No.66 とばっちりを受けた陶器達

この話はフィクションで、万一、似ているところがありましても、実在の事件、人物とは全く関係ありません。

 

その1

一日の勤めを終え いつものように自宅のマンションに帰ってきた泰男はびっくりしました。朝出勤の時には在ったはずの家具が部屋の中から消え失せ、がらんとしてしまっているのです。寝室のベッドや衣装箪笥も、居間のテレビや本箱も、そしてキッチンの冷蔵庫や食器棚の類まできれいさっぱり全てが消えてしまっているのです。
広々とした部屋の中にわずかばかり残されているのは、一ながれのふとんと茶碗、箸、鍋、やかんが各一個だけです。居間の壁にセロテープでとめられた妻からの置き手紙には「家を出ます。貯金とマンションを売ったお金はもらっていきます。従ってマンションは2週間以内に立ち退く約束になっていますからそのつもりでいて下さい。今後私への連絡は愛媛におる長男を通して行って下さい。長男と次男の大学卒業までの学費と生活費の仕送りもお願いします。なお、貴方が集めたがらくたは、骨董屋さんも引き取ってくれませんでしたから、ごみとして全て処分しました。」と書いてあります。

 

その2

結婚して約30年、これまでも時々出て行くとか、離婚するとかといったごたごたが全くなかった訳ではありませんが、そうかといって、本当に別居を考えているほどのさし迫った問題も思い当たらない泰男にとって、今度の妻の家出は全く予想だにできなかったことでした。マンションを売り、貯金も、家財道具も持ち去り、彼が長年にわたり集めてきた或る女流作家の陶芸作品の全てを処分していくほどに、何ヶ月にも渡り準備をしていたというのに、その妻の思いに全く気付いていなかった自分のうかつさに唖然としました。
窓の下に瞬く他の家々の灯かりは、どの家のものも暖かく幸せそうです。
「どうして」
彼はもう一度つぶやきます。マジックで書かれた短い置き手紙からは、そのそっけなさ故に、いっそう妻の深い恨みが伝ってはくるのですが、それでもその理由は思い当たらないのです。
「なぜ?」
がらんとした部屋に座り込みながら、彼はもう一度つぶやきます。先程からこの言葉を何度つぶやいた事でしょう。

 

その3

泰男と妻の佳奈とのそもそもの出会いは、今から25年くらい前、泰男21歳、佳奈が23歳の初夏のことでした。東京の或る私立医大の3年生であった泰男と、専門学校を出て既に理容師の資格を取ってお勤めをしていた佳奈が、偶々出会ったのは沖縄県人会の席上です。
二人が恋に落ちるまでに時間はいりませんでした。情熱的な二人はまもなく同棲、そして子供ができます。泰男の家は沖縄でも王朝の流れを汲む名門で、学歴も無い佳奈との結婚は許されないことでした。その上、彼がまだ学生であったということや、佳奈が年上ということもあり、彼の両親は絶対反対でした。それでも子供ができたという既成事実と、泰男の堅固な意志の前に、しぶしぶ結婚を許してはくれたのですが、占領時代の沖縄にあって子供に夢をえがいていた両親にとって、面白かろうはずも無く、結果としてその後の佳奈に辛く当ったのは、やむをえないことだったかもしれません。しかしそれは、佳奈にとっては許し難い屈辱で、永久に忘れることのできないほど、辛いことだったのです。
そんなに嫌っている親なのに、沖縄に赴任した以上、嫌でも彼の親は訪ねてまいります。そしてあれこれと口出しをしていくのです。その上泰男もまた自分が長男であることから、将来は親と同居してその面倒を見るつもりでいたのです。このことは彼女にとっては耐え難いことでした。そのためそれについて何度も話し合いをもったことはあります。しかし未だ完全に結論がでているわけでもなく、また両親は共にまだ元気で、すぐ親と同居すると言っている訳でもありませんから、それが今度の家出の直接原因になっているとは思えません。
性格的にはどうだったでしょう。確かに二人の性格には隔たりがありました。陽性で、人付き合いが良く、ホームレスとさえも友達となり、一緒に公園で飲み食いをしてくる事ができる泰男と、陰性で内にこもりやすく友達も少ない佳代。饒舌な泰男と無口な佳代、ジョギングのように身体を動かすことの好きな彼、どちらかというと家の中で一人で音楽を聞いていたり、家事をしているほうが好きな彼女。気が良いがどちらかというと気が弱く決断力にやや劣る彼と、気が強く決断力に秀でて決めたら後ろを振り向かないといった彼女、といった風に全く対照的な性格だったのです。このため、結婚当初から噛み合わないところも多く、もう二人の間は駄目といったことも再三ありました。しかし最近は、二人共あきらめているせいもあってか、衝突らしいことも無くなって、それなりに落ち着いたと泰男は思っていたところだったのです。
もしも今度の家出に性格の不一致が関与していたとしても、まるでだまし討ちのような家出をされるほどのトラブルがあったとは、どうしても思えないのです。
「解らない」
彼はまたつぶやきます。夫婦間の性格の不一致は、 性の不一致につながると言われていますが、そのほうも彼には思い当たりません。確かに若い時のような頻繁さはないにしても、年齢相応の夜の営みはしていたつもりでした。 またそれについて、特に不満をうち明けられたことも無いので、一人よがりかもしれないのですが、そこに原因があると思えないのです。

 

その4

置き手紙に書いてある「がらくたの陶器はごみとして処分しました」の箇所は、その書き方からしても引っ掛かるところはあります。しかしそれだけの理由で、こんな惨い仕打ちをしてまで出て行くほどのことだったとは彼には思えません。確かにこの件に関しては、以前から妻に嫉妬され、厭味を言われたり脹れられたりしたことも再三ならずありました。しかし二人の間には、何も無いのです。だからその度に話し合いをし、結局、納得してくれているものとばかり思っていたのです。
現につい最近も彼女の個展で2点ほど作品を購入してきたのですが、その時も別に何の文句も言っていなかったのです。しかし出掛けに、彼が大切にしている作品の全てをわざわざゴミとして捨てていったということは、かなり含むところがあったに違いないと推定できます。
さて実際はどういうことなのでしょう。色々ないきさつから推察しますに、こういった夫婦の行き違いは決して単純なものではなく、長年にわたるいくつもの要因が重なり合い、もつれ合って最後に沸騰点に達し、爆発したのでないかということです。だから原因は、泰男の今思い当たっていることの全てだともいえます。
女性の立場から考えてみますに、それに気付かないで、何か事が起こるとその都度、言いつくろって適当に丸め込んでそれで解ってもらえたと思っている、その泰男の鈍感さに余計に腹が立ったのではないかと思うのです。そもそも佳奈が怒っているのは、くだらない(彼女にとってはですが)陶器を買ってくる行為に対してもあるかもしれませんが、それ以上にそれを買ってくる動機に不純なもの、危険なものを敏感に感じとっているからではないでしょうか。

 

その5

泰男が陶芸作家の茜に出会ったのは、彼が40歳になったすぐの頃のことです。趣味としている市民マラソンに参加した時のこと、 前日に行われた地元主催の歓迎会で楽しそうにお酒を飲みながら談笑している彼女を見て、強く惹きつけられたのが最初でした。
彼女は当時、歳の頃は34~35歳、化粧気のない素顔に笑いがいっぱい広がっているのがとても新鮮で、印象的でした。彼女のいるところにいつも笑いがあり、空気が光ってさえ見えました。その時はただ一言二言の挨拶を交わした程度だったのですが、その時の自己紹介から、彼女が自分の郷土の有名な陶芸作家の弟子であることを知ります。
何となく惹かれあう物を感じたとしても、よほど強心臓の持ち主でもない限り男女の交流は(特に既婚の男女の場合)その程度で終ってしまうのが世間一般のことです。彼と彼女の場合も、その通り一遍の出会いで終るはずでした。ところが運命の神様は悪戯好きでした。
ある時、泰男がいつものように市民マラソンに参加した時のことです。まもなくゴールといったところに差し掛かった時、彼の前に足を引きずり引きずり懸命に走っている、小柄な女性がいるのを見つけます。走っては歩き、走っては歩きと、小さな身体で体力をふり絞り、なんとかゴールに到着しようと努力しているその姿は、後ろから見ているととても感動的でした。もともと誰にでも親切で、人見知りのしない泰男のことです。追い抜きながら「どうしたの」と気楽に声をかけます。「なんだか足のまめが潰れたみたい」と帰ってきた答えの方向を見て驚きました。何と彼が、あの時、心惹かれた女流陶芸家の姿がそこにあったのです。
「大変でしょう。私の肩に掴まったら?」と彼。「でも汗まみれだから」と遠慮する彼女。「汗臭いのはお互いさまでしょ。それよりここであきらめる方がずっと悔しいじゃないですか。さあ遠慮しないで、私の肩に掴まりなさい」と言いながら、やや強引に彼女の痛む足の方の腕を掴むと、自分の肩にまわし、もう一方の手で彼女の腰を支えながらゴールをめざします。
小柄だが均整のとれた彼女の身体は思ったより重く、彼の身体にずっしりと寄りかかってくる、彼女の柔らかいからだの感触と、汗ばんだ彼女のからだから匂ってくる女らしい香りは彼の煩悩を刺激して止みません。その悩ましさを振り払うように「さあー、もう少しだからがんばろうね」と声をかけます。茜はもう彼に頼りきったように、彼によりかかりながら、ただただ肯くだけです。こうしてゴールに着いた二人の間に、前よりも一層の親密感が醸成されていたことは言うまでもありません。
その夜の打上会では、周りの人たちの存在も目に入らないかのように、二人きりの世界に浸ります。故郷への思い、趣味のこと、仕事のこと、などなど話題が絶えず、楽しい時を過ごします。この時の話から、茜がその外見の明るさとは別に、とても寂しい生い立ちであることを泰男は知ります。
彼女の両親は彼女が6歳の時に離別、その後、市役所に勤める母に引き取られ、育てられてきたのですが、その母も彼女が大学を卒業した頃より病気がちとなり、市役所を退社して自宅で療養するようになります。この為、茜は大学を卒業するとともに故郷に帰り、母と一緒に住むため近くの中学の美術教師になったのです。そしてそんな母の為に、今も独身なのでした。
こんなことがあってから、二人の仲は急速に親しくなり、茜の展覧会には必ず泰男の姿が見られるようになります。しかし二人の職業的な制約もあってか、彼らの関係がそれ以上に進むことはなかったのです。それだけに精神的な結びつきは強かったかもしれません。こんな二人の関係を、妻の佳奈が気付かないはずはありません。いくら泰男が釈明しても、釈然としないのです。潔癖な佳奈にとっては、肉体的な不倫以上に、精神的な不倫は許し難いことだったのです。
実際妻の立場からすれば、心がどちらを向いているかも解らないような人との結婚生活など、本当に耐え難いことだったのです。佳奈は、夫と茜との精神的な結びつきがどんどん強くなっていくのを感じるにつけ、ますます無口になり、内にこもっていきます。もはや何を言っても無駄といった強い絶望感が彼女を次第に追い込んでいったのです。茜の作った陶器の壷を、さも愛しそうに撫でている夫の姿は、佳奈にとっては夫が茜を愛撫しているかのように思え、憎しみの対象以外のなにものでもなくなっていました。
女が黙ってしまうということは、納得し、許したということではないのです。絶望し、なげやりになったのか、憎しみを秘めて反撃の機会を窺がっているかのどちらかなのです。妻が別れたい等と言って騒いでいる時のなかには、とめて欲しいとか、わかってほしいといった、助けを求めるシグナルである場合もありますが、黙って冷たい態度をとるようになったり、ただただ義務的に接してくるようになったりした時は本当に恐いときなのですよ。皆さんもお気を付け下さいね。

 

その6

それにしても哀れをとどめたのは茜の陶芸作品です。精魂がこめられ、彼女の子供のような存在であった作品達、もしかしたら代表作品として後で脚光を浴びるチャンスがあったかもしれない作品達、それが夫婦喧嘩のトバッチリで壊され、ゴミの山の中に捨てられてしまったのです。もしも彼らに口があって言葉を話せたなら、どんな嘆きの言葉を吐いていることでしょう。