No.235 狂い花 (ある名もなきコレクションへのレクイエム(鎮魂のミサ曲))(6)

このお話はフィクションです

その11

人に知られる事もなくそっと咲いてそのまま散っていった狂い華へのレクイエム
社医澁井先生のお父上の話 その1
「あんただから、恥を忍んで言うけど、うちの息子は、未だに、戦争中と戦後の捕虜生活時代の悲惨な日々の体験を引きずったままで、本当の戦後、すなわち精神的な意味での終戦は、訪れていないんですわ。
だからあんたの会社に行かせたものかどうか、私、随分迷いました。
今迄は、大学の内科の医局にいましたが、そんな状態ですから、入った教室の教授や医局長にも、疎んじられ、未だに受け持ちの患者も持たせてもらえない状態なんです。
私の知り合いの教授は、息子の入っている教室とは、別の科の教授ですが、『世間の人と、あまり接触しないで済む、基礎教室にでも入って、研究職につかせたほうが良いんじゃないでしょうか』とおっしゃって下さいます。
でも私としては、あの子に、今のような変わり者のままで、一生を終わらせたくないのです。
出来るものなら、現在の社会生活に適応出来るようになってもらい、結婚して、人並みの生活を送れるようになって、私の後を継いでもらいたいと思っているんです。
こんな時、うちに出入りしていた生保レディーの一人が、『お宅のご子息、お医者様になられているのに、何処にもお勤めに出ておられず、まだ大学に残っておられると、お聞きしましたが、もし本当でしたら、うちの会社に、社医さんとして、来てもらえないでしょうか。
うちの会社、今、お医者さんが足りなくて、困っているんです』と誘ってくれたんです。
とても良い話だと思ったのですが、なにしろ息子がさきほどお話したような状態でしょ。
お勤めに出したのは良いが、勤め先でトラブルを起こし、すぐに辞めさせられる事になってしまうんではないかと心配でしてねー。
こうして、どうしたものかと、頭を悩ませていたのです。その時、ふと頭の中を過ったのが(よぎる)生保会社にお勤めの、山田君、あんたの事でした。
保険の診査医だったら、いろいろな人と接触する機会がありますから、うまく言ったら、息子のPTSDにも、よい影響があるんではないか思えたのです。
あんたには、迷惑をかける事になるかも知れないとは思うんですが、私を助けると思って、しばらくの間、息子の面倒をみてもらえんやろか」
「先生のお頼みですから、嫌とは申しません。
ただね、便り甲斐のない話で、申し訳ありませんが、うちの会社は、お金儲けを第一とする、営業会社なんです。
だから、お客様とセールスの立場を守る事が、何よりも優先される会社です。
万一ご子息が、セールスだとか、お客様との間で、トラブルを起こされた場合は、事の良し悪しに関係なく、ご子息の方が、不利な立場に立たされることになりがちです。
そして、そういう事が重なった時は、ご子息に落ち度がなくても、会社に居り難くなるのは必定です。この場合、このようなことが起こされたのも、前の第2次世界大戦の後遺症であるPTSDによるものだからと言い訳をしましても、誰も助けてくれません。
それどころか、そんな精神障害を持っているのであれば、なるべく早く自分から辞めてゆくように、陰に陽に画策してくるのは必定です。正直な話、そうなった場合、私の様な一介の社医では、いくら先生に頼まれているご子息であっても、どうしてあげようもありません。従って、入社して来られるご子息に、私がしてあげられる事は、(ご子息が、)私の話を聞いてくれるか、くれないか解りませんが、ご子息のお話をできる限り聞いてあげる事によって、ご子息の心の奥深くに、固く氷結している、人間不信の闇に光を当て、それを氷解霧散させ、彼が持っている、自由で明るい本来の心を取り戻す為の手助けをしてやる事くらいです。先輩からの折角のお頼みに対し、こんなお返事しかできない自分が、とても情けなく、悲しく思います。でも正直な所、営業会社に勤めの身としては、これが精いっぱいなんです。本当にごめんなさい。もしこの程度の手助けしかできないのでも良いとおっしゃるのでしたら、出来るだけの事はさせてもらいます。また個々のセールスや、事務員たちの苦情につきましても、耳に入った時ごとに、彼がそのようになった事情を説明し、理解を求めるようにさせて頂くつもりではおります」

その12

澁井先生のお父上の話 続き

「無論、私のお願いが、無理な話である事は、十分承知しております。ですから、そう言って頂けるだけで、とても有難い話だと思います。
お願いするにあたりましては、息子仙太郎の事を、十分知っておいて頂いた方が、良いのではと思い、少し詳しくお話させて頂こうと思うのですが、暫時お時間を頂いてもよろしいでしょうか」

長男夫婦について

「あの子は、二人兄弟の年の離れた次男でして、長男・純央(すみお)は、先祖代々の家業である、医院を継いでほしいと言う、私どもの願いも空しく、私共夫婦の反対を押し切って、中学(旧制)卒業後直ぐにフランスへと留学、画家への道を志すようになってしまったのでございます。

註;当時は旧制中学校で就学年限は5年間でした、

ところが、私ども夫婦が甘くて、彼の言うなりにお金を送っていたのが一番いけなかったとは思いますが、あちらへ行って5年経つか経たないかのうちに、画家の友人たちと遊び惚けるようになり、画家としては結局ものになりませんでした。
今にして思えば息子自身も、あちらに行って才能溢れる色々な画家たちを見ているうちに、自分には才能がない事に気付いたのかもしれません。
その為、酒に溺れ画家の友人達と飲み歩き、芸術論を戦わせる事によって挫折感を紛らせていたのではないかと、今では思えてならないのでございます。
しかしそんな生活が長続きするはずがありません。
やがて身体を壊し満州事変の始まる少し前に、キャサリンという名前の目の蒼い金髪の女性と連れ立って帰国してまいりました。
突然の息子の妻と称する女性の出現、それも相手が日本人でしたらまだしも、金髪、青い目の遠い、遠い異国の女性の出現に、私どもはただ途惑う(とまどう)ばかりでした。
息子の説明によりますと、彼女、英国からフランス文学を学ぶために大学に留学して来ていた女性で、たまたまお互い友人と連れ立って酒場に来ていた時、知り合いになり、交際を始めた、との事です。
そしてやがてそれが恋にさらに結婚にまで発展したと聞きました。
彼女は英国でもかなり上流階級の令嬢だそうで、彼女のご両親はアジアの東の果てにあるちっぽけな島国の男、しかも今は自分の国との間が何時戦いが起こってもおかしくないほどに険悪な間柄になっている国の男との結婚なんか、大反対でした。
結婚するなら親子の縁を切る、とまで言われていました。にもかかわらず、それを押し切っての結婚でした。
その為、息子が病気療養するにあたって、彼女の両親がいる母国に帰る事が出来ず、夫の国日本へとやって来たのでした。最初は驚き戸惑っていた私共でしたが、彼女はとても出来た嫁でした。日本の嫁でも、滅多に見当たらないと思われるほど優しくよく気が付き、何をするにも嫌な顔一つすることなく、いつも笑顔でまめまめしく動いてくれる嫁でした。
全く見知らぬ国、言葉もあまり通じない中、私の家内長男といった二人の病人と、私と次男といった家事が全く出来ない者どもを抱え、使用人を使ってではありましたが、病人達の看護はいうまでもなく、私や幼い次男の身の回りの世話、貸してある不動産の管理などなどを、殆ど彼女一人でやってくれるようになっていきました。
金髪、青い目の異国人を不審な目で眺める人が多かったその時代に、おかしなイントネーションの片言の日本語を使ってしてくれていたのですから、いくら使用人に助けてもらいながらとはいえ、さぞ大変で、苦労なことだったろうなと思います。

註:神戸の街は、横浜と並んで、外国貿易の拠点となっていた港町で、異国人を見る機会も多く、外国人に対して、比較的寛容で、異国人だからと言って、一概に、排斥されることはありませんでした。
しかし当時の厳しい国際情勢から、日本中に異国人特に欧米人を排斥する風潮が日々、強まりつつある時代でした。
その為、彼女の周辺でも、青い目金髪舌足らずの言葉の嫁に対する風当たりは日に日に強くなっていました。
しかし、にも拘らず嫁は別に愚痴を言う事も泣き言一つ言う事もなく、坦々と家の用事をこなしてくれていました。

その13

長男の死

息子夫婦が帰国してから、一年ちょっと経ったとき、私の家内が亡くなりました。
息子から妻として紹介された時、最初は戸惑い、怒り、「青い目の女なんか、嫁として認めるもんか」と毛嫌いしていた家内でしたが、死に際には、「あの子が来てくれてよかった。
これで私は、安心してあの世へ旅立って行ける」と言うまでになっていたほどでした。
次男の仙太郎にいたっては、幼い時から病気がちで、床の上にいる事の方が多く、いつも沈んだ顔をしていて、愚痴が多かった母親よりも、優しい上に、四六時中、近くにいて、世話をし、遊んでくれる嫁の方に、懐いて(なつく)いましたから、母親が亡くなったからといって、それほど寂しがる事も、悲しがることもありませんでした。
悪い事は重なるもので、母が亡くなるとその後、1年もたたないうちに、その後を追うように、長男・純央(すみお)も亡くなってしまいました。
直接の死因は肺炎でしたが、肝硬変があって、もともと体力が落ちていた所へ、肺炎それも、悪性肺炎と言われている病気に襲われたのですから、ひとたまりもありません。
3日ほど苦しんだだけで、あの世へと旅立ってしまいました。
嫁は、私の息子の愛情だけを頼りにして、親の反対を押し切って、知っている者とて一人もいない、アジアの東の果てにある、小国までやってきたのです。
その頼りにしていた、夫に先立たれてしまったのですから、その痛みの大きさは,口では、言い表せないほどだったろうと思います。
夫が亡くなった後は、あまりの悲しみに、葬儀にも出られませんでした。
彼女は、息子が亡くなった瞬間から、自分の部屋に閉じ籠ってしまいました。
食事時になっても、部屋から出てこず、ドアの外からの呼びかけには返事をするのですが、部屋に入るのは拒絶しました。
そんな彼女に対して、私は気にはなりましたが、どうしてやる事も出来ませんでした。
その時の私は、私自身が、家内の死に続いての、頼りにしていた長男の死に、塞ぎ(ふさぎ=気鬱)の虫に取りつかれてしまっていて、息子の嫁の気持ちを、斟酌(しんしゃく)して、何かをしてやろうとする気持ちの余裕を失っていました。
その上、女の子を持った経験のなかった私には、悲しみのあまり、部屋に閉じ籠って、人に会おうともしない若い女性、それも異国の女性に対し、どう接したらよいのか、さっぱり見当がつかなかったせいもあります。
当時の私には、やきもきしながら、彼女が自分で立ち直ってくるのを、只々待つ以外に、方策がありませんでした。
ただ救いは、長年、うちにお勤めしてくれていて、彼女とも仲良くしていた、女中と仙太郎がいてくれた事でした。
女中は、部屋の中には入れてもらえませんでしたが、三度の食事を運んで行く度に、ドア越しに、声をかけたり、食事の食べ具合をみたりして、嫁の状態をみていてくれました。
女中からのその報告と、唯一嫁の部屋に入る事を許されていた、仙太郎の話してくれる嫁の話などから、嫁の状態を窺い知ることが出来た事が救いでした。

その14

嫁のキャサリンが部屋から出てきて、私たち父子と一緒に食事を摂るようになった、ある日の事です。
(註:帰化して、日本名は佳佐美となっていましたが、家の中では、本人の希望もあり、キャサリンで通しておりました。
なお仙太郎はまだ幼かったせいもあって、彼女の事を、キャーちゃん、キャーちゃんとよんでありました)

食事が終わった後も塞いだ顔をして、座り込んだまま、じっとしている嫁の姿に、見かねた私が、
「もう息子も亡くなったことですし、いっそ、ご両親のいらっしゃる、イギリスにお帰りになったらいかがでしょう?
息子と一緒に、遠い所まで来て下さった貴女にはとても有難い事だと思っています。
その感謝の意味を兼ねて、あなたのお望みに応じて、出来るだけの事は、させてもらう心算でおりますが、いかがでしょう?」と言ってみたことがあります。
でもキャサリンは
「お心遣いありがとうございます。
今まで大変に、ご心配をおかけしたようですが、もう大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした。
お義父様のお気持ち、とてもありがたく思います。でも私、夫・純央の魂のいるここを離れたくありません。
お義父様さえお許し下されば、ここにこのまま、居させて頂きたいと思っていますが、駄目でしょうか?」と言って聞き入れてくれませんでした。はっきり口にはしませんでしたが、言葉の端々から察しますに、どうも、結婚した時の経緯(いきさつ)から生じた、親へ蟠り(わだかまり)だとか、ひたすら自分を慕って、何処へ行くのも自分の後をついて廻っている仙太郎の存在、自分がこの家から去った後の、この家の心配などなどにも原因があったようでした。
しかしそれらにもまして、嫁をして、この家を離れ難くしていた最大の理由は、夫・純央と一緒に蒐集した、30数点にも及ぶ、ヨーロッパ絵画の存在でした。
それらは、単なる夫の遺品というより、パリで夫と過ごしていた時代、短かったけれども、彼女の人生で、最も楽しくて充実していた、あの甘美な時代の思い出が一杯詰まっている物であったからです。
その一点、一点に、集めるにあたっての、色々な思い出や、画家たちとの交遊の歴史が詰まっていたのです。それを眺めていますと、それを描いた画家たちの顔だとか、酒を飲みながら芸術論を交わしていたあの時代の夫・純央や画家たちの姿が、今も目の前にいるかのようにありありと彼女の脳裏に甦ってまいりました。
画家たちのマドンナ的な存在としていつも皆から愛され賛美され、集りの中心的存在であったあの頃の事がそして甘く切ない夢のような日々だったあの時代の自分の姿が、まだ昨日の事のように彼女には思い出されるのでした。こういった交遊と、それらの画家達の紹介を通じて集めてきた、これらの絵画は、嫁にとっては、今では、単なるコレクションではなくなっていたのでございます。
夫・純央と相談し、意見を戦わせながら、あちらこちら飛び回って集めてきたそれらは、小品ながら、芸術的価値の高い作品ばかりで、子供のいない嫁にとっては、わが子のような、或は、それ以上の存在になっていたようでございます。
だから、「もう純央も亡くなった事だし、イギリスに帰ったら」と私が言った時、嫁は。その時は、はっきりと口には出しませんでしたが、後でだんだん解ってきた所によりますと、その時の彼女は「義父様とはいえ、あのような絵画音痴ともいえるような人、特に、ヨーロッパ絵画については、無知といっていいほど、何も知らず、何の関心も持っていない人、そんな人に、私と、夫純央との子供ともいえる、この大切なコレクションを任せたまま、この家を去るわけにはいかない」と思ったのが、この国に残る事にした、最大の理由だったようでございます。

続く