No.33 ドンキホーテか正成か

何かで読んだ記憶によりますと、今でも世界で最も読まれている小説はドンキホーテだという事です。それは 多くの人にとっては 厳しい現実の前に、妥協を繰り返しながら生きていかざるをえない自分と比較してとても羨ましい存在だからではないでしょうか。

私なども理想の画廊の姿を思い画き、そのように生きる事が出来ればと願っているのですが、実際にはそのような理想はシャボン玉 のように脆く、身過ぎ世過ぎにかまけて現実と妥協しながら日々を過ごしているに過ぎないというのが実状です。
それだけに理想を追い求め、大いなる敵と信ずるものに敢然と立ち向かっていこうとするドンキホーテの純粋さは、傍から見て喜劇的なだけにより羨ましい存在と感じています。
世の中、私たちのような小利口な人が多くなってきました。予め損得を計算し、損と解っているような事、負けると決まっているような戦には加わらないという人が増えております。少し前まで、といいましても私たちは全く知らない時代ですが、安保の時代やベトナム戦争の時代には それでも若い人たちは理想の為に、時の権力にも敢然と立ち向かっていったといわれますが、今日ではそのような人も少なくなり、肥ったブタのように、ただただ食と性に溺れる惰性のような日々を送っている人が大半ではないでしょうか。

ところが私の知りあいに雑誌社の社長さんがいらっしゃるのですが、その人はそんな世の中の風潮にも拘わらず、いまだに青年時代の情熱を持ち続けておられるのです。
いつも損得を度外し、権力に組みせず、世の矛盾や権力の腐敗、不正に敢然と立ち向かっておられるのです。
ペンという武器を手に、自前の雑誌というロバに騎乗し、政治家、評論家、検察、裁判官、警察と行った巨大権力 たちむかっていかれる姿には、私とは立場が違いますが頭が下がります。 巨大な権力に立ち向かって行くには非常に大きな危険を背負わざるをえません。それにもかかわらず敢然と戦いを挑んでいかれる姿には純粋であるだけに悲壮であり、ある種の危なさがついて廻ります。
例えば少し前にはニュースにもなった事件ですが、右翼に踏み込まれ怪我をされたこともあります。又つい最近ではある作家の事を暴いたのが、名誉毀 損にあたるとかといって懲役刑の判決を受けておられました。
それも裁判の経過を見ている限りでは判官ひいきではありませんが、社長さんの方の言分に理があると思われていたにもかかわらずです。
此れは以前から検察、裁判官の腐敗をあばいてきたことに対する時の権力者達(この場合は裁判官、検察)の仕返しによるとしか思われないのです。しかし最近の判例とか、政治の動きなどなど、近頃の世情を見ていますと、何だかきな臭さが匂ってまいるようになってきました。言論は再び不自由な時代がきそうな予感がします。弱者救済だとか人道主義と言った言葉も死語になろうとしております。
「犯罪者の親などは市中引き回しの上磔獄門にしろ」といった過激な言葉が公然と政治家の口から出てくる時代になってきたのです。

こんな時代ですからこの社長さんのように危険にもかかわらず今までの姿勢を貫いていこうとしておられる姿には一層の感動を感じます。しかし振り子が大きく右に振れようとするこの時代、いくら一人で踏ん張られてもそれを止める事はおそらく不可能でしょう。従ってこのままでは、いつの日にか正成のように討死にを覚悟で負け戦を挑むといった事になるのではないかという危惧がついてまわります。
その事を考え「もう歳だし、いい加減お止めになったら。せっかく能力もおありなのですから少しは老後の事も考え、お金儲けでも考えた方が良いのでは」と逢うたびに忠告する私に対し、「こういう時代だからこそ 今誰かが木鐸とならなかったら、日本の未来は、人類はどうなると思いますか。毎日生きている限り危険はついて回りますよ。又老後の事も、食っていくだけなら何とでもなりますよ。それ以上にお金を貯めてどうします。お墓へお金を持って行けるわけじゃないでしょ」とおっしゃるのです。私としては彼が正成にならない事をただただ祈るだけです。