No.186 廻る糸車、西施像奇譚 その7

おばあちゃんの昔話より

註1:西施・せいし・・・中国春秋時代、越の伝説上の美女の名前。
楊貴妃と並ぶ、中国古代における、傾国の美女の一人。
古代中国4大美女の一人で、彼女のあまりの美しさに、魚も泳ぐのを忘れ、沈んでしまったという伝説が残っている。
彼女、もともとは、貧しい洗濯女に過ぎなかったが、その美貌によって、越王、匂践(こうせん)に見いだされ、,越が呉に敗れた時、呉王、夫差の下に献ぜられました。
呉王、夫差は、まんまとその計略に乗せられ、西施の色に溺れ、政治を怠り、その結果、呉は弱体化し、後に越王に滅ぼされた。
呉の滅亡後は、彼女の美貌に越王、匂践が惑わされるのを恐れた、匂践夫人によって、皮袋に入れられ、長江に沈められたと言われておる。
更に詳しくは文の中ほどにある註をご覧ください。
註2: 奇譚(きたん)・・・世にも珍しい話、
註3:
登場人物について:
寿美:長女
吉治:長男(丸吉商店店主。故人。)
金佐衛門:次男
留吉:三男
奈津:次女
藤兵衛:吉治に雇われ、吉治の死後、丸吉商店を継ぐ。また、名を、「勘助」から「藤兵衛」と改める。
泰乃:吉治の妻
お絹:寿美の遠縁の娘。泰乃の養女となり、藤兵衛(勘助)と結婚する。

このお話はフィクションです

 

その20

言われてみれば、確かに手代や用心棒の言う通りで、おかしなことばかりです。
不安に駆られた藤兵衛は、家に着くなり座敷にこもり、お金を置いてきたとは言うものの、あの家から、無断で持ち出してきた絵を開いてみました。
「手代たちはあんな事を言っていたけれど、あいつら、この画をまだ見ていないから、あんな事を言えるんだわ」
「一度、この絵を拝んだら最後、画の事なんか、何も知らない、ど素人のあいつらだって、この女の画の魅力に、魂まで抜き取られてしまうんだから」とぶつぶつ呟きながら開きました。
しかし開いた途端、藤兵衛は、愕然としました。
古い古い画布の上に描かれていたものは、全体が、すっかりくすんで色も薄墨色にくすんでしまっている(くすむ:すすける)、何の変哲もない洗濯女の姿でしかありませんでした。
どれだけ眺めていても、昨夜、藤兵衛を魅惑してやまなかった、透き通るような白い素足も、吸いついてきそうな真っ赤な唇も、思わず抱きしめたくなりそうな、嫋やかな姿態(たおやか:しとやかで、なよなよしているさま)も、灰色にくすんだ色の中に沈んでしまって、何の感懐(かんかい:感慨)も呼び起こしませんでした。
「フーッ」とため息をついて藤兵衛は、やがてその絵を、元の古い箱の中にしまい込むと、床の間の隣にある天袋(床脇の最上部に造られた、袋戸棚)の中に放り込み、そのまま部屋から出て行ってしまいました。
しかしその絵は、どう考えても、由緒ありげな、古い絵でした。
だから、まんざら自分が騙されたわけでもなさそうだと、自分で自分を慰めました
学問のない藤兵衛には、正確に意味を理解する事は出来ませんでしたが、画面の余白に書かれていた讃(さん:かかれている画に題して、画面の余白に添え書きされた詩、歌、文等)から、この女性が、西施(せいし)という名で、魚も泳ぎを忘れるほどの美人として、一時代もてはやされたらしい女である事くらいはわかりました。
しかし骨董趣味もなく、学問もない藤兵衛には、そんなもの、何の意味をありませんでした。
彼は、その画に、簡単には整理しきれない、もやもやした感情を残してはいましたが、画そのものについては、完全に興味を失ってしまっていました。
彼は、「こんな画、手元にあるだけで、気色が悪い」と、たまたまその時、他の用事で訪れた、物品取引に掛かる税金担当の役人、遠野親義に、ただ同然の価格で、譲りわたしてしまいました。
遠野は、多少学識もあり、骨董蒐集の趣味も持っていましたから、西施の画かれたその古画が手に入った事をとても喜びました。
しかしそれが手に入った経緯を、藤兵衛が笑って話しながら、無造作に、ただ同然の価格で譲ってくれましたから、まさかこの画が、本物の呉の曾不興の手になる、西施像だとは思ってもいませんでした。
贋物か、もし古い物であったとしても、後世に模写した(もしゃ)ものくらいに思っていました。
彼女、もともとは、貧しい洗濯女に過ぎませんでしたが、その美貌によって、越王・匂践(こうせん)に見いだされ、越が呉に敗れた時、呉王・夫差の下に献ぜられました。
呉王・夫差は、まんまとその計略に乗せられ、西施の色に溺れ、政治を怠り、その結果、呉は弱体化し、後に越王に滅ぼされてしまいました。
呉の滅亡後は、彼女の美貌に越王・匂践が惑わされるのを恐れた、匂践夫人によって、皮袋に入れられ、長江に沈められてしまったと言われています。
考えてみれば、彼女、その美貌故に、国家間の政略に巻き込まれ、翻弄され、最後は残酷な殺され方をしなければならなかったわけですから、可哀そうな悲運の美女でもあります。
よってその恨みが、末代まで及んでいるのも、故なしとは言えません。
(註4)曾不興:・・三国時代(220~280)の呉の国の画家。呉の孫権へ献上される為の屏風画を描いていた時、誤って汚点をつけてしまったので、これを蠅として描いておいた所、孫権は、これを本物の蠅と間違えて、追い払おうとしたという言い伝えがあるほどの名画家で。中国古代、八絶(呉に仕えた絶妙な技能をもつ8人)の一人

 

その21

時は徳川時代の末期、動乱の嵐が、まさに日本国中に吹き荒れようとしていた時でした。
美濃の国と飛騨の国にまたがる、山の中の小藩に過ぎなかった霧峰藩もそれと無関係ではありませんでした。
その影響を受けた、家臣団は、佐幕派と勤皇派に別れてにらみ合い、藩内は騒然たる雰囲気に包まれておりました。
しかし商売人である藤兵衛にとっては、そのような藩内の事情など関係ありませんでした。
いやそれどころか、そんな藩内事情こそ、お金儲けのチャンスとばかり、あくどい金儲けに奔走しておりました。
そんな藤兵衛の所にある日、参勤交代で江戸に滞在中のお殿様から、「早急に江戸藩邸に出府(しゅっぷ)するように」と言う命令が下されました。
藤兵衛には何のための出府命令か、見当が付きませんでした。
命令を伝達してきた役人にその理由を聞いても、ただ首を傾げるばかりでした。
今までいろいろお世話をし、親しくしている藩の重役達にも聞いてみましたが、はっきりしませんでした。
何が何だか分からぬままに、藤兵衛は急いで支度を整えると、あちらこちらに作っていた女達の所に立ち寄り、江戸土産の約束をしてから、江戸に向かって出立(しゅったつ:旅立ち)していきました。
不思議な事に、護衛として、捕り方の役人が二人同道(どうどう:連れ立っていく事)する事になっていました。
しかし彼らにも、単なる商人に過ぎない藤兵衛の護衛として、江戸まで付いて行かなければならない理由は知らされておりませんでした。
彼らには、「大切な人だから、道中何事もないよう、きちんと見張っておるように」と言う命令が下されていただけでした。
従って彼等は、藤兵衛が、藩内の有力商人であり、藩の借金の大半の貸主であることから、とても大切な人として、道中問題が起こらないように、大変気を使いながら、付き添ってくれました。
彼らの一行の行程は、まるで主人とその使用人達が、物見遊山でもしているかのようでした。美味しい物を食べ、冗談を言い合い、和気藹藹(わきあいあい:なごやかな気分が満ち溢れている事)と道中を楽しみながら、江戸藩邸迄やってまいりました。

 

その22

しかし、藤兵衛が大切にされたのは、そこまででした。
江戸藩邸に到着するや否や、藤兵衛の待遇は一変しました。
彼に付き添ってきた捕りかたの役人が、門番に、藤兵衛の到着を知らせるや否や、出てきた江戸屋敷の役人は、そのまま彼を、座敷牢へと放り込んでしまいました。
藤兵衛の心算では、彼の出府を喜んで、彼が今までお世話してきた沢山の家臣達が出迎えてくれるはずでした。
今晩は、そういった連中を引き連れて料亭に繰り出し、一晩中騒いで、飲み明かす予定でおりました。
しかし到着した江戸藩邸の家臣達の中に、彼を出迎えに出てくれた者はいませんでした。
それどころか、座敷牢に閉じ込められている藤兵衛に会いに来てくれる者さえいませんでした。
「私が何をしたというのです。どうして縄目の辱め(なわめのはずかしめ:捕らえられて縄をかけられる恥の事)を受けなければならないのです。
私はこれまで、どれだけ藩の財政の為に尽してきたか知れません。その功労者とも言うべき私を、わざわざ江戸まで呼び出しておいて、こんな仕打ちをなさるというのは、一体どう言う事ですか。
私には、さっぱり分かりません。
どうか御重役の、植村様をお呼び下さい。
もし植村様がご不在で、駄目でしたら、神戸様でもよろしいですから、お呼び下さい。あの人達なら、今は、お殿様のお伴をして、江戸に出てきていらっしゃる筈です。
あのお方達でしたら、私の事を良くご存じで、私が、こんな目に遭わなければならない人間でない事を証明して下さる筈でございます。どうかお願いですから、あのお方たちにご連絡ください」
「もしそれも叶わぬという事でしたら、せめてこんな所に押し込められなければならない罪状だけでもお教えください」と牢内で叫び続けました。
しかし、牢の周りはシーンと静まり返っていて、何の応答もありませんでした。無論、彼の所に会いに来てくれた者など、一人もいませんでした。
その23
それより遡る事、約1年近く前の事でした。
参勤交代のお伴として江戸に出府してきた遠野親義が、かねてより気になっていたあの西施像、藤兵衛から貰った例の西施像の軸を鑑定してもらうため、当時、古画の鑑定では、当代随一と言われていた、大橋右近の許を訪ねました。
挨拶もそこそこに、早速、遠野が取り出した例の西施像を見た大橋右近は、その画を見た瞬間、顔色を変えました。
「すみません。こんな事を聞いて失礼な事は、重々承知しておりますが、貴方様はこの画、どこからお求めになったのでしょうか」
「私の知人から、譲って貰ったものですが、この画に何か問題でも?」
「知人とおっしゃいますと、ご職業は、何をしていらっしゃるお方でしょうか?」
「手広く御商売をなさっている、大店の御主人ですが、ただそのお方がこの絵を入手なさった時の経緯がとても変わっていまして、それで嫌気がさして、私に無料に近いような価格で、譲って下さったものです」
「変わった経緯とは?差支えなかったらそのお話、もう少し詳しくお聞かせ下さいませんか」
「本当か嘘か、私にはわかりませんが、その大店の御主人のお話では、ある霧の深い夜、道に迷ったあげく、立派なお屋敷に迷い込んでしまわれたのだそうでございます。
その時、その屋敷の床の間に掛けてあった絵が無性に欲しくなってしまい、嫌がる相手から、奪うようにして持ってきてしまった画だそうでございます。
従って、価格については教えて下さいませんから私はっきりとは分かりませんが、口ぶりからすると、代価として、びっくりするようなお金をおいてこられたようでございます。
所が、帰る途中、使用人達からいろいろ言われて考えてみますに、そんな人里離れた山の中に、立派な家があるなんて話は、それまで、噂にも、聞いたことがなかったそうです。
またそんな場所で、誰からも知られることもなく、町の人々と隔絶して、20年以上もの間、婆さんと病人だけで、生活していけるはずもありません。
又、言われてすぐに振り返ってみましたが、その家から帰ってきた時の道は、いつの間にか消えてしまっていて、どこにも見当たらなかったのだそうでございます。
冷静になって考えてみますと、あれはやはりお狐様か何か、怪しげなもののお屋敷だったに違いないと思われたのだそうです。
それでも、あの時床の間に掛けられていた画は、これまで目にしてきた、こういった類の画の中で、これほど彼の心を捉えて離さなかった画はなかったそうです。
だから、画だけは騙さないだろうと一縷の望みを抱いて、家に帰るや否や、早速、軸を開いて見直して見られたのだそうです。
ところが、何の事はありませんでした。画の方も、古いだけで、何の感慨も呼び起こさない、全体にくすんでしまっていて、色もはっきりしないような、古ぼけた洗濯女の像にすぎなかったのだそうです。
あの時、あんなにも、きらきらとして、魅力的に見えたのも、やはり騙されていたからに違いないと思い当たると、悔しくてたまらなくなってしまわれたのだそうでございます。
ちょうどその時、他の用事があって訪ねて行った私に、『こんな絵、手元に置くと、目にする度に、嫌な思いをしなければなりませんから、欲しければ、貴方にお譲りしますよ。
ただでもいいのですが、後で問題になるといけませんから、貴方のお好きなお金を、おいていってください』と言われ、格安に譲ってもらってきた画でございます」
「さようでございましたか。
それにしてもこの画、何という、数奇(すうき:境遇の変化の激しい)な運命に弄ばれ(もてあそばれ)ている、哀れな画でございましょう。
今回の場合、一体全体、どのような経緯で、怪しい物の怪(もののけ)なんかの手に落ちたのでしょうね」
「と申しますと、この画は本物の呉の曾不興が描いた、西施像なのでございますか」
「そうでないかと思われます。私も三国時代の呉のような、古い時代の絵など見た事がありませんから、断定はできませんが、逆に、そのような古い時代の絵など、日本には何枚も残っていない筈ですから、この古さと、この絵の持っている風格、そして今まで知られている、この画についての伝承から考え、まずは間違いないと思います」
註:三国時代の呉・・・西暦222年から280年迄中国江南の地にあった国

続く