今時、狐に化かされたと言っても誰も信じないですよね。でも考えてみれば昔からある狐が化かす話って、馬糞の饅頭を食べさせられたとか、肥溜で湯浴みさせられたとか、木の 葉の小判をくれたとかと言ったような比較的他愛のない話が多いですよね。大変な悪意を 持って騙すと言うより「騙された」と言って悔しがる人間を見るのが楽しみで騙すといっ たそんな悪さ的な騙しをすると言った類の話が多いですよね。
画廊をやっていますと、「何しにいらっしゃったのかな」と後になってどう考えても解ら ないようなお客さまがいらっしゃることがあります。
ある日の夕方の事です。お客様のところから帰ってくると、とても恰幅の良いおじさまが 座っていらっしゃいます。年の頃は○歳前後、白髪頭で少し前髪の薄くなった、品の良い 顔立ちの紳士で、着ていらっしゃいます衣装もとてもシック、どこからみても裕福そうです。
用件を聞いてみますと、「後で、自宅の方に絵を売り込みにこられたり、電話してこられたりすると煩くていやだから、 今は名前は言えないが、自分は名古屋では名前を聞いていただけば誰も知らない人がいない位 有名な、 あるトヨタ関係の仕事をしている会社の会長だ けれど、じつは今年の予算が○○万くらい余っているので、 その金で良い絵を買えないものかと思ってきたのですが、お宅、何かありますか」とおっしゃいます。
世の中そんな美味い話が転がっているはずがないと思っていますので、「そういうお話な ら、もっと大きな画廊さんのところに行って相談なされてた方が良いのではないでしょう か」と婉曲にお断りしますと、「実はF画廊にも行ってきたのですが、思ったようなもの がみつからなかったものですから迷っていた時、オタクを紹介されたものですからやって 来たのです。一度見つくろってくれませんか。」
「予算は5000万円ですが実際に売ってくださる品物の価格は4000万円くらいのも ので結構です。しかし領収書は5000万で出していただいて、差額の1000万円のう ち500万円はリベートとしてさしあげますがいかがでしょう」とおっしゃいます。
それから数時間、その間に商売の話をチョコチョコとされながら、名古屋財界の情報やら、 政界の裏話、今までに集めてきた美術品の話、美術品を使った裏金作りの話などなど、 次から次へと話されます。私達そうした話は疎いものですから本当か嘘かは解らないまま、 ただただ感心して聞いておりました。
こうして聞いているうちにだんだんその人の言う事が本当らしく聞こえ出したんですから、 人間の心理って不思議ですね。半分は嘘だと思っているのですが、ほんの少しだけは期待 するところも出てきてしまったのです。
閉店時間はとっくに過ぎてしまいました。それでも話しはまだまだ続きそうです。万一と思うとあまりすげなく帰す事も出来ません。恐る恐る「実はもう閉店の時間なのですが、 もしよろしければお茶でも如何ですか」と言いますと「イヤーちょうどのどが渇いて腹が 減ってきたところです。それじゃご馳走になりますか」と腰を上げられます。
しかしこちらとしましては商売になるかならないか解らない初めての人に、お食事までおだしする気にはなりません。そこで喫茶店にご案内し、お話の続きをお聞きする事にしました。
それから更に2時間、たった1杯のコーヒーを相手に次々にと話が途切れる事がありません。たまりかねて「私これからまだ人と会う予定がありますものですから」と言ってやっと開放してもらいましたが、その間の話は「明日もう一度来るから、明日までに4000万分の絵のリストを作っておいて欲しい、 あなたが気に入ったから品物の選択は任せる。支払は小切手で支払う」と言う事だけでした。 他の話は気分よく耳を通っていったは ずなのですが何も残っていないのです。
帰ってから知り合いに「今日こんな事があったのよ」と話しますと、「そりゃお狐さんですよ、眉に唾つけ聞いた方が良いですよ。大体大きな画廊が自分のと この客をあなたのところに紹介してくると思いますか」
「又画廊に一見(いちげん)で入ってきただけの客が、何千万もの物をぽんと買ってくれ ると言うような旨い話があると思いますか。まして小切手で払うと言いながら、一方で は名前も言えないと言うのもおかしな話だし、作品の選択も任せっきりと言うのも、バブルの時のように投資のため絵を買うと言うのならいざ知らず、今時絵を買う人の常識からは外れていますよ」
「絶対裏があるから気をつけた方が良いです。もし小切手をくれると言うのであればすぐ 銀行にそう言って、換金できるまで品物は渡さない方が良いですよ。」
「作品は写真で見せ、品物が画廊にある事も知らせない方が良い、そういう手口で作品の在処を探っておいて、後で泥棒に入り、全部盗っていってしまった例もありますからね」 と忠告してくれます。
もともとあまり期待してないお話ですので、もっともなご忠告とありがたくお受けしたのですが、この不景気な時の事「ああそんな話が本当にあったらな」と漠然と期待したのも事実です。
さて翌日、一応は作品のリストと価格表だけは作ってお待ちしていたのですが、約束の時間になってもお出でになりません。
「やはり糠喜びか。多分もういらっしゃらないだろうな。」と思ってよそへ出かけてしまいました。 すると「社長あのお客様がいらっしゃっています。如何されますか。」と従業員が携帯に電話してくるではありませんか。
これはひょっとするとひょっとするかもと期待に胸を膨らませながら早速画廊に帰ってきました。
例の紳士は悠然とお茶を飲んでおられます。不在にした詫びを言いながら、 作品のリストとその写真をお見せし、「今は他に貸し出してあります。 もし本当にお買い上げ いただけるなら早速品物は揃えさせていただきますが」と申しますと、 「分かった。それで良い」と言いながら商売の話はそっちのけで、又例の自慢とも自己紹介とも言えないような話を始められます。
こちらもお話を聞いているのが商売と言っても、昨日でいい加減くたびれていますから、 どうしても多少受け答えに熱が入らなくなり、聞き流すような格好になってしまいました。 すると「あなた私の言う事を信用していないでしょう。しかし買うと言っている事は本当に買うのですよ」 「今日は小切手を持ってきていませんが、3日後必ず持ってこさせます。明日から暫くタイの方に出張せねばなりませんから、 秘書にいいつけて段取りをつけておきますから、そういう事でどうでしょう」
「リベートの方はわたしが帰ってきたらもらいにきますから、それまであなたのところで 預かっておいてください」と言われます。 そこまでいわれるといくら疑っていてもなんだか期待してしまいますから人間弱いですよ ね。しかしあまりにも旨い話、どんな新手の詐欺かとも心配です。
半信半疑、わくわく半分、心配半分の2日間が過ぎました。
ところが3日目になってもナ シの礫。どなたもやってこられないし、何も言って来る人もいません。 結局糠喜びといったわけです。今から考えてもあれが何だったかさっぱり見当がつきません。あれだけ時間をかけ、あれだけ熱心にお話をしていかれたにもかかわらずです。
新手の詐欺を試みようとされたが、こちらが警戒したものですからあきらめられたのでしょう か。それともこちらの反応を見て糠喜びする姿をみて楽しんでおられただけなのでしょうか。退屈しのぎのお話し相手が欲しかったのでしょうか、一緒に食事を食べたかっただけ だったのでしょうか、まるで狐につままれた様なお話ですよね。