No.29 南座〈京都〉の玉さま〈坂東玉三郎〉

先日京都に花見に出かけた折、南座で玉さまの歌舞伎を見てきました。
席はほぼ満席でしたが観客の平均年齢は六十歳代位、そしてそのうち9割方が女性という構成です。舞台の左脇袖席のところは和服姿のきれいどころがずらりと席を占め、いかにも京都といった風情でした。
しかしその観客の構成は、舞踊公演であることを差し引いて考えてみてもやはり異様な感じがします。こんなことを申しますと歌舞伎の通 (つう)の人や玉さまのファンからお叱りを蒙(こうむ)りそうですが、忌憚なく言わせていただければやはり素人にはわかりにくいというのが率直な感想です。
それは外国語で演じられるミュージカルよりももっと共感を呼ぶところがないというのが実感です。確かに玉 三郎さんの舞台は妖しいまでの美しさです。それはその衣装の絢爛豪華さともあいまって、夢の世界に遊んでいるようでした。
“鏡獅子”の弥生の舞台に登場してくる時の初々しいしぐさ、そして踊りに没頭してからの妖しいまでの色気、“熊野”を踊るその人形のような優雅な美しさ、それは男が演ずる女ならではの女の妖しさ美しさをたたえており素晴らしいものがありました。
おばさまファン達が「玉さま命」とばかり夢中になって劇場に足を向けられているのもわからないではありません。
しかし、私のような門外漢にとっては、その延々と続き且つ繰り返されるゆっくりした所作はあまりにも冗長過ぎ、現代のスピード時代とはかけ離れすぎていて舞台の上で演じてられる玉 三郎の夢の世界から、本当の夢の中へと引き込まれていく誘惑に打ち勝てませんでした。
別に玉三郎さんに限ったことではありませんが、今日の歌舞伎は伝統という名の美名の下に安住し、あるいは伝統という名の重圧の下、個々の役者さん達は自分の芸の工夫や型の完成を目指した努力はされていますが、歌舞伎全体としての中での未来像を求め、そこに向かって進んでいこうとされる姿を感じられないように思うのは私の僻目(ひがみめ)でしょうか。

もともとは大衆演劇であり、観客の求めるところをくみ上げあるときは先取りして、それを表現することにより大衆の中に溶け込み発展してきた歌舞伎というものの歴史を忘れ、古典芸能伝承者という名の下に皆さんあまりにも芸術家におなりになりすぎてはいらっしゃらないでしょうか。
確かに玉三郎さんの芸にはすばらしいものがありましょう。女の中から女らしいしぐさを抽出し、男性の目でそれをデホルメし女形でなければ表現できない女性を演じていらっしゃいます。舞台の上の世界は確かに夢の世界のように華やかできらきらし、妖しいまでの美しさを振りまいてられました。
しかし、ただそれだけです。終わってみれば夢の中の出来事のようにただきれいな姿をちらちらと残像のようにとりとめもなく思い出しはしますが、心の奥底に訴え、残るようなものはありませんでした。このように申しますと、歌舞伎の通の方や、 関係者の方からは「歌舞伎の舞台にはいろいろな約束があるのだからそれを良く理解してから観賞していただければもっと舞台を楽しんでいただけるのですが」とお叱りを受けそうですが、私ども門外漢から言わせていただくなら、その約束事がこれほど現代の生活感覚とかけ離れてしまった以上、 観客のほうの勉強ばかりを強いるのではなく、歌舞伎のほうからも現代の観客の求めるところに歩み寄り、それを大胆に汲み上げ舞台に生かしていく工夫をされる必要があるのではないかと思うのです。
確かに伝統芸能の継承と芸の新たな創造との間には大きな隔たりがありそれを超えるのは容易なことではないかもしれません。しかしそれを乗り越えようとする努力をすることもなく、伝統芸能の継承という名〈美名でもあり重圧でもあるのでしょうが〉の下、ただただ先人の型をなぞることのみに汲々とし、せいぜいそれに自分流の多少の工夫を凝らして満足していらっしゃるなら、歌舞伎はあの滅び行く天然記念物達のように政府の庇護の下、「古典」として「伝統芸能」として細々と生き延びていくより仕方がない日がやってくるのではないかと危惧しております。

歌舞伎の世界に生まれ、その中で育ち、その中の空気を吸っていらっしゃる多くの役者さんたちにとっては舞台の上でのいろいろな約束事などはごく当たり前のことであって、それを理解でいない人々がいることや、歌舞伎の舞台上での約束事と一般 の生活感覚との間の大きなずれなどというのにお気づきになっていないのは当たり前のことかもしれません。
したがって歌舞伎の世界の中からだけで大変革が起こってくるのを期待することは無理な話かとも思われます。
私たち観客の側からも「つまらないものはつまらない」、「わからないものはわからない」と大きな声を上げ働きかけてこそ生活の中に息づき、次の世代まで伝わっていく歌舞伎を育てていくことができるのではないでしょうか。裸の王様の大人たちのようになるのは止めにしましょうね。