはありません。もうこりごりです。

画廊の女主人はこのように話してくれました。お話というのは、聞いた方の一方的な見方が入っておりますから、御主人だった人には、又別の言分があると思います。従って、どちらが正しいかなどとは言えません。どちらにしても現実は厳しいという事です。話しは変わりますが 画商さんは比較的自分の意見をきちんと持っていらっしゃいますし、しかも慣習などに囚われない自由な考え方の人が多いので、普通の社会より、離婚経験者がやや多いように感じられます。