No.192 廻る糸車、西施像奇譚 その13

このお話はフィクションです

その41

義景の自刃後、賢松寺に遺されていた、西施像の軸は、しばらく後、越前の国、八郡を治めることになった、柴田勝家に与えられ、その妻・お市の方の所有に帰する所となりました。
後に、お市の方から、この軸を託され、落城寸前の北の庄(現福井市)の城から、それをもって抜け出す役を果たす事になる、お市の方付きの老女の証言記録によりますと、
以下老女の証言
「勝家様の妻・お市の方様は、西施様の姿が描かれたこの軸を、大層愛用されておられ、自分の寝所に持ち込み、夜な夜な、西施様の画姿(えすがた)に向かって、語りかけておられました。
お市の方様は、美貌であったが故に、男達の政略の道具として利用され、挙げ句の果ては、非業の死を向えなければならなかった、この軸に描かれている女性、すなわち西施様の身の上に、とても同情されておられました。
それは、男どもの身勝手さに翻弄され、悲惨な運命を辿らねばならなかった西施という女性の身の上に、同じように男どもの政略に振り回され、自分の意志や、好みとは無関係に、次々と、違う男の下に嫁がされ、あげくの果ては、戦乱に巻き込まれて苦しまなければならない、お市の方様を含めた、この時代に生きる女達の悲しい宿命を、重ね合わせて、憤って(いきどおる)おられたからでございます。
お市の方様は、そのような、自分を含めた、その時代の女が背負わされている宿命を、何時も怒っておられ、西施様の画姿(えすがた)に向かって、嘆いたり、怒ったり、愚痴を言ったりするのを、日課としておられました。
その時、不思議な事に、お市の方様以外には、誰もいない筈の、お市の方様の部屋から、お市の方様の嘆き声に応えて、頷き(うなづき)、お市の方様と一緒に、嘆き、悲しみ、男どもの身勝手さを、憎み、呪っている、若い女の声が聞こえてきたものでございました。
断りもなく、お市の方様の、寝所に入る事が出来ませんでしたから、確認した訳ではございませんが、あれは間違いなく、あの画の中の女性、西施様が、画から抜け出してきて、お市の方様と語っておられたのに違いありません」

その42

「倭国に来て初めて、お市の方という、同じような境遇の方にお会いになって、共感し合い、共に怒り、共に悲しむことのできる友と巡り合う事が出来た、西施様でございましたが、それもつかの間、間もなく、悲しい別れの時を迎えなければなりませんでした。
即ち、賤ケ岳の戦いで、豊臣秀吉の軍に敗れた柴田勝家様ご夫婦が、生き残った家来や、お女中衆と一緒に、北の庄の城でご自害なさったからでございます。
落城の前夜のことでございました。
賤ケ岳の戦いで、部下の大半を失ってしまい、もはやこれまでと、覚悟を決めて、最後の夜を過ごしておられた勝家様ご夫婦の下へ、豊臣秀吉様からの密使がやってまいりました。
その方の持ってきた申し入れによりますと、『我らが主君秀吉は、主君織田殿の血を引く、お市の方様と、その子供たち3人の命だけは、できれば助けてやりたいとおっしゃっておられます
従いまして、できれば、戦いが始まる前に、お市の方様と3人のお子さま方は、この私めと一緒に、城の外に逃がしていただきたい』というものでした。
勝家様は、お市の方様に向かって、秀吉様の温情にすがって、ここを落ち延びられるように勧められました。
しかしお市の方様は、それを、断固拒否され、3人の子供たちだけは、豊臣方の密使に託されましたが、自分は、夫、勝家様と一緒に、自害なさる方をお選びになりました。
これは私の推量でございますが、お市の方様は、前々から、好色な秀吉様が、自分を狙っているのを知っておられましたから、落ち延びた後、秀吉様の好色の餌食(えじき)にされるのを、避けたいと思われたからではないかと思います。
翌日、戦況如何ともしがたく、いよいよ城に火を放って自刃しなければならないという段になった時のことでございました。
お市の方様が、私めをお呼び寄せになり、『考えてみれば、千年余もの間、生き延びてきたこの西施像の軸を、今ここで、私の死の道ずれにするには忍びない。
よって、菩提寺である、西光寺に奉納し、私達夫婦の霊と一緒に、この西施像の中に閉じ込められている、彼女の霊の成仏を、祈ってもらおうと思う。
敵方の兵に囲まれてしまった今、この城を抜け出すのは容易な事ではないであろうが、私達夫婦の最後を見届けた後、そなたは、城を抜け出し、西光寺迄この軸を届けてほしい。
もし不幸にして、そなたが、豊臣方の者の手に落ちた時は、この書状を見せ、通してくれるよう頼むがよい』と申されて、秀吉様宛の書状と共に、この軸を託されたのでございます。」
(註:お市の方・・・信長の妹、戦国時代随一の美女といわれている。
浅井長政と結婚するも、後に浅井長政と織田信長が対立、浅井長政は破れ、小谷城と運命を共にして自害。お市の方と三人の娘たちは救出され、しばらくの間、織田家に寄食。
本能寺の変により信長死亡その直後〈天正10年・1582〉、柴田勝家と再婚。
翌年、賤ケ岳の戦いで秀吉軍に敗れ自害した夫・柴田勝家と共に越前北の庄の城にて自害。
尚、浅井長政と結婚した年齢などより、長政と結婚する前に、既に他の男性と結婚していた可能性が強いと言われている。
落城寸前の北の庄の城から、助け出された3人の娘とは、茶々、後の淀殿、お初、後の京極家次正室、お江、後の徳川秀忠継室のことである。
茶々は、お市の方と最も顔立ちが似ていて、若い時から、お市の方に懸想(けそう:恋い慕うこと)していた豊臣秀吉は、お市の方に替えて、お市の方そっくりであった、茶々、後の淀殿を手に入れたと言われている)
その43
所が、お城を抜け出た所で私、落ち武者狩りの任にあたっておられた、徳川家康様方の譜代の家臣、本多幸輝様に見つかって、捕らわれてしまったのでございます。
無論お市の方様からの書状をお見せして、お通し下さるようお願いしましたが、徳川方のご武将である、本多様には通じるはずもなく、徳川様の本陣へと、引き立てれていったのでございます。
徳川家康様は、勝家様ご夫婦のお最後の模様をお聞きになった後、両手を合わせてご夫婦のご冥福を祈ってくださいました。
そして尼になって、ご夫妻の御霊を弔いたいという私の願いをお聞き届けくださり、部下をつけて、西光寺まで送り届けてくださいました。
しかし西施の描かれている軸は、そのまま手元に留められ、お返しくださいませんでした。
以下本多幸輝の証言
主君、大殿様も又、一目で、この像の魅力に取りつかれてしまわれたようでした。
大殿様は、お市の方様の書状に従って、この軸を、西光寺に奉納する事も、お市の方様のお子様をお引き取りになった際、豊臣秀吉様に、お母上様の形見の品としてお渡しになる事もされませんでした。
大殿さまは、自分の手元に置こうと思われたようでございました。
しかし、家康様の重臣の一人に、これまで、この軸を持った者に齎されて(もたらされて)きた、凶運の数々を良く知る人物がいまして、家康様がこの軸を、手元に留めておかれる事に強く反対しました。
彼は、むしろ、一刻も早く、他の者の手にお委ねになる(ゆだねる)よう勧めたのでございます。
もともと縁起担ぎの大御所様は、その重臣の言う事をお聞きいれになりました。
しかし、それでも、この軸を、自分の手元から遠く離れた所へ手離してしまう事には、抵抗があったようでございます。
だから、この後また、この軸が欲しくなったり、軸の中の女人像に会いたくなったりした場合は、いつでも、見る事や、所有する事が出来るよう、そう言う事を言い出しやすい相手、即ち大殿様近くにお仕えしている、私め(わたくしめ)に、ご下賜という形を借りて、お預け下さったのでございます。
という記載が残っておりました。
その44
曾不興の手になるこの西施像の軸の帰属は、幕閣(ばっかく:幕府の首脳部)内での議論が紛糾し、なかなか決まりませんでした。
その為、これまでに残っている、この軸に関する記録を、もう一度精査し、それに基づいて、その帰属を決めようという事になりました。
そうした調査、検討の結果、この軸は、本来なら、徳川家の所有に属するものであることがはっきりしました。
ただ、この軸が、それを持った者に不幸をもたらすという言い伝えがあったことから、縁起を担がれた大御所様が、直接手元に置く事をお諦めになり、ご下賜という形をとって、本多家に、お預けになったものである事がわかりました。
それを、幕府の方から、何も言ってこられないままに、300年近くもの間、預かっている間に、本多の家では、幾世代もの代替わりがあり、この軸は、頂いたものだと信じるようになってしまったというのが、この軸が、本多家では、ご下賜品であると信じるようになってしまった理由でした。
従って、西施の姿が画かれている、この古ぼけた軸は当然、幕府の貴重な文化財であり、幕府の書庫に収められるべきものだということがわかりました。
しかし同時に、今回、改めて、この軸についての記録を調べているうちに、これまで、この軸が齎したとしか考えられない、この軸を持った者の身の上に降りかかった、数々の不幸が明らかになりました。
又この軸に描かれている西施という女人の怨霊の恐ろしさも、それは今回の押し込み強盗事件の取り調べの過程においても明らかになっていますが、その尋常一様でない恐ろしさも分かりました。
それらの調査結果は、「この軸は、もともと、幕府の貴重な財産であり、文化財であったのであるから、幕府の書庫に戻し、そこで保管すべきである」といった、幕閣内で筋論を主張していた人達を、沈黙させてしまうに充分でした。
もう幕閣内では、誰も、この軸を、幕府の書庫に戻すべきだとは言わなくなりました。
その後、この軸の落ち着き先についての、さらなる検討の結果、このような恐ろしい絵画は、お寺で保管してもらうのが一番良いのではないかという結論に達し、
幕府との関係が深い、上野の寛永寺に奉納し、そこで、西施の霊の供養をしてもらいながら、保管してもらおうということに決まりました。

続く