No.211 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その13

油滴天目の油滴に刻まれた涙痕 その13(戦国の世を駆け抜けた女)

このお話はフィクションです

その13の1

信光が討たれ、美貴が捕まえられたと言う知らせは、信光達から少し遅れ、離れた所で、殿(しんがり)を務めていた兵士によって、
素早く、安乃の下へと届けられました。
こういう事が起こるかもしれないと、ある程度、覚悟をしていた安乃は、直ちに、この谷に残っている一族の者全員を集め、かねてより、打ち合わせてあった次の行動へと移りました。

全員と申しましても、この10日あまりの間に、一族の者の殆どは、既に徐々に、夜陰に乗じて、こっそり、この谷を引き払っていなくなってしまっていましたから、実際に、その日、尚、この谷に留まっていたのは、砦にいる数人の一族の兵士達と、守るべき係累(けいるい:面倒見なければならない家族)をまだ持っていない一人者の若い男達、そして安乃を助け、彼女を守るため残ってくれた幹部級の男達の数人だけです。
谷の住人は皆、突然の引っ越し話に、最初聞いたときは戸惑いました。
嘆き、怒り、反対する者もいました。
しかし、そう言う事が起こりうる事も、戦国の世に生きている者の宿命として、皆、常々覚悟してもいましたし、
また引っ越す事を反対し、この谷に残って、頼正方の捕虜となった場合の、その者に待っている、悲惨な運命も、戦国時代に生きるものとして、皆解っていました。
従って最後は全員、それに従わざるを得ませんでした。
お城での会合の前日、信光は息子康継を、信光の叔父に預け、先に、新しい開拓地へ送り出すことにしました。
しかし康継との別れは、信光にとっても、美貴にとっても、とても辛いものとなりました。
虫が知らせるのか、いつもは、比較的聞きわけの良い子であった康継が、
その日に限って、母親にしがみついたまま、「ワー、ワー、嫌だ―、嫌だ―。フゥッ、フー、フ-、お母ちゃまと一緒じゃーなきゃー、フ-ッ、
フー、フゥッ、嫌だ―、ワーン、ワーン」と泣きじゃくって、離れようとしませんでした。
「お母ちゃま達は、おじいちゃまにお別れをしてから行くから、康ちゃんは大叔父様たちと先に出かけてね。
おじいちゃまとのお別れがすんだら、お母ちゃまも、すぐ追い駆けて行くからね。
康ちゃんは男の子でしょ。男は、こんな事くらいで泣かないの。
ちゃんと大叔父さまたちの言う事を聞いて、お利口さんにしててね」と宥め(なだめる)るのですが、宥めている美貴もまた康継を強く抱きしめたまま、離れ難そうに、頬擦りしていて離しません。
「ねー、信光様、この子、お眠の時間ですから、ぐずっているんですの。
もう少し待てばお眠しますから、少しだけ待ってもらうと言う訳にはいかないかしら」と涙声の美貴。
彼女の目には、今にもこぼれ落ちそうなほど、涙が溢れています。
その様子を如何にも愛しげに(いとしげ)見ていた信光が
「そうだな、もう少し遅らせると言う訳にはいかんだろうか、叔父ご」と申します。
「今生(こんじょう)の別れでもないでしょうに、何を言っているのよ、お兄ちゃん。
うちが遅らせたら、他の者達の予定が狂って、困る事くらい、解っているでしょ。
何しろ僅かな日にちの間に、この谷の住民全員が、他の土地に移っていかなければならないのよ。
それも、頼正派の連中に知られないように、こっそりとね」と安乃。
「聞いての通りです、信光殿。何しろ予定が詰んでおりますから、一刻も伸ばす事が出来ません。特に康ぼんの場合は、何しろ、山岐家本家の、大事な、大事な跡継ぎです。
ですからお連れするにあたっても、私ども一家だけでなく、それに護衛の者も付きますから、大人数での移動になります。
それを、頼正一派の者に気付かれないように移動せねばなりませんから、大変な事です。
用心の為、上保川を下る他の者達とは別れ、私たちは、一旦、郡上方面に向かって、山を越え、直接長良川の本流迄出て、そこを下る段取りとなっております。
しかし何しろあまり通った事のない山道の事です。
長良川に出るまでの間が、かなりの時間を必要と思われ、夜明けまでに到着できるか、心配でなりません。
ですからもう、一刻の猶予も出来ません。
康ぼんには可哀そうでも、直ぐに出発させて頂かねばなりません」というと、信光の叔父は、康継を抱き上げ、直ぐに出発していきました。
康継の泣き声が、耳に付いて離れないのか、信光夫婦は、いつまでもいつまでも、門の前に立ったまま、我が子が立ち去って行った彼方を、見詰めておりました。 

その13の2

信光が打ち取られ、奥方の美貴が囚われたという報を受けて、安乃の下に集まった山岐一族の面々は、すぐさま砦に残されている一族の者達に対して、かねて決めてあった合図を送りました。
見知らぬ者にとってのそれは、普通のかまどの煙にしか見えませんが、砦にいる山岐一族の兵士達にとってのそれは、砦からの密かにそして、速やかに退去してくる事を、促す合図でした。
安乃をはじめとする、谷に残っていた、山岐一族の者達は、砦から自分達一族の兵士が退去した頃を見計らって、集落に残されている、全ての爆裂弾をもって、谷の入り口へと集まりました。
そこは金蘭の谷への唯一の入り口に当たる場所で、上保川の浸食作用によって造られた渓谷で、この盆地、通称金蘭の谷とよばれている扇状台地への、自然の作った、唯一の入り口となっている場所です。
入り口の川の両岸に、そそりたつ岩壁は、門と郭(くるわ)の役割をなしていて、この谷への敵の侵入を防いでくれていました。
この谷を守るための砦は、この岩壁の上、川にやや覆いかぶさるように付き出している場所に作られています。
「さあ、急ぎましょう。
うちの頭領、信光様が討たれたのは、頼正一派に、先を越され、事を起こされてしまったからに、違いありません。
大殿さまがどうなったのか、大殿派の連中はどうしているか、などなどについては、今の所、情報が入ってきません。
砦から、こっそり抜け出してきた、我々側の兵士達の話では、幸いなことに、砦の中の連中は、まだ何も知らない様子で、今の所、何の動きもありません。普通通り、のんびりしているとの事です。
しかし万一彼らが気付いて、動きだしてからでは、手遅れとなります。
こんな小人数では、全員が、無事落ち延びていく事さえ、難しくなります。
折角ご先祖様が、丹精込めて作りあげ、私たちが受け継いできた、この田んぼや、畑です。
頼正めら如きに、おめおめ無傷で、渡してなんかやるもんですか。
さあ皆さん、この10日間の間に、予めこっそり穿って(うがって:穴をあけて)おいた、この岩壁や山裾のあちらこちらの穴の中に、持ってきた爆裂弾を順次、仕掛けていって下さい」
「こんな頑丈そうな岩壁が、そんな事くらいで、崩れ落ちて、この川を堰き止めるなんてことが、本当に、起こるんかいな」と集まってきた男の一人が、疑わしげに言いだしました。
「大丈夫よ。あのお頭が、綿密に計算して、立てた計画ですもの。
でもね、ここまで来れば、仮にうまくいかなかったにせよ、ここまできたからにはもう、お頭を信じて、計画通りするより仕方がないでしょ。
今更ブツブツ言ってないで、今日の所は、ともかく私の言う通りにして」
「また、砦から退散してきた貴方達は、私たちが、作業をしている間に、砦の連中が気付いて、動き出さないか見張っていて。
万一攻めてくるようでしたら、爆裂弾の仕掛けが終わるまで、近づかないように、必死の覚悟で防いで下さいね」と安乃。
「いずれにしても、この作業は、一刻を争います。
何しろ、頼正一派が攻めてくる前に終わって、全員この谷から退散していかなければならないのですからね」
と言うと、安乃は、爆裂弾を抱え、自分が先頭に立って走り出しました。

その13の3

捕らえられた私(美貴)が、連れて行かれた先は、お城の中に作られた地下牢でした。
お城の周辺は、既に頼正派の兵士達によって掌握され、固められている様子で、いろいろな旗印を背負った兵士達が、
殺気立った顔付きで、行ったり来たりしながら警戒しておりました。
城の周辺には、あちらこちらにお父上派と思われる、武将や兵士達の死骸が転がっていて、ここでも激しい戦闘があった事を物語っていました。
私が放り込まれた地下牢は、これ、もともとは、お城の食糧庫として造られていたものでした。
従って、当然窓はなく、明かりは、床板と兼用になっている天井板の隙間から洩れてくる僅かな光だけで、昼でも薄暗く、入ったばかりの時は、暗くて何も見えませんでした。
本来気の弱い私は、暗がりは大の苦手でした。
普通なら、そんな真っ暗な所へ入れられたら、一刻も我慢もできずに、大騒ぎしていたはずです。
所がその日の私は、朝から続いた、あまりの出来事の連続に、頭が真っ白になってしまっていて、そんな部屋に入れられても、何も感じませんでした。
物は、目に写っては入っているのでしょうが、それを意義のある形として認識しておらず、音に対しても、身体は敏感に反応するのですが、意味のある音としては認識出来ていませんでした。
見る、聞く、嗅ぐ、触るなどといった全ての感覚が、それの受容器官は、入ってくる情報を受容してはいたのでしょうが、後から考えると、それもいつもより、もっと鋭敏に受け取っていたと思われるのですが、その受け取った情報を、統合して、意義ある情報として認識し、それに基づいて、考えたり、行動に移したりする、そういった力が、なくなっていたのです。
私は、暗がりの中、何も感じず、何も考えることができず、まるで置物の人形のように、放り込まれた場所に、放り込まれた時のままの姿勢で、つくねんと(=何もすることがなく)蹲って(うずくまって)おりました。

その14へ続く