No.73 藤田嗣治とその芸術
始めに
明治の開国以来、日本人にとっての新しい絵画であった油彩画を学ぶために、幾多の俊才がヨーロッパに渡っていきました。しかし彼らの殆どが、そこで学んだ事を日本に持ち帰っただけで、それを基にして発展した日本の絵画が、海外に影響を与える事は、殆どありませんでした。このような状態は、その後も長い間続き、その間、芸術の中心が、パリからニューヨークへと移り、新しい絵画理論が次々登場し、新しい絵画様式が展開されてきたにもかかわらず、ごく最近まで、変わらなかったといっても、過言ではありません。日本は絵画に関しては、長い間、輸入国でしかなかったのです。日本国内では名前の通った、かなり有名な洋画家といっても、海外では殆ど無名で、その作品が、海外で注目を浴びたり、その絵画が海外オークションなどに登場したりする事も、殆どありませんでした。彼らの絵画は、その様式をたどれば、何処かに、海外有名作家様式の影響が感じられたり、時の流行の絵画理論をなぞっているだけだったりしているのがほとんどで、この為、口の悪い海外の評論家達からは、どこかにルノアールだとか、どこかにマチス、どこかにピカソ、どこかにダリの作品などといったふうに、揶揄されていたものでした。
所が藤田は違っていました。藤田はパリに踏みとどまり、当時(1900年代初頭)ヨーロッパで起こっていた、キュビズム、未来派、シュールレアリズムなどなどといった、さまざまな新しい絵画革新への実験の中に、その一人として参加し、そこに日本の絵画とヨーロッパの絵画を融合した、藤田独自の新しい絵画様式を生み出しました。彼の名前は、エコールド・パリを代表する画家の一人として、世界的に知られるようになり、彼の作品は今では、世界各地の有名美術館に収蔵され、市場でも常に高い評価を得ております。
藤田嗣治の絵画の特徴とその変遷
藤田嗣治の絵画といっても、一口にその特徴を言い切る事は出来ません。年代によって様式はかなり変遷しております。
藤田嗣治がパリで脚光を浴びるようになったのは、1921年、サロン・ドートンヌ展覧会に出品した,「私の部屋、目覚まし時計のある静物」「裸婦」「自画像」が大絶賛を受けた事に始まります。その白い下地の上に展開する、白と黒のグラデーション、モノトーンな色調、抑制された色彩数、流麗にして繊細な線、そして陶磁器のように滑らかな乳白色の肌は、パリっ子たちにとっては、非常に斬新で、ヨーロッパの絵画と日本の絵画を融合した、新しい絵画の出現として絶賛しました。その当時のパリっ子達にとって、その作品が醸し出すエキゾチシズムは、遠い東洋の果てにある神秘の国、日本の心を感じさせるものでした。藤田はこれによって、一躍パリ画壇の寵児となり、エコールド・パリを代表する画家の一人として世界の美術史の一ページを飾ることになりました。このエコールド・パリ時代の白い下地、面相筆(日本画を描くとき使う細筆)を使って描いた流麗にして繊細な墨線、そして乳白色の官能的な肌は、その後も、藤田といえば滑らかな乳白色の肌の女が、真っ先に思い出されるほどに、藤田芸術のトレードマークとなっております。
しかし実際には藤田は、この様式に留まってはいませんでした。
藤田は1929年、パリ国際大学都市日本館に収めるための大壁画に取り掛かった頃前後より、自分の画法に限界を感じ始めていました。もっと日常的に民衆に直接訴えかける絵、壁画のような大画面での表現に興味を持つようになっていたのですが、そのためには白い下地、面相筆による繊細な線による今までの描法では、いろいろ問題点があり、不向きである事に気付きだしました。又、パリのような爛熟した、近代都市とは対極にある、中南米のように近代にまだ汚染せれていない、地域の文化の素朴さや純粋さに憧れ、そこに住む民衆の日常生活や、風俗の根底に潜む、土着的なエネルギーに惹かれました。新しい絵画への転換を模索していた藤田は、ヨーロッパでも、日本でもない第三の文化を擁する地域、中南米への旅に出ました。そして、そこに根付いていた異文化との出会いによって、「新たなる絵画」への発想を得ることが出来ました。藤田はそれまでの描法をがらりと変えました。新しい絵画では、あの繊細な線は姿を消し、赤、黄、青、といった強烈な色彩を多用し、油絵の具のマチエールを生かした、ダイナミックな筆使いの表現へと変えていきました。彼はこれによって、動きを自在に描くテクニックを手に入れると同時に、ヨーロッパでもない、日本でもない、中南米という、全く別種の第三極に位置する文化圏の絵画と融合した、新しい表現法を創出したのでした。
しかしこれは藤田の求める絵画を描くための一過程にしか過ぎませんでした。これらの時代を経た藤田は、やがて総合の時代と呼ばれる、1020年代のテクニックと、1930年代のテクニックを統合した,新しい表現様式に到達し、線と色と動きを総合した、新しい様式の絵画時代に入っていくことになります。所が実際には、そこでそのまま直接、その様式に移行する事は出来ませでした。その総合様式が形として姿を現してきた頃、不幸にして日本は、戦争一色の時代に突入してしまっていました。このため藤田も、軍部の意向に添って、戦争画を描くようになってしまい、間に戦争画の時代というのが入ってまいります。
この時期藤田は、それまで研究してきた技法を、戦争画に応用して、数々の戦争画の傑作を残しております。その大画面に、ダイナミックに展開する、凄惨な戦闘場面からは、戦場という極限状態における、敵味方のない悲惨さや、恐ろしさ、残忍さが臨場感をもって、リアルに伝わってまいります。それは見ようによっては、反戦絵画とも言っていいほどに厭戦的な絵画です。軍部のプロパガンダとしての、戦意高揚の目的が達せられる作品とはとても思えない作品が少なからずあります。しかしだからといって藤田が反戦主義者であったわけでもありません。どうも藤田は、最初の中は、戦争画を描く事に、あまり乗り気でなかったようですが、状況に押し流されて、戦争画に関与しているうちに、その戦場の異常さを、表現する事それ自体に興味を持ち、戦争画の制作に、のめり込んでいったようだといわれております。即ち、藤田の戦争画は、戦闘場面を、工夫しながら表現しているうちに、工夫する事、表現する事自体に興が乗って、描かれたものであって、そこには、画家としての職人根性はあっても、反戦とか、戦争礼賛とか、軍部のプロパガンダなどといった、思想的なものは、入っていなかったと、考えるのが妥当のようです。
1945年第二次世界大戦の終わりと共に、藤田の作品はエコールド・パリ時代のテクニックと、メキシコ時代のテクニックを統合した、いわゆる線と色彩と動きとの統合の時代と呼ばれる作品に変わってまいります。即ち、流麗にして、繊細の線、微妙な色彩、滑らかな女性の肌、白色の下地などといった1920年代のテクニックは残しながらも、線はより伸びやかで、より動的で、動きを巧みに捉えることが出来るようになり、色彩は抑え目ながら、より多彩で、より強い色調が使われるようになります。平面的だった画面はやや奥行きを拡げ、そこに描かれた形はより立体的でボリューム感を伴うようになってきています。又以前は並列的だった物の各形は、有機的に結合し、動きを巧みに捉える事の出来る流麗な線や、形を彩る抑え目の色彩と協調して、画面にダイナミズムをあたえるようになってきております。これが色彩と線と動きを総合した、いわゆる「総合の時代」と呼ばれる、藤田が、最も油の乗っていた時代です。その作品には、エコールド・パリ時代より更に洗練された優雅さが戻ってきております。年代的には、1949年頃から、1959年ごろまでの作品を指しております。
最晩年にはいった、藤田はそれまで学んできた技法の全てを駆使して、主として宗教画に取り組むようになりました。この頃の藤田は、嫉妬、裏切り陰謀などが渦巻き、諍いの絶えない、人間社会の醜さに耐えがたく、現実から目を逸らし、無垢なるもの、純粋なものに憧れ、心の平穏を求めるようになりました。そのためキリスト教に帰依し、宗教的なものを題材にした作品を描くことが多くなっています。それらの作品が醸し出す清澄感は、神の世界に生きる事を願うようになった藤田の心が、よく反映されているように思います。
藤田作品の誕生にいたるまで
パリに渡ってきた藤田は、そこで見せられたアンリ・ルソーの作品に衝撃を受け、それまで習ってきた、黒田清輝の日本の油彩画(それは当時の日本では、洋画のアカデミズムとなっていたのですが)、から決別する事から始めました。それまでの対象を忠実に写し取る事を重視する黒田清輝による日本油彩画の教えを常識と思っていた藤田は、ここにきて、描く事は、「自分の脳髄で見、知った自然を、画布の上に自分流に翻訳して表現してくる事である」ことを知りました。芸術とは、伝統にとらわれ、先人の美しい形式をそのまま伝承するものではなく、もっと個性的で、自由なものであり、オリジナリティこそが、最も尊重されるべきものであることを知りました。藤田はそれまで常識と思っていた物の全て(絵画にたいする)を捨て去り、近代文明の塵を払い、ギリシャ、ローマ時代は無論の事、古くは先史時代にまで遡って,それも単に様式だけではなく、その根源、すなわち精神にまで遡ってヨーロッパ絵画を研究しました。
藤田は独自の絵画、オリジナリティのある絵画様式を確立するためのこうした苦心が実ったのが、サロン・ドートンヌで絶賛を浴びることが出来た、あの白い下地、そこに描かれた面相筆による繊細な墨線であり、乳白色の肌でした。藤田がこれに到達するまでの努力は、並々ならぬ物があったようです。何日も寝ずに制作に励むなんて、ごく当たり前、食べる物がなくなってしまって、3日も4日も、水だけを飲みながら制作に励んだこともあったそうです。又ヨーロッパ絵画の研究のため、何年間もの間、ルーブル美術館に通いつめて、守衛から怪しまれた事もあったほどでした。
こうした模索の結果辿り着いたのは、当時のパリ画壇に流行していた画法の逆を行く事でした。絵の具をこてこてに盛り上げていたセゴンのやり方に対しては、つるつるのマチエールを、大刷毛で描くバンドンゲンに対しては、小さな面相筆を使う事を、複雑で綺麗な色彩を画面一杯に配するマチスの絵に対するものとして、白い下地の上に、主として黒の濃淡を使うことによって対抗しました。こうして生まれてきたのが、墨絵の風合いを持つ、白と黒を主体とする限られた色彩による、モノトーンな表現であり、文人画の流れを汲む、対象の核心を捉えた、流麗にして繊細な墨線であり、そして浮世絵からヒントを得た,あの官能的な乳白色の肌でした。藤田は、自分の工夫してきた白い下地を用い、その上に描きだした、文人画に使われている、物の核心を捉えた生きた線(単なる輪郭線でない線)や、それによって作られた形、そしてそこに塗られた、墨絵のように微妙に変化する黒の濃淡によって、全ての色彩(註:黒の濃淡の表現によって、色彩がついているような錯覚を起こさせるわけです)、存在の実態、物の周りの空間(空気も)といったものまで、油絵の具で表すことに成功しました。また、浮世絵の中に描かれた女達の、襟足、裾などの衣服の間から僅かに覗かせている肌をヒントに(それは浮世絵師達が女性の官能的な肌を、描いている事に思い当たり)滑らかで官能的な乳白色の肌を持った裸婦像を油絵の具で表現しました。ここに日本の絵画と、ヨーロッパの絵画との間の垣根が取り払われ、それら二者が融合した、藤田の新しい表現法が、誕生したのでした。
しかし藤田はこの成功に留まってはいませんでした。このエコールド・パリ時代の藤田絵画の集大成とも言える、「欧人日本渡来の図」(パリ国際大学都市日本館に飾られている、大壁画)を完成した前後より、自分の画法にある限界があることにきづきました。もともと藤田は、教会の壁を飾る壁画に興味を抱いておったのですが、それにその時代の、コミュニズムの台頭だとか、人権尊重思想の普及に伴う庶民の平等意識の高まりなどといった、社会的な風潮や、マルセル・デュシャンのダダイズムとか、キリコの形至上学絵画、ダリのシュールレアリズム、カンディンスキーの抽象主義などなどといった新しく登場してきたいろいろな現代美術の影響もあり,サロンや美術館のような限られた都市空間において、知識人、名門、富豪などといった、一部の限られた人達からだけ観られ、愛される絵画だけでなく、もっと日常的に、民衆の目に曝され、直接民衆に働きかける芸術としての絵画を描きたいと思うようになっていきました。パリのように爛熟し、退廃した文化とは対極にある地方文化、例えば中南米、或いは沖縄のような、そういった地方の土俗的な文化の持つ、素朴さや純粋さ、その底流に横たわる強い土着的なエネルギーに惹かれ、それを表現に取り入れたいと思うようになってきました。所が、その当時の藤田の画法では、それを描くには不向きでした。即ち、面相筆を使った繊細な線とそのモノトーンな色彩はその優雅さゆえに、強烈さに欠け、また流麗にして繊細な線は、その繊細さゆえに長い線を引く事が出来ず、線は短い線の集合体となってしまって、全体を見渡して、動きを捉えた線を引くには適しませんでした。又乳白色の下地は、大画面となると空間の奥行きが不足し、そのため形相互の繋がりや、全体を貫く構成力、ダイナミズムなどに欠ける事に気付いたのでした。「欧人日本渡来の図」では、その欠点を、背景に金箔を使った装飾性の強い画面構成にすることよって補っているのですが,それでもこの欠点を補うには限界があることを知りました。こうして藤田は、今までの技法をがらりと変え、物の形を模る(かたどる)あの繊細な線は捨て、多彩な色彩と強い色調を用いて、油絵の具の筆使いを残したマチエールで描くといった、今までとは全く違う絵画様式へと変っていきました。これがいわゆるメキシコ時代そして日本といわれている、1930年代の作品群で、此処では、あの藤田絵画独特の都会的に洗練された繊細さや、優美さは影を潜め、より多彩で色調もより強く、泥臭いほどに力強くなっております。藤田はこの時期、近代都市文明とは対極に位置する、近代に汚染されていない地域の文化、例えば中南米、日本の東北地方、沖縄、日本の農村、下町などといった地域コミュニティの文化が内包する純朴さ、純粋さなどと、そこに潜んでいる、原初的な強いエネルギーに惹かれました。藤田はそこに住む人々の日常生活や、土俗などを描くことによって、それらを表現とりいれようとしようとしました。
藤田の戦争画についてはその戦争協力の姿勢が、戦後しばらくは問題にされ、藤田の汚点のように言われた時代もありました。しかし国が存続をかけて戦っていたあの時代に、それに協力的であったのは(実際には引きずり込まれたというのが本当のことなのでしょうが)、普通の日本人なら、それは当然のことです。それを後々、一緒に戦った日本の人々、特に同じように戦争画を描いた画家達からまで非難されたのは、(後々まで藤田はそれについて拘っていたようです)非常に気の毒な話です。もしあの時代あの立場で(当時は外国帰りというだけで、スパイ容疑が掛けられ、特高警察にマークされた時代でした)藤田が軍部に非協力的であったなら、当時の情勢から、おそらく非国民ないしは敵国を利する者として、投獄されていたであろうと思われます。
ともあれ、いろいろな資料から考えて見ますに、藤田は、戦争画を描いた事を決して悔やんでいなかったようです。むしろ描いた戦争画の出来を、誇りにしていたと言います。しかしそれは、絵の職人としての藤田が、自分の技に満足していたものであって、彼の絵には思想的な裏付けはなかったようです。客観的に見ても、戦闘場面の悲惨さ残酷さをリアルに、ダイナミックに、伝えるそれは、むしろ厭戦的といってもいいほどのものが多く、軍部のプロパガンダになっているとは思えません。藤田の戦争画には、それまで探求してきた、大画面での表現テクニックの全てを注ぎ込まれております。その作品は、スケールから言っても、リアルさから言っても、ドラマ性から言っても、同じ国民ゆえの身贔屓かもしれませんが,一級品であり、世界の美術史、戦争画分野における一ページを飾るに相応しい傑作であると思います。
第二次世界大戦終了後受けた、戦争中に戦争画を描いた事に対する、各方面からの指弾、特に同じように戦争画に関っていた画家達からの裏切り、責任転嫁そして中傷、誹謗には、随分傷ついたようで、藤田は日本にも日本人にも絶望し、故国を捨てることを決心し、アメリカを経てフランスへと旅立ちました。しかし迎えてくれたパリでも、彼へのマスコミの反応は冷たく、揶揄的で(時代遅れ、エコールド・パリの亡霊だとか、敵国の戦争協力者として扱われて)着いてしばらくの間は孤独で,自分の画家としての先行きに不安を感じたときもあったようです(エドガー・ギネ・ホテルを描いた作品には、その時の藤田の心境がよくあらわれています)。しかし当地に着て開いた数回の個展によって、戦前ほど熱狂的ではないものの、自分の作品をまだ愛してくれる、多くの美術愛好家達がいることに力づけられた藤田は,再び自信を蘇らせることができました。(註:個展の客の入りや、反響によって、自分の絵画が「なおまだ、人の心を動かせる事が出来る」という自身を得たといいます)藤田は、戦争画を描くようになる直前に、完成に近づいていた、流麗にして繊細な線、白い下地、そして微妙な色彩といった1920年代のテクニックと、有機的な構図と画面のダイナミズムを追求した1930年代のテクニックの二つを統合した新たな画法を駆使して、パリの画壇に復帰しました。しかし戦争とその後の人間関係が、藤田の心に与えた傷跡は小さくなかったようです。日本に絶望してやってきたパリでも、藤田は所詮異邦人(エトランゼ)でしかないことを思い知らされました。このため(多分年齢のせいもあったのでしょうが)、この頃から、あれほど社交的だった藤田が、夜会に出かけることもなくなり、モデル達との交友も殆どなくなりました。友人達が訪ねてくることも次第に少ななり、絵を描く事だけが、藤田に残された毎日といった生活へと、変わっていきました。描く題材は見違えるように自由になり、かつての様な、裸婦とか女性像だけでなく、植物学者から、浮浪者にいたるまで、市井の、実にさまざまの人を描くようになっていますが、なかでも、子供をモチーフとする作品が比較的多くなっております。子供を授からなかった藤田は、自分の画面の中に生み出した子供達に安らぎと楽しみを見出し、心を癒していたようで、その描かれた子供たちが見せる、おしゃまで、ちょっと小生意気で、悪戯っ子らしい表情には、画面の子供たちに注がれる藤田の限りない愛情が感じられます。またその瞳には、子供のいない藤田の、そこはかとない寂寞感が反映しているようにも思われます。なおその他、この時代に、比較的多く取り上げている、浮浪者や、蚤の市の図柄などからは、人間社会の煩わしさとは無関係な、何ものにも囚われない自由な生活に憧れていた、藤田の心が窺われます。
対人関係の煩雑さに草臥れた藤田は、最晩年に近づくにつれ、ますます内向きになり、現実の世界から逃避して、より純粋な物、より無垢なる物に憧れ、心の平穏を願うようになっていきました。このため宗教に救いを求め、キリスト教に入信しました。特にキリスト教に改宗後は、モチーフとして宗教に関係するものを取り上げている作品が多くなっています。これが最晩年の宗教画の時代といわれる時期で、技法的には総合の時代と特に変わったところはありませんが、その技術はますます円熟味を加え、藤田芸術の目指した究極の高みに達しております。衒いも、肩の力も抜け、自然体で描かれているその作品群からは、自由に、心の赴くままに描くようになった藤田の姿が透けて見えます。
表現されているのは、彼が住みたいと願っていた心の世界で、透明で清澄感が溢れるその画面には、神によって救われた藤田の、喜びと、安らぎが画面一杯に広がっております。
藤田嗣治という人、
藤田の人となりについては、随分興味深いお話も沢山ありますが、これについては又別の機会に譲ることにして、ここでは簡単な略歴と受賞歴を述べ、その偉大さを知ってもらうに留めます。
1886年 藤田嗣章の次男として誕生
1910年 東京美術学校卒業
1913年 渡仏
1919年 サロン・ドートンヌ展に入選 同左会員
1921年 サロン・ドートンヌ展にて裸婦、自画像、私の部屋、目覚まし時計のある静物が絶賛を受ける
1922年 サロン・ドートンヌの審査員
1925年 フランスから、シュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を受賞,ベルギーからシュヴァリエ・レオポルド一世勲章を受章
1929年 フランス日本美術協会会長
1930年 シュールレアリズムの影響を受けた死に対する生命の勝利を制作
1931年 中南米を歴訪、中南米中でもメキシコの壁画に絵画に強い感銘を受けその影響を受けた画風に変わる、
1933年 日本に帰国
1938年 戦争画との関わり始まる
1939年 渡仏
1940年 帰国、
1941年 帝国芸術院会員
1942年 戦争画の傑作「アッツ島玉砕」を制作
1945年 藤田最後の戦争画「サイパン島同胞臣節を全うす」を制作
第二次世界大戦終わる
1949年 渡米 藤田絵画線と色彩と動きの統合の時代の幕開けの作品
「カフェ」制作
1950年 渡仏許可おりパリへ
1955年 フランス国籍取得、日本国籍抹消
1957年 オフィシェ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章受賞
1959年 洗礼を受けレオナール・フジタに改名
1966年 礼拝堂を建立、内部のフレスコ画制作
1968年 死去、日本政府より勲一等瑞宝章を授与される
まとめ
藤田絵画の日本での人気は、最近では、ますます高まり、先日行われた回顧展でも、連日満員の盛況でした。藤田の偉大さは、画家としての業績の素晴らしさもさることながら、当時、多くの日本の画家達が、ある程度技術を習得すると、その成果を引きさげて帰ってきてしてしまっていたのに対して、フランスに踏み留まり、その社会に溶け込み、日本の絵画とヨーロッパの絵画とを融合した新しい絵画を生み出したことです。最近でこそ、国際的に活躍される画家達も、散見されるようになりましたが、藤田が渡仏した時代は、非常に稀でした。にもかかわらず、言葉の壁を乗り越え、パリに根を下ろし、そこで花開かせました。そういった意味でも、グローバル化が進む今日、単に画家達のだけでなく、これから国際的に活躍しようとする日本人達の先駆者として,お手本として、特筆すべき人だと思います。
参考資料
藤田嗣治「異邦人」の生涯:近藤雅人著:講談社刊
藤田嗣治画集「素晴らしき乳白色」:清水敏男,尾崎正明編集:講談社刊(清水敏男文参照)
池を泳ぐ:藤田嗣治著:書物展望社刊
註
お断り:この文章は独断と偏見を交えた私流の藤田鑑賞の栞です。回顧展などの図録や、画集の、各年代毎の作品に目を通しながら読んでいたくと、藤田絵画を理解し、その素晴らしさがお分かり頂く為の一助になるのではないかと思います。なお参考資料以外にも、いろいろな本から参考にさせていただいている部分もあるかと思いますが、それらは随分以前のもので、どの文献だったかも定かでないため、数点の参考文献の掲載にとどめました。