No.203 油滴天目の油滴に刻まれた涙痕  (戦国の世を駆け抜けた女) その5

このお話はフィクションです

その5の1

何か違った生き物の気配に、ふと頭を上げた私(美貴)は、自分が何時の間にか、猿の群れに取り囲まれてしまっていたのに気付きました。
すぐ近くには、自分とさして大きさの変わらない大猿が、3匹ほどの猿を従えて、怖い顔をして、睨みつけておりました。
その顔には、今にも、飛びかかって、噛みついてきそうな表情が浮かんでおりました。
驚きと、恐ろしさに、腰が抜けてしまった私は、
ペタンと、地面に座り込むと、「ワーン、お菊、お菊、助けてー、茂助―、茂助はいないの。
誰でもいいから早くきて-」と泣きじゃくりながら、大声で呼びました。
それまで拾い集めてきた栗の包は、その拍子に手から離れて、入れ物ごと下に落ち、コロコロと、四方に散らばっていきました。
猿の群れは、泣いている私の事なんか、そっちのけで、一斉にそれに飛びかかり、ギャーギャーと、啼き(なき)騒ぎながら、栗の奪い合いを始めました。

その5の2

美貴の泣き声に最初に気付いたのは山岐家の頭領・信輝の息子・信光でした。
仲間たちと、棒きれを振り回して、戦(いくさ)ごっこをしていた信光の耳に、悲鳴に近い、女の子の泣き声が聞こえて来たのです。
何事かと思って、そちらの方を見た信光の目には、猿の群れにとり囲まれ、大声で泣き叫んでいる女の子の姿が飛びこんでまいりました。
水辺の郷の領主、斎木頼貞から預かっている、あの女の子です。
幸い、猿たちは、栗の奪い合いに夢中になっていて、直ぐに、斎木のお嬢様に危害が及ぶとは思われませんでした。
しかし、何時、襲われたとしても、不思議のない状況に変わりはありません。
もともと、あの栗の木は、あの猿達の縄張りでした。
だから、どんなに沢山栗が落ちていても、それを知っている信光達は、そこでの栗拾いには、充分な注意を払っていました。小人数では絶対にその場所に近づかないようにしていた場所でした。例え栗拾いの最中であっても、万一、猿たちがやってきた場合は、自分達人間の方が譲るようにしていました。
それを知らなかった美貴が、彼らの縄張りを、侵してしまっていたのです。
こういった場合の猿たちは凶暴です。
集団で立ち向かってまいりますから、大の大人といえども、一人や二人で猿の群れの中に入っていくのはとても危険です。
躊躇して、普通は入りません。
猿たちは、今の所は、栗の奪い合いに夢中になっていますから、美貴は助かっていますが、拾う物がなくなった時は、ただで済みそうにありません。
噛みつかれ、引掻かれ、場合によっては噛み殺されてしまう可能性だって否定できません。
現にボスと思われる大猿は、栗を拾いながらも、時々女の子の方を振り向いては、歯をむき出し、威嚇しています。
信光は直ぐに妹の安乃を呼び寄せました。
「斎木のお嬢様が、猿に襲われ、危ない(あぶない)。
直ぐに誰かを呼んできてくれ」と言いつけると、自分は、仲間(なかま)の内から、年長の者を3人選んで、それを引き連れ、猿の群れの中へと、飛び込んでいきました。
猿たちが驚いているうちに、お嬢様を猿の群れから救い出すつもりでした。
しかし、猿達は、そんな10歳そこそこの子供達が、3人や4人、飛び込んできたくらいでは、怯んで(ひるむ)くれません。
屈強そうな猿を先頭に、猿の群れは一斉に歯をむきだして、信光達目がけて飛びかかってまいりました。
少年たちも棒を振り回して、懸命に追い払おうとしました。
しかしなにしろ、多勢に無勢です。あちらを咬まれ、こちらを引っ掻かれ、衣服は引き裂かれ、瞬く間に、全身、血まみれ、傷まみれとなってしまいました。
真っ先に美貴の傍へ駆け寄った信光に至っては、美貴を、庇い(かばう)ながらの戦(いくさ)でしたから、皆より、よけいに酷くやられました。
着物は襤褸(ぼろ)を纏っているかと思うほどボロボロに、頭も、手も脚も、全身血塗れ(ちまみれ)です。
傷で腫れ上がり、血糊で染まった顔は、一見しただけでは、誰か分からないほどとなってしまっています。
「若、もう駄目です。これ以上やっていますと、若が殺されてしまいかねません。
後は、私どもにお任せ下さって、若は、先にお逃げ下さい、」と伴の子供の一人が叫びます
しかし、信光は「お前たちを見捨て、この子をここに放り出したまま、どうして俺だけ、逃げだせよう。
そんな事をしようものなら、俺は卑怯者と皆から嘲笑されるだけでなく、俺自身だって、己に恥じ、永遠に、お天道さま(おてんとさま)を真っ当に、拝めんようになってしまうわ。
安乃に、助けを呼びに行かせておいたから、もうそろそろ助けも来る頃だ。
皆も、悪いけど、もう少しだけ頑張ってくれ」
「それにしても、今のように、バラバラに戦っていちゃー、駄目だ。
皆、なんとか、まずこちらへと寄ってきてくれ。
皆で協力して、猿達に立ち向かう事にするから」
「そう、そう。そうして集まってきたら、この栗の木を背に、この子の回りに、円陣を組んでくれ」
「そうそう、こうすれば、皆も、身を守りやすいだろう」
確かにそれは、とても有効な戦法でした。それによって、後ろからの攻撃に備えなくてよくなった分、前よりはだいぶ戦い易くなりました。
しかし、そうはいっても、それまでに、皆、もう傷つき過ぎていました。
全員、もう限界が近づいていました。

その5の3

そんな時、先に、助けを呼びにいかせた、安乃が、斎木の仲間(ちゅうげん)の茂助と、寺男を連れて戻ってきてくれました。
血だらけになって、今にも倒れそうになりながらも、必死に戦っている兄・信光の姿を見た安乃は、「お兄ちゃん」と悲鳴にも似た叫び声をあげると、そこらに落ちていた、手ごろな棒切れを掴むと、勇敢にも猿の群れの中へと、突っこんでいきました。
茂助も寺男も、棒を振りかざして、それに続きました。
更に、少し離れた所から、密かに美貴を、守っていた、斎木家の下士達(身分の低い侍)も、駆け付け、それに続きました。
強力な助人達の到着に、とても適わないと見たボス猿は、直ちに、群れを纏めて(まとめて)、退散してしまいました。
後には、あちこちを咬まれ、引っ掻かれ、血まみれになっている山岐の年長組の子供4人と、美貴、安乃、茂助、寺男そして斎木の家来達が残りました。
叩き殺されたり切り殺されたりして、無念そうに歯をむき出し、血を流して横たわっている猿達の姿は、なんとも哀れでした。
猿の群れが去った後、一時、気味の悪いような静けさが、その場を支配しました。 
しかし、それは、ほんの一瞬の事でした。
やがて、それは、遅まきに駆け付けた寺僧たちや、遠巻きにして眺めていた山岐一族の、幼組の子供達などのざわめきによって、掻き消されていきました。

その5の4

精根尽き果て、ふらふらしている信光を見た安乃〈妹〉は
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、大丈夫。しっかりして」と半泣きになって、信光の首にかじり付きました。
安乃の目からは、涙がとめどもなく流れました。それは安堵と心配の入り混じった涙でした。
信光の着物は、原形をとどめないほど、引き裂かれ、噛み破られておりました。破られて剥き出しになった肌には、血糊がこびりついた、無数の咬み傷、引っ掻き傷が残っておりました。
未だ血が流れ出ている傷も少なからずありました。
「痛い、痛い、痛いがね。あんまり強く抱きついたら痛いがね。
俺の事は大丈夫だから。それより預かっているお嬢様は、どう、なんともなかった?
それから仲間の連中はどう?
みんなはどう?無事?」頭領の子供らしく、他の人達を気遣う信光。
「大丈夫よ、お兄ちゃん。皆も、だいぶやられてはいるけど、お兄ちゃんほどじゃないみたいだし」
「あの子?斎木のお嬢様の事?
あの子は無論、助かったわ。
見たら分かると思うけど、殆ど無傷よ。あまりにも怖い目に遭ったせいか、まだ、言葉が出ないみたいだけどね。
お兄ちゃんの直ぐ後ろにいるから、自分の目で確かめたら。それにしてもお兄ちゃん達、本当に、よくやったわねー」と安乃。
言われて、振り返った信光の目の前には、あの女の子の姿がありました。
妹と同じ年くらいの女の子が、恐怖に顔をひきつらせ、大きな目玉を開いたまま、地面に座り込み、宙を見据えていました。
まん丸に見開いた、目には、今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙が、そこで、留まったままになっておりました。
「怖かったろう。よう頑張ったな。
でも、もう大丈夫だからね。何処も痛いところはない?」
信光は優しく問いかけました。
その声に、今まで身動きもしないで、宙(ちゅう)を見据えていた女の子が、突然気がついたようで、立ちあがると、
信光に縋り(すがり)ついてきました。、
「怖かったよー。怖かったよー。美貴、ほんとうに怖かったんだから。
もうお猿さん達は、行った?
もう何処にもいない?」と問いかけます
「大丈夫、大丈夫。
もうみんな、行ってしまったからね」と優しく答える信光。
「本当?
ほんとにもう、大丈夫なの?」
信光にしがみついたまま、美貴は、問いかけます。
美貴の目からは、それまで止まっていた大粒の涙が、とめどもなくこぼれ落ち始めました。
「おいおい、痛いよ。そんなに強く、二人して抱きついてこられては。
痛い。痛い。痛いし、重いし、痛いよ。
二人とも、甘えっ子で、ほんとうに、困った嬢ちゃん達だね」
と言いながら信光は、二人を抱き上げようとしました。
しかし、その拍子によろめいて、二人を抱えた(かかえた)まま、どすんと、尻餅をついてしまいました。
その顔には、やり切ったと言う、満足感で満ち溢れておりました。
「お嬢ちゃんの所には、もうすぐお菊殿が、いらっしゃいますからね。
そうしたら、思いっきり、お甘えなさい。
一人で、こんなにも頑張ったんだものね。
どれほど褒められたって、罰は当たりませんよね」と信光。
痛みで、顔を歪めながらも、優しく、美貴に話しかけます。
その時の美貴は、自分だけが特別優しく、抱きしめられているように感じていました。
抱きしめてくれている信光の腕の中は、とても安らかで、頭を預けた信光の胸から聞こえてくる、信光の心臓の音は、まるで、大昔、自分が母親のお腹の中にいた時に聞いた、母親の心臓の音のような快さ(こころよさ)でした。
それは、生れてからずっと、他人の手によって育てられてきた彼女が、始めて他人に感じた、安らぎであり、親しみの心でした。
美貴は、信光の胸にもたれかかりながら、この時間が、このまま永遠に続いてほしいと思っていました。
この時の、その時間を、彼女は、生涯忘れた事はありませんでした。
困難な事だとか、辛い事、悲しい事に出遭った時、その度に、それは美貴の心の中で甦ってきて、困難に立ち向かっていく勇気を与えてくれるものでした。

その5の5

「お前たちはどう、大丈夫?
大分酷くやられているようだけど、痕が残らなきゃーいいが」自分の回りに集まってきた仲間達を見回しながら心配そうに信光。
「大丈夫ですよ、若。俺達は、ほんのかすり傷程度ですから。
若こそ、そんなにやられて、大丈夫ですか。
動けます?気分悪くないですか」と他の仲間たち。
彼等も皆、夫々、沢山の傷を負っていますが、それでも、まず自分の事より、若頭領・信光の事を気遣い、心配そうに尋ねます。
「大丈夫、大丈夫、ちょっと疲れているだけだから」と言いながら、立ちあがろうとしました。
しかし、気分が悪くなったのか、ふらっとよろめいて、再び、座り込んでしまいました。
それに気付いた安乃は、信光の膝の上から飛び降りると、「大丈夫じゃないでしょ。今は、動いちゃ駄目、直ぐに横になって、じっとしていて」というと、周りを見回し、「誰か、傷の手当てを出来る人いませんか。誰でも良いから、お兄ちゃん達の手当てを。早くー。お願い」と叫びます。
「それから、誰かお寺にまだ残っていらっしゃるお坊様達を呼んできて。
『お兄ちゃん達が、お猿にやられて大変だから』といって」
「斎木のお嬢様も、悪いけど直ぐに、お兄ちゃんの膝の上から降りてくれない。
お兄ちゃん、今にも、倒れそうですから」と指示します。
それは、とても7歳(数えの9歳)やそこらの子供とは思えないような手際の良さでした。
その時やっと侍女のお菊が到着しました。
直ちに、美貴の傍に駆け寄ると「お嬢様、大丈夫でございますか?
お怪我はありませんでした?
あれほど一人でお歩きになってはいけませんと、申しておりましたのに。
だからこのような目に、お遭いになったんでございますよ」
「どんなにか、肝を冷やしました事か。これからは、こう言う事は、絶対お止めくださいましね」矢継ぎ早に,小言が口を突いて出ます。
心配のあまり、お菊には、信光だとか、信光の仲間達が怪我をしている姿なんか、目に入らない様子でした。
彼女は、美貴の無事を確かめると、そのまま美貴の手を引いて、自宅に向かおうとしました。

その6へ続く