No.64 男三界に家なき時代

この文章に出てくるお話、人物はフィクションで、実在の人間、事物とは関係ありません。

 

先日年下の友達、恵美さんのお母さんにお会いしたときのことです。
「Oさん聞いてくださいよ。最近うちの亭主ったらさー、やけに優しくなったのよ。どうしてだかわかる?」
と今にも鼻をピクピク動かしそうに得意そうな顔をして切り出された、恵美のお母さん。恵美さんのお母さんは54歳、陽気で気さく、おしゃべりで、どなたともすぐに仲良くなってしまうといった特技を持っていらっしゃる、とても楽しい人です。
それと対照的にお父さんはどちらかというと無口で、気難しく、変な正義感をもっていらっしゃって、自分の価値観を押し付けてこられるものですから、どちらかというと、あまり近寄りたくないタイプの男性です。しかし身長は175センチくらい、中肉で、痩せすぎず、肥りすぎず、しかもピシッと通った鼻筋、濃い眉毛、締まった口、切れ長な目と、俳優のようにハンサムな顔立ちで、見ているだけなら、60歳近くなられた今日でもほれぼれするような男性です。
恵美さんの話によりますと、二人は恋愛結婚で、お母さんのお勤めしていた会社へ、機械の定期点検のためにやってきていたお父さんに、お母さんのほうが一目惚れしてしまい猛烈にアタックを繰り返した末、やっとゲットした仲だそうです。恵美のお母さんは背丈150センチ台半ば、ポッチャリ型で、丸顔、顔立ちも平凡、外見的にはそれほど目立つタイプではありません。ただ、その優しげな目と人懐こそうな笑顔は、長く見ていると味わいがあります。気さくな人柄に加え、何もかもひっくるめて優しく受け止め、抱きしめてくれそうな、ほのぼのとした雰囲気は、心の故郷を感じさせてくれます。
恵美さんはお父さんが大嫌いで、お母さんに
「よくあんな人を好きになったわねー。私だったら”金の俵”持ってきたってごめんだわ」
といってやったことがあったそうです。すると、
「デモねー。お父さん昔はあれでハンサムでもてたのよ。無口でチャラチャラしてないから、とても男らしく見えて、もう大変。うちの会社の女の子達は皆お熱だったのよ。今から思うと、ただ単に話題の乏しい、気が利かない人だっただけなんだけどねー。一緒になってみてはじめて解ったことだけど、ナルシストで、自分のことだけが可愛くて、人にやってもらうことが当たり前、人のために何かをしようとする気の更々ない人だったけどね」
「それでよく今まで我慢できたわねー」
「そりゃー、心ないことをされたりした時など、この人と一緒に過ごしていかねばならないこの先の人生を思うと、悲しくなって、何度か別れようとも思ったわよ。しかし暴力を振るうでもなく、浮気をするわけでもなく、これはただ、こまめじゃなかっただけなんけどね。月給はちゃんと入れてくれていたのに、どう切り出したらいいのよ。それにあなたもいたことだし、やはり父なし子にするのは不憫だったから、我慢したのよ。
あなたが中学校へ行くようになって、私もパートに出て、そこでいろいろな家庭の話をきいていると、旦那はどこも同じようなもの、家に帰って少しでも笑ったりしたら損とばかりに、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていて、発する言葉といえば、飯、風呂、寝る、くらい。たまに口を利いたかと思うと、嫌味か文句、それでいて、よその女にはチャラチャラと愛敬振りまいてチョッカイだすわ、もう男って、どいつもこいつも、どうしようもない生き物だってわかったのよ。そしたらお父さんのこともあまり苦にならなくなって。暴力を振るわないだけ良いのかなとか、気の付かないなりに、こちらの感情を読み取って、あたふたするだけ可愛いかなとか、思えるようになったの。
お父さんというか、男に何かを期待しないようになったのね。そしたらお父さんに良く思われようとか、好かれようという気もなくなって。ひょっとすると女でなくなったのかしらねー。それにあなたも結婚して、家を出ていったでしょ。そうしたら、もう嫌ならいつだって別れてあげたって良いのよと、割り切れるようになって。だって女一人なら、この節、食べていくくらいは何とかなりそうでしょ。そう思うとお父さんなんて、どうってことないのよねー。

実際、この年になると、お父さんと話しているより女同士で群れて、お茶したり食べたりしながら、駄弁っていた方がよほど楽しいものね。
だから最近では、お父さんの顔色を窺うことなく、好きにさせてもらっているの。そのせいか、一緒に生活することも、あまり苦にならないの。それにひとりで生活しているお父さんの姿を想像すると、なんだか気の毒になって。だって考えてみれば、お父さんって、気難しくて気が利かないというだけで、特別私たちに悪いことをしたというわけでもないんですものね。それなりに、お父さんもよくやってくれていたものね。だから今更、自分から家を出ようとも思わない」と言われたそうです。
この開けっぴろげで、話し好きのお母さんにつかまってしまったのです。もう誰かに自慢して話したくて仕方がなかった様子で、待ちかねていたように捉まえて離してくれません。こういったわけで、本当は実家に帰ってきている恵美さんに用事があって訪ねて行ったにもかかわらず、その前にまずお母さんのお話を聞く破目になってしまいました。
「Oさん、あなた、2007年問題って知っている? 知らないでしょう」
「知っていますよ、それくらい」と私。
「エッ知っているの。何だー。その記事、最近良く出てくるでしょ。テレビでも話題になっているし。その記事の載っている新聞だとか、週刊誌を主人にみえるように、わざとそこら辺に放り出しておいてやるの。いかにも私が、それに関心をもっているかのようにね。そのページを、わざと開いておいて。(註:2007年4月以後になると、離婚に際しては、二人の結婚期間に応じて、夫の年金を妻も分けてもらう権利が生じるのだそうで、2007年4月以降、熟年離婚が激増するのでないかといわれています。)
それを見つけた時の主人の反応がもう楽しくて。いかにも気付いていないというような顔をしながら、チラッとそれを読んでいるのよ。面白いでしょ。きっと内心ではドキッとしているのよね。顔色が変わるから解るのよ。私の職場の定年間近の男達の話しを聞いていても、その話で持ちきり。突然、離婚って言い出されるんじゃないかと、みんなヒヤヒヤしているのよ。主人の会社でも同じに決まっているわ。だからそれ知っているだけに余計面白いのよね。
それでね、最近では主人の方が変わってきたの。私のこと、気にかけてくれるようになって。向うから何かと話しかけてくるのよ。相変わらず頑固で、気難しいところは残っているけど、私が強く出ると「そうかな」ってひくようになったわ。自尊心の強い人だから、言い出せないだけで「これからもずっと家に居てくれるのだろうな」という言葉が、口元まで出かかっているのが丸わかり。
女友達から聞いた、よその家の話もよく聞くのよね。それをしてやると、ますます不安になるらしく、その後しばらくは、余計に気にかけてくれているのが解るの。男も六十近くになると、うちの主人のように金がないような男は、誰からも相手にしてもらえなくなるらしいわよ。それに男って私たち女と違って群れないでしょ。だからあの年になって、万一棄てられでもしたら、孤独で、とても応えるらしいわ。それが解ってきたらしく、私が仕事で遅くなる時など、洗濯物を取り入れて、きちんと畳んであったり、お風呂も沸いていたりするようになったのよ。黙っていても、食後の洗い物するのを手伝ってくれたり、お掃除をしてくれたりと、何かと手伝ってくれるようになったの。私が出かける時だって、出がけに食事の準備だけをしておいてやれば、以前のように小言を言ったり、不機嫌になったりしなくなったわ。きっと我慢しているのね。面白いでしょう。もう2007年サマサマよ。
でもそんな主人を見ていると、最近では、少し可哀想になってきて、休みの日なんかは、できるだけ主人も誘ってやることにしているの。いずれにしても、きょうびは、主客が逆転したみたいで、毎日が本当に楽しいわ」
とのことでした。あのお洒落で、格好つけやの気難しそうなご主人が、奥様に言われるままに、お便所やお風呂の掃除をしていらっしゃる姿は、想像するだけで笑いがとまりません。

それにしても男性達にとっては大変な時代ですね。長い間、職場で上司や顧客に頭を下げ続けてきたうえに、定年後も、今度は奥さんに気をつかい、頭を下げ続けなければならないとは、ほんとうに、今の熟年男性は三界に家(休まる所)無しになりそうです。今まで、家庭内でのコミュニケーションに、気をつかってこなかった報いとはいえ、少し気の毒な気もします。