<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<feed version="0.3" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xml:lang="ja">
<title>画廊店主のひとり言</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/" />
<modified>2008-04-28T07:41:28Z</modified>
<tagline>・・・・・ アートを知り尽くそう！ ・・・・</tagline>
<id>tag:column.oida-art.com,2008://2</id>
<generator url="http://www.movabletype.org/" version="3.2-ja-2">Movable Type</generator>
<copyright>Copyright (c) 2008, 画廊店主</copyright>
<entry>
<title>No.90 金縛り(科学があまりに進みすぎるのも)　（後編）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2008/05/#000114" />
<modified>2008-04-28T07:41:28Z</modified>
<issued>2008-05-01T06:20:09Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2008://2.114</id>
<created>2008-05-01T06:20:09Z</created>
<summary type="text/plain">その5 それではあの瞼の裏に見えた、女の顔は一体何だったのでしょう。私はついこの...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>その5</p>

<p>それではあの瞼の裏に見えた、女の顔は一体何だったのでしょう。私はついこの間まで、この現象こそ、人智を越えた何物かの現象を証明するもので、そういった人智を超えた存在例えば霊魂のようなものが引き起こしてくる現象だと思っていました。しかし残念なことに、脳科学によりますと、どうもこれは、夢の一種にすぎないようです。それは、睡眠から覚醒し始め、脳や感覚器官の働きが完全に覚醒時の状態になる直前にみた夢で、その為、目覚めの後も、比較的鮮明に記憶していただけのようです。<br />
夢というのは、脳が睡眠状態になり、外界からの情報が殆ど入らなくなったとき、或いは正確に認識しなくなったとき、代わって、記憶の読み出しがさかんに行われるようになる事によって起こってくる現象です。ノンレム睡眠よりレム睡眠への移行によって、やや活性化してきた脳の記憶領域が、記憶の貯蔵庫から情報を活発に読み出すようになります。こうして読み出された情報はやや活性化している脳の働きによって、主として視覚的な映像と運動感覚として合成され、認識されます。これが夢を見るという現象です。記憶の読み出しがどのような仕組みでおこなわれ、そしてそれが、どのような仕組みで合成されてくるのかは、まだ解明されていません。しかし末端の感覚器官や、各種の臓器から送られてくる情報の不完全な認識が、記憶の貯蔵庫の中から夢の材料になる物を呼び出す刺激になったり､夢の合成に関与したりしてくる場合があることは分かっています。例えば睡眠中に尿意を催してきた時、水に関連する夢を見やすいとか、腕が身体から落ちたとき、自分が高い所から落下する夢を見る、胃の具合が悪いとき食べ物の夢を見る等などは、その例で、皆さんにも思い当たることがおありだと思います。<br />
金縛りのときに認識した不気味な気配や、女性の顔のようなものも、このような仕組みによって生まれてきたものと考えられます。布団や筋肉の重さが伝える不完全な感覚刺激ないしはその認識が、脳に記録してあった、不気味な物の存在の記憶と結びついて、そのような視覚的な映像を呼び出し、夢として合成してきたものと考えるのが妥当のようです。</p>

<p>その６</p>

<p>２０世紀、特にその半ば以後における、文明の進歩と科学知識の普及は、自然に対する畏敬の心を駆逐し、汎神論的な考えや、妖怪変化の存在などを未開人的な思想、迷信などと片付けてしまいました。今では、山々や河には神がおわしまし、木々に精霊が宿り、暗がりには妖怪変化が住み、川には河童が、野山では狐や狸がいて、人を騙すなどといった話は、民話の世界に生きているだけで、存在を信じている人は、よほどの田舎へ行っても、見なくなってしまいました。私が子供の時いらっしゃったような、太陽や月に手を合わせ、日々の自然の恵みに感謝するといった人の姿も、最近ではめっきり見なくなりました。人々はそういったものの全てを、ごく日常的な当たり前の自然現象としてしか考えられなくなってしまっています。僅か数十年の間に随分の変わりようです。さらに１９００年代後半以後の科学の進歩と関連しての各種テクノロジーの進歩とそれに基づく各種検査機器の発達は、各種の研究に飛躍的な発展をもたらしました。<br />
中でもDNA研究は、その解析、体外受精、遺伝子操作、遺伝子治療、クローン動物の誕生、DNAの合成の試み(これは将来人工生命体の誕生を生み出す事に繋がります)などなどによって、生命の神秘や生命の誕生の秘密にまで立ち入ろうとしております。またコンピューターの発展による人工知能の進化、人工衛星打ち上げ、観測機器の進歩などに基づく天文学の発展は宇宙誕生の秘密にまで迫るものです。今では人は、神に取って代わってその座を占めようとしているかのようです。</p>

<p>その7</p>

<p>脳科学の分野においても、各種検査器具の出現によって、脳の働きが視覚的に解析できるようになり、それらの検査機器の発展、DNA解析、遺伝子操作などといった他の学問の研究の成果ともあいまって、脳の働きと、精神作用との間に密接な関係があることが証明されてきました。今後更なる、それら機器の発展が予測されていますが、それによって、人の心の動きそのものを、より明確に、より具体的に捉える事のできる時代が遠くない将来において来るであろうと思われています。<br />
そのような時代になれば、私たちが聖なるもの、神秘なるもの、霊なるものと考えていた世界は、すべて脳の働きによって創りだされた観念的な虚構の世界に過ぎず、それらの世界は、脳細胞を(という事は肉体をということですが)離れては存在しない事がより明白になってくるに違いありません。長い間、民話で伝承されてきた河童や天狗、そして人を化かす狐狸の類が、文明の発達とその普及と共に忘失されていったように、死後の世界とか霊魂などといった、肉体をはなれた超自然的存在は無論のこと、神や仏といった、神秘的なものの存在までも、人の心の中から消え去っていくことになるであろうと思われます（今既に日本では、形式的、便宜的に信じているだけの人は別として、神そのものの存在を本当に信じている人の数は非常に少なくなっているように思われます。）<br />
こうした時代が到来しようとしている今日、アートはどのような方向に向っているのでしょう。人は何に美を感じ、何に感動するのでしょう。アートは、時代を先取りするといわれています。１９００年代、半ばから始まった無機的なモダンアートの濫立と、そのめまぐるしいまでの変遷は、このような無味乾燥時代や、精神的混迷時代到来の前兆ではないかと思えてなりません。やがて来るべき、心の砂漠時代、そこに咲く花が、どんな花か、見当もつきません。或いは花も咲かない無味乾燥な砂原が、延々と広がるだけの荒涼たる世界となっているのでしょうか。そんな世界でもいる、黄金の輝きを求めてさ迷う妄執の亡者の姿、想像するだけでぞっとしませんか。</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.89 金縛り(科学があまりに進みすぎるのも)　（前編）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2008/04/#000113" />
<modified>2008-04-17T09:09:23Z</modified>
<issued>2008-04-17T05:37:27Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2008://2.113</id>
<created>2008-04-17T05:37:27Z</created>
<summary type="text/plain">その１ ある朝の事です。なんだか重いものが布団の上から圧し掛かって（のしかかって...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>その１</p>

<p>ある朝の事です。なんだか重いものが布団の上から圧し掛かって（のしかかって）くるような気がして、目を覚ましました。意識ははっきりしているのですが、身体が全く動きません。目も開けて、確かめてみようとしましたが、瞼も開きません。はっきり分からないのですが、なんだか黒い気配が布団の上に圧し掛かってきています。無言のまま、息も出来ないほどに強く圧し掛かかってくる、その黒い気配、恐ろしさに、思わず声を上げようとしますが、気ばかり焦るだけで、声も出ません。そのうち異様な感じは一つの形をとり始めました。瞼の裏に映し出される、黒白のその世界は、夢をみているようでもあり、目覚めていて幻を見ているようでもあります。誰か定かでない白い顔を持った女性の黒い影が、布団の上に座って、じっと私のほうを見つめています。突然、私の思わずあげた悲鳴が、耳に届きました。その瞬間、魔法から覚めたように、突然息が楽になり、胸に圧し掛かっていた気配は消え去り、手も足も、自由に動くようになったのを感じました。起き上がった私は、眼を開けて辺りを見廻しましたが、あの不気味な物の姿はどこにも見当たりませんでした。手足を動かしてみましたが、頭も身体もすっきりして、何の異常もありませんでした。窓からは、もう既に、薄白い朝の光が差し込み始め、部屋の中も、薄明るくなってきております。あれがいわゆる金縛りだったのだと思った瞬間、何故だかわかりませんが、身震いが起こって止まりませんでした。</p>

<p>その２</p>

<p>朝食の時間、家族皆が揃ったとき、早速その話をしました。妹や弟は｢フーン、又お姉ちゃんのオカルト話、大げさな。大体、お姉ちゃんは怖がりだから、そんな変な夢を見るのよ。｣と全く相手にしてくれません。しかし、給仕をしていたお手伝いの小母さんは、｢お嬢さん、もしかしたらそれ、亡くなられた奥様かも知れませんよ。いつも、いつも、お嬢様の事、気にしていらっしゃいましたから、何かおっしゃりたい事があって、出ていらっしゃったのと違うかしら。最近、何か思いあたる事ありません？｣と気味の悪い事を言い始めます。｢うーん、別に何もなかったけど。｣｢そういえばお父さん、お母さんの法事の準備、チョット遅れているんじゃない。もう手配した。｣と言いながらも、とても気に掛かります。そんな私に父は、｢まだだけど、そんな事、関係ないよ。大体そんなもの見たからと言って、心配する事ないよ。金縛りなどというのは、最近の研究によると、一種の生理現象で、睡眠から覚醒へと移行する間の、ほんの一時、意識レベルと、身体機能の覚醒レベルの間にずれが生じることがあって、それによって起きてくる現象に過ぎないそうだから。心配なら、本を貸してあげるから、後で、自分で確かめてごらん。｣といってくれました。</p>

<p>その３</p>

<p>（この章　少し難しい話になっていますが、我慢してお読みください。）<br />
私の理解したところによりますと、睡眠には夢を伴う、浅い眠りのレム睡眠の時間帯と、夢を見ない深い眠りのノンレム睡眠の時間帯とがあるそうです。普通、一つの睡眠で、それを交互に繰り返しており、朝方になるとレム睡眠に移行し、眠りは徐々に、浅くなっていき、そして目覚めるといわれております。レム睡眠というのは、あるレベル以上の強さの刺激を受けたときは、直ぐに目覚める事が出来る程度の、浅い眠りの状態ですが、視る、聴く、触って感じるなどと言った外界からの感覚は、通常、眠りの状態にあるときには、例えレム睡眠のように浅い睡眠のときでも、刺激があるレベル以下の間は、脳のほうには伝わらないか、伝わっても、脳は正確にそれを認識しないようになっています(だから眠りが続くわけです)、末端の感覚器官は働いているのですが、その刺激は一定以上のレベルに達しない限り、脳まで伝達されない、或いは届いても脳は正確にはそれを認識出来ないようになっています。重力に対する感覚も同じように脳には伝わっておりませんから、睡眠中は、重力に対する情報も脳は感知していないか、正確に認識していません。感覚的には無重力の状態の中にいると同じになっています。従って、布団だとか、自分の身体の重みといったものを感じていません。話は少し横にそれますが、飛んでいる夢や、ふわふわと浮いている夢を見やすいのは、この無重力の感覚が夢の内容に反映されるからだといわれております。<br />
一方運動機能で言えば、睡眠中は、随意筋といって、個体が覚醒している時、意思の力で動かすことの出来る筋肉、例えば腕や脚を動かす筋肉などは、弛緩し、だらりとして動かなくなっております。そのため腕にしても、脚にしても、他の人が持ち上げてみるとお分かりのように、身体のどの部分も同じですが、筋肉の働きで支えられていないので、寝ているときは、とても重くなっております。所が先ほども申し上げましたように、睡眠中の脳は、重力を感知していません。従って普通レベルの睡眠状態の間は、（例えレム睡眠のような浅い睡眠状態のときでも、）自分の身体に重みを感じる事はありません。<br />
ところが最初に申しましたように、同じ浅い睡眠であるレム睡眠の中にも、その程度に深浅があります。ノンレム睡眠に近い状態もあれば、覚醒状態に近い時もあります。<br />
それに応じて、外から脳への刺激の伝わり方や、それの脳における認識の程度も違っております。睡眠中の意識レベルも、意識が殆どない状態の時から、自分のおかれている状態をかなり客観的に認識できる、覚醒しているときの状態に近い時まであります。目覚めは、脳が眠りから覚め始め、感覚、運動機能を始めいろいろな神経の働きが、次第に正常に移行していく時期です。所が、この目覚めの時、感覚、運動能力などが正常化してくる時期と、意識レベルが覚醒してくる時期とが、必ずしも一致しないで、ずれが生ずる事がおこります。</p>

<p>その４</p>

<p>金縛りというのは、このずれが大きくなった時に起こってくる現象のようです。意識レベルは既にかなり覚醒してはっきりしてきているのですが、脳への外界からの感覚の伝わり方や、脳でのそれの認識の程度、脳の筋肉への支配能力などはまだ充分に回復していないことによって起こってくる現象です。即ち、意識レベルでは外界の状況を、かなり客観的に分析し、認識できる程度にまで戻ってきているのですが、聴覚や触覚といった感覚はまだ正確には認識できず、筋肉もまだ弛緩したままの時期に起こっているものと思われます。物音一つしない世界で、何かに押さえつけられ、手足をうごかそうとしても動かない、声を出そうとしても出ない現象はこういう状況で起こっております。また何かが布団の上から圧し掛かって来て、息苦しいような感じというのは、重力すなわち、布団の重さや、弛緩した身体の筋肉の重さを、脳が認識し始めている状態です。似たような現象、臨死体験における、幽体離脱などは、この逆で、意識がなくなっていく過程での一時期、低下していく意識レベルと、脳の筋肉に対する支配力や感覚感知、認識能力の低下との間に時間的なずれが生ずる事によって起こっているのだと思われます。</p>

<p>>>後編へ<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.88 生きる事、競う事</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2008/03/#000112" />
<modified>2008-04-17T08:10:02Z</modified>
<issued>2008-03-29T01:48:25Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2008://2.112</id>
<created>2008-03-29T01:48:25Z</created>
<summary type="text/plain">このお話はフィクションで実在の人物、実際の事件、出来事とは関係ありません 　約二...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>このお話はフィクションで実在の人物、実際の事件、出来事とは関係ありません</p>

<p>　約二ヶ月前位より台所に鼠が出るようになりました。最初のうちは朝起きて台所に立った時 何となく何かが進入したといった気配を感じさせる程度で、別に何か悪い事をするわけでもなく,調理台の周辺が少しだけ汚れているのが気になるといった程度でした。こんな大都会の鉄筋コンクリートの家に ネズミが入ってくるなどという事は 考えも及ばない事でしたから、 始めのうちは半信半疑でした。従ってこちらも「ま いいか あちらさんだって生きていかねばならないだろうから」とおうように構えて黙認しておりました。ところがそうこうして三週間も経ってまいりますと、あちらさんもこの部屋に慣れてきたとみえて、どんどん厚かましくなってまいりました。夜間、外に食べ物を出して置こうものなら、パンであれ果物であれ、必ずといって良いほど、少しだけ、かじってあります。その上 私が床に就くと、それを見計らっていたかのように 何処からか、カリカリ、カリカリと物をかじる音を立て始めます。起きて電灯を点けるとぴたりと止み、ベッドに入るとまた カリカリ、カリカリを始めます。こうなりますと、「鼠さんだって・・・」等とのんびり構えているわけにはまいりません。食べ物などは ほんの僅かかじられただけでも、気持ちが悪くて、 捨てざるを得ません。カリカリ、カリカリとる物をかじる物音も、何がかじられているのか解らないだけに 気になります。万一大切なものをかじられていたらと思うと気が気でなくなりました。そこで、本格的に鼠退治に 取り組む事にしました。ところが敵もさるもの、普通にやっていたのでは、中々鼠捕りにかかってくれません。手を変え、品を変えいろいろやってみるのですが、捕まってくれません。こうして本気で鼠と知恵比べすること三週間、ある朝起きて台所を覗いてみますと とうとう鼠が捕まっていました。体長十数ｃｍ、二十日鼠くらいの大きさの鼠でした。其れが粘着テープの上に横たわって死んでいました。もがき苦しんだであろうと思われる、歯をむき出して、死んでいる姿をみますと 如何にも哀れでした。一瞬、悪い事をしたなという気持ちに襲われました。こちらは自分の家だから 自分の領域と思っていますが、鼠達にすれば 彼らが住み着いた場所は 彼らの領分だったはずです。生きていく為に、彼らがそこで餌を漁り、また子孫繁栄の為にそこで巣作りをしたとしても、彼らにとっては、ごく当然のことをしていただけでしょうからね。</p>

<p>　考えてみると、生きていくという事は残酷な事です。私ども生き物は 自分の命を保つ為に、どれだけ沢山の命を頂いてきたことでしょう。又自分達が快適に過ごすため、どれだけ多くの命を犠牲にしてきた事でしょう。更には、自分のテリトリーを守る為に どれだけ多くの争いをしてきたことか、又現在もしている事でしょう。悲しいことに、こういうことは生き物が生きていく上で、避けて通れない道なのです。<br />
　当然のことながらどんな商いの道にも又、このような戦いはついて回っております。ちょっと気を許せば付け込まれ、知識が不足していれば騙されて、相手に叩き潰されてしまいます。遠慮をしてばかりいれば 追いやられて居る場所がなくなります。そうかといって、あまり人のテリトリーを荒らせば、例え知らないでやったことでも、相手から、手ひどいしっぺ返しを受ける可能性だってあります。生きていくには、実に厳しい世界です。実際、私が美術商になってからだけでも、数え切れない程の業者が、新たに参入してこられましたが、その殆どが、消えていってしまわれました。この道で生きぬいていくのも大変なのです。しかし、足を踏み入れた以上、泣き言を言ったり、躊躇したりしていても始まりません。隙を見せないように心がけながら、知恵を絞り、勇気を奮って、私の理想とする所を目指して、この世界を泳ぎ抜いていこうと、固く決心しております。</p>

<p>註  ：  ネズミ退治の専門家の話によりますと、このネズミはクマネズミと言う種類の鼠で、最近、都会で非常に殖え、困っているネズミだそうです。又、とても頭が良いネズミで、通常の鼠取りには殆どかからず、ネズミ退治の薬もなかなか食べてくれないので、それの駆除には、その道の専門業者でも手を焼くほどだと聞いております。</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.87 棟方志功作品の鑑定</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2008/02/#000111" />
<modified>2008-04-17T08:12:07Z</modified>
<issued>2008-02-27T08:08:32Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2008://2.111</id>
<created>2008-02-27T08:08:32Z</created>
<summary type="text/plain">このお話は創作作品で、多少ヒントをいただいている部分はあるかもしれませんが、実在...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>このお話は創作作品で、多少ヒントをいただいている部分はあるかもしれませんが、実在の事件，人物とは関係ありません。</p>

<p>その１</p>

<p>　ある日のことです。妹のところへ友人から、「棟方志功の絵があるのですが、それを値打ちに買ってくださる所に心当たりはないでしょうか。」と相談があったそうです。妹はすぐ私のところに電話してきて、「お姉ちゃん、棟方志功の作品を売りたいという人がいるけど、欲しい？」と聞きます。棟方志功は私どもの画廊として、最も力を入れている作家の一人ですから、「無論欲しいわよ。」といいますと「それでは貴方の所を紹介しておくわね。佐治さんという方で、電話があると思うけど、その時は頼むね。出来るだけ値打ちに買ってあげてね。」という事で電話が切れました。その翌日、早速佐治様からお電話。『織部様からご紹介いただいたと思うのですが、私、佐治と申します。このたびは突然のお電話で失礼いたします。所で早速ですが、実は私の帰依しているお竜神様の所へ、最近信者さんから棟方志功の絵を寄進されたのですが、お祖師様（宗教の開祖、第三者的には教祖といいます）がおっしゃるには、『お手水場（ちょうずば）の所、少し新しくしたいので、あの棟方先生の絵、できたらお金にしようかと思うのですが、どなたかお知り合いがいないでしょうか。一度探してみてくださらない？』といって頼まれました。そこで織部さんにご相談しましたの。何しろあの方、とても顔が広いでしょ。それに物知りだし。だから何かあるとつい頼ってしまって。そうしましたら、織部さんが、『ちょうど、姉が画商やっているから、一度聞いてあげるわ。』といって下さったものですから。本当に突然なお願いで申し訳ありませんがよろしくお願いします。」とおっしゃいます。</p>

<p>その２</p>

<p>　「いいえこちらこそわざわざお電話いただきまして、本当にありがとうございます。ところで、その絵はどんな絵でしょうか。」とお尋ねしました所、「寄進された人がご商売をなさっていらっしゃった頃、棟方先生がとてもごひいきにしていて下さって、良く御出になり、其の時、描いていただいた絵とのお話です。」「それって版画（板画）でなく直接描いていただかれた作品という事でしょうか。」「そう伺っているとおっしゃっておられましたが。」「それで、どれくらいの大きさの作品でしょうか。」「大体８０センチ×２０センチくらいの縦長の絵が一枚、４５センチ×２０センチくらいの大きさのものが一枚で、真ん中には大きな字、多分お店か何かの名前と思いますがそれが書かれていて、回りは青緑と橙と黄色の太線で縁取りがしてあります。そしてその縁取りの中には赤いバラのような花と、細い黒色の茎と思われる細い線がちりばめて描いてあります。」「他に何かありますでしょうか。」「４０センチ四方くらいの白黒の版画が一枚と、宿帳を記帳された際に、自分の名前の横に、ページ一杯に、字と水鳥と樹木の図柄の絵を書き足された、落書きのような絵が一枚あります。」との返事で全部で4枚とのことです。</p>

<p>その３</p>

<p>　一般に棟方志功の作品は,贋物が横行しておりますので,所定鑑定人の鑑定書が付いていない作品は市場性が非常に悪くなります。ところが以前に、今度の場合と似たケースの作品を取り扱われたことのある画商さんが、「棟方作品の鑑定書は、来歴などから、本物と間違いないと考えられる作品であっても、付かない場合がありますから、気をつけないといけないですよ。」「うちは、その為に酷い目にあったことがありましてね。」と言っておられた事を思い出しました。それから推定するに、今度の場合も、わざわざ出かけて行っても、無駄骨に終わる可能性が大きいように思われました。そこで「申し訳ありませんが、もう少しその絵の事を知りたいと思いますから、できれば写真を撮って、それをネット経由で送っていただけませんか。」とお願いしてみました。ところが「ネット経由というのはどういう意味でしょうか。私どもそういうの、やったことがないものですから、チョット解らないのですが。」と言うお返事です。どうもインターネットなど、ご縁がない方のようです。「それでは写真を撮って送って下さいませんか。」といってみましたところ、「お祖師様が、『できれば、あまり人に知られないようにして売りたい』とおっしゃっていますから、出してきて写真を撮ったりするわけにまいりませんの。ご面倒なお願いで、本当に申し訳ありませんが、一度おいでいただくという訳にはいかないでしょうか。こういってお願いする事になったのも、お竜神様のお引き合わせによる何かのご縁と思って、どうかお願いします。」とひたすらお願いされます。そこまでお願いされますと、妹の頼みでもあり、あまり無碍にも断りにくい雰囲気です。宗教など殆ど信じてはいないのですが、そうかといって凡人の悲しさ、あまり無碍に断って、恨みを買って、「万一罰があったりしたら。」とも心配になり、又竜神教の教祖に興味もありましたから、無駄でもともとと、訪ねていくことにしました。</p>

<p>その４</p>

<p>　お竜神様のお祭りしてある場所は、長野県の山奥にありました。JRの小さな都市の駅から車で山道を更に２時間半くらい登った所で、車でなければ、来る事は出来ない所との話です。その為、駅まで、佐治様に迎えにきていただく事になりました。降りる乗客もまばらなその駅の改札口のところで、人のよさそうな笑顔を、顔一杯に広げながら、手を振って出迎えてくださったご婦人が、佐治様でした。年齢は５０歳前後、大柄なとても品の良い方です。「この度は、ご遠方ご足労かけまして本当に申し訳ありません。」と恐縮しきった顔で挨拶されます。「いいえ、いいえ、こちらは商いでございますから。こちらこそわざわざ、お出迎えしていただきまして、申し訳ありません。」という事で、彼女の車に揺られながら、その竜神様を祀っていらっしゃる場所へと、案内していただきました。</p>

<p>その５</p>

<p>　国道と思われる舗装された道路から逸れ、全く舗装されていない山道をガタガタと揺られながら登ること約１時間、それまで周りを覆いかぶさっていた山の木々がパット開け、蒼空の下、広く切り開かれた大地が顔を出している場所に到着しました。そこには既に大きな鳥居を備えた真新しい白木の神社と、社務所、そして教祖様の住処と思われる建物が建っております。その上、近くにはバス用の大きな駐車場と信者の待合所兼売店になっている建物まで作られておりました。車に乗っている間に、佐治様から、いろいろと竜神さまと、その教祖の霊験について、伺ってはおりましたが、未だ宗教を始められてから数年目とのことでしたから、せいぜい田舎の農家に本拠をかまえた、小さな新興宗教くらいだろうとしか、想像していなかった私は、あまりの規模の大きさと立派さに、ただ唖然とするばかりでした。</p>

<p>その６</p>

<p>　教祖は６０歳前後,中肉中背の、ごく普通の農家の主婦といった印象の女性でした。話し方も特にもったいぶった所もなく、おごそかといった感じもありません。ごく普通の話し方です。しかしありがたみというほどではないまでも、農家の主婦にはない、気品がただよっているように感じられるのは、先入観のせいでしょうか。ご挨拶もソコソコ、見せていただいた棟方の肉筆は、私の案じていたとおりの、お店の看板でした。棟方特有の縁取りの絵に囲まれたお店の看板は、確かに面白く、棟方の署名、押印もあり、この種の物のコレクターだったら、食指が動く作品であろうとは思われます。しかしこれに鑑定書が付くかということになりますと、難しいのではないかと思いました。なぜなら棟方志功鑑定委員会の鑑定書は,芸術的作品でなければ付けてくれないという事や、お店の看板はあくまで看板であって、芸術作品としては認められないと聞いた事があったからです。同じ意味で宿帳に１ページを使って書かれている、棟方の作品も、署名、押し印などから、棟方の描いた物であるのは、間違いないとは思えるのですが、鑑定書はつかないであろうと推定されました。これら３作品については、最初から期待していませんでしたから、仕方がないと諦めもしましたが、もしかしたら商いの種になるのではと当てにしていた版画にも、問題があったのには、がっかりしました。私どもも商売です。いくら知り合いからの紹介とは申しましても、また野次馬根性からと言いましても、利益が全く見込めないような場合、こんなに遠方まで、足を運んでくるわけにはまいりません。今度の場合も、この版画を買い取る事ができれば、その日の日当と、交通費くらいは出るだろうと思ったから出かけてきたわけです。ところがその版画が、マージンの所に、他の歌人かと思われる方の和歌がペンで書き込まれているのです。多分その宿屋に泊まられた歌人が興に任せて、棟方の版画に賛の心算で書き込んでくださったものでしょうが、このため却って棟方の版画としてのオリジナル性が損なわれてしまっているように思えました。</p>

<p>その７</p>

<p>　棟方の絵画の価値については一般に良く知られているところで、今回の場合も教祖も佐治様も、かなりの値段を期待されているようでした。その為本当の事を言い出し難い雰囲気です。例え、誠心誠意のお値段を提示してもたいした額を提示する事はできず、私どもが騙そうとしているか、駆け引きで言っていると誤解されるだけで、多分納得されないだろうと思われました。だからといって、本当の事を何も教えず「申し訳ありませんが、私どもの扱っている作品と少しテーストが違っていますから、お役に立つことができません。」と謝って帰ってくるのも、折角頼りにしてくださった佐治様や、教祖達に対して、あまりにも不親切に過ぎるように思われ、気が咎めました。どうしたものかと散々迷いましたが、やはり本当のことを言って、できる限り協力するという事で、お許しをいただくことにしました。「棟方志功の作品は巧妙な贋物が大変に多く出回っているものですから、鑑定書がないと、一般には売りにくいのです。」「ところが、これらの作品、本物で立派な作品である事は間違いないのですが、鑑定書ということになりますと、付かない可能性が強いだろうと思います。私が、こういった種類の作品を実際に鑑定に出したことはありませんから断言するわけではありませんが、他の業者さんから聞いている話によりますと、この種の作品は看板や宿帳であって、芸術作品とは認められないので、鑑定書はつかない可能性が強いそうです。」「もしこういったものを集めていらっしゃる人がみつかれば、例え鑑定書がなくても、それなりにお値段を出して求めてくださるでしょうが、そういった人は非常に少なく、もしおられたとしても稀です。そうしますと、私どものような画商が買ったとしましても、なかなか買い手が現れず、結局、何年もの間画商の蔵の中で寝させておかざるを得ないと言う事になります。従って流通性がありませんから、市場での値段も通らないのが普通です。」「妹の紹介でもありますし、神様とのご縁でもありますから、できる限りの事はさせていただきたいのですが、さりとて、私どもも商売です。みすみす損をするようなお値段で買わせていただくわけにはまいりません。もし即刻、買ってくれとおっしゃるのでしたら、びっくりするような（廉い）お値段しか提示出来ません。」「従いまして、私どもとしましては、まず鑑定書が取れるかどうか鑑定してくれる所に出してみられることをお勧めします。」「その結果をみて、お値段を付けさせていただくという事にしたほうが、ご納得いただけるのではないかと思いますが如何でしょう。」「その結果、鑑定書が取れればきちんとしたお値段で買わせていただきますし、もし鑑定書が取れなかった場合は、棟方の作品である事は間違いない事ですし、お売りにならずに、この神社の宝物として保存しておかれる、ということにされたら如何でしょう。二束三文で叩き売られたり、粗末に扱われたりするより、そのほうが棟方志功の魂も、これを寄進された人も喜ぶと思うのですが。鑑定代とか作品の送料とか、余分の出費をお掛けする事になるかもしれませんが、それでよろしければ、そのようにされたらどうでしょう。」と提案いたしました。すると教祖は、「そうですね。貴方のおっしゃるとおりですわ。それではそうさせていただきますから、鑑定の方のお世話、お願いできるかしら。」とおっしゃり、ひとまず鑑定に出す事に決まりました。</p>

<p>その８</p>

<p>　話していると本当に無垢、全く世間ずれしていらっしゃらないといった感じの人達です。きっと良い信者さんや取り巻きに囲まれ、竜神様を信じお仕えされているうちに、心が浄化されたのでしょうね。いつの間にか私をも、何とかこの人たちのお役に立ちたいと思わせるようにしてしまったのですから、不思議な方々です。こうして鑑定までは一肌脱ぐ事にして、全ての段取りをつけて帰ってまいりました。<br />
　鑑定は、東急の棟方志功鑑定委員会に出しました。結果は予想していた通り４点ともに鑑定書は付きませんでした。「やはり鑑定書は駄目だということです。却って、お金を使わせただけの結果になってしまって本当に申し訳ありません。私としましては、先日もお話しましたように、こうなりましたらお売りにならずお持ちになっていたほうがいいと思います。もしこういった絵でも価値を認めて、それなりのお金を出して下さるというお客様が出てきましたら、そちらにご紹介させていただきますから。」と申しますと、佐治様は、「いいえ、こちらこそご面倒お掛けし、本当にありがとうございました。お祖師様もそのようにおっしゃっていましたから、ご忠告どおりにさせていただきます。本当にお世話になりました。」という事でこの話は終わりました。</p>

<p>その９</p>

<p>　棟方志功の作品については、“贋物”、それも画商も騙されるほど巧妙な贋物が数多く出回っております。その為、所定鑑定人の鑑定書が付いていないような棟方の作品は、市場性が非常に悪くなります。棟方作品の鑑定は、棟方のご子息、巴里璽さんが生存されていた時は巴里璽の鑑定書が通っておりました。そしてその没後は東急の鑑定委員会が所定鑑定人とされており、その鑑定書がもっとも信用のあるものとされております。ところがその東急の棟方志功鑑定委員会の鑑定書は、本文の中でも申しておりますように、芸術作品と認められないもの、オリジナリティが失われた作品には原則付かないときいております。<br />
　又本例に出てくる版画のように、そのマージンの余白に、他の人の言葉が書き込まれてしまった場合とか、誰それさんへといった、為書きが入った場合も、鑑定書が付くか付かないかは、微妙な場合が多々あるようです。従って、私どもでは、そういった作品の取り扱いは慎重に行っております。<br />
　なお棟方志功の作品の贋物は何処かに組織的な贋物作成所がある様子で、巧妙に作られた贋物が種類も数も非常に多く出回っております。その上、付いている鑑定書そのものの偽造もしばしばみられますから、ご購入に当たってはよほどの注意が必要です。私どもとしましては、なるべく棟方志功の作品を数多く扱っている、信用のある画商からのご購入をお勧めします。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.86 大きな葛篭（つづら）を選んだ欲張り爺さんの運命は(大欲は大損の元)</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2008/01/#000110" />
<modified>2008-04-17T08:11:09Z</modified>
<issued>2008-01-30T10:39:08Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2008://2.110</id>
<created>2008-01-30T10:39:08Z</created>
<summary type="text/plain">この話はフィクションです。実際にあった事件、実在の人物とは関係ありません。 その...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>この話はフィクションです。実際にあった事件、実在の人物とは関係ありません。</p>

<p>その１</p>

<p>　取引の相手として危ないのは必ずしも業者さんだけとは限りません。素人の中にもずいぶん酷い事をする人もいらっしゃいますから、素人だからといって油断がなりません。贋物を売ろうとされる方、篭脱け詐欺をしようとされる方、寸借詐欺をしかけてこられる方などなど、その手口も結構いろいろで、中にはかなり悪質な方もいらっしゃいます。<br />
　以前テレビを見ていましたら、篭脱け詐欺で何億と盗られた骨董屋さんの話をやっていましたが、そのような話は、この業界にいますと別に珍しいことではないから困ります。悪質と思われる方になりますと、少しだけ払ってくれて　残金は　今お金がないから待ってくれの一点張り　結局、払ってくれないで、作品だけは、持って逃げてしまうといった方もいらっしゃいます。これなどは、払う気があったからということになりますから　詐欺罪として成り立つかどうか、微妙なところらしいのです。<br />
　こういったことをされる人の中には、経済的に切羽詰ったために、はじめて悪に　手を染めたといった人もいらっしゃいましょうが、すでに以前から、同じようなことを、繰り返しておられたといった、悪のセミプロといったような人も　いらっしゃいます。また本人も知らないうちに(当然欲に釣られてという面は否定できませんが)悪に加担させられてしまったといったお方も、お見受けします。<br />
　いずれの場合でも、引っ掛けられた　画廊にとっては大変なことです。このために倒産してしまわれる画廊さんも見かけます。しかし、こういった悪事は　素人の人たちだけでは不可能です。そういった人たちを利用して、それによって、お金儲けを企む人々が、私どもの業界内ないしは、業界に近い所にいて、その人たちが、影で糸を引いているのではないかと言う、専らの噂です。</p>

<p>その２</p>

<p>　これはある画商から聞いたお話です。ある時、　画商Aさんのところに、静岡で、木材問屋をしている店の、若主人と称する人が、３点ほどの絵を売りにこられました。身分を証明する書類も確認し、値段の交渉もまとまったので、「それではお金をお支払いしましょう」ということになり、Aさんは、奥へと、お金を取りに入りました。するとAさんを追っかけるようにして入ってきた従業員が、「社長、あの人少し怪しいですよ。領収書にサインされた時　手が震えていましたもの」と言います。そこでＡさんは、お金を渡す前に「ところでこの絵、何時頃　何処で，幾ら位で、お買い上げになった絵でしょうか」と何気ない振りをして、聞いてみました。すると「何処で、幾らで買った作品であろうと、そんな事、私の勝手でしょ。そんな詮索をされてまで、貴方の所で買って貰わなくても結構です」と言って、逃げるようにして、帰っていってしまわれました。<br />
　Ａさんは、相手に失礼な事をしたかもしれないとか、折角のお金儲けのチャンスを、見逃してしまったのではないかしらとか、少しの間、いろいろ考えると、心残りでした。しかし「はっきりしないままに買って、トラブルを抱え込む事になるよりは、良かったのではないかな」と、気持ちの整理をして諦めました。<br />
ところが、それから約一ケ月後位の事でした。その絵が、ある交換会に出てきました。たまたまその会に出ていて、それを見つけた画廊Ｄさんが、「その絵は、つい先だって、私のところから、盗られた絵です。警察には既に、盗難届けも出してありますが、返していただきたいのですが」と申し出られたのだそうです。しかしその絵を交換会に出された画廊Bさんは「そのような事、突然に言われましても　私は、そんないわくがある絵とは知らずに、画廊Ｃさんから買った作品です。だから、それは勘弁してくださいよ」と突っぱねられ、返してくれません。<br />
　交渉していても、埒が明かない事に怒ったＤさん(盗られた人)は　警察に通報し、警察の手で解決してもらおうとました。警察は早速、動いてくれました。<br />
しかし売り込みに来た、若い男たちは窃盗犯として、捕まりましたが、画廊Cさん(最初にお客さんから買った画廊)のところには、書類上の何の落ち度もなかったので、警察から何のもお咎めも受けませんでした。ましてＢさん(Cさんから買った画廊)にいたっては、法律上は完全な善意の第三者と言う事になり、それらの作品が、一時、盗難の証拠品として、警察に留おかれ　その間、資金が寝てしまったという事や、折角安値で仕入れ、大儲けを企んでいたのに、（買いとった時の値段で、Dさんからの買戻し請求に応じなくてはならなかったので）儲け損なったという以外は、何の実質的な損害も受けませんでした。<br />
画廊C(最初に若旦那から、絵を買い取った画廊)というのは、絵を盗られた画廊Dの目と鼻の距離にある店だったそうで，Dさんは、「あれらの絵は、時々店内に掛けていたから　Cさんが、その絵が、私どもの作品であることを知らないはずがない」<br />
「大体にして、何処かの画廊の中で、最近見かけた事のあるような作品を、相場よりも、極端に廉い値段であるにも拘らず、売っていこうとするような人を見た時、その行為の異常さに　不審を抱かない人の方が変ですよねー。Ｃさんも酷いことをするよな」とこぼしておられたそうです。</p>

<p>その３</p>

<p>　これも聞いたお話ですが、東京の業者さん（Ｅさん）が京都の書道具を扱っている老舗のところへ、絵を売りにいっていた時のお話です。最初は、もって行った絵の中から、２～３点選んで買ってくれる程度でした。そしてその頃は、次に訪ねていった際には、前回納めた作品代金の半分程度は、必ず払ってくれていました。<br />
　ところが、こうして何度も訪ねていくうちに「良い作品ですね。最近は、私の好みをきちんと把握して持って来ていただけるようで、とてもありがたく思っています」<br />
「気にいりましたから、全部置いていって下さい」と言ってくれるようになりました。<br />
Ｅさんは「とうとう、素晴らしい金脈を堀り当てる事が出来た」と大喜び、Eさんは、良い作品が見つけると、真っ先に京都へと運んでいっていました。Ｅさんは、品物を買ってくれる相手が、老舗のご主人ということもあり、全く疑っていませんでした。従って、最後の方は、お金を、殆ど払ってもらってなかったにも関わらず、何の心配もしていませんでした。<br />
　こうして約２ヶ月、そのお店への売掛金が、数億円にまで上がってきた時の事でした。突然そのお店が、倒産してしまいました。ある時、いつものように、そのお店を、訪ねたＥさんが見たものは、店の入り口に貼ってある　倒産お知らせの貼り紙でした。<br />
　どんな大きな業者でも、自分の所の作品だけで、商いをしている訳ではありません。納めた作品の中には、自分の所の作品だけでは間に合わず、他の業者さんから借りてきた品物も、少なからず、含まれています。Eさんの場合も、納めた作品のかなりの数が、借り物でした。<br />
　しかしそれらが、騙し盗られたからといって、作品を借りてきた先の業者が　その支払いを、許してくれるというほど、この業界、甘くはありません。Eさんが、この業界内で、今後とも、商いを続けていく為には、どんな事をしてでも、借りてきた作品の代金は、支払って行く必要があります。<br />
　真っ青になったＥさんは、すぐに警察に駆け込みました。しかし警察は、いつも言っていますように、こういう時、被害届けを受け付けてはくれますが、それ以上に、何もしてくれませんでした。民事と紛らわしい事件には、よほどの事がないと、介入したがらないのです。Ｅさんにとっては死活問題でした。だから、あらゆる手段をつかって　その主人の行方を探しました。行方をつきとめて、納品した作品を、少しでも、とり返そうと思ったからです。ところが、やっと見つけた書道具屋は、「作品は、もう他の業者（Ｆ）に売ってしまいましたから、自分の手元には、何も残っていません」といいます。<br />
　Ｅさん（作品を盗られた画廊の店主）は、直ちにＦ(書道具屋の主人より買い取った画廊)のところに出かけ、書道具屋の主人から買った作品は、自分の家の作品だから、直ぐに返してくれるようにと、頼みました。幸か不幸か、品物の大半は、売られないで、まだＦのところに、残っていました。しかしＦは「それらの作品は、書道具屋のご主人から、まともな商取引で買ったものですから、お返しする事は、出来ません」と言って、交渉に応じてくれませんでした。<br />
　とても自分の手に負えないと思ったEさんは、弁護士へ、その後の交渉を、依頼することにしました。弁護士さんとの交渉がどのように行われたかは、話していただけなかったので、分かりませんが、<br />
最後は「Ｆ(書道具屋から買い取っていた画廊)が、書道具屋から買い取ってきた値段（当時の相場の１～２割の値段だったそうですが)に、少し色をつけたくらいのお値段で、Eさんが全作品を買い取る）ということで、決着したそうです。<br />
　交渉の席で、どのようなお話し合いが行われたかも、分かりません。その弁護士さんが少しだけ　漏らされた所によりますと、Eさんが京都の書道具屋へ作品を売りに持って行っていた時、Fは既に、別室で待っていて、書道具屋が（Eさんから）買ってくると、その後すぐに、(Fは)それらの作品を引き取っていたのだそうです。<br />
　私たちの業界では、お客さんを信用して　何億円もの売掛金を作る場合も　別に珍しいことではありません。作品をどんどん買って下さっている時に、お金のことを口に出すことによって、お客様の気分を害してしまって、それきり、取引を中止されては困ると思いますから、どうしても、弱気になり、言いそびれてしまうからです。しかしこういった取引の中には、そうこうしているうちに、経済情勢に変化が起きたりして、お客様の懐具合が急に、悪くなり、回収に非常に苦労する場合が出てまいります。<br />
　こういった不安定な時代のことです。どんな取引先でも、何時までも安全確実とは言い切れない時代です。従って、本来は、一定以上の売掛金が生じた場合は、まずそこで、売掛金の回収を図るべきです。それが言い難い場合は、失礼かもしれませんが、少なくとも、売り先の信用調査くらいはしておくべきなのでしょうね。人間、欲や情が絡んでまいりますと、そういった配慮が吹っ飛んでしまって、ついつい、何の根拠もなく信用してしまいがちです。長い事取引をしていると、多少支払いが遅れがちになっていても、あそこなら大丈夫だろうと、ついつい「ナアナア」にしがちです。しかし、そうした事によってこれまでも、随分痛い目にあわされてきました。やはりこれをもって、「他山の石」とすべきなのでしょうね。</p>

<p>その４</p>

<p>　それにしても、こういったFのような業者は、何とかならないものでしょうか。状況的にみれば、贓物故買（ぞうぶつこばい・・盗品の類）としか思われないような、このような場合でも、法的に、何のお咎めを受ける事もなく、のうのうと、この社会を闊歩しておられますが、こう言った業者のお噂は、他にもよく耳にします。そういった業者に対して現状では、苦々しさを噛み閉める以外に、私達は、なんの方策も持っていません。思うと、自分達の無力さが、悲しくなります。時代劇に出てくるように、「ズバッと正義が勝つ」と言うわけにはまいらないものでしょうかねー。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.85 マラソン仙人〈あるコレクターの話〉</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2008/01/#000109" />
<modified>2007-12-27T02:44:38Z</modified>
<issued>2008-01-01T02:55:13Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2008://2.109</id>
<created>2008-01-01T02:55:13Z</created>
<summary type="text/plain">この話はフィクションで、実存の人物、実際の事件とは関係ありません お正月特別読み...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>この話はフィクションで、実存の人物、実際の事件とは関係ありません<br />
お正月特別読み物として、ほのぼのとなる、浮世離れしたお話を載せさせていただきます。</p>

<p>　先日朝早く公園を通りましたら、噴水の前で　半裸になって 身体を拭いていらっしゃる男性がいます。顔も身体も日焼けして真っ黒、やせた下半身を汚れたジーパンで包んでちょっと古びた帽子をかぶっていらっしゃる姿は　何処から見ても浮浪者です。あれ 何処かで聞いたような事を していらっしゃる人がいるなと思いましたが、まさか知り合いとは 思いませんし、男の人の裸を じろじろ見ていて いちゃもんでもつけられても困ると思いましたから、目を伏せて そそくさと通り過ぎようとしました。<br />
　すると後ろから「種田さん」と呼ぶ声。振り向くとＨさんの屈託の無い笑顔がそこにあります。「どうしたんですか」と聞きますと、「家からジョギングしてきたのですが、そのまま会社に行ったのでは 汗臭いといけないものですから、ここで身体を拭いて、服も着替えて出勤するのですよ」との事。「へー。又ルンペンかと思いましたよ」「それにしても何処かで聞いたような事をしている人がいるなとは思いましたが」と私。「でもまさかズボンまでここで替えるというのではないでしょうね｣｢無論ですよ。レディの前でそんな失礼な事はしませんよ。ズボンは会社へ行ってから替えます｣｢またうちのが来たときおいで。またまたものすごいのを手に入れたからね｣｢ありがとう。またその節はお願いします｣で別れました。</p>

<p>　私がこの飄々として　どこか浮世離れをしている Hさんと 始めて知り合ったのは，安土桃山時代の画の展覧会に行った時の事です。私が見ているそばによって来て、大きな声で話しかけてこられたのですが、変なことに 批評されるのは絵のことではなく　表装に使ってある布のことばかりです。「この布は古い時代の物で　おそらくは絵が書かれた時代とほぼ同じ時代のもので　すばらしい物だとか、これはこの絵と時代が違って　後で表具したものだとか」と。何しろ少し擦り切れたジーパンとしわしわのワイシャツ姿の５０歳近い中年のおじさんが　しかも訳のわからないことを話しかけてこられたものですから、こちらは困惑してしまいます。しかしどことなく人のよさそうな顔で　人懐っこいところもあり、振り切れないのですよね。しかも話の内容がなんとなく専門的で、よく聴いていると面白いのです。<br />
｢おたくって　ひょっとしたら　どこかの博物館の学芸員か何かを　してらっしゃる人ですか」とききますと｢いや，違います。私〇〇会社に勤めているものです｣とのことです。｢それにしては布のこと詳しいですね｣｢私、その会社の技術部にいますから、趣味と実益を兼ねていろいろな裂〈端切れ〉を集めているのです｣との事です。<br />
　話しているうちにユニークなところはあるものの　何となく安心できそうな人柄が解かってきました。そこで一緒にお茶を飲みながら　いろいろなお話をしました。彼はその会社で　染色のほうの研究をしていらっしゃるそうで、その研究も兼ねて　いろいろな裂〈端切れ〉を集めているということでした。趣味はジョギングと裂〈端切れ〉のコレクションでその収集のために月給の大部分を　使ってしまっているとの話でした。話しをしている内に「額縁のマットに貼る布や、軸物の表装の勉強にもなりますから，私のコレクションも見にきたらどうですか」といわれます。裂〈端切れ〉についての知識は全くありませんが、何だか面白そうなので「それでは又いつかお願いします」という事でお別れしました。</p>

<p>　さてそれから暫く後の事です。彼から「今度の日曜日に 妻もちょうど やってきますから例のコレクション観にいらっしゃいませんか」との電話。その日は私も予定がありませんでしたので「それでは１０時頃にお伺いしますからお願いします」という事でお約束しました。<br />
　訪ねていったHさんの家は社宅で ５階建てのマンションの３階、広さは2LDKの住まいです。玄関を入った時 驚いた事に、そこから見渡せる部屋の中に何も置いてないのです。冷暖房の設備も無ければテレビもなし。居間にあるのは 机とその上の電話、本箱代わりに使われている 積み上げられたダンボール箱だけです。ダイニングキッチンにもやかんが一つ ガス台に乗っている以外何もおいてありません。テーブルも無ければ、椅子もなしです。冷蔵庫や食器棚など無論ありません。まるで駆け落ちしてきたばかりの夫婦の部屋みたいです。本当にスウスウ見渡せる、ガランとした部屋が続いているのです。<br />
　奥さんも玄関まで出ていらっしゃって「何も無いのに驚かれたでしょう。この人 生活用品は何も買わない何物も置かないという主義だものですから」といわれます。聞いていると、夫婦は最新の夫婦形態 別居結婚だとかで 奥さんは関東の方で美容院を経営していて、月に一度くらい　こちらに様子見に 通って来ておられるらしいのです。しかし子供のいない事も有ってか、夫婦といっても 各々が束縛しあう事も無く 経済的にも独立しており、全く自由な関係みたいです。それでご主人は 収入の全てを趣味に使ってしまい 何時もピーピーしていらっしゃるとの事なのです。<br />
「しかし冬などは寒いでしょうに」といいますと「大丈夫、大丈夫。冬は早く寝てしまいますから。そして朝は起きるとすぐに　ジョギングに出掛けますから、暖房器具などはいらないのですよ」「失礼ですが お食事などどうして いらっしゃるのですか」「朝はジョギングの途中で　コンビニ寄って ﾊﾟﾝと牛乳と野菜ジュースを買ってすまし、夜は近所の食堂で済ますか、終業間際のスーパーに行って、半額になっている おにぎりやお惣菜を買ってきてすましています」「だから家で料理する事もありません。調理道具などが置いてないのもそのせいですよ」というのがHさんの弁です。「でもね、たまにしか来ませんが、私が来た時位 せめて何か作って差し上げようと思っても、何も道具が無いものですから困まってしまいますの。それで「せめて調理の道具くらいは一式揃えましょうよ」と言うのですが、「物は有ると邪魔だから 買うな」といって怒って、買わせないのですよ」と奥さん。「お風呂だって、ジョギングの途中 公園の水道で身体を拭いてすましてしまう事が多いらしいのですが、もう本当にお恥ずかしい」といわれるのです。しかしその口振りは わんぱく息子の話しをしておられるようで 結構楽しそうなのです。「そうそう、そう言えばこの間なんか、ジョギングの途中 いつもの噴水で行水をしていたら、ルンペン達が たき火にあたっていけと　さかんに勧めたらしいのよ。その上 その人達に牛乳とか、お握りとかを（多分どこかのコンビニの期限切れの物なのでしょうが）ご馳走になってきたのよ。もう、完全にルンペンさん達に、お仲間と思われているのね」と言われます。「しかしユニークな所は有りますが 親切で 思いやりが有り それに話していると 結構面白い人ですし、魅力的な所をもっていらっしゃる人ですが 一人でほっておかれて 心配ではありません？」と聞きますと「大丈夫よ。こんな変わり者、私でなければ誰も相手にしないわよ」と奥さん「そうでもないよ。結構もてるんだから。この間なんか 、女のルンペンに招待されて、そこの天幕を訪問してきたよ。ルンペン小屋の中は思ったより広くて整頓されており、それにうちよりいっぱい物があったので ビックリしましたけれどね」「ほれご覧なさい。どうせ貴方に声を掛けてくるのはそれくらいの人よ。まあせいぜい頑張って」と奥様は大笑いです。</p>

<p>　ひとしきり話しが弾んだところで　Hさんは自分のコレクションを出してこられました。私にはその価値のほどは　さっぱり解かりませんが、色々な布の切れ端が、半紙大の和紙の綴じ冊子のなかに年代順に挟んであります。その量はとても多く プラスチックの整理箱一杯あります。Hさんは自慢げにいろいろ説明して下さるのですが、なんにしても予備知識の無い私の事、それらにどんな価値が有るか　本当に古い物なのか、時代が下がったものなのか　さっぱり解りません。 「法隆寺の御物を包んでいた布と同じ年代のものだとか 此れは安土桃山時代の絵の表装に使ってあった布で、傷んだ表装を修理した時 出てきたものだ」などと言われても解らない訳ですから ただただ 肯くだけです。「本当に変わっているでしょうこの人。こんな布切れ一切れで 自分のお洋服が何着でも出来るのに、スーツはといったら ご存知のように正装用と普段会社に来ていく用との２着だけ 後はあの汚いジョギング用の衣類が少し有るだけなの」「こんな汚い布切れ本当にどんな価値が有るのかしらね」「まあそういいなさんな。此れは私の分身みたいなものですから。私が死んだら貴女、きっと此れを抱いて泣きながら寝るようになりますよ」「誰がこんな汚らしいものを。さっさと縁切りして、何処かへ納めさせてもらいますわ」と奥さん。二人の会話はきわどい言葉をやり取りしているのですがとても軽妙で、まるで漫才を聴いているみたいです。そしてその中に二人の人柄みたいなものが滲み出ていて とても安らぎます。何かを収集している人と言うのは 結構癖のある人が多いようで　付き合うのに気を遣わせる人が多いのですが、Hさんの場合は　確かに彼も　すこし変わったところを持ってはいますが違うのです。毎月の収入のほとんどを趣味に使ってしまっておられるものですから 毎日の生活は、とても質素な倹約家です。何しろ冷房は無論の事　暖房器具ひとつない生活、テレビもなければ、冷蔵庫もなし。家の中には家具といえば　机だけといった生活なのですから、まさしく都会の中の　ロビンソンクルーソーです。しかし　惨めたらしい様子は少しもなく いつも　飄々としていて　春風のようにのどかです。コレクションへのこだわりも　全く欲を離れたところにあるご様子です。話しをする時も　気を遣う必要が無く 、思ったことを　そのまま　話せる人です。まさしく 世俗を離れた所に超然と住んでいらっしゃる仙人です。そう言えば彼は100キロマラソンをやるそうですが、そのマラソンの最後の方は　宇宙の時の流れと同化し　無我の境地におちいることがあるそうです。コレクターにもこういった人もいるのですね。これはコレクターの素質なのでしょうか。それともコレクションが浮世離れしているせいなのでしょうかね。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.84 きれいであってもバラはバラ、バラには棘があるのが普通です</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2007/12/#000108" />
<modified>2007-12-05T01:28:42Z</modified>
<issued>2007-12-03T02:54:01Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2007://2.108</id>
<created>2007-12-03T02:54:01Z</created>
<summary type="text/plain">この話はフィクションで、実際の人物、事件とは、一切関係ありません 　先日お得意様...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>この話はフィクションで、実際の人物、事件とは、一切関係ありません</p>

<p>　先日お得意様のところに行きましたときのことです。そこのご主人がいたく感激した顔つきで、「太田さん、聞いてよ。今度 うちの事務員が辞める事になったのですが、なんとその理由が、ご主人のお父さんを看病する為だというのですよ。自分の親でも なかなか看病したがらないこの節，義理の親を それも仕事を辞めてまで、小田原に通って面倒を見ようというのですから、これはもう、美談としか言いようがない話ですよね。」「彼女って、３０そこそこだったわねー。 なかなか出来る事じゃないわ」「年は、もう少しいっているかもしれないけれど、いずれにしても、老人の看護などというものは、これから後、どれほど長く続くか解らないにもかかわらず、それをやるというのですから、本当に泣かせる話です。家の娘に爪の垢でも煎じてのませてやりたいくらいですよ」とべた褒めです。私もそこをお訪ねした際 、彼女に、2～３度お会いしたことがありますが、確かに すごく頭がきれるといった感じで、しっかりもの、 そこの事務を一人で切り盛りしていらっしゃるといった感じの女性でした。性格は明るく、気さくで、小さな事にまでよく気がつき、 だれにでも親切で、人懐こく、彼女が一人いるだけで その事務所の雰囲気が暖かく 和らぐといった感じがするほどです。その上美人でスタイルも良いときているものですから、おじさまたちはみんな、もうメロメロ、そこに出入りしているおじ様族たちのアイドルといってもいいような存在でした。「へー。で、本当に小田原までも通われるの？家事に、旦那のお守りに、舅の看病と、よくもまあ、決心されたものですねー。彼女」「そりゃ、太田さんとは違いますよ」「まあ失礼な。私など、親孝行で、近所でも評判よ」｢そうですかね。それは俄かには、信じがたいですが、まあそういうことにしておきましょうか｣といったことで、その時は話が終わりました。</p>

<p>　さて、それから約一年位経ったある日のことです。「太田さん。あの例の内の事務員の事　覚えています。ほれ義理のお父さんを看病するといって辞めていった」「ええ，存じ上げていますが、その方が何か。それにしてもご苦労なさっている事でしょうね」と申しますと、「それがそうではなかったのですよ。面倒見に通ったのは これでなくて〈親指をつきたてて〉こちらの方（小指をたてる）ですよ。小田原に彼氏がいて 、そこへ通うために、うちをやめたのですよ」と意外なお話。「え、でも彼女確かに結婚していらっしゃったのではないですか。学生時代からの仲で、旅行なんかも、いつも一緒に行っていらっしゃるとお噂を、聞いていましたけれど」と私。「それが、どこでどうなったか解からないのですが、うちに出入りしていた篠田、知っています」「ええ、あの背の高い ハンサムの人でしょ」「そう、そいつとメール交換をしていたらしいのですが、そうこうしているうちに、いつの間にかできちゃったみたいで、そいつのところにいく為に、うちを辞めたのですよ」「うそー、そんなことをする人には見えませんでしたよ。とてもしっかりした、常識的な人でしたし。それにご主人との付き合いも 学生時代迄を含めると もう１０年以上にもなっていた方でしょ。それにしても、貴方のお話では、涙ウルルンの話だったではなかったですか」「いや面目ない。本当に私は人を見る目がなかったのですね。しかしこんな身近に、不倫をする奴が出てくるなんて、ちょっと思いもよらぬ事でしたからね」「どうも信じられないな。デマではないですか。どうして解かったのです」「篠田の友人がこの間、二人の結婚式にいってきたというのですよ。私には悪いと思ってか、何の連絡もありませんでしたがね」「でも篠田さんというのは 既に二回も離婚してらして、お子さんも５人もいらっしゃる方でしょ。篠田さんの方は、２年前くらいに離婚されていて、そちらのほうは、法律的には問題ないでしょうが、しかし何しろ子供たちの養育費だとか　慰謝料の延べ払いとかしていて、大変みたいなこと、以前に聞いたことがありますけど」｢うん、聞いている。でもその上、篠田、とても手が早い奴で、離婚してすぐ、誰かの奥さんとも不倫していたような噂で、そちらのほうの整理も大変だったらしいですよ。彼女、きっと苦労するよなー｣｢そんな事言って、貴方、妬けるのでしょう｣｢いや、この歳になると、そういう感情とは無縁だよ。ただ、うちの為によくやってくれた人だから、何とか、幸せになって欲しいと心配しているだけですよ。無論、嘘、それも美談まで作って騙さなくてもと、少し不快な所は有りますがね｣と釈然としないといった感じで話されます。ご主人の気持ちは解からないではありませんが、世の中、表があれば、裏もあるのです。綺麗で親切そうな女の人を見ると、男の人はどちらかというと、女神さまのように 崇めてしまいますが、きれいな人だからといって、生活してない訳ではないのです。食べ物も食べれば、排泄もしています。したがって美の面も、醜のそれも持っているのがあたりまえです。内田さんの場合 彼女すこし八方美人的な人で、誰にも良い人と思われたい人でしたから、ちょっと美談が過ぎる所が有ったかもしれません。しかし内田さんも、彼女は生身の人間なのですから、女として生きる道に走ってしまわれたからといって、一概に責めることは出来ないかもしれません。その奔放さが、もともとの彼女の性（さが）だったかも知れないのですから。又、外に出されていなかっただけで、家庭内にいろいろな悩みを抱えていらっしゃって、誰かの助けをもとめていらっしゃったのを、周りの人が、ただ見抜けなかっただけなのかもしれないのですからね。なお、女性達が 勤めを辞める時などに 、その口実として、ちょっとした、可愛い嘘を、使ったからと言って、それまで責めるのは、チョット酷だと思いませんか。だってその方がスムーズに辞めやすいですから。 昔から 嘘も方便という諺も有ります様に このような嘘は 女性に限らないことでしょうが、よくあることだと思います。人間生きていると、 自分を飾る時だとか、相手を傷付けたくない時、スムーズに自分の意志を通したい時など等、悪意はなくとも 嘘をつかねばならない機会というのは 結構多いのです。こういった、悪意のない、可愛い嘘まで責め立てなくてもと思うのですが、この考え、少し寛容に過ぎますか。ただ彼女の場合は、それまでの印象があまりに良かっただけに、こういった場合でも、回りの人に与えた衝撃が大きかったようで、その点、彼女にとっては不運でしたけどね。</p>

<p>　一般に私たちは、他人に対して、その顔立ちや服装、 誠実そう、真面目そうといった印象や外観、ちょっとした言葉や、しぐさ、行動と言ったもので、 その人に対する人間像を勝手に作ってしまっている場合が、間々あります。そしてそれに反した事をされると、 騙されたと言って 怒ったり、見る眼がなかったといって、落ち込んだりしがちです。しかしよく考えてみれば それは自分の思い込みによって作られた、その人の人間像に裏切られたのであって、その人の本来の姿にではなかったかもしれないのです。それを、自分が思っていたような人でなかったからといって、怒ったり、恨みに思ったり、悲しんだりするのは、筋違いかも知れません。「人は見かけによらぬもの」とはよく言ったものです。人間、表もあれば裏もあります。同一の人間であっても、本音もあれば、建前もあります。その時々に応じ、あるいは相手に応じて、いろいろな顔を見せるのが人間です。従って、「綺麗なバラには棘がある」と、いつも口の中で呪文を唱え、その人の本音を探りながら、人と接していくのが、騙された時、あまり傷つかなくてすむ、最上の方法ではないかと考える今日この頃ですが、これでは人生侘びしすぎますか。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.83 箱を持たない（裸の）抹茶茶碗の嘆き（落語の熊さん、八さん的、茶道具評価論）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2007/11/#000107" />
<modified>2007-11-08T01:12:02Z</modified>
<issued>2007-11-07T03:40:00Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2007://2.107</id>
<created>2007-11-07T03:40:00Z</created>
<summary type="text/plain">　以前テレビをみていましたら、所ジョージさんが自分のコレクションについてのお話を...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>　以前テレビをみていましたら、所ジョージさんが自分のコレクションについてのお話をされているのを見たことがあります。彼は陶器のコレクションをされているのですが、その蒐集の仕方は特有で、金額、時代、窯、作家名などとは関係なく、自分の心にピンと響いてくる物を集めているとおっしゃっていました。さすが一芸に秀でている人は目の付け所が違いますね。彼は自分の集めている物の美に対して、特有なセンスを持っていらっしゃるようです。テレビの画面で拝見した限りでは、現在の既存の価値観からすれば、たいした品物ではないかもしれません。又価格的に考えても、今それが売りに出された場合、買った値段の何分の一かになってしまう可能性がある品でしかないかもしれません。しかしそれはあくまで今まで構築されてきた既存の美の基準に沿っての話です。もし将来、彼の持っている美にたいする基準が、社会に理解され、認知されるようになるような事が出てくれば、これらの品々は、所ジョージコレクションとして、特別の価値が出てくる可能性も否定できません(彼の美の基準が、普遍的な物指しとして認知されるためには、認めてもらえるように、積極的に社会へ働きかけていくという事が必要ですが)。無論、所さんのコレクションにたいする姿勢は、そのような社会的ないしは金銭的な価値などということには無関係で、彼の関心はもっぱら自分自身の琴線に触れるもの、自分の美の基準にあった物を集める事にあるようにみえましたが。本当に立派だと思います。なかなかこのようにコレクション対する純粋な姿勢はとりにくいものです(美術品以外のコレクターの中には時々みかけます)。</p>

<p>　考えて見ますと、美術商を含め（私も含めての話しですが）、コレクター、評論家などなどといった美術品にかかわる者のうち、自分の美の価値観、即ち美にたいする自分流の物差しをもって、それに忠実に品物をお客様に勧めたり、蒐集したりしている人間が、どれだけいることでしょう。多くの人々は、既存の価値観に沿った物差しによって、美術品の価値を測り、取り扱ったり、蒐集したりしているにすぎないように思えます。これはコレクターや、美術商の中に、美に対する眼、即ち自分流の物指しを持っている人が少ない、自信を持って自分の美の基準を主張できる人間が少ないという事に起因している面が大きいと思います。しかし同時に、経済的な動機がそのような独自の価値観を曇らせている要素になっている事も否定できません。<br />
　仮にある美術商が、自分の物差しを持っていたとしましても、将来の換金価値や、現在の美術市場での価格動向を考えないで、自分の価値観だけでもって、お客様に美術品の購入は勧めることは、できにくいところがあります。コレクターの側の方でも、所さんのように自分の物差しだけで、物を集めるというには、自分の選択に自信がなさすぎます。大切なお金を投ずる時、殆どの人は、将来の金銭的な価値とか、世間的な評価を気に掛けます。このため、いろいろな人に聞いたり、美術館や展覧会に行ったり、本を読んだりして勉強します。しかしこうしているうちに、その人の鑑賞眼は既存の物差しに組み込まれてしまい、無難な基準、先人達の物指しにそってのコレクションという事になってしまいがちです。<br />
　凡百の評論家の意見のあてにならない事は、野球評論家や経済評論家、政治評論家などといった人たちを見ていれば解るとおりです。彼等は熊さん八さんのようなものです。野次馬よりは、多少沢山の美術品についての知識を持ってはいますが、美の基準という事になりますと、既存の観念から離れ、特有な先進的な価値観もって論じ得る人は、あまりいらっしゃらないようです。こうして美術の評価の世界では、天才的な誰かによってつくられ、追随する人達によって権威付けられていった価値観がまかり通り、多くの評価は、それをする人が意識しているか、していないかは別として、その物差し、即ち先人達によって形作られている物差し、それがその人の美術品を見るときの物指しとして使われ、それに添って市場も動き、コレクションもされているのが普通です。</p>

<p>　その極端なのが日本の古美術の世界、中でも茶道具の世界です。この世界では箱、箱書き、書付、伝世といった既存の価値観で決められた美の物指しが、最も重要視されております。その為、この世界に関係している人々の独自の鑑賞眼は、不用性萎縮（退化すること）を起し、曇ってしまっています。たとえばどんなに素晴らしい茶碗であっても(既存の価値観に基づく素晴らしいという意味ですが)、きちんとした箱書きの付いた箱をなくしてしまったような茶碗、茶席の参加者の名前や伝世といった曰くをご披露できないような茶碗は、その美術品に相応しい価値を認めてもらえません。ただ実際には長い時間の経過の中で、よい物（既成の価値観に添っての良いという意味ですが）は誰かに認められそれに相応する仕覆（ぬの）に包まれ、それに相応する箱の中に納まっているのが殆どです。 (骨董に知識のない子孫が継承し箱が古くて壊れたからといって棄ててしまったもの、或いは外国に一度出て行ったものなどは箱が失われていることもあります。また贋物を本物の箱に入れ、仕覆に包み、本物の方は別の新しい箱に入れるなどにより時代にあった箱をもっていないといった物もあります)。大茶会には使ってもらえません。そうなると市場での価格、即ち経済的価値も、そのものの本来評価されてしかるべき価値よりも、著しく低くしかみてもらえません。茶碗だけでなく、茶筅にしても、花入れにしても、茶掛けにしても、茶席に用いるその他諸々の物全てで、箱書きとか由来が、名前が重要視されます。利休の見立てとか、著名な誰々の作とか、お茶の宗家の箱書き、誰それ家(大名とか、お家元、有名な好事家など)の伝世という証拠があれば、それだけで無条件にありがたがられる傾向にあります。しかしよく考えてみれば、それは(その箱書きが本物として)あくまで箱書きを書いた人、或いはそれを持っていた人など、その美を見出した人達の物指しによった評価であって(秀吉などといった歴史上の人物の所有物であった場合はその上に歴史の重みも付加されてきますが)、必ずしも絶対的（美の基準に絶対的などというものはないかもしれませんが）、或いは普遍的基準による美を示しているものではないはずです。それにもかかわらず茶道では、箱書きによるお道具の評価が(その箱書きが信用出来る物であった場合ですが)、絶対的な価値としてまかり通り、疑う人もいないのは不思議です。利休は朝鮮の雑器に過ぎなかった茶碗に、美的な価値を見出し、侘び、寂と云った、当時の華やかな美術とは対極にある、独自の美の世界を構築していったはずです。それに対して、既存の美の物指しの呪縛の中、それを金科玉条のように大切にし、箱書きに頼り、旧い仕来りによる美の基準から逃れられない、今の茶道界の人々の、美に対する感覚というのは、いったいどうなっているのでしょう。あんなにも先進的で、独創的な物の見方で、独自の美的な価値を器物に付与し、侘び、寂の茶道を体系化した利休に対して、保守的過ぎると思いませんか。</p>

<p>　陶器の例をとって考えてみましても、中国陶器と比べたとき、日本の陶器の評価の仕方、中でも茶道に使う陶器の評価はあまりにも特殊です。中国陶器などの鑑賞陶器では、その美術品の制作年代、芸術性、そして希少性などが、評価のひいては価格決定のメカニズムとして働いており、箱書きなどといったものは日本で伝世されているもので、日本の中で評価される時以外、あまり重要視されていません(無論誰もが真贋を、自信を持って鑑別できるわけではありませんから、有名機関ないしは、有名な鑑定家の鑑定書といった類のものが附いているものは尊重されます。又歴史的に有名な人が所有していたとか、著名なコレクターの所有していた物は、その歴史の重みのゆえに、又はそれを蒐集したコレクターの眼力を尊重しての故に、市場で高く評価される傾向にありますが)。そこにはその品物を蒐集するに当たっての、コレクター自身の美的センス、選択眼が働く余地が充分にあります。中国陶器などの鑑賞陶器の場合は、たとえ箱などなくても時代があってさえいれば、その芸術性、希少性、市場の人気度によって、それに相応しい評価を受けます。これに対して茶道の茶碗などは、コレクターの評価ひいては市場での価格は、もっぱら箱書きないしは伝世に頼っております。これは茶道具における美の基準が、侘び(作意がなく、ひっそり落ち着いた感じがあり、目立たず、渋い感じ)、寂(けばけばしさや、晴れがましいものがなく、ひっそりして閑寂で、枯淡なたたずまい)、品(姿形が整い、これ見よがしでなく、しっとりとして、落ち着いた気品がある)、量(実在感、ボリューム感)、力(躍動感、ダイナミックさ)、浄（清浄さ、清清しさ）と言った、村田珠光、武野紹鴎、千利休以来口伝として伝えられてきているそれが（美の物指しが）、あまりにも抽象的で、一人よがり的というか、美を見出した人個人の、感覚的評価に偏りすぎて難しいことに原因があります。この為、一般の人の感覚との間にズレが生じ、一般の人には、鑑賞の物指しとして、俄かには共感しがたいということです。ここに評価を箱書きに頼らざるを得ない最も大きな原因があるように思います。このような傾向は古田織部好みの、非対称の形態の美、ゆがみの美についても同じことが言えます(織部の場合は外の茶碗に比べれば、まだ模様とか色、茶碗の形などに、個人の好みがはいる余地はあります)。その上、茶の世界では、茶道具の評価の物指しそのものが、秘伝とか、口伝、奥義、極意などなどとして、勿体付けられ、一般の人には長い間近寄りがたいものとされてきました。茶道具の良し悪しは、永らく修行していれば、自ずから心で知るようになれるものだとか、茶道の精神を理解し、五感で感じるものだなどといわれましても、私達のような部外者には、そのような抽象的な表現では、何がなんだかわかりません。しかし最近のように、解説として、言葉で表現されるようになりましても、その言葉からその茶道具の具体的な美の基準を理解するのは困難です。</p>

<p>　例えばある有名な大名物の井戸茶碗は解説で、｢姿が堂々としていて、量感のあるその姿は、全体として調和が取れ、溢れるような美しさを湛えている。やや深めでゆったりした見込みは轆轤目（ろくろのめ）も美しく、その胴回りの枇杷色の肌色とともに格別の趣があります。高台はすっきりしたつくりで削り目も素晴らしく、そこに散っているカイラギの美しさは心憎いばかりです。｣というように説明されたとします。この表現で、この茶碗の美しさが具体的に想像できますか。他の茶碗と違った、独特の美しさを感じることができますか。たとえ多少茶碗の各部の名称を知っていたとしても、この表現している所のものでもって、具体的な美しさを、頭の中に思い描く事は難しいと思います。私達門外漢では、お茶の道具を見た場合(ここでは主として茶碗について述べています)、独自の美を見つけ出すどころか、茶道の伝統的な見方に添って評価を下すことすら難しく、箱書き、伝世、書付などといったものと、それに基づく解説に頼ってわけもわからず、｢ふん、ふん、ふん。こういうのを、素晴らしい茶碗というんだな｣と頷いてくるだけです。茶道の先達（せんだつ）の美の基準を、その感覚を無批判に、そのまま受け入れてくるだけです。だって「作行（さくゆき）は気宇雄大でとか、豪壮の気風を高く矜持して」といわれましても(喜左衛門井戸茶碗についてのある人の解説)チンプンカンプン、それがどんな状態か解らないですものね。作行の気宇雄大とか、茶碗の豪壮な気風など、それが茶碗のどういう状態を示すのか、皆さん具体的に理解できますか。こういっては失礼ですが、茶道の従事者、美術商、茶道具コレクターと称する好事家達にしましても、その殆どの人は、箱書きを頼りに、既に評価の定まっている類似の道具の評価に準じて、茶道の先達達の鑑識眼を借りて、その美を評価し、経済的な価値も決めているに過ぎないのではないかとおもえます。そこに、個人的な美の物指し、センスが働いてくる余地、言葉を変えて言えば、鑑賞に当たっての、観る人の自由裁量の余地は、非常にすくないと言わざるをえないのではないでしょうか。大変な目利きといわれてる人の鑑賞眼にしましても、前述の秘伝などとして伝えられてきた、既存の見方の呪縛から逃れることはできません。彼等にしましても、その見方に、独自性はなく、その道具に(お茶の)いわれてきた既存の見方に盲従し、その道具の価値を認めているだけです。この為、茶会でのお道具拝見にしましても、箱書に囚われ、拝見は形だけに流れ、そのお道具の本当の美しさを、自分自身の五感で感じ、心で味わって楽しんでくるという、肝心なものを失ってしまっているように思いますが、これは部外者の妄言でしょうか。こういった状態ですから、お茶道具の世界では、箱書きや伝世を示す書付が非常に重要視されています。名刺代わりに、身分証明書かわりに、履歴書ないしは家系図代わりに(その来歴を示しているといった意味で)などなどといった役割をはたしています。これはお茶道具をあつかう美術商にとっては、とても便利な制度です。真贋を見分ける上で参考になりますし、(箱そのものの品格、時代性、箱書きや書付ならびにそれをした人の信頼性、そして箱と中の美術品との整合性などなど、真贋を見る上での資料として、とても参考になります)お客様に売り込むときの材料にもなります。一方それを購入し、使用する茶道界の人やコレクターにとっては、箱や箱書きはその品物を保証してくれる物です(これが必ずしも信用がおけるとは限らないのですが、ここではそれはさておきます)。これが付いていれば安心ですし、お茶会などで人に披露するときの権威付けにもなります。従って経済的な効率性からいえば、売る方にも買うほうにも、とても便利な制度です。しかしそれが、茶道具をお茶の道具として考え、その用の美としての価値付けとか、茶道という身内だけの限られた世界の中だけでの、美の評価の物指しとしてということでしたら、確かに便利で良い制度です。しかしお茶の道具に形の美を見出し、より普遍化した、芸術的な価値の認知を世間に求めるのであれば、今の箱書き依存、旧い既存の価値観の呪縛から逃れられない評価方法には疑問を呈せざるを得ません。美の基準はもっと多様で自由であるべきだからです。</p>

<p>　茶道の歴史を遡ってみた時、利休の高弟山上宗二が遺した秘伝「山上宗二記」によりますと、初期の頃は、「茶碗は形さえ良ければ大概は茶道具として良い」といわれていたようです(やきもの入門：カラーブックス刊：田賀井秀夫著より)もっと自由に美を選択できたようなのです。これにたいし、今の茶道の道具の見方はあまりにも型に填めようとしすぎ、押し付けがましいと思います。箱書き、書付から離れ、もっと自由な発想による見方で、素直に物を観、美を発見出来ても、いいのではないかと思うのです。箱などなくても、美しいものは美しいし、良いものは良いのですから、その美に相応した価値が認められるようになるべきではないかと思います。その結果として、それらの（茶碗、茶杓、水差し、茶掛けなどなどの）美の認知がより普遍化し、そしてそれらの意見の集約された結果としての、経済的な価値、即ち市場的な評価が行われるようになっていくのが、最も望ましい事ではないでしょうか。そうなれば茶道具にも、もっと多くの人が興味を抱くようになり、嘗ては見捨てられていたような、古い茶碗の中から、新たに美術品としての価値が見出される物がでてきたり、また新しく、現在に生きる人々の共感を呼ぶような(茶碗が)造られてくるようになったりするようになるのではないかと思います。大体茶道にしましても、いつまでも畳み生活が中心だった旧い時代の形式に縛られているのでなく、新しい生活様式と、生活空間に沿って変化していくべきだったのです。それが家元を中心とする（お茶の先生、道具屋、茶道具の製造元などで形成する、）一大シンジケートのゆえに、変革が難しく、今日に至っているだけです。しかしあの華道界の変化を眺めるとき、茶道もまた早晩、変革は避けられないではないかと思います。(もしそれが出来なければ、今の中年世代がこの世から消え去った後は、古典芸能の一つとして、或いは、教養をひけらかす道具の一つとして、細々と命を繋いでいるといった状態で、生き延びていくより仕方がなくなっているだろうと思われます)。そしてその新しい茶道の中から、新たに美を見出された、新しい形の茶道具が出てくるのではないかと期待されます。無論この場合でも茶道には、茶道としての伝統的な制約が有り、茶道具にはその上に、茶道具としての用の美による制約も受けるであろう事はいうまでもありません。しかしその制約の中、伝統を重んじながらも、現在の生活様式に、より合った茶道が生まれ、そしてそれに用いられる茶道具にも、個人の自由な選択の下、新しい感覚により選ばれた、より今日的な美しさを持つ、茶道具も使われるようになってもいいのではないかと、考えるものです。（註：部外者故の見当違いもあるかもしれませんが、その節は、失礼の段、お許しください。</p>

<p>参考注意：軸物にしましても、茶道具にしましても、江戸時代の物のような古いものは、箱が虫に侵されたり、木が古びたり、箱を作るときの膠などが古くなったりして、ぼろぼろに壊れ始めてきているものが多くなっています。その為、箱と中身を違えたり、箱を棄ててしまったりされる人がいますが、上に申しましたように、古美術の世界では、その品物の評価に箱が大変に重要な役割を果たしています。くれぐれも簡単に棄てたり、燃やしたりしないでください。後で後悔しないよう念のため。表装をしなおす場合なども、一度信用のできる古美術商と相談してから始められた方が無難です。こうした事をしたために、せっかくの名品も無価値とされてしまう可能性があるからです。上の主張と違うように感じられるかもしれませんが、これが現実的な対処法です。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.82 赤頭巾ちゃん気をつけて　画商もどきと贋物絵画の氾濫</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2007/10/#000106" />
<modified>2007-09-27T07:37:41Z</modified>
<issued>2007-10-01T06:20:52Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2007://2.106</id>
<created>2007-10-01T06:20:52Z</created>
<summary type="text/plain">この文章は最近見聞きしたことを元に創作されたフィクションです。似ている部分があり...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>この文章は最近見聞きしたことを元に創作されたフィクションです。似ている部分がありましても、偶然の一致で、実際の事件、人物とは関係ありません。</p>

<p>その１</p>

<p>　以前でしたら、怪しげな話というのは、業界内で問題ありと噂のある業者さんから、もちこまれるものが殆どでした。ところが最近では、この業界とは全く関係のない、全くの素人さんからも、そういった話がよく持ち込まれるようになっております。<br />
　先日も、絹谷幸二先生の４号の作品を買ってもらえないかというお話がありました。売りにいらっしゃったのは、年は５０歳代も後半、きちんとした服装をしていらっしゃって、礼儀正しく、一見したところでは、人が良さそうな男性で、とても悪い人には見えませんでした。「まだ、買っていただけるかどうか分かりませんので、今日は、作品の写真のコピーだけを持ってまいりました。今百貨店で，６００万円位しているそうですが、急いでいますので、直ぐお金がいただけるのであれば、２００万円で結構です。どうでしょうか。」とおっしゃいます。この絵、写真のコピーで見る限り、現在、交換会でも４００万円位はすると思われる作品です。もし本当にその価格で手にはいるのであれば、とてもうまい話です。価格設定も、ついつい、助兵衛根性が動いてしまうような数字です。しかし何しろ、画像しか、もっていらっしゃってなかったので、ともかく一度、実物をみせていただくということで、帰っていただきました。それから１時間半も経った時でしょうか。その人から電話があり、「最近、町まで、あまり出ていなかったので、今日、出かけて行っただけで、くたびれてしまいました。申し訳ありませんが、池袋まで持っていきますから、そこまで、来ていただけないでしょうか。」といって来られました。その口ぶりからは、自宅には、来て欲しくなさそうな様子が窺えます。こういった場合は、普通、家に来てくださいといわれるのが普通なのに、わざわざ、池袋までも、出ていらっしゃるというのも変です。おかしいなと思いながら、それでも、やはり欲に惑わされていますから、「実物を見て考えればいいことだから。」ということにして、出かけることにしました。そしてお金の準備をさせていた時の事でした。知り合いの業者さんから電話があり、「最近、変な話が多いとおもいませんか。お宅にはそういう話は持ちこまれてきていないですか。うちなんか、いろいろあるのですよ。つい最近も、絹谷幸二先生の作品を売りたいといって、人の良さそうな小父さんが来たことがあったのですが、これが、調べてみたら、つい最近Yオークションで落札されたばかりの作品だったのですよ。しかもよく見てみると、あれってどう考えても、本物とは思えなかったですからねー。ひどい話ですよね。」と言われました。思い当たる所が多々ありましたので、早速インターネットのYオークション記録を調べてみました。すると、今日「売りたい。」といって、持ってこられた作品と全く同じものが、ごく最近、たったの３０万円で、落札されていたではありませんか。下手に助平根性を出して、買おう物なら、酷い目に遭うところでした。無論、直ぐに断りましたが、この話、どう考えても、人の助平心に付け込んで、一儲けを企んでいるものとしか、思えません。しかし、このような話は、最近ではごろごろしております。価格設定も、はっきりコピーと分かるような価格設定でなく、このお話のように、人の助平根性をくすぐる、微妙な値段になっております。額装は超一流、鑑定書が付き、だれだれ先生から直接貰ってきたとか、一流の画廊から昔、買ったものだなどといった、お膳立てが揃えてあるものも少なくありません。本当に油断のならない時代です。</p>

<p>その２</p>

<p>　こんな事もありました。これもごく最近のお話ですが、おいだ美術ホームページの買い取り希望欄へ、熊谷守一先生の、裸婦（デッサン）を売りたいといってこられた方がいらっしゃいました。そこで早速画像を送っていただきましたところ、その作品の画像を見た従業員の一人が、「社長、今日、画像を送ってきました作品、例のYオークションで, 現在オークションに掛けられている作品とおなじだと思うのですが、違いますか。」と言ってきました。早速、私も調べてみますと、１０万円くらいで売りに出ている作品と、全く同一の作品でした。直ぐに、丁重にお断りさせていただきましたが、これなどは、私どもが、知らないと思って、私どもが購入するといったら、自分で落札しておいて、それを私どもへ売りつけ、一儲けしようと、企まれたのだと思います。画商も舐められたものです。無論熊谷先生のそういった種類の作品が、そんな価格で、手に入るはずもなく、贋物か複製品としか思えません。一般に私ども画商が、作品を買い入れる場合は、真贋の鑑定、作品の状態の判定を慎重に行っております。もし私どもから「これこれの価格でなら、買わせていただきます。」と申したとしましても、それはその作品が、あくまで本物で、作品の状態が完全であることを前提としています。実際に買い入れる際は、その作品の実物を見て、真贋、作品の状態を、慎重に見てから、決めさせていただいております。従って、もしその方が、本当にオークションで買って、持ってこられたとしましても、必ずしも、私どもが、買うとは限りません。むしろそういった怪しげな作品は、先ほども申しましたように、本物でない可能性が強く、折角持ってきていただいても、買えなかったという事になる可能性が強いと思います。そうなりますと、せいぜい１,２万円の物を、１０万円で購入してしまわれたことになりますから、大損です。業者も、そういった種類の人々が考えているほどに甘くはありません。昔紳士服のアオキか、青山かどちらかの業者が、マーケットに進出し始めた頃、そこのお店で、一着１０００円の紳士服を買って、質屋さんに持っていったところ、３０００円も借りることが出来たというので、話題になった記憶がありますが、それと同じで、最初一回くらいは成功する人がいたとしましても、それを聞いた業者も、直ぐに自衛しますから、次からそんなうまくはいきません。多分真似した人は皆さん、その背広を抱えて、損をしてしまっただろうと思います。今回の事も、それと同じことです。情報獲得時間の差と、欲の勘違いで、最初は例え騙される業者さんがいらっしゃったとしましても、次には必ず自衛します。くれぐれもそういったことに手をだされないことを、お勧めします。</p>

<p>その３</p>

<p>　ネット社会は、その利便性と、情報の伝わりの速さと、広がりの大きさによって、一般消費者に大いなる恩恵をもたらしました。美術品の価格形成にしても、以前は、売るにしても、買うにしても、業者が一方的に決めてきた価格で決まってしまい、消費者はそれに従うしかありませんでしたが、ネットでの情報が普及し、価格情報も一般化した今日では、ごく普通の人でも、価格情報を手に入れることができるようになりましたから、価格決定に際しても、業者が泣かされるほど、有利になっています。しかし反面、インターネットは、人々に悪魔の手も授けてしまいました。利用の仕方によっては、ごく普通の人間も、容易に悪事に加担させてしまうようになってしまいました。特に、人々の道徳心の希薄化が叫ばれる今日では、あまり罪悪感なく、ゲーム感覚で、それに参加できるという、非常に危険な道具となってしまっております。ノークレーム、ノーリターンを標榜している、ネットオークションなどは、もっとも危険な場所で、悪の巣窟とも言える状態となっており、贋物だとか、コピー作品が氾濫しております。そしてごく一般の人が、何の罪の意識もなく、それの売買に参画している現状は、非常に憂える状態だと思います。先ほどは、オークションで買った素人が、業者さんの所にその作品を持ち込まれたお話をしましたが、その逆に、業者からはっきり贋物と言われた作品が、オークションに出ている場合も、再々認められます。<br />
　これなど、つい先日あった話ですが、田崎広助先生の油絵を売りに持ってこられた人がいました。確かに良く出来た作品で、しかも田崎陽之助氏（田崎美術館館長、田崎広助先生作品鑑定人）の本物の鑑定書が付いております。しかしよくみれば、鑑定は本物ですが、作品そのものは、贋物でした。念のため、鑑定人に問い合わせましたところ、やはり間違いなく違っているという返事でした。そこで当然理由を言って、お断りしました。所が、それからしばらくしたところで、それが、例のYオークションに出てきているではありませんか。この作品を出した人が、私の画廊へ作品を持ちこんできた人と同じか、それとも、その人から更に買った人が出品しているのか、分かりませんが、出品した人が、もし贋物と知って、出品されているとしたら、本物のシールをつけている以上明らかに、それは詐欺です。もしシールを剥ぎ取って、真贋不明として出されていたとしても、今度は無断でコピー製品の販売をなさる事は、著作権違反です。すくなくともその幇助ないしは共犯に当たる可能性があります。こういった作品の売買には、知らないうちに、犯罪に手を貸し、自分も共犯者になっている可能性があることをくれぐれも、肝に銘じておいて自粛していただきたいと思います。<br />
　なお、最近、東郷青児、、熊谷守一、向井潤吉、棟方志功、田崎広助、などの各先生方の贋作が多く出回っているとの噂を聞いております。もしこういった先生の作品のご購入を考慮されていらっしゃる場合は、くれぐれもご注意ください。<br />
　一般に、ノークレーム、ノーリターンを標榜しているオークションなどから買うのは非常に危険です。殆どがコピーか、贋物と思っていただいたほうが、無難だと思います。だって例えば、現在市場で、２０００万円以上もしているような、小磯良平の油絵が、たった２００万円で出品されておりましたが、この情報化時代、そんな価格で買えるはずがないと思いませんか。一般に今日では、社会的な風潮として、コピー製品に対する目は非常に厳しくなってきております。それにもかかわらず、ネットで絵画などの芸術作品をとり扱っている分野においては、今なお、贋物ないしはコピー製品が、野放図にのさばっている場合が多いようですが、これをこのまま放置しておくのは、非常に問題ではないでしょうか。警察当局もそろそろ、ネット社会における、こういった行為を、取り締まりの対象にしていただかないと、贋物ないしはコピー作品天国の中国を笑えないのではないかと思います。</p>

<p>その４</p>

<p>　益田鈍翁のように、大金持ちで、金に糸目をつけずに、良い物だけを買い集められるなどといった趣味人は別として、ごく普通の、市井の美術品コレクターなどというのは、昔から、ケチで、結構助兵衛根性が強いところがあります。いい美術品（主として骨董の時のお話ですが）を、すこしでも廉く手に入れるために、労をいとわずいろいろなことをします。例えば、旅先で、骨董屋さんに足をのばしたり、青空骨董市を覗いたりして、掘り出し物を、手にいれようとします。また、知人、友人から、そのコレクションだとかその家の伝来品と称されていた愛蔵美術品を、無理して、譲ってもらった（買った本人は、あまり価格を知らない人から、商人を通さずに直取引で買ったから、随分得したと思っております。ほとんど贋物ですが）という話なども、しばしば耳にするところです。こうした一般的なコレクターにとっては、そうすることによって、思わぬ掘り出し物を手に入れた時の快感もまた、コレクションの楽しみの一つとなっているところがあります。このような掘り出し物の楽しみが、昔のコレクターのように、自分だけの楽しみとして、その人の元だけに止めておかれるうちは、そのような怪しげな所から、怪しげな作品を、仮に買われたとしても、個人の問題として、何の問題もないでしょう。しかし、先程の人々のように、それを、買って直ぐに売りに出されるということを、繰り返されるということになりますと、いろいろ問題が起きてまいります。（註１：こういった行為を繰り返されるという事になりますと、それは業としてなされている事になりますから、古物商の鑑札が必要となる場合もでてまいります。注２：贋物に偽の鑑定書をつけて売るなどというのは、問題外で、明らかに詐欺罪に当たります。それを仲介された場合は、例え知らなかったと主張されても、その責任の一端は免れません。少なくとも民事的な責任を問われる可能性があります。）贋物に本物のシールをつけて、本物として売られたのであれば、それを（すでに何処かで、贋物といわれていて、）贋物と知っていて売られたのであれば、詐欺にあたる可能性があります。仮に、贋物である事を知らなくて、本物と信じて売られたのであっても、買主に重大な過失がなければ、それが、贋物であった場合は、贋物と分かった時点で、その代金の返済義務を免れることはできません。その返済義務には時効はないとも聞いています。従って、いつ何時、お金を返して下さいといってこられるかわかりませんから、一生、ヒヤヒヤしながら、生活をしていかなければならないことになります。又例え真筆保証をされなかったとしましても、それがコピーであった場合は、その作家が亡くなられてから、５０年以内の場合は、著作権違反で問題にされる可能性がでてまいります。従って、自分一人でこっそり楽しむために買われる以外は、掘り出し物だからといって、怪しげな所の、怪しげな物に、安易に飛びつかれない事です。（註：作家の死後、５０年以上経っている、骨董のような美術品は別です）物には相場があります。極端に安価な場合は、何処かに問題があると思ったほうが無難です。贋作専門業者という狼は、助平根性の強い初心な赤頭巾ちゃんを狙っております。くれぐれも、生半可な知識で、片手間に、画商の真似事を、しようなどという、大それた野望は、持たないで下さい。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>No.81　乞食王子と着飾った美術品</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.oida-art.com/archives/2007/09/#000105" />
<modified>2007-09-14T08:04:03Z</modified>
<issued>2007-09-13T04:16:27Z</issued>
<id>tag:column.oida-art.com,2007://2.105</id>
<created>2007-09-13T04:16:27Z</created>
<summary type="text/plain">　子供だった時代、王子と乞食の話に夢中になった経験がおありではありませんか。しか...</summary>
<author>
<name>画廊店主</name>

<email>webmaster@oida-art.com</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://column.oida-art.com/">
<![CDATA[<p>　子供だった時代、王子と乞食の話に夢中になった経験がおありではありませんか。しかし考えてみれば　現実のこの世界では　単に服を取り替えたくらいで乞食が王子様なれるほど甘いものではありませんよね。立ち居振る舞いから、言葉遣い、教養などがまるで違っているのに　ただ顔が少し似ているというだけで服装を取り替えれば　乞食が王子としてやっていけるとしたら、その頃の王子様はよほど内容の無い間抜けということになってしまいますものね。確かに外観によってかなりごまかされはしますが、それでもそれだけでは無理があり、王子様のように振舞えるようになるためには　せめてオードリー･ヘップバーン主演のマイ・フェアレディの女の子の場合のように　ある程度の期間教育されることが必要ですよね。</p>

<p>　ところで美術品での偽者の場合ですと　もともと似せて描いてあるわけですから良く似ている上に、そこへきちんとした箱書きだとか立派な表装、由来書といったもの(人間で言うと服装にあたりますかね)がついてまいりますと、惑わされて偽者を本物として取り扱ってしまう危険性が非常に高くなってまいります。ベテランの業者さん達の中には、本物はじっと見ているだけで本物の風格を持っていて、自分で語りかけてくるものがあるからだまされることはないなどとおっしゃる人もいらっしゃいます。しかしそういった業者さん達といえども　あまりにも周りのお膳立てが整っている時にはそちらのけばけばしたものに目を奪われ　本物が語りかけてくる真実の声が耳に届かないようなことが出てまいりますから　この世界は恐ろしいのです。このようなことは日常的ではないにしてもベテランの業者さんでも例外ではない様でして　あるベテランの業者(Aさんとします)さんから次のようなお話を聞いたことがあります。</p>

<p>　Aさんが　別の業者さん(Bさん)から「今度　藤沢桂月の軸を下取ってきたのですが、私桂月を今まで扱ったことがないものですからちょっと見ていただけませんか」と相談をされ　それをみた時の事です。もっていらっしゃった軸は間違いない共箱に入っております。軸装もそれ相応の立派さで　軸心には象牙が使ってあります。開いてみた絵も桂月風でまず間違いなさそうです。しかし私の心の中に「間違いないですよ」といいきるには　そのとき自分では意識しない　何か引っかかることがあったのでしょうね。｢間違いないとは思いますが　念のためにこの先生の絵を鑑定していらっしゃる所がありますから　そこに頼んでみましょうか｣と申しました。するとBさんは｢是非お願いしてください｣といわれます。　そこで鑑定にもっていったのですが、さて見てもらうという段のこと、その鑑定人が軸を開いていかれるのを　逆の側から見たときに　はっとしました。桂月の絵とは雰囲気がまるで違うのです。最初に見たときには　箱書きとか　表装といった外観に惑わされ　最初からその目で見てしまっていたものですから　絵のほうはきちんとみないで桂月と決め付けてしまっていたといいうことなのです。それを逆さまからみるという見方を変えたことによって違うと気づいたのだと思います。</p>

<p>　案の定　鑑定の人も一目見て「ああ、これは桂月ではありませんね」とおっしゃいます。参考までに「どう違うのですか」とお聞きしますと、「桂月にしては下手すぎます」とのお返事でした。そこで持って帰って　Bさんに「いや駄目でした」「下取りしてきたお客様（Ｘとします）のところに持って行って理由は言わずに返してきた方がいいのではないでしょうか。」と申しました。するとBさんは「わかりました。しかしどうして黙って返した方がいいのですか」と聞かれます。「この作品、箱は本物ですから　どこかで誰かが本物を抜き取り　代わりに贋作を入れておいたのだと思われます。しかしはっきり贋作とこちらが指摘しますと　そのお客さんが素人である場合は　なんだかんだといって引き取ってくれない可能性が強いと思われます。だから理由を言わないでグレイのまま　お返しした方がいいのです。　本当の理由は言わないで　お客様（Ｘさん）のところに返しにいって　そのお客さん（Ｘさん）には　『買ったところ（Cさん）に持っていって買い戻してもらうように交渉した方がいいですよ』と勧めてあげて下さい」　と忠告しました。<br />
　<br />
　さてそれから数日後のことです。Aさんは　ある交換会にその作品が出てきたのを見つけたのです。Aさんは「どうなるかなと興味津々眺めていたそうです。すると、「５０万」という声がかかりましたが　それ以降は誰からも声がかかりません。結局５０万円での落札ということになりました。ところで一般に大きな交換会では　品物を見る目は厳しい人が多く　少しでも怪しい品物が出品されると、疑義が出され　売買が成立しないのが普通