No.233 狂い花 (ある名もなきコレクションへのレクイエム(鎮魂のミサ曲))(3)

その5

引っくり返った社医さんの評判
(ユニーク過ぎる社医さん)

それから3ケ月ほどの月日が流れました。
その間に、新しく入ってきた社医、澁井仙太郎先生に対する評価は、様変わりに変わっていました。
もう今では、女子職員の誰一人として、彼の事を,澁井先生と呼んではいません。陰では、あいつとか、澁井仙太郎の名前を略して、彼の日頃の行いから付けた渾名(あだな)、渋仙(ケチで浮世離れしている人という意味をこめてのあだ名)とかと、呼ぶようになっております。最近の女子更衣室は、もっぱら、彼の奇行についての話題で、盛り上がるようになっております。
いつものように、今日の昼休みも、その話から始まりました。
口火をきったのは、庶務課の女の子です。
「渋仙ったらさー、あいつ、出勤してくる時、毎朝、毎朝、大きな魔法瓶を2つも抱えてくるのよ」
「へー、それはまたどう言う事」
「生意気に、あんた達が出してやるお茶じゃー、飲めないという事なの?」「これが、そういう事じゃないのよ。朝出勤してきた時、出してやるお茶は、他の先生方と同じように、おいしそうに飲んでいるわよ」「だったらその魔法瓶に何を入れて持ってくるのよ」「空っぽよ、空っぽ何も入ってないわ」「・・・・?」
「医務室の先生方って、皆さん、お年を召していらっしゃるせいか、絶えずお茶を欲しがられるの。でもさー、私たちだって、皆、夫々が、夫々、他に担当するお仕事をもっていて、先生方専属のお世話係というわけじゃないでしょ。だから、朝一番だけは、ご挨拶を兼ねて、お茶を入れて持っていくけど、後は大きな湯沸しポットと、茶入れを置いてきて、自分でお茶を出して飲んでもらう事にしているの。渋仙ったら帰り際に、それを使って、お茶を出し、ポットに詰めて、持って帰っているというわけ」
「どけち!でも、今まで聞いてきた話からすると、あいつならやりかねないわねー」
「そうでしょ、そうでしょ。なにしろあのドケチ野郎ったら、本社での入社研修に行った時だって、お土産一つ買ってこなかったような奴だものね。他の先生方は皆さん、『いつもお世話になっています』と気を遣って、何処かへ出張される度に、いろいろなお土産を買ってきて下さるというのにさあ」
「それ、いつも見ている訳でしょ、あいつ」
「むろんそうよ。でも気付いているのかいないのか、何処か遠くへ行った時でも、全く知らぬ顔。それどころか、私たち、庶務課への頂き物だって、お茶うけにと、絶えずお裾分けしてあげているのよ。それにも拘らず、全く知らぬ顔のどん兵衛。意地汚いことを言うようだけど、だったら、遠くへ出張した時くらい、たまには私たちに、お土産くらい、買ってこい、っていうの」
「あのドケチなK・Y(空気読めない)野郎に、そんなの、望むだけ無駄。空しくなるだけだから、そんな話止めましょうよ」
「なにしろあいつったら、私たちが、医務室の先生方の所へ持って行ったお菓子をさー、その食べ残しを、他の先生方の分までひっくるめて、きれいに家にもって帰ってるようなやつなんだからね」
「だったら、少し早めに茶器の片付けに行って、余っているお菓子は、その場で塵箱に捨てるか、引き上げるようにしてやったらどう、いやがらせに。そうしたら、どんな顔をするか見ものだと思わない?」
「駄目、駄目、もうすでに、そうしてやったことが、一二度あるのよ」
「そうしたら、どうだった?」
「すると、あいつめったら、さすがに、食べかけの物まで、拾おうとはしなかったけど、まだ手の付けられていない物、包装紙に包まれたままの物は、『勿体ない、勿体ない。
こんなことをしている日本人達、今に罰が当たらなきゃーいいんだけど』と口の中でモゴモゴ呟きながら、ごみ箱から拾って、家へ持って帰りおったのよ」
「へー、驚いた」
「だからある時、意地悪して、残されていた物をゴミ箱に捨てるのでなく、庶務課の方へ持って帰ろうとしてやったの。そしたらあいつめ、『そのお菓子、庶務課の方で、お食べになるんですか?』って聞くのよ」
「そこで私が、『いいえ、先生方のお手を煩わせては何ですから、私たちの所へ持って帰って捨てようと思いまして』といってやったの」
「そうしたらあいつめ、どう言ったと思う?」
「さあー」
「『それじゃー、私が家に持ち帰って頂きますから、そのままにしておいてください』と恥ずかしがる様子もなく言うのよ。いじましいったらありゃしない」
「でもさー、話は戻るけど、会社の茶葉を家に持ち帰ったら、細かい話だけど、それって窃盗じゃないの」
「それがそうじゃないからどうしようもないのよ。
もし、あいつがそんなことをしたら、『茶葉を家へ持ちけるのはお止め下さい』って、ピシャッと注意してやることが出来るけど、そうじゃないから、どうしようもないのよ」
「とは、どういう事?」
「あいつが、自分用のポットに入れるために作るお茶は、茶入れの中の、新しい茶葉を使って出したものじゃないのよ。
先生方が、一回お茶を出しただけで、茶殻入れに、捨ててしまわれる、出し殻茶葉を使って、出したお茶なの。
だから、文句の付けようがないのよ」
「でもそんな茶殻入れに入っている出し殻茶葉を使って出したお茶って、不衛生じゃないの?
あいつ、そんなもの、よく飲めるわね。
不潔って思わないのかしら」
「それがさー、私たちが朝、他の茶器と一緒に茶殻入れを持っていくでしょ。
するとあいつったら、自分でもう一度、丹念に茶殻入れを洗い直すの。
そして先生方に頼んで、出し殻茶葉を、その中に捨て、冷蔵庫に入れて保存してもらうようにしてるらしいのよ」

ユニーク過ぎる社医さん続き
その6

「ニュース、ニュース、大ニュース。渋仙の奴、昨日、見合いをしました」
「ヱッ、誰と」
「それがさー、セールスの小栗田さんって知っているでしょ、ほら支社のトップセールスの」
「ウン」
「エー」
「あの小栗田さんの世話で、彼女が担当している家の、お嬢さんとお見合いをしたんだって。小栗田さんの話では、大変良家のお嬢さんで、今は花嫁修業中の方なんだって。活発で、背丈のスラットした、とっても綺麗なお嬢さんだったそうよ」
「へー、あんな何を考えているのか解らんような取りつき難い男を、小栗田さんったら、よくお世話する気になられたわねー」
「小栗田さんってさー、縁結びのお世話をされるのって、親切心からではあるけど、もう一つ、自分の営業の一環でもあるのよ。だから、独身で適齢期の男女を見れば、直ぐ誰かに結びつけようとされる方だという事は、皆も、知っているでしょ。彼女にとっては、紹介する人の家柄とか、学歴、職業などが最も重要な要素であって、人柄や性格なんて二の次なのよ。その点、渋仙は、神戸西元町の駅近くに土地をもっていらっしゃる、開業医の息子さんでしょ。紹介するには、うってつけての人だったんじゃないの」
「で結果はどう?うまくいった?」
「そんなもの、うまくいくはずがないでしょ。その日の夕方には、即刻お断りの電話が入ったそうよ」
「小栗田さんが、相手の人の親から聞いた話では『渋仙の奴ったら、相手の女性を半日もの間、連れ廻したあげく、たった一杯のラーメンを、ご馳走しただけで、バイバイだった』そうよ」
「連れ歩いたって、まさか本当にテクテク歩かされたんじゃないでしょ」
「それが、本当に歩かされたんだって。名古屋駅で会ってから、伏見の名古屋美術館、栄の愛知県立美術館と美術館巡りのはしごをしたんだけど、入館料は、別々で払い、その上、一緒にいた間中、一杯のお茶も飲ませてくれなかったんだって。すごいでしょう。
相手のお嬢さん、「長い事歩かされただけの、草臥れ損だったわ」と言って苦笑(にがわらい)していらっしゃったそうよ」
「へー、酷い話。さすがK・Y(空気読めない)渋仙」
「でもねー、その娘さんがおっしゃるには、『一番辛かったのは、その間、殆ど口をきいくださらなかったことだった』んだって。
何を話しかけても、『ウン』という生事か返ってくればいい方、殆どが、聞いていてくれているのか、いないのか解らないような無反応で、返事もなく、まるで壊れたロボットと歩いているようだったそうよ。美術館の中だって、別に絵についての解説をしてくれるわけでも、そのお嬢さんに感想を聞いてくれるわけでもなく、自分一人だけで観て、一人で頷き、一人でさっさと歩いていたんだって」
「さすがの小栗田さんも、『お見合いをすると返事した以上、もう少し、やってくれようがあったでしょうに。紹介した私の立場も、少しは考えて行動してほしかったなあ』と愚痴っていらっしゃったわ」
「その上、なんでも渋仙のやつったら、お見合いだというのに、いつも会社へ出てくる時と同じ、あの化繊の、よれよれのスーツ姿で、やってきたんだって」
「『お嬢様の方は、お見合いだというので、お父様もお母様も正装して、お出でになっていたというのに。渋仙さんが、あのスーツ姿で、現れた時には、小栗田さんも冷や汗が止まらなかったわ』とも言って、零して(こぼす)おられたわ。
解るなー、小栗田さんの気持ち」
「ひどい奴。私がその立場だったら、『馬鹿にしないで』と言って、その場にラーメンぶちまけ、さっさと、帰ってやったでしょうに」
「でも、考えてみると、変ねー。その気がないのなら、最初から、断ればいいのに」
「そこが渋仙のいいところでもあり、悪い所でもあるのよ。妙に気が弱い所があって、強い口調で言われると、相手を傷つける事を恐れて、はっきりよう断れないみたいな所があいつにはあるのよ。その結果却って傷つく人が、増えるだけだというのにね」
 

ユニークすぎる社医さん続き
その7

「今朝さー、医務室へ、お茶を持って行ったら、渋仙の奴ったら一番古株の若園先生に注意されていたわ」
「何々、どういう事。どういう理由(わけ)で?」
「なんでも、あいつが、駅の塵籠の中から、読み終わって捨てられている新聞を拾い集めているのを、うちの優績者(セールスの中で、生命保険募集成績のいつも良い人)の一人、金森さんに見られてしまったんだって。」
「金森さんって、以前とってきた高額の保険を、渋仙の診査で、駄目になり、随分恨んでいた事があったけど、あの金森さん?」
「そう、あの金森さん」
「だもんで、江戸の仇は長崎でとばかり、医務課へ文句を言ってきたんだって」
「フーン、でもそんなことしたくらいで、医務課が動いてくれるかしら?別に泥棒したわけじゃなし、ただ塵籠から、新聞を拾っていただけの話でしょ」
「うちの会社ってさー、優績者には弱いところがあって、優績者のいう事は割と無理が通るのよ。

註:優績者・・・保険のールスマンまたは、セールスウーマンの中で、保険契約をとってくる成績が、常に優秀な人の事

彼女、『うちの社医さんともあろうものが、駅のプラットフォームのような、皆が見ている場所で、ルンペンのように塵籠を漁られては困ります。万一お客様に見られでもしようものなら、社医さんの権威と信用を無くさせるだけでなく、審査の公正性までもが疑われかねません。ですからそんな事は止めるよう注意していただきたい』と医務課の方へ苦情として持ち込んだんだって」
「フーン、なるほど、なるほど」
「でも医務課では、そんな事、言ってこられても、どのように注意したものかと、お困りだったでしょうね。別に法律的に悪い事をした訳じゃないんですから」
「それで、渋仙の奴、若園先生に、どういわれていた?」
「『君、駅のプラットホームのような、衆人環視の場所で、塵籠から、新聞を拾いあつめてくるのは、お止めになった方がいいですよ。本社の医務課の方へ、セールスからの苦情が入っているそうですから』と言われていたわ
「それに対して、渋仙、どう返事してた?」
「『そうですか。それって、そんなに拙い(まずい)ことですかねえ。別に人に迷惑を掛けるわけでも、法に背いているわけでもないと思うんですけど』とくってかかっていたわ。
でも若園先生に、『確かに、理屈では、先生の言う通りですけど、うちの会社は割と評判とか体面を大切にしている会社なんですよ。だから社医たるものが、駅のプラットホームのような、皆が見ているような場所で塵籠をお漁りになるのは、拙い(まずい)のじゃないでしょうか』と言われていたわ。すると『私が拾って読んでやれば、資源の有効利用に、多少なりとも、役立つ事になると思うんですけど。資源小国の日本が、今のような、だだくさな(むちゃくちゃに締まりのない様) 物の使い方をしていて、本当に良いんでしょうかね。こんな事をしていたら、今に罰があたるんじゃーないかとおもうんですけど』と言って反論していたわ。
それに対して若園先生が
『戦中派の私たちには、先生のお気持ちはよく解ります。でもね、会社が嫌がっているんですから、医師としての品位を保つためにも、それはお止めになって下さい。会社勤めというのは、そういうものですからね。先生が、何が何でも新聞を拾ってこなくちゃーと、お思いでしたら、座席に打ち捨てている、新聞や、雑誌を拾ってくるくらいのところで我慢して下さいよ』と説教されていたわ。そこまで言われたら、いくら渋仙でも止めるんじゃないの」

続く

No.232 狂い花 (ある名もなきコレクションへのレクイエム(鎮魂のミサ曲))(2)

このお話はフィクションです

その3

「あれだけ私が誘ったのに、あんたが行ってくれなかったせいで、結局行けなかった、香港のあのオークションさー、私たちが関心を持ったあの謎のコレクションの作品は、どれもが異常とも言える高値がついてしまったんだって。
私の知っている画商達はみんな、『せっかく香港くんだりまで出かけてきたというのに、結局何にも買えなかった』とブツブツ言ってたわ。」
「それじゃー、行かなくて正解だったじゃない」
「そうかもしれない。でも熱狂的な雰囲気が味わえなくて、残念と思うところもあるけどね」
「またまた、へそ曲がりなことを。で、あのオークションの、出品作品のもともとの持ち主について、なんか解った?」
「それが残念なことに、私の知っている画商達は、みんな知らないというの」
「オークション会社に聞いても分からなかったの」
「そう某金融会社というだけで、名前を明らかにするのは、許して欲しいというのよ」
「でもあれだけの作品を集めていたわけでしょ。だったら、その人の所へ作品を売りにいった画商は、一人や二人じゃなかったはずだと思うんだけどねえ」
「それが不思議なんだよね。東京方面の画商は、誰も関係してなかったらしく私が知っている範囲内では、皆、噂も聞いてなかったというのよ」
「でも、あれだけ質の良い作品群でしょ。だったら、そのうちの一点や2点くらいは、交換会だとか、オークションに出たのを、見たことがある人がいても、不思議ないんじゃないの?」
「それが不思議な事に、日本のオークションには一度も出たことがないものばかりらしいのよ」
「へー、そうなんだ」
「もしかしたら、古く、戦前からヨーロッパ絵画を扱っていらっしゃったF画廊さんなら、扱ったという記録が残っているかもしれないけど、私、F画廊さんとは全く面識がない為に聞くことができなかったの。だからそのせいもあるかもしれないけどね。
もう一つ考えられる事は、あの作品の年代から考えると、あれを集められていた時期が、もうかなり以前の事で、その頃活躍していらっしゃった画商さん達は、今ではお年で、引退したり、亡くなったりされていて、その頃の事を、知っている人が殆ど、いなくなってしまっているせいかもしれないけどね。いずれにしても、今の所、手掛かりなしなの。ただ出品者は、関西方面の人らしいので、関西方面の古い画商さんの中には、知っていらっしゃる人がいるかもしれませんから、今度そちらの方に行く用事があった時に聞いてみるわね。

その4

新しく赴任されたお医者様
その日、今度独身のお医者様が、医務課に入られ、名古屋支社に新たに配属されてくるというので、共存生命の女子職員たちの間では、その噂でもちきりでした。昼食の為に、女子職員更衣室に集まってきた彼女たちの話題も、もっぱらそれでした。
「今日支社長の所に挨拶にお見えになった時、貴女、お茶を持って行ったんでしょ」
「うん」
「で、どうだった」
「どうだったと言われても、お茶を持って行った時、ちらっと見ただけだから」
「どんな感じの人?」
「さー、なんといったらいいかなー。ちらっと見たときの印象は、一言で言えば、青白くて、ひょろひょろっとしていて、大人しい感じというところかなー
その為か少し神経質そうで、陰気臭いというところかな」
「えっ、陰気?そうかしら、それちょっと違っているんじゃない?私達が、廊下ですれ違った時の印象では、陰気というようなもんじゃなかったわ」
「そうなの?それじゃー、どんな印象だった?」
「そうねー、廊下ですれ違った時、ちらっと目を合わせただけの私が言うのも変だけど、あの人と、目が合ったとたん、どういう訳か、背筋にゾ、ゾッとするような冷たい感じが走ったわ。こんな事軽々しく言うべきではないかも知れないけど、私、あの人、とんでもない過去を背負っていらっしゃる人のような気がするの。だから陰気というよりは、ニヒルな感じというのが“ピッタリ”じゃないかしら。何も信じられず、誰も信じる事の出来ない底知れぬ闇を心の中に抱え込んだまま、たった一人で流れに身をまかせて、生きていらっしゃるだけといった感じ。
あの人、今までの人生で、よほどの事があったんじゃないかしらね」
「貴女、あの時私といっしょにいたでしょ。そう思わなかった?」
「そう言われてみればそうかもしれない。神経質そうというより、なんだか掴みどころのない不思議な感じの恐ろしさを持った人というべき人かもしれないわね」
「という事は、やくざの様な、凄みがある怖さをもっていらっしゃるという事?」
「ノー、ノー、そうじゃないの。やくざのような、ドスのきいた怖さではないの。
あの人の瞳の奥に、ニヒルで、底知れない深い、闇の存在が感じられるのが、恐ろしいのよ。うっかり同情し、惹かれようものなら、一緒に、地獄の底まで、引き込まれていきそうな、そんな怖さかなー」
「そうよね。確かにそんな危険な香りが、プンプンしているわねー、あの人」
「少し痩せぎみで、背は高く、その上、とても端正な顔立ちをしていらっしゃるから、よけいにね」
「歳は?」
「見た感じでは、三十歳代半ば前というところかな。
ハンサムだから、若そうに見えるだけで。実際にはもう少し、上かもしれない」
「端正な顔立ちの上、身体全体から発散してくる、あのニヒルな冷たさと、孤独で寂し気な様子は、母性本能をくすぐり、あの人となら、一緒に地獄におちても構わないと思わせるような危険な何かを持っていらっしゃるわ。貴女、先ほど、目があっただけで、ゾ、ゾッとしたとおっしゃったけど、それって、もしかしたら、あの人が発散している危険で甘美な香りに、貴方が惹かれているのを、本能的に察知した、子宮の震えの表れじゃないの」
「そうよ、私もそう思うわ。愛と憎しみだとか、恐怖と歓喜は、裏表というから、貴女のそのゾ、ゾッとしたのって、もしかしたら単なる危険信号というより、狂わしいほどの危険な魅力を、本能的に嗅ぎとった一つの証(あかし)とも言えるんじゃないかしら」
「そうかしら?・・・・・・、あるいはそうかもしれないわね。でも例えそうであったとしても、私はあの人には、近づかないようにするわ。同情して、あの人に関わったりしたら最後、ズルズル地獄の底まで、一緒に落ちていきそうな危険を感じるから」
「そうよね、それがいいわ。今までのあの人の人生に、何があったか解らないけど、あの人には、確かに底知れ深さの心の闇を感じるものね。それにさー、こんなことを言っては、俗っぽい話で何だけど、一般的に言って、お医者さまって、助平で浮気者が多いというでしょ。あの人だって、もう30歳をかなり過ぎてるはずよ。幾ら戦争に行っていて、捕虜になっていた期間があったからといっても、あの年であの容姿でしょ、それなのに、未だに独身というのは、なんだか怪しいわよねえ」
「そうよ、そうよ、もしかしたら、とんでもない女性関係の縺れ(もつれ)を抱えこんでいらっしゃるとか」
「そう、そう、隠し子があちらこちらにいたりして。これ冗談だけど、フ、フ、フ」
「フ、フ、フ」
「クス、クス、クス」
「そうかしら、でも例えそうであったとしても、私には関係ないわ。一緒に泥沼の底に沈むのは、真っ平ご免だからさあ」
「そうなの、私はまだ、大いに興味あるけど。その点、庶務課の貴女たちは羨ましいなあ。毎朝、貴女たちのうちの誰かが、医務室へお茶を運んで行くんでしょ。そのほかにも、その日その日の、日程表を渡したり、給与計算したり、出張旅費を計算して渡したりと、何かと接触する機会が、一杯あるものね。だったら、お近づきになるチャンスなんかも、一杯あるんですからね」、
「まあね。でもさー、今までずっと私達、お年の先生方のお世話をさせられてきたんですからね。少しくらいは良い事があったって、良いんじゃない?大目に見てよ」

続く