No.179 一粒の米にも その14

このお話はフィクションです

 

その49

やがて人々の歓声の中、道を埋め尽くしている人波を二分して、自分達の方へと進んで来られる、如水上人の姿が、祐佐衛門達の目にも入ってくるようになりました。
立ちあがって、御上人様を迎えようとした祐佐衛門、お米の目からは、涙が滝のように流れ出て、そのお姿が、定かに見えないほどでした。
思い返してみますと、今日の喜びを迎える事が出来たのは、全て御大師様の縁に連なる、御上人様のお陰です。
御上人様は本当によくやって下さいました。
「堤防の再建に始まる、村再生のための土木工事の設計、藩との交渉、工事監督の選定、村人となる小作人達の募集と、全てにお知恵を御貸しくださり、手も貸して下さいました。
しかもその間、祐貞達と同じ粗末な食事しか、決してお摂りになりませんでした。
また、何をされるにしても、それらの全てを手弁当で行って下さり、金銭の要求をされたことは、一度もありませんでした。
御上人様はまた、経費を少しでも少なくて済むようにと、いろいろ考え、工夫し、あちらこちらに交渉もして下さいました。
おかげで、費用も、最初の見積もりより少なくて済みました。
今回の工事が、何とか祐佐衛門の資力内に収まったのも、全て、御上人さまのおかげです。
堤防が大決壊してから後のいろいろな出来事を思い返すと、本当に感慨無量でした。
如水上人様にお会いできていなければ、全てが、夢物語で終わってしまっていた事でしょう」
人々の歓声は、ますます高くなり、御上人様を取り囲む人々のどよめきが、直ぐ近くで聞こえるようになりました。
涙で曇った祐貞、吉六夫婦4人の目に、その時映った御上人様のお姿は
輝くような金色を帯び、金色の輪の中に包まれておられる様に見えました。
昔、お米、お兼が、お大師様のお姿を拝ませて頂いた時と、それは、全く同じ光景でした。
祐佐衛門夫婦、お兼夫婦の4人は、思わず地面に座り込むと、額を地面にこすりつけるようにして頭を下げ、そのお姿を、伏し拝みました。
放たれる光の輪は次第に強く、次第に大きくなり、やがて如水上人をとり囲んでいた人々の頭上に広く覆い被さりました。
人々も又、地面に座り込むと、「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」と称名を唱えながら、一斉に伏し拝みました
人々の耳から、一瞬、全ての音が、消え失せたように思えました。そしてその後には、はるか彼方から打ち寄せていた、時の潮騒の音が止まったかのような静寂が、辺り一面を包みました。
人々は、無心にお大師様の称名を唱えながら拝み続けました。
それから、どれくらいの時が経った事でしょう。それはほんの一瞬のことだったかもしれませんし、もっと長い時間だったかもしれません。
祐佐衛門たちは、頭上から降ってきた、
「本日はおめでとうございます。あのような立派な物をお建て下さって、お大師様も、さぞかしお喜びでございましょう。誠に有難うございます」という、聞き覚えのある声で我に返りました。
頭を上げた彼等の目には、如水上人の笑顔が、飛びこんでまいりました。
御上人様の身体から放たれていた、あの金色の光りは、もう、消え失せて、何処にも見られませんでした。
静寂もまた、消え去りました。会場には、再び人々の歓声とざわめきが戻っておりました。
しかしその音は、やがて、その時起こった奇跡を直接見たり、お大師様のお話を伝え聞いたりした人々による、お大師様と如水上人の徳を称えて(たたえる)唱和する「南無大師遍照金剛」の大合唱の音へと替わっていきました。
人々の唱和する、「南無大師遍照金剛」の声は、やがてその日、法会に集まってきた人々全体の間に拡がり、会場全体を揺るがすほどの大音声(だいおんじょう)になっていきました。
人々は皆、何かに取りつかれたように、無心で「南無大師遍照金剛」と唱え続けました。
人々の唱和する「南無大師遍照金剛」の声は、時間が経つにつれ、ますます大きく、ますます高くなっていき、終わりの頃には、天にも届くほどでした。
そしてそれは、落慶法会が終わっても終わることなく続きました。
その場を立ち去ろうとする者など、一人も、いませんでした。
御上人様が退出して行かれる際も、御上人様を慕って、沢山の人々がその後を追い、「南無大師照金剛」と唱えながら付いて歩きました。
その人の列は、その長さが、一里(今の4キロメートル)以上にも及んだと言い伝えられております。
その後、その時の話が、口から口へと、人づてに伝えられ、それに連れて、弘法大師信仰もまた、近郷、近在の村々へと拡がっていきました。
「これが今日、この地方に、広く、弘法大師信仰が根付いている由縁である」と言う事でございます。
その50

お米は、自分が、表立つような事は、一切しませんでした。
彼女は生涯、夫を立て、夫婦仲良く、祐佐衛門を陰で支え、家をよく守り、子供達を立派に育てあげる事に専念しました。
またそれで満足していました。
しかし、子供時代に御大師様から諭された事を忘れた事はありませんでした。
彼女は、その時、御大師様から、教えられたとおり、貧富、身分、外見などに捉われることなく、困っている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人などを見た時は、自分の身を削ってでも、できる限りの事をしました。
それによって、無言のうちに、身を持って、大師様の教えを、みんなに説いておりました。
彼女は、入植してきた小作人達の事を、いつも気遣っていて、彼らに何かあると、その家にとんでいって親身に世話をしたり、悩み事を聞いたりしていました。
まだまだ若くて、迷いが多い入植者達や、独りで移住してきたために、心細がっている入植者達にとっては、そんな彼女は、とても心強い存在でした。だから彼等は彼女の事を、村のお母さんと慕っておりました。
なお、今は無くなっていますが、この大師堂の脇には、托鉢途中の僧侶だとか、お金がなくて困窮している旅人、或いは旅の途中で患った病人等を泊めるために、彼女が建てたといわれる、小さな宿泊施設の跡があります。
その宿泊施設跡の入り口があったと言い伝えられている場所には、等身大の石の慈母観音像がいまも祀られております。
それは、彼女の、世話になった者たちが、彼女の死後、その徳を讃えるために、彼女を偲んで建立したもので、別名、お米観音とも呼ばれております。

終わり