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<title>画廊店主のひとり言</title>
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<modified>2010-07-16T13:49:47Z</modified>
<tagline>・・・・・ アートを知り尽くそう！ ・・・・</tagline>
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<copyright>Copyright (c) 2010, 画廊店主</copyright>
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<title>No.115　お稲荷狐、みけつね様物語その３</title>
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<modified>2010-07-16T13:49:47Z</modified>
<issued>2010-07-06T12:01:29Z</issued>
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<summary type="text/plain">その１０ こうした作業を根気良く続けているうちに、一時半(３時間)も経ったときの...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>その１０</p>

<p>こうした作業を根気良く続けているうちに、一時半(３時間)も経ったときのことでございましょうか。手を伸ばせば、やっと穴の奥にあるものに触れるようになってまいりました。触ってみると、それは佐助さんの予想通り、毛皮のような手触りです。しかしそれは既に硬く冷たくなっていて、触っても身動きもしません。<br />
悪い予感に震えながら、夢中になって、引っ張り出した佐助さんが見たものは、やはりあの狐の冷たくなった姿でした。狐はどす黒く固まった血のなかに、頭を埋めるようにして息絶えていました。腹の下に、一匹の子狐を守るように抱きかかえ、いかにも心残りがありそうに、僅かに目を見開いたまま、冷たく固まっておりました。<br />
母親が死んでいるのも知らない子狐は、それでもなお、一生懸命母狐の乳首にしがみ付いております。母狐の言っていたとおり、時々咳き込むのですが、その後又、乳首にしがみ付いていきます。<br />
しかしもう、かなり弱ってきているのか、鳴き声にも咳にも力がありませんでした。佐助さんは自分のした罪の重さに、愕然（がくぜん）としました。<br />
その哀れな姿を見ると、涙がとまらなくなりました。<br />
｢何処の親も子供の病気は、身が切られるように辛うございますから。｣と言っていた、あの母狐の、その時の表情と言葉が思い出されてなりません。<br />
｢ごめんなさい。ごめんなさい。本当に私が馬鹿でした。どうぞお許し下さい。｣と号泣しながら謝りますが、死んだ狐から返事が返ってくるはずもありません。<br />
そんなに大怪我をさせられながらも、子供を守らなければと必死に子供のところに戻ってきた母狐の心を思うと、可哀想で、自分のしたことが責められてなりません。<br />
｢生き物の命に上下はないのだよ。親子、兄弟の情愛だって、人だって、ほかの生き物だって、変わりがないんだから、狐だからといって、(多分やっていないとは思うけど、例え本当にやっていたとしても)ちょっとした悪戯程度の事にすぎないのに、それを理由に、退治してしまおうなどと考える事は、とんでもない話で、そんなのは人間の思い上がりだと思わないかい。｣といって狐退治を、固く止めた(佐助の)母親の言葉も、いまさらながら、思い出されます。<br />
しばらく狐の遺骸（なきがら）の前で泣いていた佐助さんは、やがて諦めたように立ち上がると、お稲荷様の祠の周りに穴を掘って、親狐を丁重に葬りました。そしてその上に小さな石をおいて塚を作ると、｢とてもお許し下さらないとは思いますが、せめてもの償いに、この子は、私の身に替えても、立派に育てて見せます。どうかここで見守っていてやってください。｣と誓った後、祠の下の洞穴の口を閉じ、子狐を連れて帰っていきました。</p>

<p>その１１</p>

<p>丸々一日以上も乳を飲んでいなかった子狐は、その上病気も患っておりましたから、とても弱っておりました。<br />
佐助さんと、そのお母さんは（その当時の佐助さんはまだ独身で、お母さんと二人で暮らしておりました。）必死になって子狐の面倒を見ました。お母さんは息子にたたりが来ない事を祈り、子供は自分の罪がすこしでも償われる事を願いながら。<br />
しかし、子狐の弱り方は酷く（ひどく）、助けるのは、なかなか難しそうにみえました。それだけに、二人は必死になって子狐を助けるために奔走（ほんそう＊はしりまわること）しました。<br />
佐助さんの母親は、子狐のためにと、最近、子供に死なれた母親のところへ行って、（自分の身内に乳の出が悪くて困っている子がいるからと嘘を言って）、搾った乳を貰ってきては与えました。佐助さんは、佐助さんで、豆乳とか、重湯、そして魚粉粥、果汁、卵などといったものを、いろいろな割合で混ぜ合わせ、或いは単独に、栄養的にも、健康面からも、そして（子狐の）好みの上からも、（狐の）母乳に代わる食べものを探してきては、与えました。<br />
ここで、佐助さん親子に幸いしたことは、この子狐、生まれてから既に日がかなり経っていて、身体もかなり成長してきており、抵抗力がかなりついてきていたこと、そして食事のほうも、既に母乳だけでなく、いろいろな食べ物を食べ始めていたらしいことでした。こうして、二人の努力のおかげで、子狐は次第に食事も進むようになり、元気になってまいりました。<br />
あれほど咳き込んでいた咳の方も、与えた人間の咳止めが、大変に良く効いたのか、一週間くらいの間に、すっかり治まってしまいました。</p>

<p>その１２</p>

<p>あれから一年、子狐はもう立派な大人の狐になっていました。薄茶色の毛皮をした、とても美しい、雌狐でした。<br />
しかし彼女は、大きくなってもまだ佐助さんのところに止まっていました。まるで子供のように、跳んだり撥ねたり、前に行ったり、後ろに付いたりと、嬉しそうに　佐助さんの行く所、何時でも、何処にでも付いて歩いていました。<br />
そんな子狐が佐助さんは、可愛くて仕方がありませんでした。佐助さんは、この子狐をコンコと名付けました。しかしコンコが懐いてくれるにつれ、それを見る佐助さんの心には、時々、チクッとした痛みが走ります。<br />
やがて来る別れの辛さへの想いと、母狐に対して行った自分の残虐な行為への自責の念が、そうさせるのでした。そして、あのときの母狐との約束通り、なるべく早く、野生に、狐本来の生活に、戻してやらねばと誓うのでした。<br />
佐助さんは、死んだ母狐に代わって、四季折々、コンコに野生での生き方を教えました。野鼠、蛙、蛇、鴨、魚など、といった生き物の獲り方や、野苺や､野葡萄、野生の柿、栗、椎の実、山芋、鳥の卵など、といった野原の中にあるものからの、食べ物の集め方などや、危険な物の見分け方など、自然の中で生きていく上での、いろいろな知識を教え込んでいきました。<br />
そのさい、佐助さんの最も力を入れたことは、人間の恐ろしさを教える事でした。人間の作ったもの、人間の臭いのするものには、絶対に近づかないように教えました。特に火縄銃とか、弓矢、礫（つぶて）、鉄罠（わな）など、人間の作った道具の恐ろしさについては、徹底的に頭にいれておかせました。<br />
コンコはとても頭が良い狐でした。言葉が理解できているのかどうか、分かりませんが、彼の言うことをじっと聞いています。<br />
佐助さんのする事もいつも注意深く、じっと観ています。そのためか、二歳を過ぎた夏のおわり頃になりますと、餌の集め方にしても、危険の避け方にしても、佐助さんのやり方に、狐本来のやり方を加えて、教えた佐助さんがびっくりするほど、上手くやるようになりました。</p>

<p>その１３</p>

<p>中秋の満月の日、佐助さんはこの夜をコンコとの別れの時と決めていました。その夜、何も知らないコンコを連れて、お宮さんの境内にある。例の、お稲荷様の祠の前にやってきました。<br />
そしてコンコと一緒に、祠の前にたつと、｢お稲荷様、これで完全に、償いが出来たとは思いませんが、一まずこの子を、此処まで大きく育てることが出来ました。これからも、お稲荷様のお使いを、粗末にするような事はしませんから、どうかお許し下さい。｣とお祈りしました。<br />
次に、祠の傍に作った母狐の塚の前にコンコを連れて行き、コンコに向って、コンコの母狐に対して、自分のした事を、正直に話しました。<br />
そして心から謝りました。コンコは、佐助さんの話が、理解出来ているかのように、じっとその話に耳を傾けていましたが、やがて話が終ると、黙って、森の奥へと去って行きました。<br />
それはあっけない別れでした。もっと離れるのを嫌がるかと思っていましたのに、佐助さんのほうを振り向きもせず、鳴くようなこともなく、一瞬の内に、草むらの中に消えていってしまいました。<br />
佐助さんはとても寂しい思いをしましたが、これも自分のした事に対する報いだからと思い、涙を堪え（こらえ）ながら、コンコの去っていった辺りを、いつまでも、いつまでも、眺めておりました。<br />
しかしコンコが二度と佐助さんの前に姿を現すことはありませんでした。<br />
やがて気を取り直した佐助さんは、母狐の塚の前に座ると、子狐が立派に育ち、今故郷へと旅立っていった事を報告し、自分の罪を詫び、もう一度お許しを願ってから、家へと帰っていきました。</p>

<p>次回に続く</p>

<p><br />
</p>]]>

</content>
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<title>No.114　お稲荷狐、みけつね様物語その２</title>
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<modified>2010-06-15T13:41:51Z</modified>
<issued>2010-06-11T11:46:12Z</issued>
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<summary type="text/plain">その５ ｢もし、ちょっとお尋ねいたしますが、あなた様はこちらの村のお方でしょうか...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>その５</p>

<p>｢もし、ちょっとお尋ねいたしますが、あなた様はこちらの村のお方でしょうか。私、隣村の庄屋の所に嫁いでまいりましたものでございますが、最近、私どもの娘が、咳が出て、止まらなくなって、困っております。この村には、なんでも咳によく効く飴を、作っていらっしゃるお宅があると、伺っておりますが、もしや、ご存知ないでしょうか。｣と聞きます。確かにその村には、昔から笹に包んだ痰きり笹飴として有名な、咳止め飴がありました。<br />
｢そういった飴を作っていらっしゃる家はありますが、こんな夜中ですから、もう訪ねていかれても、誰も出てきてくれませんよ。今日はお諦めになって、日を改めて、昼間にいらっしゃったほうがよろしいのでは。｣と佐助が言いますと、｢さようでございますか。しかし私どもでは、姑がうるそうございまして、昼間に出歩くわけには参らないのでございます。私、明日の晩、もう一度取りに参りますから、あなた様が代わりに、買って置いてくださるという訳には、参らないでしょうか。｣とその女は、泣きそうな顔をしながら申します。<br />
佐助さんは最初から、「この化け狐めが」と思っていますから、女がどんな顔をしても、心を動かされる事はありません。又「人を誑かそう（たぶらかそう）として」と、憎憎しく思っただけです。しかし今のところ女は、一間半くらい先にいて、懲らしめてやろうと思っても、棒の届かない所にいます。もし此処で殴りかかっていっても、逃げられてしまう事は間違いなさそうです。<br />
そこで佐助さんは、さも同情しているような顔をしながら｢それはお困りでしょう。いいですよ。私が代わりに買い求めておいて差し上げましょう。しかし私も、見知らぬお方のお頼みでございますから、お足（お金）だけは先に頂いておきたいのですが。確か一袋、三十文だったとおもいますよ。｣と言いながら、お金を受け取るためという様子で、左手を差し出しながら近付いていきました。<br />
女は本当に嬉しそうに、｢ありがとうございます。これで家の子供が助かります。どなた様の所も、同じでございましょうが、親というものは、子供の病気で苦しむのを見ているのは、身を切られるより辛いものでございます。本当にありがとうございます。ご面倒をお掛けしますが、どうぞよろしくお願いします。｣と何度も、何度も頭を下げながら、巾着からお金を取り出し、数え始めました。その隙を見て佐助さんは、さっと女に近寄ると、右手に隠し持っていた棍棒で、思い切り狐の頭に殴りつけました。ゴンという鈍い音、ギャーツという悲鳴に続いて、バサッと倒れる音。下を見るとそこには、女が頭から血を流しながら、血まみれになって倒れておりました。<br />
姿はまだ女の形をしておりますが、苦しいのか、女のお尻からは既に、尻尾が現れ始めておりました。｢ざま―みろ。人間様を化かそうなどという、身の程知らずの事を考えるから、こんな目に会うんだ。これに懲りて（こりて）、これからは絶対に人を誑かそう（たぶらかそう）というような、大それた考えはおこしなさんな。｣と棄て台詞を残すと、血まみれの女の身体を思いっきり蹴飛ばし、そのまま立ち去って行こうとしました。<br />
所がその時、蹴られたことによって気がついたのか、ぐったりとして、横になっていた女が起き上がりました。恨めしそうな目を佐助さんに向けると、｢どうしてこんな酷い（ひどい）事をなさるのですか。私らお稲荷狐の眷属（けんぞく）は、お稲荷様のお言いつけに従って、人手が足りない家に、お手伝いに行ったり、お金がなくて困っていらっしゃる人のところへ、（お稲荷様に、上げられていたお賽銭の中から、）お金を持って行ってあげたり、病気で困っている人のところへ、薬草を摘んで持って行ったりと、ずいぶん人様の為に尽くしてまいりましたのに。｣と苦しそうに、肩で息をしながら、言ったかと思うと、パーッと狐の姿に戻り、よろよろと、よろめきながら、逃げ去っていきました。</p>

<p>その６</p>

<p>佐助さんは、「何を言っとるか。お前に騙されて、酷い目にあった奴が、どれほどおったか分からんのに。」とぶつぶつ言いながら、家へ帰ってきましたが、どうも気分がすっきりしません。<br />
考えてみれば、あの狐、人を化かすような狐としては、あまりにも人間に対して無警戒すぎます。こちらの言う事をあまりにも簡単に信じ過ぎます。<br />
「飴を代わりに買っておいてあげる。」と言った時のあの喜びようも、とてもお芝居とは思えない真実味がありました。あの狐の言うとおり、狐が人間を誑かした話などというものは、本当は、村人達の与太話に過ぎなかったかもしれません。又、他のもの、例えば妖怪だとか、あるいは狸の仕業だったかもしれませんし、酔っ払いの戯言（ざれごと）だったかもしれません。それを、きちんと真相を、確かめもしないで、あの狐に酷い仕打ちをしてしまった事が、気が咎めて（とがめて）なりませんでした。<br />
その夜、佐助さんは、気になって眠れませんでした。まんじりともせず、夜を明かした佐助さんは、夜が明けるのを待って、早速、女が差し出したお金を、確かめてみました。しかしそれは木の葉にも、小石にも変わっていませんでした。れっきとしたお金のままでした。お稲荷狐がいっていたのは、本当だったのかもしれないのです。<br />
ますます気になりだした佐助さんは、みけつね様に騙されたと言っている人たちの所へ、本当の所を聞きにいきました。するとどうでしょう。狐に化かされたというお話の殆どが、与太話（でたらめなたわいのない話）に過ぎなさそうだという事が、分かってきました。<br />
小さな嘘が、皆が面白がっているうちに、だんだん話が膨らんで、大げさになっていっていただけのようでした。<br />
佐助さんは後悔しました。と同時に、あれほど強く殴りつけてしまったみけつね様が、その後、どうなったのかも、心配になってきました。又、その時、咳が止まらないといっていた、子狐の病気の事も心配でした。</p>

<p>その７</p>

<p>その夜、女が咳止め飴を受け取りに来るといっていた場所に、念のために行ってみましたが、無論、女がきているはずがありません。<br />
佐助さんは恐ろしいのを我慢して、お稲荷様の祠（ほこら）の下にあると噂されている、みけつね様の洞穴へと向かいました。お宮様の境内は、昼間でも薄暗い所ですから、夜は一層暗く、ほんの少し先でさえも見えないくらいです。その中を飛び交う蝙蝠（こうもり）の羽音、闇の中を走る、夜行性動物の光る目、時々森を震わす、鳥か動物かの「ギャー。」という不気味な鳴き声、がさがさと何かが草むらを駆け抜けていく音、それらはまるで妖怪の森に紛れ込んでしまったかのような恐ろしさです。<br />
昨日の狐が、顎まで引き裂けているような大きな口を開けて、｢昨日の仇。たたりじゃー｣と言って、今にも飛び掛ってきそうな気がいたします。佐助さんは、怖くなって、直ぐにでも、逃げ帰りたくなりました。<br />
その時でした。佐助さんの耳に、｢我が使い“みけつね”に、とんでもない仕打ちをなしたのは、汝か。汝のなした罪は、汝がこれを確かめ、償うべし（つぐなうべし）｣と言う陰々（いんいん）たる声が森の奥から、響いてまいりました。<br />
佐助さんは震え上がりました。このまま逃げ帰ったら、この後、お稲荷様から、どんな神罰を受けるか分からないと思うと、帰るわけにもまいらなくなりました。<br />
やむなく、佐助さんは、怖さに震えながらも、森を突っ切り、境内の一番奥にある、お稲荷様の祀って（まつって）ある、祠の所までやって参りました。<br />
祠の前はシーンと静まり返っておりました。その静けさゆえに、今にも妖怪に化けた、狐の大きな口が、噛み付いてきそうな無気味さです。祠の前に座り込んだ佐助さんは、一生懸命お稲荷様に謝りました。みけつね様にもお許しを、乞いました。<br />
｢どうか私の浅はかな行いをお許し下さい。それによってご迷惑をお掛けしました、みけつね様にも、私の罪をお許しくださるよう、御取り成し下さい｣｢みけつね様、知らない事とはいえ、昨日はとんでもない事をしてしまい、申し訳ありませんでした。代わりにどんな事でもさせていただきますから、どうか今回のことはお許しください｣と。しかしお稲荷様の祠からは、何の返事もありませんでした。祠の前は、ただただ、恐ろしいほどの静寂が支配しているだけでした。佐助さんは長い間一心に、お願いし続けました。</p>

<p>その８</p>

<p>すると祠の下から、微かな音が聞こえてくるのに気付きました。それは洞穴の中に、口籠っているような（くごもる：言葉が口の中にこもって、もごもごしてはっきりしない状態）、微かな音でした。しかしよく聞いていますと、苦しそうな、咳くような、鳴くような音です。<br />
｢やはりみけつね様の言っていらっしゃった事は本当だったのだ。病気の子供を思う一心で、危険を冒してまで、飴を求めにやってこられたものを、あんなだまし討ちのような方法で、酷い目に遭わせてしまって。みけつね様は、その後どうなさっていらっしゃるだろう。｣と思うと、もうじっとしておれません。佐助さんは、恐ろしいのも忘れ、洞穴の中を覗いてみました。洞穴は子供の頭がやっと通るくらいの広さしかありませんでした。中は深く、真っ暗で、殆ど何も見えません。しかしじっと目を凝らしてみていると、奥の方に、何か白い塊のような者があり、その傍で、小さな物が、動いているような気配があります。<br />
先ほど聞いた音はそれから出ているようでした。甘えたような、途方にくれたような、弱々しい鳴き声に混じって、時々咳き込むような音がしてまいります。<br />
｢みけつね様、ごめんなさい。貴方様がおっしゃっていた通り、私が間違っておりました。お詫びに、何でもさせていただきますから、何なりとお言いつけ下さい。なおあなた様がおっしゃっていらっしゃった、痰きり笹飴はここに置いておきます。どうかお受け取り下さい。｣と言いながら、笹飴を洞穴の入り口に置きましたが、洞穴の中からは、あの弱々しい、鳴き声が微かに聞こえてくる以外に、何の音もしません。しばらく待っても、何の応答も返ってきません。<br />
｢あー、まだ怒っていらっしゃるから、お返事を下さらないのだなー。｣と思った佐助さんは、<br />
｢お返事がないようでございますから、本日はこれで失礼させていただきます。又後日、日を改めて、来させていただきますので、その時は、よろしくお願いします。本日は、お騒がせして本当にすみませんでした。｣と丁寧にご挨拶をして帰って行きました。</p>

<p>その９</p>

<p>翌朝、明るくなるのを待ちかねたように、佐助さんは、あのお稲荷様の祠の所にやってきました。しかし洞穴の入り口には、昨日置いておいた、痰きり笹飴がそのまま置かれており、誰かが手をつけたようすもありません。子供の泣き声も咳も、昨日より心もち、弱々しくなっているようです。<br />
｢あれほど子供のためにと欲しがっていた飴が、子供が今でもあんなに咳きこんでいるのに、そのまま抛（なげう）ってあるのはおかしい。｣と思った佐助さんは、｢もしかしたら。｣と思いましたが、念のためにと、小枝を拾ってきて、穴の中をつついて見ました。<br />
しかし小枝の先に、何かが当たるような、手ごたえはあるのですが、何の応答もありませんでした。<br />
｢これは、とんでもない事をしでかしてしまったに違いない。｣と覚った佐助さんは、祠の下に、頭を突っ込むと、一心に、洞穴の周りの土を掻きとり，穴の口を広げていきました。</p>

<p>次号に続く</p>]]>

</content>
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<title>No.113　お稲荷狐、みけつね様物語その１</title>
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<modified>2010-06-15T13:35:17Z</modified>
<issued>2010-05-24T11:04:05Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2010://2.525</id>
<created>2010-05-24T11:04:05Z</created>
<summary type="text/plain">No.113　お稲荷狐、みけつね様物語その１ 少し理屈っぽいお話が続きましたから...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>No.113　お稲荷狐、みけつね様物語その１</p>

<p>少し理屈っぽいお話が続きましたから、今回はそういう話を離れて、私の故郷に伝わるお話をお送りしようと思います。</p>

<p>始めに<br />
もう狐が化かすなんてことを信じる人も、今ではいなくなってしまいましたが、まだほんの七，八十年前、お祖母ちゃんが、子供だった頃までは、山や河や洞窟には、神々がおわし、古い木々には神々が宿り、沼には河童が住み、暗闇には妖怪が潜み、幽霊がでると信じられていた時代だったと言います。従って、狐のお嫁入りだとか、狐火、狐つき、お稲荷さんのお使い狐、などなどなどといった狐に纏わる（まつわる）奇妙なお話も、ごく普通の日常の出来事のように、人の口に上っていたそうです。狐に誑かされた（たぶらかされた）人のお話なども、本当に身近に起こったお話のように、みんなが噂の種にしていたものだったといいます。お祖母ちゃんがしてくれたこのお話も、そんな狐に纏わるお話の一つですが、お祖母ちゃんが、そのさらにお祖母ちゃんから聞いた話によりますと、このお話に出てくる人の子孫といわれている人が、お祖母ちゃんのお祖母ちゃんが子供だった時代には、まだその村に、本当に住んで居られたそうです。<br />
それではお祖母ちゃんから聞いた話を、お話しいたしましょう。</p>

<p>その１</p>

<p>昔は、この辺りも、まだ大変な田舎でした。人もあまり住んでいなくて、家もあちらこちらにポツリポツリと疎らにあった程度でした。田や畑も、住処の周辺や、村の真ん中辺りには固まってありましたが、他は湿地や、沼、葦原、雑木林、竹林、笹竹や雑草の生い茂る丘などといった、人手の入っていない、荒地が殆どでした。道だって、今のように立派なものではありませんでした。長い間、人が通った事によって、踏み固められた一筋の軌跡、それが道でした。従って、一人がやっと歩ける程度の、広さしかなく、その上、曲がりくねっておりました。この道が、雑木林や、背丈ほどもある葦や雑草の生い茂る荒地の中を通っているわけですから、そういった中に入ると、昼間でも、方向感覚を失い、迷ってしまいそうです。まして、夜になりますと、その頃は電灯などなかった時代でしたから、辺り一面、真っ暗で、道の在り処も、定かでありません。従って通い慣れている人でさえも、その日の気候条件などによっては、迷ってしまう事も、少なからずあったといいます。特にお酒を飲んで、ほろ酔い機嫌で帰ってくる夜などには、そういうことがよくあったと聞いております。</p>

<p>その２</p>

<p>その頃の、村のお宮さんの（鎮守の）森は、今の三倍以上もの大きさがあり、深い森の中は、聳え立つ大木の梢が空を覆い、昼でも薄暗い境内にある大小の洞穴には、狐や狸、野うさぎ、蝙蝠（こうもり）、大きな木々の梢には、リス、小鳥などといった、さまざまな生き物が住んでおりました。<br />
その境内の一角、一番深い所に、小さな祠（ほこら）があり、そこに脇宮様として、お稲荷様が祀ってありました。そしてそのお稲荷様の祠の下には、昔から大きな洞穴（ほらあな）があり、そこには、一匹の雌の狐が住んでいると噂されておりました。村の人たちは、この狐の事を、お稲荷様のお使いとして、みけつね様といって崇めておりました。<br />
所が、このみけつね様、とても悪戯（いたずら）好きとかで、時々里に出てきては、村人を誑かす（たぶらかす）ので困るという噂もたっておりました。酒に酔っぱらって、ちょっと助平になった男達とか、金に汚い、強欲爺婆、食い意地の張った卑しい人間などは、特に良い鴨と狙われると言われておりました。<br />
「月夜の晩などに、きれいな女に誘われて、ついて行ったところ、大きなお屋敷に泊めてもらったと思っていたら、粗末な物置で、藁の中に寝かされていたとか、女に勧められるままに、一緒にお風呂に入っていると思ったら、壊れた案山子（かかし）と戯れながら、肥溜めに浸かって（つかって）いた。饅頭と思って食べさせられたのは、馬糞だった。上等のお酒と思って飲まされたのは、溜まり水で、朝になって気が付いてみたら、ボウフラがうようよしていた。女と一夜の快楽と共にしていると思っていたら、下半身むき出しにして丸太棒にしがみ付いていた。かけに勝って、大金を手にして帰ってきたと思ったら、巾着の中身は木の葉に変わっていた。お金を落としながら行くお嫁さんの後を、拾って歩いているうちに、巾着に穴が開いてしまって、逆にお金を全部落としてしまった。そして巾着（財布）の底には、小石や、木の葉が僅かに残っていただけだった。」などなどのいろいろなお話が、みけつね様に化かされた話として語られておりました。<br />
こういったお話は、化かされている所を、助けた人のお話として伝えられたものもありますが、化かされた人が、自分の経験談として、面白おかしくお話しされたものもあり、実際どれほど信憑性（しんびょうせい）があるか、疑わしい所もあります。本当は、花街で遊んでいて、朝帰りになってしまったのを、おっかー(奥さん)に言い訳をするために使われたり、博打で一文無しにされてしまったのを、言い訳をするのに使われたり、お酒を飲みすぎて、道に迷ってしまったのを、近所への体裁を整えるために使われたり、借金の返済を遅らせて貰う為につかわれたり、或いはお酒を飲んだ後の一過性の錯乱状態だったにすぎなかったものなど、ずいぶん濡れ衣を着せられている部分もあったようです。<br />
村人の多くも、そういったことも含めて、実際は殆どが与太話（よたばなし：たわいないばかばなし）と、知っていて、楽しんでいるところもありました。<br />
特に化かされたと、いっている人の多くが、ほら吹きとか、助平、大酒飲み、強欲婆、博打好きの（ばくちずきの）怠け者等と言った、どちらかというと、村の中でも、多少鼻摘み（はなつまみ）気味の人が多かったものですから、余計に面白がって、尾ひれをつけて、噂の種にし、皆楽しんでおりました。<br />
所が、中には、それらの話を、まともに受ける人もいました。そういった人達の中には、｢お稲荷様のお使い狐のくせに、人間に悪戯をするなんて許せない。」と憤慨し、「いくら神様のお使いといっても、一度、ひどい目に会わせてやらねばなるまい。」と、正義感から、みけつね様を懲らしめてやろうとする人や、「例え神様のお使いでも、境内から出てきているときは、所詮ただの狐じゃないか。「たたり」そんなもん怖いものか。俺がそのいたずら狐をやっつけてやる。」と、村の衆に、良い格好をしたいがために、力んでいる人などが出てまいりました。</p>

<p>その３</p>

<p>そんな若者の一人に佐助さんという人がいました。この人はとても信心深く、優しくて、思いやりのある、とてもいい人なのですが、正直者で、正義感が強く、一本気過ぎるのが玉に瑕（きず）、冗談とか、洒落が全く、通じない人でした。まだ２０歳そこそこ、血気さかんな佐助さんは、人が狐に化かされたなどという話を聞きますと、血が騒ぎます。｢狐が人様を騙すなんて、とんでもない話だ。そんな事を許して置いたら、人間様が舐められてしまって、後々のためにならない。二度とそういうことをしないように、一遍、ひどく懲らしめてやらねばなるまい。もし俺がその場に〔狐が化ける場に）居合わせたら、絶対酷い目にあわせてやる。｣と意気まいておりました。<br />
佐助さんの母親は、そんな佐助さんに対し、「狐を殺すと七代まで祟るといわれているくらいだから、そんな事は絶対にやめとくれ。」「まして、みけつね様は、お稲荷様のお使い狐なのだから、理由なしに、そんな悪いことをされるはずがないのだから、それを、きちんと確かめもせず、痛めつけるなどというのは、とんでもない。」と説得しますが聞き入れません。<br />
村の衆も、「そんな事をすると、みけつね様のたたりがあるよ。」とか、「騙した（だました）のは、必ずしもみけつね様とは限らないじゃないか。ほかの“物の怪（もののけ）”かもしれないし、騙されたといっている人の与太話かもしれないと思うよ。それだけは絶対に止めたほうがいい」などといって止めたのですが、全く聞きいれません。むしろそう言われれば、言われるほど、意固地になってしまって、聞く耳持たず、暇をみつけては、化け狐という噂のある、みけつね様を探し回っておりました。</p>

<p>その４</p>

<p>それはある夏も盛りの頃のことでした。佐助さんはその日も、夜になるのを待ちかねたように、晩御飯を食べると直ぐに、化け狐探しにとでかけました。満月に近い美しい月からの光が、辺り一面を、包み込んでいました。もうかなり育ってきた稲は、月の光を受けて、黄金色に波打ち、月の光は、その黄金の波の彼方、遠くの家々までも、くっきりと、照らし出しておりました。佐助さんは、いつものように、油断なく、辺りを見回しながら畦道（あぜみち）を歩いておりました。その時でした。遠くの小屋陰へ、なにやら、犬のような黒い陰が、駆け込んだのに気付きました。｢すわ。（※）｣と思った佐助さんは、持っていた棒を腰に挿し直すと、何食わぬ顔をして、その小屋に近付いていきました。するとその小屋の陰から、一人の女性が現れ、佐助さんの方に歩いてまいります。月明かりの下で見る女性は年の頃は二十歳台半ば、とてもすらりとして、美しく、気品があります。着ている衣服も、上物で、そこらあたりにいる、お百姓さんのお嫁さんとは、とても思えない物を身に着けております。｢絶対に（狐に）違いない｣と確信した佐助さんでしたが、念のためにと、女の陰を見てみますと、お尻の辺りには、くっきりと尻尾が映っておりました。勇み立った佐助さんは、そっと棒の先を握り締めながら、何食わぬ顔をして、その女に、近付いていきました。するとその時、女が、一間半くらい〔約３メートル〕離れた所に立ち止まって、声を掛けてまいりました。</p>

<p>次回に続く</p>

<p>（※）「すわ」：人が驚いた時などに発する言葉である（「すわ一大事」など）。「すは」とも書き、「それ（＝す）は」の意味であるとされる。（出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』）<br />
</p>]]>

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<title>No.112　熊さん八さんの炉辺談議と美術評論</title>
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<modified>2010-03-29T03:08:26Z</modified>
<issued>2010-03-29T02:54:51Z</issued>
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<summary type="text/plain">２００４年のセントラルリーグ優勝チームは中日ドラゴンズでしたが｛ちょっと古い話で...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>２００４年のセントラルリーグ優勝チームは中日ドラゴンズでしたが｛ちょっと古い話で恐縮です｝、年初の予想でドラゴンズの優勝を予想した野球評論家または解説者は殆ど零だったことがありました。<br />
大相撲の場所前優勝の予想の場合でも、大相撲の解説者達の予想は、ほとんどが前場所の優勝者とか横綱、大関に絞られ、われわれ素人の予想とあまり変わりません。<br />
野球や大相撲の予想が外れるくらいなら、ご愛嬌で済ませる事も出来ますが、経済評論や、政治評論のように、われわれの実生活に直結するような非常に大切な事柄に対する評論家たちとの論評が、思いつきやひらめき、世論の強い影響を受けた大衆に迎合した意見によって形作られたものにすぎなかった場合は、これは大問題です。</p>

<p>こういった意見が政策に反映され、それによって右往左往させられねばならない私たち庶民は、たまったものでありません。<br />
実際、バブル後の財政経済政策や金融政策についての評論家達や、テレビコメンテーター、新聞、そして政治家達の論評はひどいものでした。百家争鳴、まとまりも方向性もなく、場当たり的に述べられたものがとても多かったように思います。こういった、さしたる理論的、ないしは経験的裏付けもないままに、思いつき的に述べられた、熊さん八さんによる炉辺談議とあまり変わりない程度の論評が、政治家たちをミスリードし、日本経済の立ち直りにどれほど悪影響を与えたか計り知れないものがあったのではないでしょうか。<br />
バブル崩壊後今なお、不況から脱出する事が出来ず〈間にリーマンショックがあったとはいえ〉苦しんでいなければならない大きな原因の一つになっているように思われてなりません。</p>

<p>それでは美術評論の世界はどうでしょう。皆さん展覧会の図録に載せられている評論家たちの推薦文、新聞紙上の展覧会の批評、絵画の解説文などを呼んでどう思われますか。<br />
確かな知識に裏打ちされ、難解な、しかし美しい言葉で飾られたその評論は、一読したときにはなるほどと感心させられます。また大変勉強にもなります。<br />
一読するだけでは、美術に関する知識の量が、評論家達は、素人である私どもとは比較にならないほど豊富であると思わせるものを持っています。<br />
従って熊さん八さんによるスポーツ談義や、世情についての炉辺談議のように、庶民が美術評論の世界に、気楽に参加するというわけには参りません。</p>

<p>私達のような素人の観方は、どちらかというと、好き嫌いだとか綺麗、綺麗でない、可愛い。可愛くない、心打たれる、感動させてくれる、それほど心に響かないといった風に、直感的かつ感覚的な観方をして批評するくらいです。従って展覧会などに行った場合は、評論家や学芸員達がしてくれている解説を頼りに、鑑賞してくることになりがちです。</p>

<p>ところが一般的にいって、彼らの解説は、無難と言う事と、客観性が必要という視点から、どちらかというと総花的、常識的で、既存の知識に偏りすぎている所があります。<br />
このために、鑑賞者がそれに囚われ過ぎますと、自分の目で観、自分の心で感じる、本当の意味でのその美術品の鑑賞が出来ないという事になりかねません（コンセプチュアルアート等のような、感覚より、頭で観てくる美術は別ですが）。<br />
こういった方の中には、下手をすると、展覧会で、絵画を観ている時間より、解説を読んでいる時間の方が長いのではないかという風に思われる方もお見かけします。</p>

<p>しかしこういった知に偏った、頭でっかちの観方は、展覧会に行ってきた後、その展覧会について振り返ってみた時、肝心の観てきた絵画についての印象は薄く、何のために展覧会まで行って絵を観てきたか分からないという結果になってしまいます。（私も、始めの頃はこんな風な観方で、知識は頭に詰め込みましたが、肝心の、その日に観てきた絵についての印象は家に帰った頃には、もうあまりなかった記憶があります）</p>

<p>でも、そんな観方をされるのでしたら、家で画集を見ているのとあまり変わりありません。<br />
従って展覧会などで絵画を鑑賞する際は、絵画については全く無知、とかその画家について、全く知らないという場合は別として、一般には、展覧会場に行った際は、その場では、あまり解説や評論に捉われない事が大切だと思います。一旦はその絵画についての批評や解説文から離れ、自分の目で見、自分の心で味わい、そして自分の頭で考えて批評し、気に入った作品ないしは気になる作品については、その印象をしっかり心の中に焼き付けでくるという鑑賞の仕方が大切ではないかと思います。<br />
その日、観てきた、絵画やそれを描いた作家についての知識は、家に帰った後、観てきた美術品の印象を思い返し、図録を紐解き（ひもとき）解説文を読みながら、自分の観方、その絵画とのスタンスを確立していくことが大切ではないかと思います。</p>

<p>ところで、印象派展だとか、写実派作家展、エコールド・パリ展、ピカソ展、フジタ展などなどのように歴史的評価の既にある程度定まっている、物故作家達の展覧会図録についている解説や論評は、そのような絵画傾向の特徴やそれが生まれるにいたった、時代的背景などを解説するのが主たる目的です。従ってその論評や解説に必ずしもオリジナリティが必要であるとは思いません。（それでも、そこには、解説を書いた人自身の視点に基づく、新しい見方、オリジナリティ溢れる論評があっても良いのではと思う事もあります）<br />
ところが、オリジナルな視点での論評、解説を必要とされる、現存作家の個展だとか作家たちのグループ展の場合でも、画集に掲載されている解説や批評が無難な物にすぎないばかりか、新聞の文芸欄や、美術誌に掲載されている、評論家達の解説や、論評さえも、その意見のほとんどが、誰かがどこかで言った事の後追いだとか、やみくもな推奨〈提灯記事といった方が良いものがあります〉、丹念な文献渉猟〈しょうりょう：文献を読みあさる事〉に基づく考察などのどれかにあたるのが殆どで、そこにオリジナリティを見出す事は困難です。<br />
そのような傾向は、すでに世間に認められ、画壇である程度の地位を確立していらっしゃる著名な作家の場合は、特に顕著です。<br />
そこには、歴史を振り返り、未来を見据えての新しい視点でのオリジナリティあふれる評論に当たるものを見つけるのは困難です。<br />
印象派を認めたり、ピカソやピカソ以降の現代美術を見出したりしてきた評論家達の論評のような、そういった類の、革新的な視点が欠けているのではないかと思われ残念でなりません。<br />
そうなりますと、彼らの論評も、権威に弱く、従来の観方からなかなか脱却できない、私たちのような、熊さん八さん的な炉端談義と、さして変わり映えないという事になってしまいます。〈そこにあるのは多少の知識量に違いがあるだけです〉<br />
本来は、愚昧な（ぐまい：愚かで道理がわからない）大衆を啓蒙しながら〈けいもう：知らない状態にあるのを、啓発し教え導く事〉、新しい美術のあり方、方向性を指向する作家を見出し、そういった作家と共同して、時代にあった新しい芸術を創造していく努力をす<br />
る事こそが、評論家諸氏に求められている役割であるにもかかわらずです。<br />
淋しい限りだと思いませんか。皆さんどう思われますか。<br />
註：全ての評論家の先生方がそうであると言っているわけではありませんから、もしお気に触る点がございましたら、失礼の段、お許しください。<br />
</p>]]>

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<title>No.111　ある小さな、小さな宝探し　３</title>
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<modified>2010-02-27T11:35:17Z</modified>
<issued>2010-02-24T05:10:39Z</issued>
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<created>2010-02-24T05:10:39Z</created>
<summary type="text/plain">ある小さな、小さな宝探し　３ その９ 「徹三、あんたはどうや。名義入れてほしいか...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>ある小さな、小さな宝探し　３</p>

<p>その９</p>

<p>「徹三、あんたはどうや。名義入れてほしいか、それとも全部、お姉ちゃんの名義にしても良いか」と次郎佐。<br />
「無論こんな家屋敷、少しくらい持っていたって、いまさらどうなるものでもないから、名義なんか入れてもらわなくて良いよ。ただね、お姉ちゃんの名義にしておくと、次の相続の時、純一郎が相続する事になるから、ここは、すっきり珠三郎の名義にしておいてやったほうが良いんじゃないのかなー」と徹三。<br />
「そういわれりゃ－、そうだわなー。俺も、こんな不便な所の、これっぽっちの家屋敷、今更欲しいとは思わんから、お姉ちゃんの世話を頼む事になる、珠三郎の名義にしてやるか。ただ万一、今度みたいな事が起こると、お姉ちゃんが可哀そうやから、お姉ちゃんが生きてるうちは、絶対他には売らないという、一筆入れておいてもらうわ」と次郎佐。<br />
「純一郎の事はどうしたらいいと思う」と徹三。<br />
「そうやなー、そもそも、今度の騒動の原因を作ったのは純一郎なんやから、気の毒やけど、純一郎には、榎木田家と縁を切って、何にも持たんと、ここから出て行ってもらうより仕方がないなー。鷺山（岐阜の一地方名）とかに住んでござる敏子さんの所へでもいってもらやー良いがね」</p>

<p>「お姉ちゃんも、純一郎もそれで文句ないやろ。その替わりお姉ちゃんは、珠三郎に面倒みさせることにするからな」と次郎佐。<br />
「そうか、裸で出すのか。ちょっと可哀そうすぎんか」と布佐乃。<br />
「何言っとるの。そもそもこうなった原因をつくった張本人なんだから、それくらい当たり前。本来ならこんな借金を抱えりゃー、首吊ってもらわにゃー、いかんとこやがね。ありがたいと思ってもらんと」と次郎佐。<br />
「そうだよ、お姉ちゃんは甘すぎたから、こういう事になったんやないか。どうして、もっとピシっと言ってやらんのや」と徹三。<br />
「ごめん。つい可哀そうになってしまって。でもこうなりゃー、仕方がないわなー。でも榎木田家との縁は切れても、お母ちゃんとの親子の縁は切れとらへんのやから、ここから出て行っても、時々は便りくらいはよこしんさいよ。なー純一郎」と布佐乃。でも純一郎はもう物も言いません。ブスッとした顔で立ち上がると、兄弟は無論の事、叔父さん達にも、何の挨拶もせず、無言のまま出ていってしまいました。</p>

<p>その１０</p>

<p>翌朝、純一郎は、人相の悪い土建屋風の男を４人ほど連れて帰ってきました。庭を掃いていた布佐乃がそれに気付いて、「お帰り、何処へ行っとったんや（いっていたのですか）。心配しとったのに、連絡もしてくれんで」と声をかけましたが、純一郎は、母の方を、じろりと無言で睨みつけただけで、そのまま、親方らしい男と一緒に、家の中に入って行ってしまいました。<br />
暫く土建屋の親方らしい男と密談していた純一郎は、やがて話がついたのか、「それじゃそういう事で頼むわ。じゃー、明日から取りかかってくれ。立ち退きは５日後となっているから、明日から３日で終わってくれ」と言うと、純一郎はまた、忙しそうに出掛けていってしまいました。<br />
土建屋風の男が「それじゃ取りかかってくれ。わしが目印を付けたものは皆持ち出してくれて良いから」と外で待っていた人足達に命じますと、彼らは家の中の道具をどんどん運びだし始めました。<br />
驚いた布佐乃が、「ちょっと待ってくりゃーせ。一体全体どういう事やね」と尋ねますと、「これらは皆、お宅の大将に売ってもらったもんだがね。文句があるんなら、大将に聞いてくれや。わしらは、自分の物を持ち出しておるだけだで」と親方らしい男は言います。<br />
「えーっ、それでは、息子が帰ってきたら聞いてみるで、それまで待ってもらえんやろか」と布佐乃が頼みましたが「いやー、そうゆう訳にはいかんわな。日にちがつんどるもんで（つまっておりますから）。明日からは、屋敷内をあっちこっち掘り返させて貰うけど、それも許したってや」<br />
「所でちょっと聞きたいんやけど、この屋敷内に、何でも宝物が埋まっとるとかという話しやけど、本当かね。お前さん、何か、聞いとりゃーせんか（聞いていませんか）」と親方らしい男が聞きます。<br />
『さあー。私がここにお嫁入りしたての頃（お嫁入りしてきたばかりのころ）、小作からそんなような噂、聞いた事あるにはあるけど。でもその時、主人に確かめたところでは、「そんなのデマだろ」と言って笑い飛ばされてしまったから、やはりそんなのは、根も葉もないデマじゃないやろか』と布佐乃が答えます。すると「そういった噂があったんはやっぱほんとなんやな。実は、あんたの所の大将から、それを探してくれと今度頼まれたんやわ。でもわしには半信半疑で。それを聞きゃー、勇気百倍、明日からの仕事に精が出ますがな」親方はとても嬉しそうです。<br />
「すまんけど、もうちょっと詳しく教えてもらえんやろか。何も知らんうちに（知らない間に）、家ん中の物をどんどん持ち出されていくのや、家ん中を、あっちこっち掘り返されならんのを（掘り返されなければならないのを）、ただ黙って見とれと言われましても、そんな事、腹に入らんで（合点がいかないから）」　<br />
「お頼みします。せめて、わけ（事情）だけでも教えもらえんやろか」と布佐乃が頼みます。<br />
気の毒に思ったのか親方は、「そういう話は、あんたんとこの大将から聞いてもらうのが一番良いんやけど。だけど、別に隠しといてくれと頼まれとる訳でもないんやから、まあ良いか。お話しますと、実は、この屋敷に隠されているとかという、宝物を探す事を頼まれとるんですがね」といいます。<br />
「でも、さっきも言ったように、そんなのデマやと思うけど」と布佐乃が言いますと、<br />
「最初にあんたんとこの大将から、この話を聞いた時は、わしも、そんなの嘘や、問題にならんと思ったがなん。だけど、この近辺を聞いて歩いたら、この屋敷内に宝物が埋っとると言う噂は、確かやったんや。年くっとる連中は皆、口を揃えて、そう言うとったんやから（そう言っていたのだから）。<br />
その上、あんたんとこの大将が連れて来た占いの先生も、この屋敷ん中に、宝物が埋まっとるのは間違いないと言ったんやから」<br />
「でもあの子にはもう、何にも残されとらんことになっとるんやけど。ここ掘り返すのにかかるお金の事なんかの事、何と言っとりました？」と布佐乃が心配そうな顔をして聞きます。<br />
すると親方は、<br />
「お母さんは、そんなこと心配してもらわんでもええで（心配してもらわなくてもいいから）。さっきから（さきほどから）運び出しとる、お宅のあの道具類で、当座の費用は足りとりますで（充分ですから）。後からの掛かりについても（費用についても）、うまいことお宝が出てきたら、山分けするという事で、話がついとりますで。<br />
「それにしても、わしも因果な男やなー」とつくづく思っとりますわ。こう言いう話を聞くと、ロマンが胸一杯に膨らんでまって、損得勘定が出来ようになってしまうんやから」と言うと、親方は忙しそうに離れて行ってしまいました。</p>

<p>その１１</p>

<p>翌日から、３日間、人足達は、家の中は云うに及ばず、家の外も、隅から隅まで余すところなく探し、更にありそうな所は、土中深くまで掘り返していきました。<br />
しかし宝ものは何処からも、欠片（かけら）も出てきませんでした。３日後、親方はがっかりした顔をして、ブツブツ言いながら去っていきました。</p>

<p>家には再び以前の静寂が戻ってまいりました。しかし純一郎がその後、母親に顔を見せることはありませんでした。家に帰って、母親からいろいろ聞かれるのが嫌だったのでしょうか。それとも家を追い出されたのを怨んで、不貞腐れていたのでしょうか。はたまたその両方だったのでしょうか。</p>

<p>なお、純一郎は、家を出て一年もたたないうちに、日ごろの贅沢が祟ったのか、亡くなってしまいました。従って、彼が再びこの家の土を踏むこともなければ、母親に会う事もありませんでした。<br />
　<br />
その１２</p>

<p>この家に入った三男珠三郎は、大変な苦労を背負い込んでしまいました。<br />
古い家というのは、絶えず何処か修理していなくてはならない上に、お付き合いが大変でした。さすがお姉ちゃん達は、以前のようなむちゃくちゃは言ってこなくなりましたが、近所の人達は以前の大地主だった時と、同じようなお付き合いを求めてきました。田地が殆どなくなってしまっているにかかわらず、お祭りの時だとか、お宮やお寺の修理の時などに、一番多い寄付金を出させられるのが常でした。お寺もまた、門徒総代として、何かとお金が要りようでした。更に、寄り合いがある時は、何時もいくばくかのお金を包まねばなりません。珠三郎は、そんなの全部、断りたかったのですが、布佐乃の見栄がそれを許してくれませんでした。<br />
この為、学校の先生程度の給料では、本当に食べていくのが一杯、一杯でした。特に戦後の混乱期は、堪え（こたえ）ました。給料はインフレに追い付かず、配給の食べ物だけでは生きていけないという状態でした。そうかといって仕事柄、大っぴらに闇物資を買い歩く事も出来ず、妻、さかえは子供たちの空腹を満たすのに、いつも悩まされておりました。職業柄、口うるさい近所隣りの人々の目を盗んで、闇での食べ物を買い歩くのはさかえの役割でしたが、いつも大変でした。また学校から貰ってくる給料だけでは、食べ物を買うには足りない時代でした。その為、さかえがお嫁入りしたとき持ってきた、衣類のほとんどが、食べ物となって、子供たちの腹の中に消えていきました。</p>

<p>その１３</p>

<p>昭和２５年（１９５０）に始まった朝鮮戦争による軍需特需によって復興の軌道にのった日本経済は、その後、間に多少の調整期は挟みながらも、神武景気、岩戸景気へと言う息の長い好景気につらなり、皆の生活にもやっと余裕と落ち着きが取り戻されてまいりました。<br />
その頃、珠三郎は、徴兵による一時中断こそありましたが、旧制中学校の教諭から、新制高校の教諭へと続く長い教諭生活の、定年退職を迎えました。母親の最後を看取り、二人の子供達も自立していった今では、妻、さかえと二人暮らしです。収入は、悠々自適とはいかないまでも、それでも年金のおかげで、趣味の生活を楽しむことが出来るようになりました。<br />
学究肌の彼は、古文書に興味を持ち、現役の教諭の時から、同僚の先生方とその地方に遺されている、古文書の研究会を作っておりました。<br />
昭和５８年の３月の事でした。その日は、その研究会の集会の日でした。彼の家には、古文書だけでなく、古いものに興味を持ついつもの人間が４人ほどあつまって、話しに興じておりました。<br />
その研究会のメンバーの中に、考古学に興味を持っている男がいました。<br />
その日、その男が、大変に興奮した顔でトイレから戻ってくると、座るのももどかしそうに、座に就くとすぐ、<br />
「榎木田さん、あの便所の手洗いの所においてある、小さな盥（たらい）くらいの手水鉢（ちょうずばち）、あれって何時頃からあそこに埋まっていました？」と聞きます。<br />
「さー、そんなもの埋まっていましたっけ？水受けの事？ああ、あれなら私の子供の時代からあそこにおいてありましたよ。でもあまり気にも留めていませんでしたが、それが何か」<br />
「そう、やはり気付いていなかったのですね。私ねー、専門でないから断定はできませんが、あれって、もしかしたら、元の染付じゃないかと思うんですけど」<br />
「エーッ、こんな、ど田舎に、そんなものあるはずがないじゃん。あんたが見間違えたんと違います？」と、他のメンバーが言います。<br />
「そうかもしれん。でもねー、あの藍は、今出来の染付の色とは違う気がする。」</p>

<p>註〉染付に使う藍色の顔料はコバルトを主成分とする顔料で、天然の物と、明治初め頃より使われ始めた人工的に作られたものがあります。<br />
元、明時代の染付に使われる顔料は呉須とよばれ、その発色は美しく、宝石のよりも高価であったといわれております。</p>

<p>「絵柄も、今はほとんどが、泥の中に埋まっていて、よく見られなかったけれど、廻りの土を、ちょとだけ掻き落としたところでは、どうも４爪の竜が描かれているようです」「４爪の竜というのは、昔の中国では、皇帝の持ち物と決まっていましたから、もしかしたらあれはただものではないかもしれません。出来たら掘り出して見せてもらえると嬉しいのですが」とその男は言います。<br />
すると研究会に来ていた他の面々も、「そうかね、そんな珍しいものかも知れないというのなら、私らも、後学の為、一度拝ませてもらいたいものです。それでは、今日の会はそれ掘り出して見せてもらうという事にしましょうよ」と言いだしました。</p>

<p>その１４</p>

<p>掘り出されて盥（たらい）のような形をした容器には、国枝さん（さいしょに只者でないと言いだした人）の予想したとおり、４つの爪を持った竜が描かれておりました。しかし国枝さんも、本を読んでの知識こそありますが、中国陶器染付の現物など見たことがありません。でも彼の説によりますと、中国元代の染付ではないかとのことです。むろん他のメンバーは、中国陶器の事については、全く無知です。従って、掘り出されてきたものを見ても、夫々「あれや、これや」というだけで、何の結論も出ませんでした。<br />
結局「こういったものに詳しい人に見てもらわなければ分からない」ということでその日は、終わってしまいました。<br />
その後、念の為に、大垣の骨董屋さんに持って行って見てもらいましたが、そこでも首を傾げられただけで、分からずじまいで終わってしまいました。<br />
しかし、「もしあれが、元代の染付であった場合、正当な評価と、正当な扱いを受けさせてやらなかったら、あまりにも可哀相ではないか」という国枝氏の強い主張で、後日、伝手（つて）を頼って東京博物館に勤めていらっしゃった事のある、中国陶器を専門とする先生に見てもらいました。<br />
すると、国枝氏の推察した通り、やはり元代の染付である事が分かりました。その価格は聞いてびっくり、時価にすると、数千万円、下手をすると一億近い値が付く可能性があるものだと言われたのです。〈いざ売りに出すと本当にそんな値がついたかどうか分かりませんが〉。</p>

<p>という事は、あの「この屋敷内に埋められている」と言い伝えられていた宝物が、実際にこの屋敷内に埋まっていたのでした。<br />
純一郎さんがあれほど大掛かりに掘り返したあげく見つからなかったお宝が、こんなひょんな形で、思わぬところから見つかったというのは、なんとも皮肉な話です。<br />
それにしても宝ものを、誰もが見える所に、こんな形で放り出しておくなんて、榎木田家のご先祖様は一体何を考えていたのでしょうね。<br />
なんだかユーモアに富んだ、悪戯っ子みたいな人だったような気がいたします。</p>

<p>見つかってしまったのを、皮肉な顔をして、苦笑しながら眺めているご先祖様の姿が、なんだか目に浮かぶようです。</p>

<p>終わり</p>]]>

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<title>No.110　ある小さな、小さな宝探し　２</title>
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<modified>2010-02-06T10:01:41Z</modified>
<issued>2010-02-05T02:49:45Z</issued>
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<created>2010-02-05T02:49:45Z</created>
<summary type="text/plain">その６ 「ああしんどかった。それにしても、こんな馬鹿なことってある？あんなこと言...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>その６</p>

<p>「ああしんどかった。それにしても、こんな馬鹿なことってある？あんなこと言われたって、私らがお金出すのなんか無理に決まっているがね」<br />
「何で兄ちゃんの尻拭いなんか、させられないかんのや。あんたらそう思わん」別室に入るや否や、堪えて（こらえて）きた鬱憤（うっぷん）を、一挙に吐き出すかのように、長女の妙子がぼやきます。<br />
「そうやわ、お母ちゃんにはいろいろやってもらったけど、兄ちゃんになんて、子供の時から、なんにもしてもらった事あらへんがね。実家が破産した事なんか、どうせいつかは、うちの人たちにも知られるに決まっているんやから、こうなったらあんな家、もうとられるんなら、とられたで、それでも良いわ」「お母ちゃんも、なんで、あんな、こうるさい叔父さん達を、呼んだんやろ」「お母ちゃん、あの人達が何かしてくれるとでも、思っとるんやろか」と三女の芙美。<br />
「でもねー、この場合、おかあちゃんとしては、あの人たちを頼るより仕方がなかったんじゃないの。私らなんか、あてにならないに決まっているから」「私はねー、たいした事、出来そうもないから、あの人たちが、この家を取り戻す為に力を貸してくださるというのなら、何を言われても我慢する心算」と次女の由江。さらに続けて、「だって、あの年になってお母ちゃんが、また新しい所へ行って、あんな敏子みたいな女と生活しなければならないという事になったら、それこそ可哀そうじゃない。だから私は、お母ちゃんが、あの家に住みたいというとる以上、住む事が出来るように、出来るだけの事をさせてもらうつもり」と控えめにいいます。<br />
「そんなら、あんたがお母ちゃんに仕送りするというの」と長女の妙子。<br />
「うちにはまだ、舅も姑もいるから、そこまでは無理かもしれんけど・・・」と由江。<br />
それから思いついたように珠三郎の方を見て「珠三郎。いっそあんたがこの家に入って、お母ちゃんの面倒をみることにしたらどうや。お母ちゃん、末っ子のあんたの事を一番可愛がっていたし、今では、あんたの事一番頼りにしているみたいやから」と珠三郎の顔を見ながら言います｡<br />
「そうやわ、お父ちゃんが、あれだけ絶対に許さんと言っていた大学へ、あんたが行く事が出来たのは、お母ちゃんのおかげなんやから、あんたが見るべきよ」と妙子。<br />
「私もそう思うなー。あんたが大学へ行きたいと言いだした時、お母ちゃんが、お父さんを説得するのに、どれだけ苦労したか知っている？あの頑固者のお父ちゃんを説得するのは大変だったんだから。だからその恩を忘れたら、あんた、罰が当たるわよ。あんた、お母ちゃんの面倒見ると同時に、お兄ちゃんに替わってあそこに住んで、私らの在所になってよ。（註：当時この地方では、在所と言うのは実家をさしておりました）<br />
だったら私らも、今回の件に関しては、できるだけのことはさせてもらうから」と芙美も続けます。<br />
「分かったよ。でもこういう問題は女房とも相談しないとねー」と珠三郎はちょっと困った顔をしていいます。<br />
彼にとっては、母親の面倒を見るのは構わないのですが、それと一緒に、姉たちの婚家先に対して、今までと同じように、在所としていろいろさせられそうなのが気がかりでした。これまで、姉達は何かにつけて、あれ持ってこい、これ遣って欲しいと、母親に頼みに来ていた事をよく知っていましたから。そんな事を珠三郎が考えているとは思ってもいない芙美は、「大丈夫よ。さかえ（珠三郎の妻）さんは、大人しくて、気が良い人だから。あんたがこうと言えば、黙って付いてきてくれるにきまっているから」と一方的に決めつけます。<br />
「そうそう、それが良いわ。珠三郎、あんた、お兄ちゃんに替わって、在所になってよ。そうしてくれると助かるんだけど」と次女の由江も頼みます。「そうは言われてもねー。お母ちゃんの面倒をみるというのに文句はないけど、在所役と言うのはなー。俺のとこ、安月給だから、姉ちゃん達みたいな派手な所とは、とても対等に付き合っていけそうもないから。それに仕事の関係で、そう簡単にお勤めを休むわけにもいかないしなー。これからはもう、小作も使用人も、皆いなくなるんだから、今までみたいに、姉ちゃん達のとこへ、気軽に手伝いを出すわけにもいかんようになったし」となお渋る珠三郎に対して妙子は、「珠三郎。あんた何いつまでもごちゃごちゃ言っているのや。あんたも男でしょ。男だったらこんな時はしゃんとしなさい。私らがこんなに頼んでいるのに、それをきけないといいうの。こんなこと頼めるの、あんたしかいないの、分かっているでしょ」と子供時代と同じ口調で命令します。</p>

<p>その７</p>

<p>珠三郎は６人兄弟の末っ子で、子供時代から、この年の違った姉達には弱いのです。子供時代から彼女達に、命令口調で言われると、絶対に「ノー」と言えませんでした。<br />
それを知っていて彼女達は、今度もその調子で、強引に自分達の言う事を押し付けようとします。<br />
しかし、さすがに今度の件では、珠三郎もそう簡単には「イエス」とは言えません。妻の当惑した顔が目に見えます。また在所になった時のこれからの物入りも心配です。<br />
それを見透かしたかのように、次女由江は「珠ちゃん、私達とのお付き合いの事は心配しなくても良いわよ。今までみたいに無理は言わないから。もしどうしても頼まなければならない時は、ちゃんと掛かる費用は、内緒で回す事にするから」「ねえ、お姉ちゃんも、芙美ちゃんもそれでいいでしょ」と言って皆の同意を求めます。<br />
「そんなこと心配しているの。相変わらずちっちゃな（ちいさな）男だねー。そんな事、今更念を押してもらわなくても、今までとは違う事くらい分かっているわよ。無論、頼む時はちゃんとするに決まってるがね」と長女妙子。<br />
「珠ちゃん。大丈夫よ。貴方が困るような事は、絶対にしないから。だからそうしてよ。お願い。そうすればお母ちゃんも喜ぶし、親孝行のあんたにまかせられるのなら、私らも安心だし」と三女芙美も頼みます。</p>

<p>「うーん。でもなー、勝手にここで決めても、お兄ちゃんの意向もあるし。もしここで俺が勝手に決めると、後が怖いからなー。お兄ちゃんあれでも、自分がここの家長だという意識は強いからなー」<br />
「もしお兄ちゃんを追い出して、この家に俺が入ったら、後で怨まれるからなー」となおもぐずる珠三郎。<br />
「何言っているの。もし買い戻してもらったとしても、この家はもうお兄ちゃんとは関係ないのよ。それにこんな事になった原因を作ったお兄ちゃんに、今更、何を言いう権利があるというの。叔父さん達だってその点はきちんとしてくれるに決まっているがね」<br />
その後、しばらく姉妹だけで話し合ってていた後、５人は座敷に戻っていきました。</p>

<p>その８</p>

<p>座敷に戻ってきた兄弟姉妹を代表して、長女の妙子が切りだします。<br />
「お母ちゃんの事は、末弟の珠三郎が面倒を見る事に決まりました。出来たら叔父ちゃん達の助けをお借りして、この家を買い戻し、お母ちゃんには、この家で、珠三郎と一緒に住んでもらおうと思います。ただ叔父さん達が先ほど言われたとおり、私達もまだ舅を抱えている身ですから、たいした事は出来ません。だから主として叔父さん達の助けを借りるという事になるのですが、それでは駄目でしょうか。お母ちゃんの為に、助けて頂けるとありがたいのですが。どうかお願いします」<br />
「そうか、お姉ちゃんは、珠三郎の所に世話になるのか。それが一番いいかもしれんなー。さかえさんなら大事にしてくれるだろうし」「それで、あんた達、皆でいくら出せるというのだね」と次郎佐叔父。<br />
「恥ずかしいけど私ら皆のへそくり合わせても二百円が精いっぱいです。二男の繁治は食うにやっとで、とても頼める状態じゃないですから」と長女の妙子。<br />
暫くの間、徹三叔父と小声で話し合っていた次郎佐叔父は、「分かった。で、お姉ちゃんのへそくりは、今、幾らくらい残っているの。今後は、珠三郎がお姉ちゃんの面倒を見てくれる事になったから、全部出しても、もう差し支えないやろ」と布佐乃に聞きます。<br />
「ここ数か月で大分使ってしまったから、残っているのは、百円くらいかしら」と母布佐乃。<br />
「フーンじゃー合わせて三百円か。じゃー残り八百円を、わしらで払ってくれと言う事か。徹三どうする」と次郎佐叔父。<br />
「もうこうなったら払ってやらな、仕方がないやろなー。こんな時、わしらが姉ちゃんの力になってやらなんだら、あの世へ行った時、父ちゃんや母ちゃんに合わせる顔がないもんなー。次郎佐兄ちゃんと半分ずつ払う事にしたらどうやろか」と徹三。<br />
「いいよ。で、名義はどうする。お金出した者皆の、名前を出した金に応じて持ち分として入れておくのが筋なんやろうけど、そうすると、後々話がややこしくなって困る事がおきるかもしれんし。<br />
妙ちゃん達はどう思っているんや」と次郎佐叔父。<br />
「私達は、名義なんか入れてもらおうと思ってません。もし名義を入れてくださるというのでしたら、お母ちゃんの事で今後お世話になる、珠三郎の名義を入れてやってくれませんか。他の兄弟もそれで異論ないとおもいます。どう、由江ちゃんも、芙美ちゃんもそれでいいやろ」と妙子。<br />
「無論それでいいわ」と下の二人は声をそろえて答えます。</p>

<p><br />
</p>]]>

</content>
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<title>No.109　ある小さな、小さな宝探し　１</title>
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<modified>2010-01-23T05:18:16Z</modified>
<issued>2010-01-22T04:12:09Z</issued>
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<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>このお話はフィクションで,万一類似したところがありましても偶然の一致で、実際にあった事件、実在した人物とは、関係ありません。</p>

<p>始めに<br />
古い日本の通貨が金銀銭であった関係から、群馬県の徳川の埋蔵金だとか、兵庫県の豊臣秀吉や武田信玄の埋蔵金の話ほど、大掛かりなものではありませんが、埋蔵金伝説というのは、その信憑性は別として、今なお、日本の各地で伝えられてきております。<br />
それらとは問題にならないくらい小規模なものでしょうが、そう言った宝物伝説を真似してでしょうか、古くから栄えてきた旧家の中には、将来の万一の時、例えば戦乱、地震、火災、落雷、盗難などが起きた時に備えて、資産の一部を、土の中だとか土蔵の壁の中といった見つかり難い所に埋蔵しておいた家が少なからずあったようです。それら埋蔵された宝物の多くは、ちょっと不足が生じた時だとか、子孫に道楽ものが出て、その家が経済的にひっ迫した時などに、すでにこっそり使われてしまっていて、何代か後には、ほとんど残っていないで、言い伝えだけが残っているものの方が多いようです。しかし、その中には、安易に子孫がその宝ものに手をつけないように、非常に見つかり難い所に隠し、その上、子孫にその在り処をはっきり伝えることなく、言い伝えだとか、暗号文のような僅かな手がかりだけを残して、遺した本人が死んでしまった為に、見つからないまま、今にいたっているものもあります。<br />
こういったものが、今なお、時々発見され、テレビ画面や、新聞の紙面を賑わせています。</p>

<p>その１</p>

<p>大正１０（1921）年と言う年も押し迫った、１２月も終わりの事です。<br />
その日、岐阜市の南、一夜城で有名な墨俣町（すのまたちょう）の川向かいにある小部落、茶屋新田で、代々庄屋を務めてきた、榎木田家の当主純一郎さん宅で、その日、親族会議が開かれておりました。<br />
集まってきたのは、分家してすぐ近くに住んでいる、二男の繁治さんをはじめとして、長岡の開業医の所に嫁入りしている長女妙子、今尾の酒屋に嫁入りしている次女由江、名古屋の開業医の所にお嫁入りしている三女の芙美、そして末の弟で学校の教師をしている珠三郎の他、純一郎の母方の叔父で、大垣の大きな薬問屋の主人次郎佐（じろうざ）さん、同じく母方の叔父で、近くの名森村に養子に入って今は名森村の大地主になっている徹三さんの面々です。<br />
この家の当主で、長男の純一郎さんは、道楽者で、贅沢三昧の生活をしてきた上に、気が多く、次々に新しい商売に手を出しては失敗し、揚句の果ては、米相場に手を出し、折からの経済不況の嵐に巻き込まれ、この度、大損害を出してしまいました。その為に、持っていた田地田畑は無論のこと、榎木田家が何百年もの間守ってきた、榎木田本家の家屋敷まで手放さなければならない羽目に陥ってしまっていました。従って本日は、その対策を講ずるために、母親が皆に集まってもらったのです。</p>

<p>その２</p>

<p>親族会議は最初から大荒れに荒れました。と言いましても、当主の純一郎は、面目なげに下を向いて、ただ黙って座っているだけで、もっぱら大声をあげているのは、大叔父の次郎佐さんと徹三さん、泣きじゃくりながら詰って（なじる）いるのは女性連中です。彼女達は、こんなことで実家が家を失うのは、舅や姑、旦那達の手前もあって、立場上、耐えがたい事でした。<br />
大叔父達は、これまでにも、こうなる事を恐れて、散々意見してきました。それにも係わらず、息子に勝手放題な事をさせておいて、こんな事態になってから、助けを求めてきた姉の態度にも「冗談じゃない」と、腹を立てておりました。<br />
この為、叱責の矛先は、純一郎だけでなく、母親布佐乃にも向かってきました。<br />
それまで長女として何かと弟たちの面倒を見てきた布佐乃としては、いろいろ言い分もありましたが、何しろこうなっては、今のところ頼りになるのは、弟たちだけでした。彼らの助けを借りなければ、どうにもなりません。<br />
「確かに私が悪かったわ。大体こんな馬鹿息子に育ててしまって。でもね、今度だけは何とか助けたってもらえんやろか。この家が無くなると、嫁に行った娘たちが、嫁入り先で、微妙な立場に立たされることになるから」<br />
今まで長女として弟達を威張って取り仕切っていた勝気な彼女でしたが、こうなりますと何も言い返せません。口惜しさを堪えながら、ただ頭を下げて頼むより仕方がありませんでした。<br />
何しろ悲しい事に、彼女の子供達で、この事態を助けてくれそうなものはいませんでしたから。<br />
子供たちの中、二男の繁治は、分家した時に持って出た田畑を、守っていくだけが精いっぱいの器量しかもっていません。彼は、自分の一家の生計を立てていくのがやっとで、それで満足してしまっていました。従って貯えもほとんど持っていず、何の助けにもなりそうもありません。<br />
三男の珠三郎もまた、大学を卒業して、中学校の教諭になってから日も浅く、それほど収入も多くない上に、結婚、出産と続いての物要りが重なり、貯えがあるとは思えません。しかも借家住まいの上に、研究の為の本代もかかり、自分の日々の生活だけで一杯一杯で、とても自分の実家へお金を回す余裕があるとは思えません。</p>

<p>一方娘達は、皆良い所に嫁ぎ、とても豊かな生活をしているのですが、何しろお嬢さん育ちです。皆自分勝手で、自分の事を真っ先に考える娘たちです。今回の件だって、婚家先の舅や姑、夫達の手前、立場上困ると思っているだけのように思われました。しかも娘達は、何処も、舅、姑達がまだ健在ですから、家のお財布は舅達に握られていて、自分の自由になるお金はあまり持ってなさそうです。だからといって、どの家庭も、彼女たちの夫に、実家を助けて欲しいとは言い出せる雰囲気などない事も分かっています。<br />
従って、こんな事になっても、狼狽した彼女達がしてくれる事といったら、兄、純一郎の不業績と、母親である自分の監督不行き届きをなじる事くらいで、なんの助けになりそうもない事も分かっています。</p>

<p>ここで娘さん達の名誉の為に一言付け加えておきますと、当時は、家を取り仕切るのはその家を継いでいる男（主として父親かその跡継ぎの長男）の役割でした。そしてその地方の風習として、実家というので、嫁入りした後も、なにかと娘たちのお世話をするのが当たり前であって反対に、嫁入りした娘が実家を助けるなどと言いうのは、よほど貧しい家は別として、普通の家にはほとんどない時代でした。<br />
だから、彼女たちが特別自分勝手で、親不孝だったというわけではありません。</p>

<p>当時の風習から見れば、こんな時一番真っ先に飛んできて、頼りになるのは、純一郎の妻の実家のはずでした。純一郎の妻、彩乃は、とても裕福な商家からお嫁に来ていましたから、本当ならこんな時、真っ先に駆けつけて、いろいろ心配してくれるところでした。<br />
所が、その彩乃は、すでに大分以前に、純一郎が、芸者をしていた敏子を、長良川河畔に囲って、ほとんど家に帰らなくなった頃から、夫に愛想を尽かして、実家に去ってしまっています。だから助けを求めようにも、求めようもありません。<br />
もし二人の間に子供でもあれば、少しは事情も変わったでしょうが、もともと病気がちの彩乃には、子供もいませんでしたから、全く縁が切れてしまっています。</p>

<p>その３</p>

<p>大叔父達は、こんな榎木田家の存亡がかかった時になっても、自分達で何かしようとしない子供達の態度にも腹を立てておりました。<br />
併し、怒りはエネルギーが要ります。彼らは、長く怒っておるうちに、だんだん興奮が収まって参りました。そしてそれにつれ、あの気の強かった姉が、自分達に何を言われても、ションボリして、おろおろしながら、ただ頭を下げて聞いている姿を見ているうちに、次第に姉が可哀そうになってしまいました。<br />
近くにいて、我儘で利かん坊の純一郎が、父親という重しが無くなった後、母親の言う事は無論のこと、誰の言う事も利かなくなっていた事を知っているだけに、よけいにそう感じました。</p>

<p>それと同時に、母親を亡くした時、まだ幼かった自分達の事を、母親代わりとして、いろいろ面倒見てくれた、年の離れた姉、布佐乃の、その時の姿が思い出されてきて、二人はそれ以上責めることが出来ずに黙ってしまいました。</p>

<p>彼女の子供達も、叔父たちに一方的に責められて、小さくなっている母親の姿を見ていると、次第に気の毒になり、自分達の事ばかりを考え、母親を責めてばかりいる自分達の姿を、多少は反省してきました。<br />
布佐乃は確かに子供に甘い所はありますが、子供達にとっては、とても良い母親でした。姉妹が婚家先の舅達に、今こうして良い顔をしている事が出来るのも、母親が気を利かして、いつもいろいろやってくれていた御かげです。<br />
また何事にも消極的でやる気のなかった繁治が、今、なんとかやっていけるのも、父親を説得して、田畑を少し持たせて分家させてくれた母親のおかげです。<br />
三男にもかかわらず、珠三郎が大学まで行く事が出来、こうして世間から尊敬される職業に就く事が出来たのも、これまた母親のおかげです。<br />
もし母親がいなかったら、珠三郎は、一生、純一郎の所の居候をしながら作男をするか、独立できたとしても、小作をしていなければならなかったことでしょう。</p>

<p>註１）：当時はまだ江戸時代の名残が残っていて、家の跡継ぎである長男以外は、財産を分けてもらう権利は持っていませんでした。従って親が好意的に分家させてくれるか、養子に行くか、家から独立して、自力で生きていくかしない限り、一生使用人として居候しながら、長男に使われているか、僅かな土地を分けてもらって独立するか、後は小作となって、長男から土地を借りて生計をたてていくかしかない時代でした。<br />
註２）：当時の土地持ちは、今も“たわけ”とい言う言葉が残っている事から分かりますように、田地田畑を分ける事をとても嫌いました。従って、田地田畑は家の跡継ぎとなった者（普通は長男）がまるまる全部受け継がせるようにしていました。</p>

<p>しかし今回の件は、まだその日、突然に聞いたばかりで、この事態に対して、自分がどのような形で係ったら良いのか、兄弟姉妹誰もが見当がつきません。従って気持ちの整理のついていなかった彼らは、大叔父達が、一方的に母親を責めるのを、ただ黙って聞いているしか仕方がありませんでした。</p>

<p>その４</p>

<p>しばらくの沈黙の後、大叔父次郎佐が、まず口をきりました。<br />
「こんなことばかり言っていても、どうしようもないから、もうそろそろ皆で、具体策を考えることにしようや。徹三お前はどう思う」　<br />
「そうやなー。次郎佐兄さんの言うとおり、こんなこといつまで言っとったって、起きてしまったもんは、どうなるもんでもないし、本当に時間の無駄かもしれんなー。で、姉ちゃんは、私らにどうして欲しいというの」と徹三。<br />
「手紙にも書いたとおり、申し訳ないけど、少し用立てて貰えんやろか。娘らの為、せめて、この家屋敷だけは残したいと思っとるんやけど（思っているのですが）」</p>

<p>「で、この家を取り戻すためには、後、いくらくらい足りんのや」と次郎佐。<br />
「田地を売り払う事で、殆どの借金は返しましたから、後、千百円（今の貨幣価値から言うと千百か千二百万円位に相当）くらいあれば何とかなると思います」と純一朗。</p>

<p>「そんなこと言って、あなたのとこに貸して、そんな大金、返せるあてがあるんか。<br />
純一朗。どうや、本当に返せるんか。田地をとられてしまった今、無職のお前が、どうやって返すつもりや。お前の考えていること言ってみ」と次郎佐。</p>

<p>「・・・・・」何も言えず純一郎はただ黙ってうつむいているだけです。<br />
「他の子供らにも協力してもらって、皆でぼちぼち返させてもらうというのではどうやろか」<br />
「私も死んだつもりになって、万一にと思って貯めてきた、臍繰り(へそくり)も全部出すし、その後も、日雇いしてでも、食べるもを食べんようにしてでも返そうと思っとるし、皆にもそう言って、なんとしても返させるようにするから」と母、布佐乃。</p>

<p>「本当にそんなこと出来るんか。繁治の所だって、珠三郎の所だって、自分の所をやっていくだけで精いっぱいと違うんか。<br />
まして娘っ子達は、何処も、まだ舅、姑が健在で、とてもそんなお金、作れそうにないんやないのか」<br />
「もしお前ら子供５人で、均等に払ってもらうとしたら、利息なしでも、一人当たり２２０円、５年かけて支払ってもらうとして、年４４円、ひと月当たりにして４円近いお金を毎月、払ってもらわな、ならんのやけど（今の貨幣価値で言うと４万円くらいか）５年間もの間、お前ら本当に払え続けられるんか」と次郎佐が鋭く突っ込みます。</p>

<p>その５</p>

<p>｛・・・・・」そう言われましても、子供達はまだ何も決めていませんでしたから、口の開きようがありませんでした。それに、男兄弟二人は、もともと、ぎりぎりの生活ですから、そんなお金を払うとなると、大変な負担です。もし安易に引き受けて帰りますと「そんなお金どうして払わなければならないの」と妻から嫌な顔をされるのは目に見えています。<br />
３姉妹も、どなたも、大金持ちの所に嫁いではおりますが、舅や夫に内緒でそれだけのお金を毎月工面していかなければならないという事になると大変です。下手をすると、後からばれて、家庭騒動の原因にだってなりかねません。そうかと言って、夫に事情を話し協力を求めたとしても、「実家の事に、私たちが係わることはありませんよ。あちらの事はあちらに任せておきなさい」と言われるだけにきまっています。結果、婚家先での自分の立場が弱くなるだけです。<br />
もう一つ、彼ら兄弟姉妹には、せっかく自分達が無理して買い戻してやったとしても、あの道楽者の兄が、また何時借金を作って借金のかたにとりあげられてしまうかも知らないという思いも、拭い切れません。<br />
あんな兄の為に、そんなお金を払うくらいなら、むしろ実家の家なんか、ここできれいさっぱりと無くなった方が良いのかもしれないとさえ思ったりもしていました。<br />
ただそうなった場合の母親の落胆を思うと、その言葉をここで口にするのが憚られ（はばかられ）、言い出せないだけでした。あの勝気で気位の高い母親が、この年になって、住む家も金も無くなって、兄の所で小さくなっている姿は、想像するだけで、哀れで、とても言い出せる言葉ではありません。</p>

<p>「この子達にそんな事を期待しても無理だよ、次郎佐兄ちゃん。<br />
姉ちゃんの為にこの家を遺してやろうというんなら、私ら二人で、何とかするより仕方がないんじゃないかなー。いっそ次郎佐兄ちゃん、あんたが買い戻してやって、姉ちゃんを住まわせてやったらどうやろ」と徹三が口を挟みます。<br />
「でもなー、俺も、こんな田舎の家買っても、後、どうにもならんしなー。それに家を一軒持つというのは、結構金も掛かる事だし」と尻込みしながら<br />
「そう言う徹三、あんたが買ってやったらどうや。あんた、姉ちゃんには、ずいぶん世話にもなったことだし」と次郎佐<br />
「それとこれとは別だよ」<br />
「姉ちゃんには、何かしてやらないかんとは思っているけど、この家を俺だけで買うということになるとなー」<br />
「所で、純一郎はこの後どうする心算なんや。姉ちゃん（純一郎の母親布佐乃）と一緒にここに住むんか」と徹三がいいますと、<br />
「そうや、そうや。肝心の事聞くのを、忘れとったわ」「わしらがこの家、買い戻してやったとして、その後あんたはどうする心算なんや。敏子さん（純一郎の妾」と一緒になってここに住んで、姉ちゃんの面倒見たってくれるつもりかいな」と次郎佐。</p>

<p>「まだそこまでは考えていませんけど」と純一朗。「そんなら折角買い戻したっても、誰も住まへんと言う事もあるんか」と次郎佐。</p>

<p>「次郎佐兄ちゃん、そんな事敏子さんに期待するのは無駄だよ。あんな華やかな生活をしてきた人が、こんな田舎に帰ってきてくれるはずがないがね。それに仕事が仕事だっただけに、母親の面倒を見ようなんて気持ちも、全く持ってないに決まっているじゃないの」「そうやないか、純一郎」と徹三。</p>

<p>「・・・・」純一朗は反論もしなければ、肯定もしません。<br />
「姉ちゃんは、この後どうするつもり。この家買い戻したら、ここに一人で住んでいるつもりなの。それとも純一郎と一緒にここで住みたいと思っているの」と次郎佐。<br />
「どうせ、ここ２年くらいは、純一郎は、殆ど帰ってきとらへんのやから、この後、純一郎が敏子さんの所へ行ってしまって、私一人で住まならんようになったとしても、できたら住みなれた此処に、ずっと住んでいたいと思っているんやけど。娘達のためにも」と布佐乃。<br />
「その気持ちは分からんではないけど、純一郎の今度の件の噂は、部落中に流れとるに決まっとるから、ここに住んでも、辛いだけかもしれんよ。<br />
それに、もしここに住むという事になると、生活費の仕送りも、誰かにしてもらわな、いかん事になるけど、この５人のうちで、それをしたってくれる奴はおるんか」と次郎佐。</p>

<p>少しの間、純一郎を除いた兄弟姉妹は、小声で話し合っていましたが、やがて長女の妙子が皆を代表して<br />
「急な事で、私達もこの話、まだ今日、聞いたばかりで、兄弟姉妹の間で、この件については、何の相談もしておりません。少しお時間をいただきまして、別室で相談させて貰おうと思うのですがよろしいでしょうか」と申します。</p>

<p>次回へ続く</p>]]>

</content>
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<title>No.108　球体の一方から見ての右も、反対側から見れば左です</title>
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<modified>2009-12-18T03:45:51Z</modified>
<issued>2009-12-10T05:17:18Z</issued>
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<created>2009-12-10T05:17:18Z</created>
<summary type="text/plain">今でも12月が近づいてまいりますと、例年、忠臣蔵の話題が、チョクチョク耳に入いる...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>今でも12月が近づいてまいりますと、例年、忠臣蔵の話題が、チョクチョク耳に入いるようになってまいります。父親の年齢の人達にとって、赤穂浪士の討ち入り話は、血沸き、肉踊るお話のようで、そのような番組をやっている時は テレビの画面に釘付けになる人も多いようです。<br />
しかし考えてみますと、このお話変だと思いませんか。徒党を組んでの討ち入りのような私的な闘争は、時の政府であった幕府が、厳禁していた事でした。<br />
勅使接待場所での刃傷事件に対する、幕府の裁きの不平等さに対する不満から、大衆の同情は、確かに浪士側に集まっていたかもしれませんが、<br />
時の法令に背いて、飛び道具まで持ちだし、しかも集団で 他人の屋敷に押し入るなどという事が、許されて良い事かどうかは、冷静にかつ第三者的に考えてみれば、大いに疑問が有るところだと思います。<br />
討ち入られた吉良家側にとっては、とんでもない話であったでしょうし、為政者としての幕府にとっても、社会秩序を破壊するものとして、絶対に容認できないことであった筈です。 <br />
もしもこのような事が許されるなら、際限のない報復と予防殺人の連鎖を呼び、社会は大いなる混乱の渦中に巻き込まれてしまうでしょう。<br />
また今日、貴方方の隣家で、こんな事件、今風に言えば、マシンガンやピストルで武装した集団が、隣家に押し入り、撃ち合いの末、親分の敵の命を奪ったなどという、やくざのドンパチまがいの事件が起こったとしたら、皆さんはどう思います。<br />
街中でそんな事をするのはとても許されことではないでしょう。きっと非難の集中砲火を浴びせられるのではないでしょうか。<br />
それは今の言葉で言うなら、テロに他ならないからです。<br />
ペルーの日本大使館占拠事件にしても、ゲリラ側からすれば 弱者即ち少数の者に対する社会正義が行われないから 非常手段に訴えるのだという理屈があります。<br />
しかしペルー政府や日本側からみれば 其の行為は 法規にそむき、社会を撹乱させる、テロ其の物ということになります。</p>

<p>アフガニスタンのタリバンにしてもアルカイダにしても、アメリカは今でこそ目の敵にしていますが、最初の頃は、対ソ・ゲリラ戦用のレジスタントの戦士として それを支援し武器援助もおこなってきたのです（それはソ連政府にとってはテロだったにもかかわらずです）。<br />
イラク戦争以前にイラクに対しても、正面攻撃とは別に、フセイン政権打倒の為のゲリラ組織を作り、それを支援しようという動きも有りました。<br />
しかしそれが本当に行われていたなら、それはフセイン、イラク政府にとってはテロだったはずです。にもかかわらずアメリカにとっては、それも正義だったのです。</p>

<p>パレスチナ紛争なども、イスラエルの政府にとっては生存権をかけての戦いであり、パレスチナを占拠しての無差別攻撃も、ゲリラが、正規軍のように一般人と区別がつかない以上、やむをえない事なのだと主張し、且つ反撃してくるものをテロ行為として、此れを排斥します。<br />
しかしパレスチナ側にとっては、占領されている自分の国土の中で、正当な主権と領土を回復する為の、正義の戦いだといえます。<br />
正規軍で対等に戦う力を持っていないパレスチナ人にとっては、テロのような手段も、レジスタンスの一つの戦術としてやむをえないことだと言う訳です。<br />
ユダヤの人々は、かってナチスが自分達に対して行った非道を 声高に非難します。しかしパレスチナの非戦闘員に対しての無差別攻撃や虐殺疑惑に対しては 何の返答も反省の言葉もありません。</p>

<p>まさしく戦争の狂気です。昔から泥棒にも三分の理という諺が有りますが、立場が変われば主張される正義はころころ変わるという事です。<br />
特に政府、御用学者などのように、時の権力の側に立った、歴史の記述などには、この傾向が顕著で、全く信用できません。<br />
所で、敗戦後、長い間 反省と謝罪を強いられてきた日本人の中からも、それに倦（う）んで、そろそろ日韓併合、中国侵略、世界大戦参戦の歴史的観点や、そこで行った非人道的行為を、見直したり 正当化したり 無かった事として歴史から抹消しようとしたりする動きが出てきております。<br />
例えば 新しい歴史教科書を作る会の人々による歴史教科書改変の動きとか、其の採択を決定した、１～２教育委員会の人々の動き、太平洋戦争での、Ａ級戦犯も合祀してある靖国神社への、時の総理大臣小泉氏の公式参拝と、それに賛同する一部国民の動きなどは、その一つの現れです。<br />
そしてそれに対し反発を示す、韓国や中国の動きに対し、内政干渉だと嫌悪感を表す日本人も少なくありません。</p>

<p>しかし、韓国や中国の人々の側からみれば、それはとても容認できないことです。<br />
日韓併合による屈辱感、そしてそれによって受けた韓国の人々の物心両面から受けた被害は、植民地となった国民にしか分からない悲痛なものであっただろうとおもわれます。</p>

<p>日中戦争に巻き込まれて、家を焼かれ、殺され、或いは死んでいった中国民間人が、どれほどたくさんいたことでしょう。もし逆の立場で、貴方か貴女の身内が、そういう目に、遭わされていたとしたら、恐らく今も恨んでおられる事でしょう。</p>

<p>それを日本人が今になって、<br />
当時の事情としては 日本民族が生き残る為のやむを得ない選択だったとか、<br />
当時は 欧米列国だって、植民地主義的拡張政策をとっていたじゃないかとか、<br />
韓国に関しては、放っておけば、清国の属国となる可能性があったので、救ってやったのだとか、<br />
自国の権益を守るために、清に先んじて行った、やむをえない行為だったとか、<br />
虐待、無差別攻撃は、戦争の時は何処の国もやっている事で、それは戦争という行為その物の持つ野蛮さ残虐さによるものではないかとか、<br />
（事実あれだけ人権尊重とか、戦争犯罪を声高に指弾してきたアメリカ人達にしても、自国の事となると現時点でも アルカイダやタリバンの捕虜に対する拷問や、虐待も平然と黙認しています）<br />
占領下においては、（民衆そのものがゲリラに替わり、）戦闘員と非戦闘員とは厳密に区別できないのだから、自分たちの命を守るためには、占領地の民間人にたいする、無差別的集団虐殺や、拷問もやむをえない事だったなどと主張したとしても、<br />
それは日本側の論理であって、中国や韓国に対して、日本の国がした事は、結果においてはその国の人にとっては侵略行為にほかならず、捕虜への虐待や非戦闘員の殺害は、非人道的な、野蛮極まりない残虐行為として映っている事には、変わりないからです。<br />
こういった事実を隠蔽（いんぺい）し、日本側の言い分や都合のよいことだけを美化し掲載しようとする、日本の歴史教科書の改竄（かいざん）の動きに、中国や韓国の人々が、強い警戒感と反発を示すのも、又当然の事です。</p>

<p>暴力は振るった側は忘れても、振るわれた側は、いつまでも覚えているものですから。<br />
しかしながら、何処の国の歴史教科書も又 その時の国家や為政者の都合よって、書き換えられ、歪曲され、自国に都合の悪いことは、載せられていないものです。<br />
日本のことをとやかく言う中国だって、チベットへの侵攻を侵略とは書いていません。彼らにとっては、チベットは本来自国の領土だと考えているからです。<br />
しかしチベットのダライ・ラマたちにとっては、彼らの領土であり、中国軍の侵攻は、主権国家であったチベットへの侵略であったのは間違いない事実です。</p>

<p>球体のこちら側から見ての右は 反対側から見れば左なのです。そして最初に立った時の側面に立ってみれば それは前なのです。しかし其の球体を上から見てくるくる回転させたとしたら何と表現したらいいのでしょう。</p>

<p>偉人たちの伝記にしても、その殆どが、ある作為をもって（悪気のあるなしは別として，ある立場に立って描かれておりますから）歪曲されたり、美化されたりしている部分があるのが殆どです。<br />
従って、歴史に関連した書物の中から、中立的な立場にたった真実を見つけ出してくることは、容易な事ではありません。<br />
反体制に属する人々や、権力から遠い、弱い立場の人々の、残されている、埋もれた記録や記述を丹念に拾っていき、総合的に判断することによってのみ、初めて真実の姿（全体としての球の姿を）捉える事が出来るのですが、その肝心の資料が、時の権力者によって、抹消されたり、時の経過と共に紛失したり、消失したりしてしまっているものが多いからです。</p>

<p>一般に、何が正しく、何が正しくないかを判断し、為すべき事を決めていく事も、容易な事ではありません。上記のように私たちは、球の一方の側といった偏った視野と立場によって、物事を判断している事が多いからです。<br />
従って、正義は立場によって異なり、またその人の中に形成されている規範によって異なってしまいます。<br />
考えてみれば、本来、宇宙的観点に立って考えるなら、絶対的な正義などと言うものは、存在しません。<br />
何故なら正義とは、人間が社会を形成し、言語が発達し、考える存在となってきた時、初めて形作られてきた、人間社会の中の観念的な存在でしかないわけですから。<br />
だから人により、社会により、時代によって、正しいと認識されるものの中身に、多少の違いが出てまいります。しかし、それを（正しいという観念を）、人がその歴史の中で、長い時間をかけて形成してきた、（人間の）社会が、円滑、円満に運営されていくための知恵として、社会的な規範の中から生まれ出てきた観念と考えるなら、個人的経験の違いや、時代によって、或いは形成されている社会の発展、膨張によって（交通と通信の発達によって、最近の人間社会は、全地球規模にまで拡大されてきています）、多少の変遷はあったとしても、しかしそこには、長い時間をかけて積み上げられてきた、基準となる大枠は存在しています。</p>

<p>それにもかかわらず、それと無関係な、一つの方面から意図的に流される、「為にする」ための情報のみに従って、正しいと信じる行動規範を形成していった場合は、その人の本来の思いとは別の、とんでもない間違った方向に引っ張られていってしまっている可能性があります。</p>

<p>オウム真理教など怪しげな新興宗教において、こんな人がと思われる高学歴の人が、とんでもない事件を引き起こしたり、北朝鮮のような独裁国家の国民が、我々周辺国から見た時、常軌を外れているとしか思えないような独裁者の行動を、支持し、容認したりしているのは、その良い例です。</p>

<p>大局的に見たとき、地球という宇宙船の中での、社会の構成員の一人として、誤りのない行動をするためには、何事も先ず疑う事です。<br />
そして相手の立場、思考、そして今後の長い歴史の流れの中での評価も考慮の上、 総合的、且つ多面的観点に立って、何が正しいか、何をなすべきかについての、自分考えを纏める事、それが最も肝要な事のような気がいたします。</p>

<p>行動を起こすにあたっても、 自分とは違った考えや立場の人間の存在は無論のこと、地球上には、命を紡いでいる他の生物も存在していることも念頭において、 地球規模の発想、即ち、球体を高い所から眺めるような大きな視野のもと、判断し、向かう方向をきめていく事が、必要なのではないでしょうか。	　<br />
　なおこのようなものの見方、考え方は、美術品の見方、美術品のコレクションの際にも通じるところがあるように思います。					<br />
　物の見方にも絶対はありません。　　　　　　　　　　　　　　　　　終わり<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
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<title>No.107　ある老コレクターの悲劇</title>
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<modified>2009-11-09T05:49:34Z</modified>
<issued>2009-11-07T06:05:38Z</issued>
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<summary type="text/plain">私の従弟、皮膚科のお医者さんをしているのですが、彼、同時に画家でもあって、展覧会...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>私の従弟、皮膚科のお医者さんをしているのですが、彼、同時に画家でもあって、展覧会にもしばしば入選したほどの腕前の持ち主です。<br />
そんな彼ですから、古いもので美しいものは大好きでして、家の中は骨董品といいますか、ガラクタといいますか、古びた陶器だとか、古い瓦のかけら、仏像の胴体だけとかといったものがガラガラと置いてあります。<br />
骨董コレクションが高じた彼、自宅を立てたときには、奈良の古いお寺の柱の切れ端を（多分法隆寺だったと思いますが）買ってきて、それを床柱に使って家を新築したほどです。</p>

<p>そんな従兄弟の若いときのことです。たまたまパリへいっての帰り道の飛行機の中で隣り合ったのが、７０歳少し前後の小柄ですが、とても上品な白髪の紳士でした。<br />
機内でお話をしているうちに、彼が大変な骨董マニアであることが解りました。<br />
嬉しくなった従兄弟は、自分のコレクションについて自慢し、ぜひ一度見に来てくださいと、家に招待しました。<br />
所が、その紳士の方も、従兄弟のことがたいへんに気に入ったようで、<br />
「その前に是非私の家の方へ遊びに来てくださいよ」<br />
「家はぼろいですが、コレクションだけは誰にも負けないつもりです」とおっしゃいます。そして彼は自分の集めているコレクションの内容について、いかにも愛しげに説明し始めました。<br />
竜泉窯の瓶（へい：首の長いとっくり型の壺）、永楽の染付けの盤（盤：平たい皿型の鉢）、定窯の鉢等々、明から清にかけてのすばらしいコレクションです。<br />
それは中国投機に趣味のある人間なら皆、聞いているだけで涎(よだれ)がでそうなものばかりです。<br />
従兄弟は、すぐにでも、この紳士のコレクションを拝見しに行きたいとおもいました。<br />
でも、そのついでに、独身の娘さんも見てほしそうな口ぶりであったのが気になりました。<br />
その為、訪問はしたいのですが、なかなか訪ねて行く決心がつかないまま，暫くぐずぐずしておりました。<br />
しかし日が経つにつれ、どうしても我慢ができなくなった彼は<br />
「ひろみちゃん、あなたも一緒に言ってくれない？あの人の骨董、見に行きたいのだけれど、お嬢さんを見せるのが向こうの狙いみたいなところが感じられて、一人で行くのは気が重いのだよ。帰りに、貴女の好きなもの買ってあげるから付いて来てよ」と誘いました。<br />
どうやらお見合いみたいにならないように、おきゃんな私をガードウーマンとして連れて行くつもりらしいのです。<br />
その当時私、高校生で、骨董などに全く興味がありませんでした。<br />
だから「いやだよ。どうして私がついていってあげなきゃいけないのよ。一人で行けば良いでしょ。一回、会ってみたら。案外良い娘さんかもよ」と冷たく断ってやりました。<br />
しかし従兄弟はどうしても諦め切れなかったと見えて、なんだかんだと条件を出して誘います。<br />
そうこうしているうちに、どうしても断りきれなくなってしまった私は、とうとう、ついて行くことになってしまいました。<br />
本当のことを申しますと、私、骨董には全く興味がありませんでしたが、従兄弟に会ってほしいといわれている娘さんの方にちょっと興味があって、付いていく事に承諾したと言うのが本音です。</p>

<p>訪ねていった先は、入り組んだ町の中にある普通の木造住宅でした。<br />
ところが間口の狭い玄関を通り抜け、細長い通路を通って奥まで入ってまいりますと、そこには鉄筋の蔵のような立派な建物が建っております。<br />
案内されるままに、その中に入りますと、その建物は２階建てで、一階二階とも壁面はガラスの棚で埋められ、その中にはいろいろな模様や形の陶器がびっしりならんでおります。それを見た瞬間の従兄弟の驚きぶりからみますと、これは大変なコレクションの様子です。</p>

<p>従兄弟はもう目を輝かして見入っております。彼の説明によりますと、そこに並んでいるものは、なかなか手に入らない名品ばかりだとのことでした。<br />
ご主人のほうも、コレクションの価値を解ってくれる人が来てくれた事が、とても嬉しかったからか、楽しそうにコレクションした時の苦労話をしてくださいました。</p>

<p>私が、一目見ただけで強く惹きつけられたのは、明代永楽の染付の盤でした。これは骨董に何の興味もなかった当時の私でも、目を奪われました。<br />
すんだ青藍色の模様が白色の磁体ににじみ出ているように描かれている大きな皿の(盤というのだそうです)とてもおおらかで澄んだ感じがとても魅力的でした。<br />
他は、朝の空の色のような淡い青色をした宋代の青磁の花瓶、<br />
宋代の吉州窯のものという鼈甲色の小さな筆入れ(花瓶かもしれません)などにも強く惹かれた記憶があります。<br />
他にも、いろいろな時代の中国陶器を見せていただいたのですが、何しろ勉強不足の私にはちんぷんかんぷんで、後は殆ど記憶にありません。<br />
後日、もう一度骨董屋さんと連れ立って訪ねていった従兄弟の話によりますと<br />
(従兄弟の知り合いの骨董屋さんが、その話を聞いて勉強のため是非見せてもらいたいから、ご主人に見せてもらえるよう頼んでほしいといわれて、案内したのだそうですが)<br />
その骨董屋さんもあまりの素晴らしいコレクションに、ただただ驚いていたそうです。彼の言うには「全てが筋のいい本物ばかりで、金銭的にも大変なものだ」との事でした。<br />
彼が訪ねていく事を躊躇させた娘さんの件は、従兄弟の取り越し苦労だったようです。彼がたずねて行った日も、用事があるとかということで、外出されてしまっていて、家にはいらっしゃいませんでした。<br />
ご主人も奥さんもとても気さくで、人のよさそうな人たちばかりで、ご丁寧に、手作りの食事までもご馳走をして下さいました。<br />
しかしあまりにも手厚いおもてなしは、骨董に、殆ど興味ももってなく、野次馬根性でついていっただけの私には、話に入っていく事も出来ず、とても心苦しい一時でした。</p>

<p>先ほども言いましたように、従兄弟はそれから一二度、骨董屋さんと連れ立ってお邪魔したようです。<br />
しかしその後は、医院を開業し、忙しくなったものですから、時々文通をするくらいで、何時とはなく、次第に疎遠になってしまいました。<br />
その時、一緒に訪ねて行った骨董屋さんの方は、商売になると思ったのでしょう。それからも数年毎位には訪ねていっていたそうです。</p>

<p>彼の話によりますと、年をとられるにつれ、集めてあった物の中から、筋の良い品物ばかりが次第に消えていき、逆に怪しげな筋の物ばかりが増えていきました。<br />
私が目を惹かれた、あの染付けも、青磁も、玳玻天目（たいはてんもく）も(鼈甲色の釉薬のことをこういうそうです)皆、最後の方はもう、なくなってしまっていたそうです。<br />
そして代わりに、古い仏像だとか、経筒（きょうづつ）、経文（きょうもん）の書かれた金板だとかといったものが増えていきました。<br />
中国陶器も、時代の確かな名品は次第に消えていき、もし本物であれば、新発見の珍品となるのですが、その時代に、その形の物や模様の記録はなく、本物かどうか疑わしいといった形をした陶磁器とか、模様をもった陶磁器が増えていました。</p>

<p>骨董屋仲間の話では、その人の家に、以前出入りしていたことのある骨董屋さんが、<br />
「あの人も、年をとられるに連れて、目が腐って行ったんでしょうねー。最後の方は、怪しげな業者ばかりが、寄り付くようになっていましたからねー」<br />
「すーっと、私を信用して下さっていれば、あんな変なものは、絶対に入れさせなかったんですがねー」と嘆いていたと聞いてきました。</p>

<p>人間、年齢が進むにつれ、生理的な衰えにより、頭も眼も悪くなってきます。<br />
しかし誰もが、老いはなかなか自覚できません。<br />
その為、老いによる眼力（鑑識眼）の衰えなど思いもつかず、若い時と同じか、若いとき以上に自分の経験による眼力に頼って、思い込みによる独断で蒐集するようになってしまいがちです。<br />
この道で食べていて、毎日美術品と接している人の場合なら、絶えず新しい刺激が入ってきますから、その衰えはゆっくりで、老人になってからも、さほど目立つほどの衰えは感じさせませんが、業者さんが持って来たものを、たまに目にする程度のコレクターの場合は、一定の年齢を超えますと、鑑識眼は記憶力とともに、急速に衰えてきます。<br />
所が、いけない事には、ちょうどその頃になりますと、それまでに、ある程度以上の、良い物を見たり、集めたりしてきた結果、人によっては、ただ良いものと言うだけでは飽き足らなくなる人がでてまいります。<br />
そういう人は、今まで集めていなかった、新しい分野の物に興味を示すようになったり、掘り出し物を求めたりし始めます。<br />
こういった老コレクターには、そこに大きな落とし穴が待っております。<br />
長い収集の経験からくる独断的自信と、掘り出し物の珍品を買ってやろうという助平心が加わってまいりますと、コレクションは怪しげな品物ばかりへと変わっていってしまいがちです。<br />
この人の場合も、年齢的に記憶力が衰え、ものを見る勘も悪くなってきていたときに、いろいろな骨董屋さんが入りだしたこと、<br />
そしてその年齢になって、コレクションの方向性を１８０度近くも変え、仏像関係の物を集め始めたことなどが大きな間違いの元だったとおもわれます。</p>

<p>従兄弟の知り合いの、あの骨董屋のお話によりますと（彼はその後も時々たずねて行っていたようです）、<br />
あの玳玻天目の小瓶を始め、永楽(明)の染付けの盤、青磁の花瓶などと言った、すばらしいコレクションの一部を売り払ってまでして買われた、高麗の弥勒菩薩像（みろくぼさつぞう）などは<br />
当時、骨董屋の間に、出回っていた、韓国産（今の時代の）の真っ赤な偽者だったとの事でした。</p>

<p>他に買われていた経文の書かれた金板にしても、経文のはいっていた経筒にしても、やはり韓国産で、明らかに偽者と分かるものだったとの事です。<br />
経文などは、「彫りこまれた経文の文字部分を見れば、まだ彫ったばかりのようにきらきら光っていた」から、注意してみれば、誰が見ても新しいと解ったはずであるといいます。</p>

<p>経験豊かで、目も確かだったはずの中国陶器のコレクションにしても、あまりに掘り出し物で且つ珍品といった類の（類）の品物を求められすぎたために、時代にそぐわない模様だとか、形のものが入ってきてしまっていました。（それは＝贋物をいみします）</p>

<p>ご主人の考えで、こういったものがあるのだから、こういう模様のものも、あって不思議はないはずであるとか、そしてこんな形のものがあれば、大変面白いだろうなと拡大解釈して、変わったものを買ってしまわれた結果が、このように怪しげなものばかりのコレクションになってしまったとしか思えません。</p>

<p>ご本人は、好きなものを集め、珍品を買ったと思って楽しまれたのですから良いでしょうが、残されたご遺族はとてもお気の毒です。何しろがらくたばかりに替わっていたのですから。</p>

<p>その後、遺品の骨董が、どのようになったか分かりません。<br />
しかし、万一売りに出されていたとしたら、ご遺族は、とてもがっかりされたでしょうね。</p>

<p>一般的に、年老いてからのコレクションはよくよく注意した方が無難です。<br />
どんなに経験を積んできた人でも、普通、コレクターというのは、毎日、美術品に接しているわけではありませんから、眼力は老齢化によって衰え、間違えることもありえるようになります。従ってそれを自覚し、購入に際しては、常に、信用のおける業者と相談しながら蒐集されるようにした方が無難ではないかと思います。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
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<title>No.106　赤は赤でも誰が見ても見ている赤に変わりはないのか？</title>
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<modified>2009-10-07T08:06:31Z</modified>
<issued>2009-10-06T07:24:22Z</issued>
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<created>2009-10-06T07:24:22Z</created>
<summary type="text/plain">この話しはフィクションで、実際の人物、事件とは関係ありません その１ 「千佳どう...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>この話しはフィクションで、実際の人物、事件とは関係ありません</p>

<p>その１</p>

<p>「千佳どうだった？うまくいった？・・・それにしては、浮かない顔しているわねー」　千佳は私の学生時代、同じアパートの、隣の部屋に住んでいた、友人です。その彼女が、今からもう20年以上も前の話ですが、入学以来　密かに慕っていた先輩の木村君と、念願かなって、初デートをした時のお話です。木村君、とてもハンサムで、その上、背が高く、バランスの取れた体格をしており、それだけで女性が憧れる要素は十分備えておりました。しかし木村君の場合、更に、お金持ちのボンボンだとかで、お洒落で、非常に洗練された服装をいつもしており、立ち居振る舞いも、言葉つきもとても優雅でしたから、女性たちが放っておくはずがありません。<br />
キャンパス内にあっても、彼の周りには、いつも４，５人の女子学生が、彼の周りには纏（まと）わりついていて、にぎやかに騒いでおりました。<br />
彼、大変なドン・ファンだとかで、当時既に、数人の女の存在が噂されていましたが、それにもかかわらず、そんな彼に憧れ、彼となら一度でいいからデートしてみたいとか、彼に口説かれるのなら、もうどうされてもいいわと、思っている女子学生が、キャンパス内にも、わんさかおりました。<br />
そんな彼からデートを申し込まれ、当時の若者のあこがれの的の車，ＢＭＷに乗ってデートしてきたのですから、もっと喜んでいてもいい筈と思ったのですが、案に相違して、彼女の反応はいま一つです。<br />
｢ねーねー、どうだったの。もう彼に振られたの｣<br />
｢ウーンウ、そんな事ないよ｣<br />
｢それじゃどうしてそんなに浮かない顔しているの？｣<br />
｢それがさー、どうも彼とは　合わないみたい。この次　会うの、どうしようかなー、止めようかと思っているの｣<br />
｢エーッ、そんなー。勿体ない。彼、良い所のボンボンで、話しは面白い。優しいし、趣味だって良いというので、女の子達の憧れの的よ。そんな事言っているのが分かったら、他の子達から、総スカンくらわされてしまうかも｣<br />
「みた目はね。でもデートして見ると　貴女だって、多分そう言うだろうと思うけど、どうも違うのよねー、つまんないの」<br />
「贅沢言ってるんじゃないわよ。他の女の子達にとっては、逆立ちしたって、デートなんかしてもらえっこないというような、人だというのに。一体何があったの？」<br />
「何がと言われてもねー。これと言った、はっきりした、何かがあるわけじゃないのよ。でも一緒にいるうちに、だんだんワクワク感もドキドキ感もなくなってしまったのよねー。それどころか、そのうち、二人でいるのが、気詰まりになってしまって」<br />
「フーンそれじゃチョット駄目かもね」<br />
「所で何処まで行ってきたの」<br />
「それがさー、なんと伊豆半島の土肥の方まで行ってきたの」<br />
「へー。例のあの赤いBMWで。で、どうだった、あの車の乗り心地は」<br />
「悪くはなかったわよ。でも私、車の趣味ないから」<br />
「フーン。それで　何してきたの？そんな遠くまで行って」<br />
「何も。ただドライブしていただけ」<br />
「でも食事くらいは　ご馳走してくれたでしょ。あちらの方は、お魚が美味しい所だけれど、おすし位　食べさせてくれなかったの？」<br />
「ノー、ノー、全然、。車を乗り回したあげく、お茶して、ラーメン食べてきただけ。何でも　有名なラーメン屋だとかと　彼、自慢そうに言っていたけど、脂　ギトギト、チャーシューどっさり、私にはどうもね」<br />
「フーン、それじゃーねー。あんたも安くみられたものねー。一体全体、貴女の事、何だと思っているのかしら」<br />
「ただのミーハーとしか、思ってないんじゃないの。多分、直ぐにセックスさせてくれる、自分に都合の良い女の一人くらいにしか思っていなかったのよ」<br />
「まさかー」<br />
「本当よ。彼と話していて分かったのだけど、大体あいつの頭の中は　車と女のことしか興味ないみたい。今日だって、うまくいったら、物にしてやろうとしている下心が、透け透け。キモイのよ」<br />
「へー、じゃー危なかったんじゃないの。よく襲われなかったもんだわねー」<br />
「いくらなんでも、そこまではしないわよ。彼、結構、いい格好し－だもの。そんな事をして、自分の評判に傷が付くような事は、絶対にしないわ。隙あらば、ホテルへ連れ込んでやろうとする下心は透け透けだったけどね。彼、同意の上と言う、言い訳ができるようにしてしか、そう言う事はしない男よ」<br />
「今までそれで女の子達を泣かしてきたのかしら」<br />
「そうだと思うわ。何しろムードの持っていき方がうまいもの」<br />
「あの低音で話しながら、何かの拍子に、身体にそっと触れてくるのよ。背筋だとか首に。彼、女の弱い場所をよく知っているのよねー。長い事車に乗って揺られていると、女って、それだけで、結構おかしな気分になるのに、そこであの眼でじっとみつめられながら　甘い言葉を囁かれ、あちこちタッチされると、大抵の女なら、催眠術に掛かったようなもの。ボーっとなってしまって、コロッと言いなりになってしまうとうと思うわ。私だって、一時、理性を失いそうだったもの」<br />
「フーン、うまいんだ、でもあんたよく踏み止まれたわねー」</p>

<p>その２</p>

<p>「私達ねー、途中で喫茶店に入ったの。そこ、海の上に突き出しているような場所に建つている喫茶店で、夕日がとても綺麗だったわ。赤い夕日が、西の海の彼方に沈んでいくのを眺めていると、懐かしいような、悲しいような、寂しいような、何かに祈りたくなるような、言葉で言い表しようのないような不思議な感情がこみ上げてきて、泣きたくなるような気がしたわ。所が彼、その夕日見てなんといったと思う」<br />
「何､なんて言ったの」<br />
「夕日を見ながら、ぼんやりロマンチックな感傷に浸っていた私の肩を抱き寄せながら、耳元に息を吹きかけながら囁いたのよ。<br />
『素晴らしいでしょう、この赤い夕日。とても情熱的な赤だと思わない。この夕日を、貴女に差し上げたいと思ったから、此処まできたんだよ。これが貴女への今宵の私のプレゼント。この煮えたぎっている、真っ赤な太陽のような私の情熱を、今夜はしっかり受けとめてほしいと願っているんだけど。良い？』と。<br />
始めは何を言ったのか意味が分からなかったわ。耳の穴に熱い息を吹きかけられたので、ゾクッときてしまって。だからポカンとした顔で彼の顔を見つめながら、思わずコクッとうなずいてしまったの。そしたらOKと彼、思ったのね。肩をしっかり抱き寄せて、首筋にキスしながら、擦れ声で囁(ささや)いたの。<br />
『可愛いー。食べてしまいたいくらいだ。今夜は眠らせないからね。一緒に燃えようね』と。<br />
此処までいわれれば、私だってピンと来たわよ。そしてハット冷静に戻ったの。だから、慌てて彼の腕の中から逃れると、『<br />
御免、駄目なの。今夜は父が下宿に来る事になっていて、あまり遅くなると叱られるから。ごめんね。今日はもう帰らせて』と言ったわ。そしたら彼、チョット不機嫌そうな顔をして、そのまま黙って、お勘定をすませると、さっさと一人で車の所まで行ってしまったのよ」<br />
「そう、そんなことがあったの。で」<br />
「帰りの車の中は　気まずかったわ。行き、あれほどはしゃいで饒舌(じょうぜつ)だった彼が、殆(ほとん)ど口を利いてくれないの。私が無理に話題を作って持って言っても、それに短い返事が返ってくるだけ。あてが外れて怒っているのがありあり。多分彼の魂胆(こんたん)では、こうして冷たくすれば、今までの女の子達のように、私の方から折れて、許してくると思ったんだと思う。だって帰り道、モーテルの所にくると、わざわざ徐行して、私の顔をみて、目で促(うなが)しているような感じだったもの。でも私は知らん顔をしていたわ。結局、これで良かったのよ。彼の性格とか、魂胆も良く分かったから。人間、外見だけでは、分からないものねー」</p>

<p>その３</p>

<p>夕日の赤を見て燃え滾(たぎ)るような情熱、目くるめくような歓喜しか感じない人って、どういう性格をしているのだろう。私達の見、そして感じている夕日の赤と言うのは、単なる真っ赤ではありません。ピンクも橙色も紫も含んだ、もっと複雑な赤です。だから、それを見た時、涙が出るほど懐かしく感じたり、素晴らしい絵画の世界に入り込んだようなロマンチックな感傷に浸ったり、今日一日の無事を喜び、感謝するといった敬虔な気持ちになったりするのが普通だと思うのです。<br />
それを情熱と歓喜をあらわす、真っ赤しか感じないなんて、この男は、なんという人なのだろう。きっとセックスの事しか頭にない雄犬、ロマンのかけらもないような、無粋な即物主義者だから、そのようにしか見えないのだわと、その時は二人で、その男性のことを、軽蔑しました。<br />
所が最近新聞をみていましたら〔日経新聞：明日への話題欄：脳研究者池谷祐二の随筆より抜粋〕米デューク大学，松波宏明氏等の研究によりますと、こういった　光を感じる網膜や、味を感じる味蕾(みらい)，そして臭いを感じる嗅覚アンテナなどの感覚器官を司る遺伝子には、ある感覚に対応する遺伝子でも、血液型において違いがみられるように{例えばＡ型の赤血球でも、その中にはＲｈ＋もあれば－もあり、またＦｙ（ａ）の＋、－、Ｆｙ（ｂ）の＋、－もあります}、その感じ方が、多少異なるタイプの遺伝子を持った　幾組かの集団があると言うのです。<br />
例えばある特定のOR７４Dと言うコードネームの遺伝子をもった人々は、アンドロステノンの臭いを不快に感じ、別のタイプのOR７４Dという遺伝子を持った人のグループでは、良い香に感じるのだと言います。<br />
これを「遺伝多型」というのだそうですが、それから考えると、自分が美味しいと感じた味が、他の人にも同じように美味しいと感じているとは限らないということです。<br />
自分が美しいと感動している景色だとか、絵画についても、他の人も同じように見、同じ感動を味わっているとは限らないということを意味します。</p>

<p>その４　</p>

<p>考えてみれば私達は、味や臭いについては、人によって感じ方に違いがある事は、以前から経験的に、漠然とは知っておりました。<br />
現にこの文章をお読みの皆さん方の中にも、人が美味しいと言うもの、必ずしも美味しいと感じなかったり、人が嫌な臭いと避ける様な臭いに、惹かれる自分を感じたりした、経験を持たれた方もいらっしゃるのではないかと思います。<br />
そしてそんな場合、「味音痴ではないかしら」とか「私、こういった味に対する，経験がないから〔教育されていなから〕、分からないのかもしれない」とか「こんな臭いに惹(ひ)かれるというのは、自分は少し変態なのかしら」などと思いながらも、あまり深く考える事もせずに、日々を過ごしてこられたのではないでしょうか。<br />
しかし色についての感じ方にも、違いがある事などは、これまで、あまり考えた事がなかったように思います。私達は，赤は、誰もが同じ赤を見て感じ、黄色は同じ黄色を見て感じているとばかり思っていたように思います。<br />
若かった頃、私と千佳は、夕日の赤をみて、真っ赤、情熱と歓喜の赤しか感じなかった、木村君〔千佳のデートの相手〕の事を、「助平な考えしか持っていないから、そんな風にしか感じないのだわ」と、軽蔑しました。しかし、最近のこのような研究結果から考えますに、もしかしたら、本当に彼には、夕日の赤は、情熱的な真っ赤にしか感じられなかったのかも知れません。今では確かめようもありませんが、もしそうであったとしますと、彼の事をひどい誤解をしていた部分があったかもしれません。<br />
私達はとかく、自分の感じている感覚は、絶対で、他人も全く同じように感じていると考えがちです。しかしこれらの事は、五感の感じ方も，ひいては、それらの感覚情報を基にしての考え方も、個々別々で、必ずしも一致していないのが普通だという事を意味します。このような多様性こそが、（ロボットやクローンではなく）地球上の生物である、人間の人間たる所以だというわけです。<br />
私達は、味の感じ方や、臭いの感じ方、絵画や、景色の見え方、感じ方が、多くの人と違うからと言って、卑下する必要はありません。<br />
自分が間違っているのではないかと思い、慌てて、他の多くの人に合わせるように、自分の感じ方や考え方を、修正していく必要もありません。<br />
なぜなら、多くの人が感じる感じ方が正しく、それ以外の感じ方が間違っていると言うわけではありませんから。（生きていく術として、同調したような振りをしていなければならない事はあるかもしれませんが）<br />
それぞれの感じ方は、それ自身、その人の個性にすぎません。少数かもしれませんが、それでも、その感じかたに、真実同調できるタイプの遺伝子を持った人は、他にも、何処かに、必ずいらっしゃるはずです〔遺伝多型〕。<br />
私達はこのような多様性社会の中に生きている事を自覚し、夫々（それぞれ）の違いは、違いとして認め合いながら、生きていくのが大切なんだろうなと、思う今日この頃です。<br />
</p>]]>

</content>
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<title>No.105　藤田嗣治の戦争画によせて   そう思えばそうであり、そう思わなければそうでない　</title>
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<modified>2009-09-02T13:23:52Z</modified>
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<summary type="text/plain">その１ 言語が、私たち人間同士のコミュニケーションの最大の手段であるにもかかわら...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>その１</p>

<p>言語が、私たち人間同士のコミュニケーションの最大の手段であるにもかかわらず、俳句だとか小説などといった言葉で伝える文学のような、作者の真意、感情、主張などが比較的伝え易いと思われる文学作品においてさえも、受け取る側の、生い立ち、環境、教育、感性、知識、宗教、倫理観、現在置かれている立場などによって、受け取り方が全く違ってしまう事が間々あることは、皆さんもご承知のとおりです。<br />
まして深く考えないで、出してくる言葉によって取り交わされる、日常会話などにいたっては、自分の思っている真意の半分も伝わっていないと感じる事が少なくありません。<br />
プロデューサ、監督などといった、製作者の意図を最も伝えやすい、映画や、演劇などといった言語、視覚、聴覚の結合による総合的な芸術表現においてさえも、観ている側の受け取り方、感じ方は、人によってさまざまです。<br />
製作者側の意図は、ある程度伝える事が出来たとしても、受け止る方は、それに共感してくれるとはかぎりません。その人の、現在置かれている立場だとか、それまで生きてきた歴史(環境もふくめて)、倫理観、宗教、知識などなどによって、受け取り方はさまざまだからです。<br />
特に、絵画のように、視覚に訴える事によってだけ成り立つ表現芸術では、作家の意図とは別の、いろいろな解釈や受け取り方が生じ得ます。<br />
事実、作家の評伝や展覧会や画集などに載っている解説等をみていましても、同じ作家の、同じ絵でありながら、一つの絵についての受け止め方が、人によってかなり違っていることがすくなくありません。<br />
しかしこれは、考えようによっては、このような視覚芸術に於いては、観る側に、かなりの裁量が許されている事を意味しているように思います。<br />
言い換えますと、私たちが、絵画を観る際、その作品に自分自身を投影し、感じたままに見、解釈し、想像して観てくる自由が、他の芸術表現以上に大きいということです。</p>

<p>その２</p>

<p>ところで藤田嗣治については、戦争中、軍部に協力して、戦争画を描いていた咎（とが）によって、戦後、戦争責任を取らされそうになったことは良く知られている所です。<br />
しかしその描かれていた絵画の内容については、戦後、戦争画の多くがGHQに接収、焼却されてしまい、残されたものもすべてが、戦争の資料として本国に送られ、アメリカ陸海軍の博物館に所蔵されており、１９７０年に返還された後も、一般公開されることなく、東京国立美術館に保管されたままになっていた関係上、戦後世代の私たちは、殆ど何も知りませんでした。<br />
藤田の戦争画についても、勇壮な日本兵の姿や、敗走する連合軍の惨めな姿が描かれ、戦争を賛美し、戦意の高揚を図る、軍部のプロパガンダに協力したグロテスクな絵画であろう程度の認識しかありませんでした。<br />
所が、２００６年開催の、藤田嗣治生誕120周年記念展に展観されていた戦争画を見て私のそれまでの認識は、根本から覆されました。<br />
あの展覧会を観られた方は、お感じになられたと思うのですが，「サイパン島同胞臣節を全うす」にしても「アッツ島玉砕」、「決戦ガダルカナル」にしても、それらを見て、血沸き肉躍るような、わくわく感とか、敵を倒し、征服したときの至高の高揚感は伝わってまいりません。<br />
あの暗い画面から発散してくるものは、戦争というものの悲惨さ、残酷さであり、伝わってくるのは、むしろ戦争に対する嫌悪感とさえ言えるものでした。<br />
これらの絵画は、それを描いた人の立場が替っていて、平和主義者とか、第二次世界大戦の敵性国家、欧米の作家による作品であったとしたら、或いは日本が戦勝国側に位置し、自由と民主主義を守る立場に立つ国に属していたと仮定するなら、ドラクロワの戦争画に匹敵する大傑作として世界の絵画史に残されたであろうとさえ言えるものだと思います。<br />
ところで、藤田の評伝などでみる限り、戦時中の藤田の言動に、藤田があの第二次世界大戦に反対していたという記録はありません。<br />
諸参考資料から考えても、藤田がこの戦争を批判しながらも、やむなく軍に協力し、代わりに、密かに厭戦の思いを、これらの画中に託したのだとも思えません。<br />
そうだからといって、これらの絵画を見る限りでは、藤田が戦争を賛美し、武力による、領土の膨張、即ち植民地主義的な思想を絵の中に忍ばせているとも思えません。藤田はこの絵画で一体何を私たちに伝えようとしたのでしょう。</p>

<p>その３</p>

<p>これをとく鍵は藤田の性格と当時の日本がおかれていた状況にあるのではないでしょうか。<br />
民主政治の下、自由を謳歌している今日の日本では想像も出来ませんが、戦中の日本の思想統制は非常に厳しいものがあり、戦争に反対する事は、虐待と死を意味しました。<br />
人道主義、平和主義を唱えるためには相当な覚悟が必要な時代でした。特に藤田のように欧米帰りで、コスモポリタン的な生き方をしてきた人間に対しての官憲の目は厳しく、常にスパイの嫌疑が付きまとっていた時代でした。社会の風潮もまた好戦的で、戦争賛美一色に染まっていて、その中にあって、それに反対する事は国賊とまで言われ社会的に圧殺されかねない時代でした。<br />
そのような社会で、藤田が生き延びていくには、積極的に軍部に協力する姿勢をとるより他に方法がなかったのだろうと思います。幸いな事に彼は、異国フランスでの生活にもすんなり溶け込んでいけた事でもお分かりのように、非常に環境順応性が強い性格のようでした。<br />
軍医の父を持った彼の育ってきた環境も、受けてきた当時の日本の愛国教育も、そして異郷での生活経験も、藤田の愛国心の醸成に一役かったにちがいありません。<br />
藤田はたいした抵抗もなく、戦争画を描く世界にのめりこんでいけたのです。自由と平等、個人の尊重を基調とするフランスにおいて、その自由を満喫する生活をしていたにもかかわらずです。彼がフランスでの生活において恩恵に浴してきた自由や個人の権利の尊重は、レジスタントだとか、内部葛藤、体系的な学問によって獲得したものではなくて、生活の中で自然に経験してきた物にすぎなかっただけに、フランスでの生活が長かったにもかかわらず、自由と平等を重んじ、個人の権利を尊重するといった、欧米的な反ファシズム思想、人道主義などのバックボーンを獲得するにはいたっていなかったように思われます。<br />
藤田は、自らの意思で戦争画制作に関与し、その中枢にあって活躍をした事は間違いありません。<br />
しかしながら、それでは戦争が終った後、画壇から非難され、彼一人だけが、戦争責任を取らされそうになったほどに、好戦的な軍国主義者であったかというと、必ずしもそうではなかったようです。<br />
対戦中、戦争画に夢中になっているように見えた藤田を心配した平野政吉が（秋田の大地主にして美術コレクター。秋田美術館コレクション収蔵の藤田の作品の大半を購入した人）「戦争画などは純粋芸術ではない」と苦言を呈したのに対して、「あれは記録画のようなものだから」と言ったきり何も言わなかったそうです。<br />
またある時は、秋田までやってきて、平野に「パリに帰りたい」とも言ったとも言われています。（｛聞き書き：わがレオナルド藤田｝朝日新聞１９８３年１月１１日）（「藤田嗣治」：湯原かの子著・新潮社刊より）<br />
戦争画ばかりを描かされている事に対して、やはり忸怩（じくじ）たる思いがあったようです。<br />
これらの発言からは、「画によって国のために働く」と言う公式の場での、藤田の建前的な発言とは別の、パリの自由な空気をすってきて、自由を愛した、芸術家としての藤田の本音が垣間見えます。<br />
又藤田が戦争画の制作に本腰を入れるきっかけになった「ハルハ河畔の戦闘」の図（ノモンハン事件を下にしてして描いた作品）の場合も、注文主の要請に基づいて描いた、日本兵の勇猛果敢さを称えた図柄とは別の、それと対をなす作品があり（現在は紛失して所在不明）、それをみせてもらった内輪の画家仲間や美術ジャーナリストの話によりますと、（これは無論軍部には内緒でしたが）、その作品には赤黒く燃え上がる戦場に、破けた軍服から足や腹をむき出しにて、累々と横たわる日本兵の無惨な屍（しかばね）と、その上を踏み潰していくソ連戦車の姿が描かれていたという事です。（「藤田嗣治」田中穣著：新潮社刊）こういった藤田の言動から考えますに、藤田の絵には、はっきりした思想的なメッセージはなかったのだと思います。ただ戦争画というジャンルに興味を持ち、それを記録画のように、リアルに描く事に熱中しただけのようです。藤田は、彼の戦争画において、職人のように、いかにリアルに臨場感をもって描けるかという技法の進展、新機軸の創出に拘った（こだわる）のですが、軍国主義的な考えに同調し、それの広宣流布の思いを絵の中に内含させておくというまでにはいたらなかったようです。<br />
このような彼の戦争画における思想性の欠如は、既に戦時下においても指摘されていたところで、今泉篤男は「陸軍作戦記録画優秀作品評」と題する論評において（「美術］昭和19年5月号」）「現代画家のなかで、この画家（藤田の事）位に物の姿を描き出す事に気軽な愛執をもっている人は稀有である。芸術とか何とかいう以前にも、描くという事に子供のように熱中できる画家なのである。」・・・・「藤田の芸術の場合は、しかしその変化、進展は主として視覚的な取材の拡大、技法の進展に置かれており、戦争画というものの構想の内面的な変化、深まりではないように見られる」と言っております。<br />
要するに藤田は、戦争の持つ、その怪奇性や、異常性を描きだす事に興味を持ち、それをリアルな臨場感を持った作品として、画面に表現することに心血を注いではいますが、そこには職人的な絵師の技への拘りは存在していても、思想性は欠如していたということです。<br />
彼は戦争の無惨さ、惨酷さを描きだしておりますが、それは彼がそれらを表現する事自体に陶酔して行っているに過ぎず、そこには、戦争に反対してそれを批判するとか、賛美して推進しようとしたとかという、彼自身の意図は入っていないと思われます。</p>

<p>その４</p>

<p>しかしながら今になってみますと、藤田の戦争画は、思想的なメッセージを包含させることなく、戦争が引き起こした奇怪かつ異常な場面を、リアル感を持たせて表現しているだけの故に、かえって戦争という人間の愚行の惨酷さ、悲惨さを浮き彫りにしているように思います。<br />
敵も味方もなく、死というものに直面した時の人間の恐怖、緊張、非嘆、絶望そして何の個人的な関係もない人同士が、憎しみあい、殺しあう異常さ、愚かさなどが、偏った思想や感傷によって一方向に誘導していくのではなく、記録画のように第三者的な目を持って描き出しておりますだけに、却って観る人に強いインパクトを与えるように思われます。観る人に、その人自身の頭で考えた、その人自身のいろいろな感慨を想起させてくるのではないかと思います。<br />
ともあれ、藤田の戦争画は、なんと言っても傑作です。藤田作品の中でも、最も優れた作品が揃っているジャンルの一つだと思います。<br />
世界の戦争画史の中でも、傑作に属する作品群だとさえ言えるのではないでしょうか。<br />
しかしそこには藤田の思想的なメッセージは含まれておりませんから、それをどのように観、そしてどのように感じるかは、観る人の裁量に大きく委ねられている作品であるといえます。<br />
観る人自身が、その作品にどのような心を投影して観るかによって、受け取り方はさまざまになりうる作品だというわけです。</p>

<p>皆さんは藤田の戦争画にどのような感じをもたれましたか。江戸時代の怪奇画に対した時のように、その異常さ、怪奇さだけに目を奪われ、恐ろしいとか気味が悪いと感じられただけでしょうか。<br />
それとも戦争という人が行う蛮行の愚かさ、陰惨さに恐怖や嫌悪を感じましたか？<br />
その業のような人間の愚行に深い悲しみを感じませんでしたか？<br />
或いは愛国心が湧きたち、殺戮し合うその場面に、手に汗を握るような興奮や舌なめずりをしたくなるような嗜虐性を覚えられましたでしょうか？</p>

<p><br />
</p>]]>

</content>
</entry>
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<title>No.104　遺されていたお宝？</title>
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<modified>2010-03-29T08:20:51Z</modified>
<issued>2009-08-03T11:56:07Z</issued>
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<summary type="text/plain">このお話はフィクションで、実在の事件、人物とは全く関係ありません。 遺された財産...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>このお話はフィクションで、実在の事件、人物とは全く関係ありません。</p>

<p>遺された財産の多少にかかわらず、遺産を巡っての、兄弟姉妹の争いは、非常に多くなっているそうです。相続をめぐっての争いの結果、兄弟姉妹のその後のお付き合いが、無くなってしまったというお話なども、よく耳にする所です。<br />
私の知人の家の母親がなくなった時もそうでした。<br />
この家、子供は４人姉妹、皆、それぞれ他家に嫁ぎ、一家を構えており、家を継いでいる者は誰もいません。その為、父親の死後、母親はずっと独りで暮らしておりました。<br />
父親の生存中は、長女・恵美夫婦を跡継ぎにと考えていたようですが、長女夫婦の方は、財産は欲しいとおもっていますが、親の面倒を見たり、両親の死後、この家の跡継ぎとして、親戚づきあいだとか、仏様のお守をしたりするという事なんか真っ平と思っております。その上長女に特有の自分本位で、我儘，ＫＹな所のある人でしたから、親子の気安さもあってか、母親の嫌がることでもズケズケ言うところがありました。<br />
所が、母親の方はだんだん年をとってまいり、健康も損ねていますから、気弱になってきております。その為、若い頃のように、子供達と対等にやり合うだけの気力も、力も無くなっています。しかし親としての気位だけは残っておりますから、それだけに、子供からずけずけ言われる事は、強く応えるようでした。<br />
その為、父親の死んだ後は、母親は、長女夫婦を後継ぎとは認めなくなっていました。親子の関係も、疎遠となり、長女が母親の所を訪れる事も殆どなくなっていました。<br />
次女・裕子も又自己本位な人で、人からやってもらうのは当たり前、人の為には何もしようとしない女でした。それに非常に性格が強く、親といえども、容赦しません。何事につけても、自分の言い分を通し、押さえつけてしまうところがありましたから、子供の時からなんとなく母親は毛嫌いしておりました。その為、結婚式とか葬式といった、家の行事の時以外には、殆ど行き来がなくなっておりました。<br />
結果母親は、面倒見がよく、優しく接してくれて、嫌な事をずけずけ言わない三女・君江を頼りにするようになり、病気になってからは、すっかり彼女を頼って、彼女に面倒を見てもらっておりました。<br />
こんな状況の母親がなくなりました。その為、三女と四女・彩香に財産を自由にされてしまうのではないかと警戒する、長女、次女連合と、何もしなかったくせに長女面して財産だけは、取ろうとしていると思っている、三女、四女連合が激しく対立し、お通夜の時から、死者なんかそこのけでの角付き合わせが始まりました。<br />
その争いに輪をかけたのが、母親の死後一週間目に出てきた遺書の存在でした。それには、自宅、預貯金、株券の殆どを三女に相続させ、残りのわずかな不動産だけをみんなで分けるようにと記されておりました。<br />
見つけたのは三女で、何でも母親の遺品を整理しようとしている時、仏壇の片隅から見つかったとの事でした。その為、長女や次女は、遺書そのものの存在に疑いをもちました。<br />
　この遺書の真贋から始まり、これが、母親の意識が正常な時に、自発的に書かれたものかどうかといった所まで疑う、長女、次女連合と、それが正当なものであると主張する三女、四女連合との間で、激しいやり取りが繰り返され、一時は裁判にまで持っていこうかという所までいきました。<br />
しかし、こうした争いも一年以上になりますと、互いに倦んでまいります。多少冷静に判断できるようになってまいります。いろいろな人から情報を集めることにより、裁判の勝敗の行くへも、大よその見当がつくようになってまいります。裁判する事による損得も勘定出来るようになります。<br />
この為、間に立った司法書士のとりなしもあって、金融資産、土地の分割は、三女の、多少の譲歩のもと、大体は、母親の遺言通りに分ける事で、何とか決着がつきそうになってまいりました。<br />
　この分割案について四女は、もともと三女と仲が良かった上に、母親の亡くなるだいぶ前から、内緒でいろいろな物を貰っていましたので、（母親のすぐ近くに嫁いでおりました関係で、母親が元気な時から、何かと言うと母親に頼まれ、足代わりになって、こまめに用事をしていました。その加減だったのでしょう。母親がまだ元気なうちから、投信だとか、株券の一部をちょくちょく、彼女名義に変更してくれていました）何の異論もなくすんなり承諾しましたが、長女、次女の方はかなり不満そうで、まだまだ何かあれば、ひと波乱ありそうな雰囲気でした。<br />
所が、ここにまだ、遺言書には、何の記載もない、宝石、絵画、道具類中でも富岡鉄斎の絵と小林古径の絵、そして、母親がお茶を習っている時に買い集めた茶道具類の分け方という難題が待っておりました。</p>

<p>　母親の実家は、母親が結婚した当時は、とても裕福な呉服屋さんでした。その母親が、結婚の時、お嫁入り道具の一つとして実家からもらってきたのが、この二本の軸でした。母親の常々自慢していたところによりますと、これらの絵、特に鉄斎山水図は母親の父親が大金を払って買ったもので、非常に価値の高い物だとの事でした。母親はこれを家宝のようにとても大切にしておりました。従って姉妹の誰もがそれが価値ある作品である事を知り狙っておりました。病床で三女に話していた母親の考えでは、この絵も含めて、宝石、衣類、そしてお茶道具などの家財道具全てを、この家を相続する三女に持っていて欲しいと言うことだったようです。しかし、それは三女だけが聞いていただけで、他の誰もが知りません。従って、三女がそれらを相続することには、皆絶対反対です。三女が母親の意向を伝えても、誰も信じません。充分すぎるくらいに取っておいて、それでも不足で、その上、宝石や道具類まで独り占めしようとするのかと、怒りだす始末です。彼女達の意見では、三女はすでに充分すぎるくらいもらったのだから、宝石や、道具類については、遠慮して欲しいと言うものです。</p>

<p>　こうして相続問題は再び暗礁に乗り上げてしまったように見えました。<br />
その時、この相続に関して、ずっと相談に乗っていてくれていた老司法書士が、三女に「君江さん、お母さんの気持ちを大切にして、相続を決めようとされる気持ちは、よく分かります。しかし相続の事で裁判までもっていくというのはどうでしょうね。裁判まですれば、姉妹の間の亀裂は決定的なものになってしまって、修復が効かなくなりますよ。考えても御覧なさい。年をとった時、親しく話せる身内が回りに一人もいない生活を。子供なんかは、いつかは親元を離れて飛び立っていきますよ。年とってから話し相手になってくれ、頼りになるのは姉妹だけです。裁判にまで、もっていっても、結局弁護士を喜ばせるだけで、痛み分け。残るのは姉妹の不信感だけです。それではあまりにも悲しいと思いませんか。お母さんの意向はそれとして、他の財産を分けた時と同じように、貴女も少し譲る事にして、まとめる方向にもっていった方が良いのではないでしょうか」と諭します。<br />
「宝石だとか、書画、骨董に関しては、分けることが出来る物は４人で分け、分けることのできないものは売って金銭に替えて分け事にされてはどうでしょう。そもそも宝石や、書画骨董なんて、売る段になると、皆さんが思っていらっしゃるほどに、金銭的価値はないものですよ」と申します。<br />
即断で決心がつきかねた三女は、一応「妹と相談して」という事で帰ってきて、早速四女彩香に彼女の意見を聞きました。四女もまた長い争いに、倦んできておりました。それに万一裁判になって、細かく母親の財産を洗い直された場合は、母親から生前に、他の兄弟に内緒で貰った金融資産の事が、全てばれてしまう恐れもありました。<br />
従ってその案を聞いたとき、不承不承という顔でしたが、｢君江ちゃんがいいというのならそれで良いじゃない。家の為、母の為に、何もしようとしなかったお姉ちゃん達が、お宝の分け前を平等に取っていくと思うと、一寸癪だけどね｣と言って、賛成してくれました。</p>

<p>　｢本当に絵とか抹茶茶碗も、みんなで均等に分けるの。でもあんなものどうして分けるのよ｣と四女が聞きます。<br />
｢私としてはお母さんが大切にしていた鉄斎の絵だけは本当は貰っておきたいと思っているのだけどね。それだけくれれば、他の物は、みんなで好きなように分けてもらってもかまわなのだけど、どう思う｣と三女。｢そう、しかしあれは皆が狙っているから、チョット無理かもしれないと思うわ。私、私は出来れば小林古径の白鷺が欲しいんだけど。これ、もしも、誰も何も言わなかったら、私が貰う事にしようかなー｣と四女。｢良いんじゃない。うまい具合に、誰も何も言わなかったら、そうしなさいよ。しかしお姉ちゃんが、お母さんの死後、家の中をあちらこちら見て歩いていたから、多分気付いていると思うよ｣「まず皆の様子みてからにしなさい」という事で話が終わりました。</p>

<p>　書画骨董や宝石の分配はやはりすんなりとはいきませんでした。鉄斎の絵は、みんなが夫々、自分の所に欲しいと思っていました。宝石類は４人姉妹で、なんとか分ける事ができましたが、抹茶茶碗や、絵は分割することができませんからすんなりとはいきません。特に富岡鉄斎の絵は、お母さんがあんなにも大切にしていた物だから、とても価値があるに違いないと、姉妹皆が思っているだけに、簡単にはいきません。従って、最後は、売ってお金にして分けるより仕方がないと言う事になりました。母親の気持ちでは、これだけは子孫に伝えていって欲しいと思っていたようですが、この絵は１０００万円以上もすると姉妹は皆思っていますから、誰も譲ろうとしません。</p>

<p>　三女はその絵は、自分の手元に置いてやることが、一番母親の喜ぶ事だろうとは思いました。しかしそうは申しましても、絵画に何の趣味も持っていない彼女は、自分の相続した財産の中から１０００万円以上ものお金を持ち出してまで、その絵を、自分の手元においておく気にはどうしてもなれませんでした。そこで、みんなの言うとおり、売ってお金で分けることに同意しました。その時長女が「そういえば小林古径の軸もあったと思うけど知っている」と言い出します。｢うん、知っているよ。これもお母さんがお嫁入りのとき実家から貰ってきたんだってね。確か鉄斎の軸と一緒に長持ちの中に入っていたと思うよ｣と返事しながら三女は四女の顔を見て苦笑しました。｢それも一緒に持っていって売ってきてよ。あれだって結構お金になるらしいわよ｣と長女。｢お母さんがお茶を習っているときに使っていた抹茶茶碗はどうする。私、お茶はやってないから、価値があるのかないのか解からないけど。どうなのいい物ある｣と四女。｢この間少し見せてもらったけど、あまり価値がありそうな茶碗はなかったわよ。でもお母さんの使っていたものだし、もし皆さんがそれほど欲しくないなら、私今、お茶を習っているから、形見として貰いたいわ｣と次女。｢欲しいならもっていっても良いけど、中里何某とかという有名な作家の茶碗、買ったようなこと、お母さん昔云ってなかった｣と彩香が嫌味たっぷりな口調でいいます。すると｢そう、気付かなかったわ。もう一度見直してみるけど、もしそんな茶碗があるのでしたら、骨董屋さんに買い取ってもらって来て下さって構わないわ｣と言います。<br />
「それではそういう風に分けるということで良いですね」「後から遺産分割協議書を作って送らせてもらいますから、皆さんの捺印と印鑑証明お願いします」「所でいろいろ売ることになりますが、その時どなたか立ち会ってくれますか。それとも私の一存で売らせてもらっても良いかしら」と三女。｢任せるわ｣と他の３人。｢私も出来るだけ高く売るように心がけますが、後から値段の事、とやかく言わないでね｣と君江が重ねて念を押しましたが、皆に異論はありませんでした。</p>

<p>　後日、三女は四女を誘って、信用の置けるとおもわれる画廊にそれらの道具類をもっていきました。<br />
彼女達は、良いものだから、物凄い値段で売れるに違いないと思って、張り切ってでかけました、<br />
　所が、持っていった画廊のご主人は、少し見ていただけで｢そうですか。お母さんのご実家はさぞかしご立派なお家だったのでしょうね。これらの絵も、ご先祖様の素晴らしかった時代の証として、手元において大切になさったらいかがでしょう。分けられないから困るとおっしゃるのでしたら、どなたか代表の人がお持ちになればよろしいのでは｣と言うだけで、買おうとはしません。そこで二人が｢これっていくらくらいで買っていただける物ですか｣と思い切って切り出して見ますと、困ったような顔をしながら主人は、｢申し訳ないですが、私どもの扱っている品物とは違っていまして｣と言います。｢私どもも、遺産相続が絡んでいますから、他の姉妹に報告しなければなりませんから、はっきりおっしゃっていただいた方がいいのですが｣と三女が言いますと、｢それでははっきり言わせていただきますが、この鉄斎は怪しいと思います。大体こういったものは、絵に相応する箱,共箱などの中に入り、時代にあった表装がしてないと、それだけで価値がなくなってしまうのですよ。箱はどうされました｣と画廊の店主。<br />
「箱は多分古くなって壊れてしまったので棄ててしまったと思いますが」<br />
「表装も新しくなっているようですがこれはどうしてでしょう」<br />
「あまりに古くなったものですから、母が京都の表具士さんの所で表装し直したようです」「素人の人はついついそういったことをしてしまうのですよね。こういったものは表装の時代性や程度と、絵との整合性も大切なのですがね。その表具師さんもひどい事をしますね」<br />
「所でこういった古いものは、一般的に鑑定が難しいだけに、最近は所定の鑑定書がついていないと、市で値が通りません。ただ正直にもうしますと、この絵に関しては、鑑定に出すまでもないほどに絵が違っているように思います。鉄斎の絵はこんな弱々しい線ではありません。全体に受ける感じも丸みを帯びていて、柔らかすぎます。もし、どうしてもとおっしゃるのでしたら、鑑定に出すお手伝いをしてもよろしいのですが、多分鑑定料金だけ棄てる事になりますよ｣と画廊の店主は言います。｢それではこの古径の絵はどうでしょう｣と末の妹が勢い込んで申しますと｢この絵は印刷に後から手彩色したものです。もし値段をとおっしゃるのでしたら、奮発しても、まあ５千円もあればいいところでしょうね｣といわれます。｢それではあの鉄斎の絵はいくらくらいで｣と恐る恐る君江が聞いてみますと｢私どものお店で扱う品物ではありませんから、市（いち）に出して代わりに売る事になるのですが、さあー、いくらになりますか。あまり出来の良くないほうの贋物ですからねー。１，２万円くらいにはなりますかしらね。｣という返事。</p>

<p>　二人は顔を合わせて黙ってしまいました。あんなに期待に胸を膨らませてやってきたのに、シャボン玉が弾けたように夢が消えてしまったのです。もうあの中里何とかの抹茶茶碗の値段を聞く勇気もなくなりました。二人はしょんぼりとしてそのお店を辞しました。<br />
｢何、お母さんの言っていた宝物って、紙くずみたいな物だったの？お母さんは最後まで知らなくて、却って幸せだったわね｣「でどうする？又姉ちゃん達、ぶつぶつ言うかもね」「そんなもの好きなように言わしておけばいいのよ。どうせ何しても文句しか言わない人たちだから｣「でこの茶碗は」「そんなもの裕子姉さんが欲しがっていたから、あの人にあげましょうよ。そうすれば満足するでしょうから」｢それじゃこの絵は｣と四女。「価値がないからといって、もし私等が貰ったら、本当は良いものなのに、自分達が欲しいものだから、嘘を言っていると勘ぐられると癪だから、この際、私はもう辞退することにしたわ｣と三女。｢そうだわね、あそこであんな値段という事は、他所へもって行けば、もっと廉いに決まっているものね。私も辞退しておくことにするわ。なまじもらうと、後いつまでも、騙したとか、余分にあげたと言われかねないものね｣と四女も言います。結局鉄斎の絵は長女の所に、古径の絵と茶碗は次女のところに納まりました。妹達は意地悪にも、売りに行った時の様子を詳しく話しませんでした。<br />
「どうも鑑定書が付いてないから、良い値段で売れないみたい。ひょっとすると、鑑定に出すまでもないのでないかとも言われたから、鑑定にもださず、売ることもせずに、帰ってきてしまったわ」｢売りに行くのって、なんだか質屋さんに行くみたいな気恥ずかしさがあるから、もうこれ以上、持って歩くのは嫌。だからあなた達が好きなようにしてもいいわよ｣と言って、姉達に渡しました。</p>

<p>　売りに行った先での詳しい状況を知らない姉達は、「妹達あんな事を言っているけれど、そんなもの、鑑定に出したわけでないから解らないのに。町の骨董屋さん程度が、どれだけ知っているというの。本当は良いものなのに、見る眼がないから、安い値段を言ったのにきまっているわ。そんなものを信じて、要らないと言うなんて、あの子等なんておめでたいんでしょう。お母さんが、あれほど大切にしていたあの絵が、偽物であるはずがないのに。」と喜んで持っていきました。<br />
鉄斎の絵をもらう事になった長女も、古径の絵と茶道具をもらう事になった次女も、直ぐに鑑定に出して、もしも本物だと言うことになった場合は、「もう一度分けなおして欲しい」と言われかねないと思ったものですから、鑑定に出しませんでした。<br />
大きな夢を抱いて、長女も次女も今なお、これらの物を大切にしまっております。これらの作品は、次ぎ、誰かが売りに持っていくまでは、ご先祖様の裕福だった時代の話と一緒に、家宝として、子々孫々に語り継がれていくことでしょう。そして何代か後の相続のとき、誰が相続するかで、再び兄弟間の揉め事の種になるかも知れません。なんとも罪作りなお話です。</p>

<p>終わり<br />
</p>]]>

</content>
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<title>No.103　貰い物コレクション、その価値は？</title>
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<modified>2009-09-02T13:25:23Z</modified>
<issued>2009-06-12T06:18:47Z</issued>
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<summary type="text/plain">忙しさにまぎれ、永らくご無沙汰しておりました事、心よりお詫び申し上げます。 今日...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<![CDATA[<p>忙しさにまぎれ、永らくご無沙汰しておりました事、心よりお詫び申し上げます。<br />
今日から、新たに再掲載させていただくことにしましたので、今後とも御愛読賜りますようお願いします。</p>

<p>なお、このお話はフィクションで、実在の人物、実際の事件とは全く関係ありません。</p>

<p>その１<br />
先日、以前、横山大観先生の絵を売っていただいた事のあるお方から　お電話があり、「実を申しますと、あの大観の絵以外にも、もっと良い物を、いろいろ持っています。私も年ですし、子供たちも、こういった物に、それほど興味を示しませんから、この際それらも、いっそ処分してしまおうかと思っているのですが　一度相談にのって頂けませんでしょうか」と言われます。<br />
「そうですか、それでどんな物をお持ちですか。もし差し支えなければ、教えていただけます？」<br />
「実は私の父は、弁護士をしていまして、元総理大臣、Ｓ氏の管財人をしておりました。S氏というのは、いつも英国風なダンディな格好をしていらっしゃるので有名な方でしたが、絵画については全く関心がなく、職業柄、いろいろな所から贈ってくれた絵についても、『あんたが欲しければ、持っていきなさい』と言って、全部父にくれていました。従って、普通の家では見られないような素晴らしいものばかりが一杯あるのです」「そうですか。それは失礼しました。前回お出でくださった節は、何もおっしゃらなかったので、知らなかったものですから。それで、どなたの絵をお持ちでしょうか」</p>

<p>その２<br />
「今、名前を覚えていているだけでも、丸山応挙、狩野探幽、与謝野蕪村、橋本関雪、松村桂月、竹内栖鳳などの絵があります。他にも私があまり名前を知らない画家の絵が４,５点あります」<br />
「そうですか、凄いですねー。それでは一度見せていただいて、それからご相談にのるという事でどうでしょう？一度お伺いしましょうか」「いいえ、今、私のところ、病人の看護で、少し取り込んでおりますから、出来ましたら、そちらへ持って行っていただき、そちらで見ていただきたいのですが」<br />
「かしこまりました。それでは私のほうへ、一旦持ってきて、作品を見てから、どうさせていただくのが一番良いのか、相談させていただくという事でどうでしょう」<br />
「はい、それで結構です」<br />
「ところで作品は、軸物でしょうか、それとも額物でしょうか」「殆どが軸物です」「分かりました。それでは、取りに上がらせていただきますので、お宅の都合の良い日時を後でお知らせください。よろしくお願いします」という事になりました。</p>

<p>その３<br />
到着した作品を早速見せていただきました。<br />
松竹梅３幅対の丸山応挙の作品は、大正天皇が（皇太子の時）、御成婚の報告に伊勢神宮を<br />
参拝された際、お休み処に飾られたという、いわくつきの作品で、その旨証明する五二会館の書付がついております。<br />
しかし私こういった古画については専門でないので断定は出来ませんでしたが、どうも違います。二重箱に入ったその作品の表装がやや安っぽい感じがするのが気になります。又作品もあまりにも整いすぎていて、勢いを感じられません。<br />
（註：こういった場合間違って断定すると、贋物だった場合には、私どもが大変な損害を受けなければなりません。逆に本物を贋物としてしまった場合は、作品が可哀そうですし、持ち主に対しても失礼になります。従って鑑定は、慎重が上にも慎重に行う必要がありますので、怪しいと思っても、よほど、とんでもない贋物でない限り即断しないようにしています）<br />
又探幽の作品、これ、寒山拾得の三幅対の作品でしたが、こちらの表具は、作品に相応した古びた立派な表装がしてありましたが、二重箱になってはいますが、箱の作りがやや雑で、粗末な感じです。作品自体も、品格がなく、男性の足など、やや下手で、その描き方も手抜きがしてあるように感じられます。<br />
蕪村も、全体として絵に力と流麗さがありません。<br />
そのほかの画家の作品は、贋物ではないようですが､絵画の好みだとか、日本人の生活様式の変化で、昔、それを購入された当時は、流行作家として、価値が高かったかもしれませんが、コレクターの好みが変わってきている今日では、それほど高値が付くとは思えません。</p>

<p>その４<br />
私の事を信頼して処分を任された以上、それに応えるべく、お客様のご満足のいくように出来る限りの事をする事をモットーとしております。<br />
こういった作品の場合、まずその真贋を確かめる事が先決だと思い、こういった古画を扱うのに慣れていらっしゃる業者２,３人に相談してみました。<br />
所が、どの業者さんも、首を傾げ、一様に、「贋物の可能性が高いので、所定の鑑定機関に鑑定を依頼して、余分のお金をかけさせるより、むしろこういったものを専門に扱っていらっしゃる業者が沢山集まる交換会に出して売ってあげたほうがいいのでは」という意見です。<br />
「そういった会には、古画に目の肥えた業者が沢山参加してくるので、もしこれが本物なら、そういった業者が見逃すはずがなく、取り合いになって、鑑定書なんかなくても、絶対高値が付くはずだから」と。<br />
そして更に「もしこれが本物でなくても、そういった交換会には、怪しげな物でも、それなりに取り扱っていらっしゃる業者も沢山きていて、それなりの価格が付く可能性が強いから、交換会で処分してあげるのが一番お客様にとってもいいのでは」と言う意見です。</p>

<p>その５<br />
持ち主にその旨話して、結局、鑑定には出さずに、全て交換会で売ることにいたしました。<br />
そこで交換会側に依頼しましたところ、「これらの古画に、発句をつけるのは難しいから、成り行き売りにさせていただきたい」といわれます。<br />
註１；交換会での発句というのは、せりのスタートとなる価格で、その会を主催する会主が発句係として値付けしているのが普通です。<br />
　　　註２；成り行き売りというのは、発句係の値決めがなく、成り行きのままに出来た値段で売る事を意味します。<br />
これは持ち主にとっては、相当ショックのようでした。特に応挙の作品に関しては、先ほど申しましたような、五二会館の書付の付いた、謂れある作品です。従って国宝級の価値があり、少なくても何千万、高ければ億以上の価値があると期待していらっしゃいました。<br />
それを幾らで売れるか分からない、もしかしたらとんでもない安値しかつかない可能性もあるというのですから、ショックを受けられたのも最もな話です。<br />
そこで更に持ち主と相談した結果、応挙に関しては、家の“家宝”としてそのまま遺しておいて頂き、他の作品だけ、交換会で処分していただくという事で意見が一致いたしました。</p>

<p>その６<br />
交換会の結果は私の悪い予想通り、あまり良くありませんでした。<br />
古画のほうは、やはりどなたの目にも本物とは見えなかったようで、贋物の価格までしかきませんでした（贋物としてはまあまあのお値段でしたが）。<br />
他の画家の作品も、先ほども申しましたように、今日では、絵画に対するコレクターの好みも変わってしまっていて、本物ではありましたが、持ち主が期待していたような高値はきませんでした。</p>

<p>その７<br />
こういったことは、もらい物の場合よくあることです。<br />
以前、某繊維会社の重役をしていた、私の伯父の所のコレクションを見せていただいた事があります。<br />
この時見せていただいたものも、伯父本人の趣味で集めた物ではなく、人をお世話した時などに、お礼にとしてもらった、もらい物が殆どということでしたが、それらはやはり、地方ではそれなりに知られていても、中央では無名の画家の作品だとか、名のある画家の作品でもその画家の作品としてはあまり出来のよくない作品といったものばかりでした。<br />
こう言った事は、プレゼントする人が、絵についての知識を余り持っておらず、懐具合と相談して、画家の名前だけをたよりに、作品を買って来られた物が多いからだと思われます。<br />
また自分のコレクションしたものの中から、プレゼント用の絵を持っていかれる人もいますが、そういった場合、コレクターというのは結構、意地汚い所がありますから、一番良いもの、一番自分の好きなものは、ほとんど持っていきません。彼らがプレゼントに使う物は、名前は通っていても、すこし程度が落ちた作品とか、自分が飽きた作品などが殆どです。</p>

<p>その８<br />
戦前の日本では、どれだけお金もちになっても、どれだけお金を回りの者にばら撒いてもお金をもっているだけでは、成り上がり者として軽蔑され尊敬されませんでした。<br />
それを避けるためには、どうしても教養を身につけているように見えるよう、振舞わなければなりませんでした。その為の最も手っ取り早い方法の一つが、趣味人として、美術品を集めることでした。<br />
また美術品は、その家の家柄だとか、家格を誇示する手段としても必要でした。従ってある程度以上お金に余裕が出来た家では、何処でも競って美術品を揃えたものでした。<br />
しかし当時は、情報の伝達が今のようにスムーズでありませんでしたし、またこういった新たなコレクターになった人も、本当の趣味人として、物をきちんと見る目があったわけでもありません。彼らは、骨董商から言われるままに、絵そのものを見るのでなく、画家の名前や、自分の懐具合と相談した価格だけをみて、美術品を集めたものでした。従って田舎の地主だとか、成り上リ者の集めた美術品などには、怪しげなものがかなり混じっていると考えるのが妥当です。<br />
また、昔は骨董屋の方も、一般には素人上がりで、美術品の鑑識にそれほど長けていたわけではない人が多く、千三つ屋（註：せんみつやとは、言うことのほとんどが嘘で、本当の事は千に3個もないくらいのいい加減な人の事）と悪口を言われるほど、舌先三寸の商いをしている人が少なくなかったそうです。従って、そういった業者の納めた美術品の中には、本物か偽者か分からないようなグレーゾーンの品物、そのうちでも黒に近いような品物が、業者の口車にのせられて買わされているものが随分混じっている可能性があります。（これは祖父のいつも口にしていた事の受け売りです。無論中には美術品を心から愛する、きちんとした骨董商もいらっしゃいました。）<br />
そして、そうして納められたグレーな美術品の中には、箔をつける為に、いろいろなテクニックを使って（このテクニックについては、又別のところで機会がありましたら、お話させていただきます）、もっともらしいお膳立てがしてある場合も少なくありません。</p>

<p>その９<br />
一方、それを受け継いだ子孫はと申しますと、これまたそういった美術品に興味を持つ人は、非常に少ししかいません。<br />
従ってそれら美術品を受け継いだ人の殆どが、その真贋など分かるはずもありませんから、箱書きだとか、美術品に付いている古文書、先祖からの言い伝え、画家の名前などを頼りに、そういったものでも、先祖の遺してくれた立派なものだと思っています。<br />
しかし一方では、それを自分で集めたわけではありませんから、それに執着する心も、あまり強くはありません。<br />
そのため、言葉に出せないほどのお世話になった人への感謝の表わし方として、そういった物がお礼として使われる場合がしばしばあります。<br />
最高の感謝の印として、自分の家の、一番大切な物、先祖から伝わってきた宝物を、お世話して下さった人の所へ持っていくわけです。</p>

<p>その１０<br />
自分で蒐集した物ではない、有力政治家、有名財界人などのコレクションの中には、こういった、以上述べてきたような物、例えば、作家の名前だけは立派でも、金銭価値に換算すると、さほどでもない場合だとか、お膳立ては立派でも、本物でない古い美術品、コレクターの好みが、時代とともに変遷して、当時はそれなりの値段が付いていたものが、今日では値の通らなくなっている作品などなどが混じっている可能性があります。<br />
S氏のコレクションが、持ち主の思っておられたほどの価値がなかったのも、このような理由によるものではないかと思います。<br />
やはりコレクションというのは、コレクター自身が好きで、こだわって集めたものでないと、玉石混こう、それも石が多い混合という事になっている可能性が強いように思います。</p>]]>

</content>
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<title>No.102　美術品で儲けようなんて考えは？</title>
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<modified>2009-01-26T03:17:01Z</modified>
<issued>2009-01-26T02:01:22Z</issued>
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<summary type="text/plain">その１ 先日、年下の友人の結婚式に出た時の事です。たまたま私のお隣に座られたのが...</summary>
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<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>その１</p>

<p>先日、年下の友人の結婚式に出た時の事です。たまたま私のお隣に座られたのが、新婦のお勤め先の上司だった方で、５０歳代後半、ロマンスグレーの髪がとても良く似合う、おしゃれな感じの紳士でした。彼、美術品に、とても興味がおありのようで、私の名刺をみて、美術商だと知ると、いろいろ話しかけてこられました。<br />
「お嬢さん、銀座で画廊をしていらっしゃるなんて、素晴らしいですね。でも今は厳しいでしょ。こんな経済状況ですから」<br />
「そうですねー。確かに難しい時代ですわね－。でも、何とかやっています」<br />
「へー、そうですか。でもこんな不安定な時代に高額な絵なんか買える人がいるのですか」<br />
「世の中よく出来たもので、どんな不景気になっても、お金を持っている人はいらっしゃるものですね。そういう人達の中には、こういう時代だからこそと、買おうとしている人もいらっしゃるんですよ」<br />
「そういうものですかねー。それにしてもこんな時期に買おうとされるなんて、すごく余裕がある方ですねー」<br />
「確かにそうかもしれませんね。今度の不景気って、なんだかこれまでと違って、底が見えませんものね。人によっては、今度の不景気が回復するまでに、何年かかるか分からないといっているくらいですから。だから、私達も、今が買い時ですよとはお客様に勧め難い状態です。コレクターの自己責任、コレクターの相場観で買っていただくようにしているのですよ」<br />
「絵も大分下がっているとは聞いていましたが、やはりそんなに下がっているのですか」<br />
「特に投機資金が入ってきて、値上がりが大きかった系統の絵画の値下がりなんてひどいものです。最近やった、香港での現代美術のオークションなんか、買い手がつかず、散々だったという話です」<br />
「エッ、そんなに駄目だったのですか。そうですか、怖いものですね－」と溜め息。何だかがっかりされているご様子です。<br />
「こんなこと言って失礼ですが、お宅も、美術品を何か買っていらっしゃいました？」<br />
「えー、最近はやりの、今どきの作家の作品をすこしばかり」<br />
「そうですか。そりゃ大変ですね」「で何を」「村上隆だとか、奈良美智なども考えたのですが、彼らの本画は高すぎて手が出ませんでしたから、リ・ウーハンの作品などをすこしばかり。この人の絵の価格はどうですか。むろん下がってはいるのでしょうが、どれくらい下がってます？」「作品にもよりますけど、先ほども申しましたように、今では半値以下と思っていただいた方がいいかもしれませんよ。それでも買い手がつかないかもしれないといった状態です」「そうですか、痛いですねー」「でも好きで買われたのでしょ。だったら楽しまれたら、良いのではないですか」「それがそうでもないのです。画商さんから、『これから絶対に、上がる作家の作品だから』と言われて、家の財産として買っただけですから」「本当の事を言うと、私、あのような絵の、どこが良いか分からないのですよ」「それだけに、ひどく下がっていると聞いてがっかりしている所です」<br />
「でもねー。今回の物の価格の急激な値下がりは、別に美術品に限ったことではないのでは？株だって商品先物だって、投機的なお金が入っていた分野は、全て同じような現象が、おきているのではないですか」「そう言われればそうですね。株だって三分の一位になっているのが、一杯ありますものね」「ただ現代美術の作品の方が、投機資金が沢山入ってきていただけに、値下がりも大きいとは言えますけどね」</p>

<p>その２</p>

<p>サブプライムローンに端を発した世界的な大恐慌の影響は、美術品の世界にも容赦なく押し寄せてきております。<br />
特に現代美術の市場には、美術品で儲けようと考える人々による、投機資金が沢山入って来ていましただけに、その惨状は目に余るものがあります。<br />
そして、こういったバブルで最後にババを掴まされたのは、それに乗っかっての一儲けを企み、提灯買いをして、そういった絵画を貯め込んでいた一部の業者達と、それから、それほどその絵の事が良く分からないのに、あるいは好きでもなかったのに、助平心を出して、値上がりを見込んで買いこんだ、先ほどの紳士のようなお客さん達です。<br />
いつも申しているように、絵画は本来、値上がりを目的に買うべきではなかったのです。もし本当に、その絵を理解でき、好きで買われたのであれば、「勿体ない事をしたなー。今なら同じ作家の作品でも、もっと傑作が買えたのにとか、もっと何枚も買う事が出来たのに」という多少の悔いは残るかも知れませんが、好きな絵を所有しているという喜びと満足感は持ち続けることができます。<br />
しかし、値上がりだけを目的に買いこまれたのであれば、その絵を見る度に湧いてくるのは、耐えがたい後悔だけです。<br />
絵は本来鑑賞するために買うべきもので、値上がりを目的に手に入れるべきものではないのです。作品によっては、長期間保有していれば、買った時の価格より高い価格で手放す事が出来ることもあり得ます。しかしそれは、結果であって、本来の目的であってはならない事です。最近のように、絵が投資どころか、投機の対象にすらなっているのは、非常に忌むべき現象だと思います。</p>

<p>その３</p>

<p>「それで、これら美術品の価格が、再び戻ってくる事があるのでしょうか」「もし戻ってくるとして、戻るまでにどれくらいの期間かかると思いますか」とその紳士。<br />
しかしその時期を明確にあてる事は難しい話です。これから取られるであろう、各国政府の対応、すなわちどのような不況対策が取られるかに依存するところが大ですから、一概には言えません。<br />
従って、競馬の予想屋程度の、無責任な予測だと思って聞いていただきたいのですが、私の予想では、回復までには、大体、３，４年はかかると思っています。<br />
そもそも美術品の価格だとか美術市場の好不況は、景気と連動する傾向が強いようです。中でも株式相場との相関は強く、株が値上がり傾向が続くようになってから、大体半年位後に美術品の市場は活況を呈するようになり、値上がりが始まります。従って次いつ頃美術品の価格が戻ってくるかと言われても、それはこの不景気がいつ終わるかというのと同じで、なかなか予測が難しい訳です。特に今度のサブプライム破綻に端を発した、アメリカ発、世界大恐慌は、根が深く、次の大統領オバマ氏の経済政策いかんによっては、長期にわたる可能性も否定はできません。しかし一般的な今までの傾向では、新しい大統領の一回目の任期が終わる年の、一年くらい前ころから、景気は上向きになっている事が多いようです。従って大体３年くらい後には、景気が戻り始め、それにつれて美術品の市場も良い方に動きだすのではないかと思っています」<br />
「そうですか、それなら私の買った作品も、３、４年じっと我慢して抱え込んでいたら、元に戻ってくるのでしょうか」<br />
「お気の毒ですが、それは一概に言えません。次、何年後かに、この業界に賑いが戻って来たとしましても、今あなたが持っていらっしゃるような、今まで人気作家だった作家の作品の価格が必ずしも戻ってくるというわけではありません。株と同じで、こういった値上がりの激しかった作家の作品ではなくて、全く別の作家の作品がもてはやされるようになっている可能性の方が強いのです。特に現代美術の場合は、まだ新しくて、歴史の評価が定まっていない作家の作品が多く暴騰しておりましただけに、特にそういった傾向が強いように思います。恐らくは、何年後かに、現代美術の作品の中、マーケットでその価値が認められ、きちんとした市場評価にたった売買の対象になり得る作品というのは、それは将来、美術史の中に、その名を留める事になるであろう作品ですが、それはほんの数点にすぎないと思います。<br />
なお、一般的には、欧米の美術史の中に、その名を留める事が出来るようになるような作品の場合は、世界の美術市場の、どのマーケットでも評価されますから、欧米の景気、中でもアメリカを中心とする世界の景気に大きく左右される事になっています。日本だとか、韓国、中国、ロシアなどといったある国に限られた人気作家の場合は、その作家を生みだした国の景気に、左右される所が大きいようです。<br />
従って貴方の持っていらっしゃるリ・ウーハンなどの価格の戻り方は、３年後に韓国経済がどの程度良くなっているかにかかっている所が大でしょうね」</p>

<p>その４</p>

<p>「それでは、もしかしたら、今が美術品の買い時といっても良いという事ですか」<br />
「その場合は、どの作家の作品がお勧めですか」<br />
「確かに、ここ１，２年の間が、好きな作家の作品で、今まで高くて手が出なかった作品を買うチャンスかもしれません。しかしあまりに価格にこだわりすぎますと、同じ作家の作品でも、出来の悪い駄作を買いこむことになりかねませんから、要注意です。何故なら、同じ作家の作品でも、できが良く、最も脂が乗った時期に描かれた作品の場合は、一般に、値下がりは小さく、駄作や、若書きなどといった、名前で、売られているような作品の場合は、値下がりは大きい傾向があるからです。従ってもし、今買いに出られるのであれば、自分の好きな作家の傑作を狙うべきです。むろん好みがはっきりしている方であれば、将来の価格などに囚われる事無く、自分の好きな作家の作品で、自分が持っていたいと思うものを買うのがコレクションの王道です。<br />
特に欲しいと思っている作家は決まっていらっしゃらないが、しかし美術品は大好きで、この機会に一つ持ちたい、しかし将来あまり損をしないような作品を買っておきたいと思っておられる方は、出来れば、<br />
①既に、歴史の評価に耐えてきており<br />
②世界の市場に通用するような作家の作品で<br />
③しかもなるべく出来の良い作品、（その作家の傑作であれば最高ですが）それでいて<br />
④コレクションする人の感覚に合い、その人がその美術品を持っていて喜びと満足を感じるような作品を、お選びになる事をお勧めします」</p>

<p>「そうは言っても外国の絵画などは分からないから、あまり欲しくない。やはり日本人の絵画の方が感覚に合うから、それが欲しいとおっしゃる方は<br />
⑤今まで日本のマーケットで既に高い価値が認められている作家の作品（こういう既に市場で高く認められている作家の作品は、歴史的な評価にも耐えてきた作品と考えてもそれほど間違いではありません）をお勧めします。私はどうしても現代美術が欲しいとおっしゃる方の場合は<br />
⑥自分の美的センスを信じ、自分の持っていたいと思う作品を購入しておかれるべきです。<br />
⑦ただしこの場合は、歴史の評価が決まる以前の作品が殆どですから、このバブル以前のマーケット価格は参考になりません。金銭的な価値から言うと、ある程度博打的な要素が強いと考えてお買いください。何年か後に、買っておいてよかったと思うような高値になっている事もあれば、流行が変わって、殆ど市場で価格がつかないといった状態になっている場合もありうる事は覚悟すべきです」</p>

<p>その５</p>

<p>「現代美術が好きで、この機会にぜひ買っておきたいと思っているけれど、自分の独断だけで買うには、選ぶ自信がない。出来たら大損はしたくないから、買う上で、何か素人コレクターの参考になるような目安はないでしょうか」とおっしゃるお客様も時々いらっしゃいます。しかし正直言って私らのような画商でも、現代美術の場合、次にどの作家の作品に、あるいはどのような傾向の作品に、この後人気が出てくるかは読めません。ただ文化は、一般的に言って、その時代、国力の強い国の文化がより、グローバルになっていく傾向がありますから、<br />
⑧美術品の場合も、国力の強くなっていくような国の作品で<br />
⑨しかもその作家についている画廊（契約画廊）や評論家に、マーケット影響力の強い画廊や評論家がついている場合、比較的将来性があるものが多いと考えられます。<br />
⑩同じような意味で、有力コレクター（金銭的にも、鑑賞眼の上でも、市場で一目置かれているようなコレクター）がついた場合も、その作家の作品はかなり将来性がでてきたと考えて良いと思います。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
従ってそのような作家の作品で、自分の気に入った作品を見つけた場合、それを買っておかれれば、かなりの確率で、ご要望に応えられると思います。<br />
　　<br />
												<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.101　食品のブランド化と流行作家　後篇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2008/12/#000126" />
<modified>2009-01-23T07:07:34Z</modified>
<issued>2008-12-19T05:16:56Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2008://2.126</id>
<created>2008-12-19T05:16:56Z</created>
<summary type="text/plain">後篇　流行作家はどのようにして生み出されるか アリゾナ州立大学社会心理学教授のR...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>後篇　流行作家はどのようにして生み出されるか</p>

<p>アリゾナ州立大学社会心理学教授のR・チャルディーニ氏によりますと、人の心を動かす方法は、次のような６つの原理に集約されるといいます。（２００７年１０月１１日：日経新聞夕刊より）</p>

<p>①　返報性の原理；相手が何かをしてくれたら、返さなければならないと思う心理を利用<br />
②　社会的証明の原理；多くの人がやっていることに、引き摺られがちになる心理を利用<br />
④　好意の原理；好意をもつと、その人の言う事をうのみにしやすい心理の利用<br />
⑤　権威の原理；権威のある人に従ってしまう傾向の利用<br />
⑥　希少性の原理；もう後僅かですとか、これしかありませんといった言葉につられて、つい行動を起こしてしまう心理の利用<br />
これらの一つ或いは複数の組み合わせによっているといわれています。</p>

<p>その８</p>

<p>「先ほども言ったように、流行作家を生み出す場合にも、似たような、心理的な操作方法が使われておる事が多いように思います」｢ただこれが、純然たる騙しと違うところは、ここに、騙そうという、悪い企みが入っていないことです｣「画商がまだ無名か無名に近いような作家に力を入れて取り扱おうと思うようになるのは、その作家の作品に、感覚的（殆どの場合はこれにあたります）、或いは理論的に（現代美術の場合には、感覚的というより理念に共感してというものもあります）、感動し、価値を認めたからです。無論画商も商売ですから、それだけでなく、この作家の作品は、将来絶対に売れるようになるという確信とそうなれば儲かると思う欲心も、もってはいるでしょうが、自分が素晴らしいと思ってもいない作品を、騙して売りつけてやろうとするようなよこしまな心はありません」「従って、その作品には、（取り扱いを決めた画商がはっきり意識してそういった選別をされているのかどうか分かりませんが、少なくとも、後の註に示してあるような条件を、備えているものと考えられます）（註参照）</p>

<p>註）　<br />
ⅰ）扱う画商の感性に合って、彼を感動させてくれる作品であること。<br />
ⅱ）技術的に一定以上の水準で、その作品から、作家の表現しようとする意図が充分に伝わってくる作品であること　　　　　　　　　　　<br />
ⅲ）その作家の作品が、多くの人々の心にも、感動を与える、ないしは共感を呼び起こしうると考えられる作品であること<br />
ⅳ）尚、この感動を与える、或いは共感を呼び起こすという点については、現代美術の場合などでは、感覚的な感動を与えるというより、理論的な共感を呼び起こすというものも入っております。<br />
ⅴ）その時代に生きている人間の心を掴むためには、その時代を反映しているか、時代を先取りしている作品であること。絵画の歴史を紐解いてみたとき、絵画はその時の社会情勢、思想、そして科学の進歩などと、密接に関係しており、ある場合には、先見性すら示している事があるからです。（そういう意味では、グローバル化と漫画文化隆盛の今日、アメリカのポップアートの流れを汲む、漫画っぽい絵画、村上隆、奈良美智などが世界的にもてはやされるようになっている現状にも、合点できる所があります。）<br />
ⅵ）作品に、オリジナリティがあること<br />
ⅵ）作品に、美術史の中に残りうるほどの、斬新性ないし、革新性があること</p>

<p>「所で、例え、そういった優れた作品を生み出す作家がいらっしゃったとしましても、それを見出してくれる人がいなくては、誰にも分からないのですから、その作家の作品の価値は世間から認められません。作品の価値を世間に認めさせるためには、作家自身の努力のほかに、それを広く知ってもらうための売り出し作戦が必要となります。この作戦に一役買ってくれるのが、彼の作品に感動し、価値を見出し、取り扱いをきめてくれる画商達ですが、中でも、その作家の作品を一手に引き受け、取り扱ってくれることを決めてくれる、契約画廊は、その作戦に大きくコミットしてまいります」</p>

<p>その9</p>

<p>「画家と画商は、作品を売り出すために、いろいろなテクニックが使うわけですが、その方法も、それを分析すると、結局、前に言った、R・チャルディーニさんの、人の心を動かす原理の、どれかにあてはまってくる場合が多いようです」｢フーン、で、どんな風に使われているの｣「この（原理の）中で、比較的よく使われるのは、権威の原理、ないしは権威の原理と、社会的証明の原理の併用した方法です。一つの例をあげると、まずこういった売り出し作戦は、国内外の大きな展覧会や団体展、グループ展に出品することによって、著名批評家、有力画商の注目を集める事から始まります。その展覧会で受賞、海外での活躍情報、海外の美術展に入賞によって、注目されるようになる画家も多いようです。こうして、著名批評家達、有力画廊、画家仲間の中で、その作品が認められるようになってまいりますと、その画家に注目し、彼の作品の取り扱おうとする画商が現れてまいります。画家によっては、契約画廊となって、彼の作品の売り出しに全面的に協力を申し出てくれる画廊もでてまいります。その場合、そういった画廊は、その知名度を上げるために、全面的に協力します。内外の権威ある美術館(日本でなら国公立美術館といった場所)や、有名百貨店などで、度々個展を開くのに協力してくれたり、個展への新聞社の後援を取ってくれたり、評論家などからコメントをとってくれたりして、作家の知名度を上げるため努力してくれます」｢それなら、展覧会で認められない作家は、画商や批評家達の注目を集められないということかしら。もしそうなら、全く新しい、革新的な絵画なんて出てくる余地はなくなってしまうはずだけど。だってそういった古い体質の展覧会って、海外の先進的な展覧会では違うかもしれないけれど、一般には、古い固定観念に依存する審美眼に囚われていて、なかなか新しい革新的な絵画を認めてくれようとしないもの。その上、そういった展覧会では、審査に当たって、師弟関係とか、情実、付いた先生の力関係、仲間内での政治力などといったものが幅を利かせているとも聞くし｣｢そうだね。まったく新しい絵画に挑戦している作家のような場合は、印象派の初期の時代でもそうであったように、古い体質の展覧会では、審査員自身が、理解出来ないのですから、認めてもらえないという事もあり得るだろうね。しかし画商や批評家もそういう従来の固定観念に囚われた人達ばかりではなくて、美術誌だとか、展覧会の情報などによって、広く美術界の動向に注目して、自身の感性に合う作品で、且、時代の最先端を走っていると思われる、革新的な画家の発掘につとめていらっしゃる(主として現代美術を取り扱っておられる画商達ですが)方々もいらっしゃいますから、見出されるためには、必ず既定の展覧会への入賞が必要というわけではないのだよ。ただこう言う作家を売り出すには、画商の苦労も多いだろうけどね｣｢こうしてある程度名前が売れてきた作家は、次は美術評論家などの推奨をとるように働きかけたり、美術雑誌や新聞などに取り上げてもらうように働きかけたりする事もあると聞いているよ｣｢エッ、そうなの、そういうのって、優れた作品だったら、放っておいても取り上げてくれるんではないの｣｢眼に留まって、彼らの感性に合ったり、理論的に共感できたりすれば、黙っていてもとり上げてくれるだろうけど、何しろ、画家の数なんて、非常に多いもんだから、小さなグループ展や、地方での活動の人は、眼にとまらない場合もあるから。またね、非常に革新的だったりした場合は、誰かが、その絵の意義と素晴らしさを、積極的に売り込んでいかない限り、その作品の意義に気付いてくれず、取り上げてくれないこともあるだろうからね。評論家にしても、美術担当の記者にしても、美に対する従来の固定観念に囚われている人が多いから、そこから抜け出した、新しい見方をしてくれる人は、始めのうちは、非常に少ないからねー。うまい具合に、外国の著名美術展での入賞だとか、国外の有名美術館への収蔵などといったニュースがでると、画商や評論家そして一般の人達の注目を引き、その作品の価値を、見直させることができる場合がありますが。なにしろ日本人というは、権威だとか海外の評価には弱いところがあるからね｣(権威の原理)<br />
「ほかに国内外のオークションでの高額落札のニュースとか、有名寺院の襖絵とか天井画の制作、公共の場所での壁画制作、勲章の受章等などといったメディア情報も画商や評論家たちの関心を惹くだろうね。こうしたニュースは、さらに一般の人々にまで伝わるから、世間の注目を集め、その作品の価値を高めるのに役立ちます。こうしたメディアからの情報の繰り返しは非常に有効で、こういった事によって、その作家の評価は益々高くなっていきます。そしてそれにつれて、同調性バイアス(偏り)現象が起こり、素晴らしいと感じる人がどんどん増えてまいります。そうするとその作家の作品を欲しがる人も増え、それに連れて、その価値(イコール価格)も、上がっていくというわけです」(社会的証明の原理)</p>

<p>その10</p>

<p>「他にも、百貨店などでの個展の後だとか、講演会の後などに、作家を囲む会だとか、サイン会などを催して、親近感を持ってくれるファンを殖やす努力をするとか、作家の国内外においての活躍状況を、マスコミや、ミニコミに繰り返し流す事によって、その名前を人々に印象付けるよう努めるとか、価格を維持するために、市場に出す作品の数をコントロールするとか、なるべく長く持ってくれそうなコレクターに買ってもらうようにする、投機や投資を目的とする人に売るのを避ける、市場に出てくる作品を買い支える等といったことが、よく行われておりますが、作家の知名度と、作品の価値を高めるためにとられている、これらの戦術も、要約してみれば、R・チャルディーニさんの言う、6個の原理のうちの、好意の原理、一貫性の原理、希少性の原理のどれかに帰しているように思います」</p>

<p>その11</p>

<p>「そんな話を聞くと、美術品の価値(註：俗世間では、価格で測られていますから、イコール価格とここでは考えてください)って何だろうって、考えさせられてしまうなー。」<br />
｢物の価格というのは、美術品に限らず、需要と供給によって決まってくるのは、誰もが知っているところだよね。だから需要が大きく、供給が少なければ、当然物の価格は上がってきます｣「絵画などといった美術品は、もともと趣味の物で、生活必需品ではないのだから、特にその関係が密接で、興味のない人にとっては、どんなに素晴らしい作家の作品であっても、殆ど無価値だよね。ところが、それを欲しいと思う人にとっては、万金を払っても、惜しくないものでもあるわけです。一般に、まだ世間的にそれほど注目されていない作家の作品に対しては、コレクターの食指は動かないのが普通です。最初のうちはその程度の認識しかされてなかった作家に対して、彼の作品を感動してくれ、賛美してくれる人を生み出し、かつその数を増やしていき、そしてそれによって、その作家の作品を求める人々、即ち需要を生み出してくる為の方法として使われるのが（こうすることによって、その作品の価値すなわち価格をつりあげるわけですが）、前に述べた、R・チャルディーニ氏のいう、人の心を動かす方法というわけ。」｢では、そこには無理して価値をつりあげられている作品も入って来るという事。それなら、そういった作品は、将来鍍金（メッキ）が剥げて、価値がなくなってしまうということはないのかしら｣<br />
｢先ほどもいったように、多くは、画商がその作家を取り扱おうと決めるまでには、一人または複数の画廊店主の目だとか、評論家の目、そして展覧会の審査員の目などといった美術に関係する専門家達の複数の目をくぐってきているから、ブランド食品と同じで、その時点では、平均的な水準以上、それなりの固定ファンも付いているから、金銭的価値もあると思う。しかし将来とも、歴史の評価に耐えられるほどの価値を持ち続け得るかという事になると、それは疑問だね。長いタームで考えると、その価値(価格と連動して考えられることが多い)は変動するだろうね。今までの物故作家の例から考えても、殆どの作家は、将来的には、人気が離散して、価格が下がっていくと考えた方が妥当だと思う。 複数の人の眼を通り抜けて選ばれてきた作家達だけに、こういった作家の作品の価値が、全くゼロになることはないとはおもいますが。しかし歴史の評価に耐え、後々、美術史の一ページ、ないしは一行を飾ることができるのは、その中の、ごくごく一部だろうね。そういった意味では、古い審美眼に縛られた複数の人の目で選ばれ登場してきた作家より、時代の先が読める、新しい感性や、見識を持った画廊店主や、評論家達が、彼等自身の目で(他の画商の動向や、評論家や、他の画家達の意見に惑わされないでという意味ですが)取り扱いをきめたり、推奨したりした作家の方が面白いかも知れないね。こう言った作家の中から、歴史の評価に耐え、美術史の一ページに燦然と輝く作家が飛び出てくる可能性が強い事は、過去の歴史が物語っていますから(そのようになっていけるのは、その中のごくごく稀ですが)。しかし、そのような作家の作品を購入することは、大きな危険と背中合わせということも、知っておいてもらった方が、良いでしょうね。何故なら、こういった種類の作家の作品の価値というのは、最初にそれを見出した画商だとか、評論家といった人の個性と感性、すなわち個人的な審美眼や、見識によっている所が多いですから。もしその画商とか評論家に、歴史の評価に堪えられるような作品を、見出せるような、真の審美眼が備わっていなかった場合は、後々、その作品の価値を認める人の広がりを得ることが出来ないままに、やがて忘れられてしまう可能性だってありますからね｣</p>

<p>その12</p>

<p>作家によっては、ある程度人気が出てまいりますと、その作品を求める人が少しずつ増えていき、そしてそれに連れ、価格もまた上昇、更にその価格の上昇にあわせて、それを求める人も多くなるといった、上昇スパイラルにのって価格が上がっていく場合があります。こうなってきますと、将来の値上がりを見込んでの、投資を目的とするお金だとか、短期的な鞘取りを狙っての投機資金などが入り込んでくるようになります。その作家の作品を愛し本当に欲しいと思っている人から、この作家の作品を飯の種にしようと思う人(主として画商)、そして投資や、投機の対象として買おうとする投資家などなどが入り混じって、撒き餌に群がる魚のように、買い漁り急騰することがあります。こうなってまいりますと、そこは、正常な需要と供給の関係が崩れた、ただ欲と、思惑の蠢く魑魅魍魎の世界となってしまいます。そしてその作品の価格は、その作品のあるべき位置から(註：多くの画商たちが、自分たちの経験から考え、その時点での、この作家の平均的な出来の作の価格と考えているものを指しています。) かけ離れた場所に、位置する所まで上ってしまいます。</p>

<p>その13</p>

<p>一般に、コレクター達は、このように急激に高くなってきますと、このまま買わないでいた時は 、日が経つにつれ、益々高くなってしまって、もう手の届かない価格になってしまうのではないかという恐怖心に駆られるようになります。そして、そのため慌てて買いに走りがちです。しかし、このように急激に価格変動をきたした作家の作品を、慌てて買うのが適切かどうかについては、疑問を感じます。一般には、このように急激に値上がりをする場合には、何か裏があるのではと、疑った方が妥当です。この作家の作品への投資だとか投機によって、或いはその作品の売買によって、儲けてやろうと企んでいる人たちのお金だとか、思惑などが入りこんできて、その作品の価格を底上げしている可能性が強いからです。普通の人が、こんなのに乗せられて、提灯買いを（他の人達が買うからといって、それに吊られて、買いにでること）しようものなら、（ある程度値上がりした頃を見計らって、投機資金は逃げてしまいますから）大損をするという事になりかねません。<br />
それにもう一つ気懸かりな事には、こういった時期の作品の中には、作家への注文が多くて、捌ききれず、いかにも売り絵ですといった、ある程度手を抜いた作品が混じっている事があり得る事です。</p>

<p>その14</p>

<p>美術品（此処では主として絵画についてのべますが）は、先ほども申しましたように、興味のあるひとにとっては万金にも換えがたい価値がありますが、興味のない人にとっては、なんの価値もありません。特に今までの形式とは全く異なる革新的な表現様式や、理論に基づく現代絵画のような、理解し難い作品などの場合は、始めのうちは、その価値を認める人はごく僅かです。そして、もしそのまま、その価値を認める人の広がりを見る事が出来なかった場合は、その作家の作品はやがては、ごみ扱いされかねない存在でしかありません。そのような物に、価値を認めさせ、その作品が素晴らしいと思う人の数を殖やしていき、その作品に対して、お金を払う人を生み出そうとするわけですから、考えようによっては、こういった作品に価値を作り出そうとする人達は、無から有を生み出す、まるで魔法使いみたいなものです。まして、それの価格が急激に高騰していくような場合、それにさらに、投機資金という、怪しげな力が絡んできているのですから、一般の人々に、天国に上る夢を見させてくれる事なんて、お茶の子さいさいです。しかし夢はいつか覚め、バブルはいつか弾けます。人工的に持ち上げられすぎた価格は、いつかは、その作品の居るべき居心地のよい場所へと戻っていくのがその作品の宿命です。ブランド食品の場合の消費者ではありませんが、美術品のコレクターもこういった美術品を取り扱う画商達も、もっと賢くなるべきです。食品の美味しい不味いは、他の人の舌ではなく、自分の舌で決めるべきであり、絵の良し悪しは、自分の目と感性によるべきなのです。自分の感性に合わない作品を、誰かが何かをいっているからといって、充分理解もできないうちに、直ぐに手をださない事です。まして価格がどんどん上がっていくからというので、助兵衛心を出して、儲けてやろうと思って、それほど感性に合わない絵、好きでも嫌いでもない絵を買うなどと言うのは論外です。だからといって、革新的な新しい時代の絵画に飛びつくなというような、保守的な事を言っているわけではありません。むしろ新しい時代には、その時代に合った、新しい絵画(芸術全般に言える事ですが)が生まれるのが自然であり、その時代に生きる人間は、それを理解しようと努めるべきではあると思います。ただ理解出来ない、或いは共感できないにもかかわらず、ただ新しいからという理由だけで、或いは儲かるからという助兵衛な心で、安易に飛びつくのではなく、研究し、その作品を理解したり共感できたりするようになってから、購入されたほうがいいのではないかと言っているのです。</p>

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