No.35 天才は遠くにあって思うもの

最近「ピカソ偽りの伝説」(草思社刊。ハフィントン著)を読みました。
こういった伝記本にありがちな美化したところがなく、虚飾をはがし人間としてのピカソの赤裸々な姿を現しているという点で、とても興味深い本です。
一般に私どものような常人は天才とか英雄と称される人物に対して弱いところがあります。
たとえば秀吉といいますと庶民には大変な人気で、あちらこちらで神として(豊国神社など)祭られているほどです。

しかしよく考えてみれば不思議な話とは思いませんか。

確かに一介の百姓から(諸説あり本当に貧しい百姓であったかどうか疑問との説もありますが)身を起こし、天下人まで上り詰めたことは大変なことだとおもいます。しかしそれだからといって秀吉そのものが、神に値するほど人間的に完璧な素晴らしい人であったか、庶民であった私たちの先祖の為に何かしてくれたかと考えてみるとそうではありませんよね。
冷静になって数えてみると、人間的な面では助平、策士家、成金趣味、派手な浪費家、上に対してはゴマすり上手、残酷、自分の実子にだけは甘いといった欠点を多々もっている 嫌なおじさんであった可能性が大ですよね。歴史的に考えてみますと確かに信長を継いで天下を統一したという偉業を成し遂げた点は評価できますが、それを成し遂げるために行った各地での数々の戦争、そして統一後の検地、刀狩、朝鮮出兵などなどと 貧しい農民に過ぎなかった私どもの先祖にとっては、残忍且つ強欲な権力欲の強い戦争好きの統治者意外の何者でもなかったのではないでしょうか。
彼の時代に貧しい百姓が彼のおかげをこうむったような何か良いことがあったでしょうか。
略奪され虐げられ苦しめられこそすれ、特に幸せを持ってきてくれたとは思えないのです。まして攻め入られた朝鮮の人々にとっては残忍非道、迷惑至極な悪夢の中のでてくる人物のようなものではなかったのではないでしょうか。
たまたまここで秀吉を取り上げましたが歴史上の英雄といってもその仮面を剥がしてみれば皆似たり寄ったり、良い面もあれば嫌な面も持っております。業績的にも評価すべき点もあれば糾弾されるべき点もあります。

しかし彼等に共通しているのは彼らが決して貧しい大衆のことを考えて何かをしてくれたということはないということです。彼らにあったのは自分とその一族の保身と権力の保持欲だけです。そしてもうひとつはどんなに人間的に欠点を持っていてもそれを補って余りある強力なカリスマ性を持っていたことです。

多くの部下や領民にこの人になら黙ってついていこう、この人のためなら命だって惜しくないと思わせるような、そんな人間的魅力プロパガンダを持っていたということです。
カリスマ性といえば天才的な芸術家もまたそれをもっております。その強烈な個性とそれ故に創り出された芸術作品は多くの信奉者を生み出し、そして彼らを惹きつけて止みません。 芸術家についてのエピソードや伝記の多くはこういった信奉者の話に基づくものが多く、その故に美しく脚色され伝説化され神話化されております。それはまた作品の芸術的、経済的価値を一層高める役割をします。こうして彼の作品の評価は不動のものとなって後世まで語り継がれるようになるわけです。

しかしこうした天才と称する人は 実際にはその思考回路が常人とは違っているため日常生活の中でその人を理解し、円満に付き合っていくと言う事は、凡人には大変に困難なことかもしれませんね。
中でも古い形式を壊しながら創作するような破壊型、ないし破滅型の天才の場合、彼が戦いを挑み彼の創作の源になっているその破壊のエネルギーの影響は周りの人にまで及ぶことが多く、彼に近づいた人々はそれだけで何らかの被害を受けてしまいます。
しかしそのような危険性がにもかかわらず天才の個性と彼が創り出してくる作品の魅力は、誘蛾灯ように多くの人々を引き寄せ、取り込み、彼の周りを嬉々として回る信奉者にしていくのです。
そこには例え身を滅ぼすような危険が潜んでいたとしてもそうです。
否それどころか彼らは喜んで生贄として身を投じていくのです。それはその破壊のエネルギーが大きければ大きいほど、そしてその創作の原動力となっている情念の闇が深ければ深いほどその力は強く、その闇の部分が生み出してきた作品はそれゆえにより多くの人を惹きつけ共感させ、強烈なフアンを生み出す力として働きます(何故なら人は誰もがそのような暗黒の部分を心の中に秘めているからです)。

しかしそれゆえにこそ その毒素はより強くより多くの人を傷つけることになります。
ところで、このような破壊型の天才の場合、その破壊の対象が主として自己の内側に向かう自己破滅型の人と、外側すなわち周辺の人に向かう人とあります。
モディリアーニ、種田山頭火などは前者に属し、ピカソなどは後者に属する人だと思います。
山頭火は子供時代の父親の放蕩、そしてそれによって引き起こされた母親の自殺というトラウマを根底に抱えながら、自己矛盾、自我の分裂と内部破裂の恐怖、挫折の苦しみ、自分が異端であって社会的には誰からも必要されない無能者であるといったコンプレックスに悩み、寂寥と孤独感の中、漂白の一生を終わるのですが、彼の情念の闇が発する破壊のエネルギーは主として彼の内面に向かっています。
精神的にも肉体的にも己を責め続け自分を破滅へと追い込んでいきはしますが、周りの人にはせいぜいお金の迷惑を掛けたくらいで、それほどの深刻な被害を及ぼさなかったとおもわれます。

ところがピカソの場合は違っています。アリアーナ・S・ハフィントン、草思社刊「ピカソ偽りの伝説」によりますと、彼の破壊のエネルギーは彼と彼の作品の魅力に取り付かれ、彼の周りに近づいた人へと向かいます。自分でももてあますほどに強い性欲、女性たちと交わった後も充足感のない官能の疼き、サド的な性嗜好、天才ゆえに理解されない寂寥そして孤独感、更には時代がもたらしてくる漠然たる不安や変化への恐怖や憤怒、神を否定しながらも捨てることの出来ない神秘的なものへの憧憬、呪術的な暗黒の世界や死への恐れや嫌悪、過剰な自意識そしてそれと裏返しの関係にあるコンプレックス、古いものを破壊して新しいものを作り出そうとする野心などといった情念のカオスが彼を創造へと駆り立てます。即ちこれらがピカソの創造の源になっているわけですが、それは同時に破壊のエネルギーとして彼の回りの人々に襲いかかるのです。彼の個性と才能に魅了され近づいていった人々の多くは 利用され、吸い尽くされ、破壊され、彼の芸術創造の為の生贄として祭壇に供えられてしまいます。その破壊のエネルギーは特に女性に対してはすさまじく、彼の不遇の時代を支えた愛人”フェルナンド・オリヴェ”はその快活さも、気ぐらいの高さも美しさも全て剥ぎ盗られ吸い尽くされ、ドアマットのように踏みつけられ、屈服させられ そして最後は放りだされて市井での貧しい生活のうちに死にます。
もの静かで儚げであったエヴァ・クエール(マルセル・アンペール)は彼の性生活の激しさと、実生活の過労から若くして結核で死んでしまいます。彼があこがれた上流社会とそれが持っているロマンチックな雰囲気への案内役を勤めさせられた最初の妻オルガ・コクローヴァも利用しつくされた後は捨てられ、ピカソ脚本による愛人たちを巡る愛憎のドラマに巻き込まされ、もてあそばれ、振り回され、次第に精神を病んでいってしまいます。
それでも彼女は生涯ピカソを待ち続けたのです。最後は癌で孤独のうちに死亡したのですが、埋葬にピカソの姿はなく、立ち会ったのは息子とラミエ夫妻だけの寂しさであったと言われています。
17歳の時ピカソに誘惑され、彼女の愛人になったマリー・テレーズは、その故に個性を育てることが出来ないままに成長し、性の奴隷とされてしまったのです。
その倒錯的性生活の渦の中で溺れさせられてしまった彼女が若さと美貌、それゆえの可憐さをささげつくしてしまった後、且つセックスの研究の対象として探求されつくされてしまった後、彼女に残っていたものはその愚かさと俗っぽさだけなのは、当然のことです。しかし彼女はその故に捨てられてしまったのです。

ところがピカソなしでは生きられないように調教されてしまった哀れな彼女に彼が与えた役割は終生自分を待ち続けさせる役割と(そのために実際には愛が他の愛人に行ってしまっているにもかかわらず絶えず期待させるような甘い言葉を送り続けるのです。しかも彼女が年老いてきた頃からは仕送りすら止めてしまう薄情さでありながらなのです)、新しい愛人ドラやフランソワーズたちを嫉妬させピカソの方に顔を向かせるための芝居の小道具役であったと言う残酷なものでした。
それにもかかわらず彼女も諦めきれず、ピカソが戻ってくる事を夢み、待ったのです。しかしその夢がかなうことはなく、結局は彼の96回目の誕生日の5日前、二人が出会って50年目に自殺してしまいました。またゲルニカの制作に立会い手助けをしたほどの才能を持ち異色の芸術家であったドラ・マールも、愛人となるや、彼女が持っていた神秘性そして知性、独立心といった全ての美点を捧げ、彼の方のみを見ていることを要求されます。

しかし彼に屈服し全てを捧げ尽くした時、彼女に待っていた運命はフランソワーズと愛を競わされ、乗り換えられると言うことだったのです。
彼女はそれに耐えられず神経衰弱におちいってしまいます。実子をかえりみないほどに愛しつくした最後の妻ジャクリーヌ・ロックもまたピカソの魔力の被害者のひとりで、彼女もまた彼の死後半年で自殺してしまいます。

ここに述べた女性たちはピカソ芸術の新しい展開に大いに貢献した人たちですが、それだけに彼が発する破壊のエネルギーの影響は大きかったというわけです。
こうした天才芸術家の持っている魅力は 彼の世界の住人として招待されたなら 抗し難い力を持っていたようです。そこに招待され参加した人々は 一時的には麻薬を用いた時のような恍惚感を味わうことが出来るでしょう。しかし彼が発する暗黒のエネルギーはやがて運命をも変えてしまう危険性をも持っているわけです。したがってそんな機会は万一にもないでしょうから 杞憂に過ぎませんが、小さな幸せに甘んじている私達のような平凡な人間には せいぜい作品の上で共感したり楽しんだりする ミーハー的フアン程度でいるのが無難という事なのではないでしょうか。なおピカソが今の日本で生活していたなら、フォーカス、ポスト、新潮、文春などなどといった週刊誌にむちゃくちゃ叩かれ、彼の芸術そのものすらも否定されてしまったかもしれませんね。