No.175 一粒の米にも その10

このお話はフィクションです
その34

村に残った者たちによる、ささやかな秋祭りが終わると、各部落の代表者達が集まってきて、決壊した堤防をどうするかと言う話合いが又、持ち上がってきました。
彼等は、「前回の洪水の時は、先代がやって下さいました。今回も、藩が当てにならない以上、もともと、これらの耕地は、地主様のものでもあることですし、今回も、修復に要する費用は、私どもの日当も含め、地主様に準備して頂きたい」と言い張って聞きません。
しかし、祐貞の手元には、もう、そんな本格的な築堤工事の為のお金や、用水の整備復旧といった大工事をする為のお金はありません。
誰からも借りられない今では、これ以上は、金策のあてもありません。
祐貞は、小作達の嘆願の言葉にも、居丈高な怒鳴り声にも、ただ、ただ頭を下げているより仕方がありませんでした。
「自分たち皆が、労力を出しあって、堤防を再建するのはどうか」とか、「もう一度、御上に掛けあって、助けてくれるよう頼んではどうだろうか」言った話も出ましたが、どれも無理だろうと言う事になってしまって、数日間におよぶ、話し合いにも関わらず、結局、結論は出ませんでした。
所が、こうした話し合いをしている最中に、今年の、年貢上納を命ずる通達が代官所から届けられました。
その通達には、二度に亘る洪水の被害によって、家も田畑もその殆どを失って、苦しんでいる農民たちの苦悩なんか、全く考慮されておりませんでした。
あちらこちらの堤防の決壊によって、村は川の中に浮かぶ川洲のような状態となり、何時洪水に襲われるか分からない状態となっている事も、農地の殆どが、荒れ地に変わり、まともな農地が殆どなくなってしまっている事も、そしてその為に、多くの農民が既に逃げ出してしまって、今では、村落そのものが、壊滅状態となってしまっている事も、全く考慮されておりませんでした。
村人達はびっくりしました。
そして又も、その恨みや、怒りの矛先を、祐貞にぶっつけてまいりました。
それは、本来は、理不尽な通達をしてきたお上に向けるべきものでしたが、さしあたって、一番手近にいて、一番当たりやすい、祐貞へと向けてまいりました。
「先代様だったら、お上から、こんな理不尽な事を言ってくる前に、何とかしてくださっただろうに」だとか、
「これまで、名主様、地主様と、頭を下げてきたけど、それは何のためやと思や―す。それが、こういう大変な時に、何の役にも立たんというのでは、どもならんでいかんわ。
一体、あんた達、名主というのは。何なんや」などなど、言いたい放題でした。
そのうち、「もうこれ以上話し合っておったって、時間の無駄。どうせ木偶の坊(でくのぼう)の坊ちゃんでは、何にもしてくれや-せんのだから。
もう、いい加減にして、帰ろ、帰ろ」といって、席を立って帰ってしまう者も出てき始めました。
しかし伝手(つて)も、金も持たない、今の祐貞には、何と言われようと、どんなに罵られようと、ただ頭を下げているよりほか、ありませんでした。
結局、「こうなりゃー、地主さん一人に、任せておくわけにはいかんで、
こうなりゃー、皆で、代官所に押し掛け、この惨状を直に知ってもらって、年貢米を負けてもらうように、お願しようじゃないか」ということになりました。
しかし、いつの時代でも同じですが、お上というのは一旦決めた事は、ちょっとやそっとでは変えてはくれません。
どれだけ皆で頼んでも、代官は「上からの命令だから」というだけで、願いが聞き入れられる事はありませんでした。
代官は、村の惨状を、お上に知らせてくれるよう頼む村人たちの願いさえも、聞いてくれくれませんでした。

 

その35

それ迄、村に留まっていた残りの村人たちも、これによって、この村に見切りをつけてしまいました。
村人達の殆どが、村を離れていく決心を固めました。
彼等は年貢として、根こそぎ藩に持って行かれてしまう前に、今年の収穫の全てを、こっそりお金に替えると、一人、又一人と、夜陰に紛れて、村から逃げ出していきました。
当時の年貢は、部落単位で決められていました。
従って、年貢は、その部落に属する者全体でそれを受け持つ仕組みになっていました。
だから、誰かが抜ければ、その分、部落に残っているもの達で、支払わねばなりません。
これまでは、それが頸木(くびき:じゆうを束縛するもの)になって、逃げたくても、逃げるに逃げられず、村に留まっていた者も、少なからずいました。
しかしこうなりますと、それも、もう彼等が、この村落から逃げ出して行くのを、思い留まらせる力にはなりませんでした。
決壊して修復される見込みのない堤防、そこでの営みは、賽の河原の石積み(さいのかわらのいしづみ=無駄な努力の事)のような危うさです。
川の僅かな増水でも、家も作物も水に浸かってしまうに決まっています。
修復しても、作り直しても、よほど本格的な築堤工事でもしない限り、雨が降る毎に起こりうる川の氾濫によって、家も、田畑も、みんな水に浸ってしまう可能性が大です。
今のように堤防がない状態のままでは、増水の度に命の危険に曝(さら)されなければなりません。
やっとの思いで作った作物も同じです。作っても、作っても、僅かな川の増水によって、水に浸り、大半が駄目になってしまいます。
でもそういう場合でも、今度の藩のやり方から考えるに、年貢は容赦無く取り立てられそうです。
実情を知らない藩の上役達によって決められた年貢は、上役に命じられた通りに動く藩の下端役人たちによって,根こそぎもっていかれるに違いありません。
このまま、村に残って、年貢が払えなかった場合は、娘や嫁といった若い女達は、遊女や、商家の下働きとして売り飛ばすより他はなくなりそうです。子供は小僧や子守に、男達は、男達で、借金の形に(かた:たんぽ)奴隷のように、生涯こき使われる事になりそうです。
と言う事は、このままこの村に留まったとしても、何も良い事はありません。
待っているのは、飢え死にか、酷使による過労死、女郎だとか、女中への道だけです。
働く事の出来ない、小さな子どもや、病人、老人には、餓死か、増水による溺水だけです。
そこには、何の希望も、未来に開ける展望もありません。
安心して子供を生み、育てていこうと思わせる環境ではなくなっていました。
この為、村人達の殆どが、この土地への未練を捨て、村から出ていく決心をしました。

 

その36

村に残ったのは、村から出ても、行く当てのない数軒と、祐貞達4人のみとなってしましました。
彼等は、部落の中で、一番高い場所に住居を移し、住居近くの土地を耕し、季節に応じ、作物の種類を作り分ける事により、洪水と戦いながら、何とか命を繋いでおりました。
年貢を取り立てに来た藩の役人達も、この村の惨状に驚きました。
村は大川に浮かぶ川洲のようになってしまっていて、村人はほとんどいません。あちらこちらに少しずつ作物が植え付けられておりますが、それは、川原や荒れ野原の一部が耕され、作付してあるだけで、まともな農地らしい農地は、見当たらなくなってしまっていました。
役人が、規則通り年貢を取り立てようとしても、戸数も人口も耕地も殆ど無くなってしまっている状態では、不可能でした。
それでも、彼等は、手ぶらでは帰っていきませんでした。
役人としての立場に従って、村に残っていた農家全戸から、その年、収穫した米の全量を、年貢米として召し上げると、それを持って帰っていきました。
しかし、これで、この村では、この一年間、お米と名のつく物の入った食事は、顔が写るようなしゃぶしゃぶのお粥でさえも、食べられなくなってしまいました。
その上、名主である祐貞の所は、それだけでは済まされませんでした。
その後、村人達の逃散(ちょうさん:領主への反抗手段として、村人たちが一斉に他の土地へ逃げ出す事)を見逃した咎(とが)によって、名主取り上げの命が下されてきました。
しかし藩の方にも落ち度があることを感じていた役人達は、それ以上、事を荒立てる事を望んでおりませんでした。したがって、それ以上の罰を下してくる事も、ありませんでした。
しかし、この揉め事を通して、この村の、惨状が、藩の上役達の知る所となりました。
彼等は、年貢を年々、取り立てる事が出来るほどに、その村を復旧させる為には、藩の財政を揺るがすほど大金が必要となる事をも知りました。
その為藩では、この後、この村は、人の住まない川洲と言う扱いにして、これ以上、この村に関わる事を止めてしまいました。
藩としては、村そのものを、なおそこに留まっている者ともども、見捨ててしまったのです。

 

その37

それから更に、5年余の歳月が流れました。
村人達の生活は、お天道様(おてんとさま)次第、うまく収穫できた年もあれば、作付した作物、全てが駄目になってしまった年もあるといった具合で、生きているのがやっとといった、綱渡り状態に、変わりはありませんでした。
村に残った者たちは、川の増水の季節を考慮して、それに合わせて、作付けする作物の種類を決めるといった事によって、何とか食べ物を、確保してはおりました。しかしそれでもうまくいかない年は、草や、草の根、芋や南瓜の軸や葉までも食べて、飢えをしのぎながら生き延びておりました。
その日その日を生きていくだけで精一杯でした。
もう決壊部分を、堰き止める話なんか、口の端(くちのは)にも上らなくなりました(人手も、お金も足りない現状では、もはやそれは、不可能である事が、誰にも分かり切っておりましたから、諦めてしまったのでした)。
今ではこの村の土地は、川の中に浮かぶ、川洲か、河川敷のような状態でした。
祐貞は、せめて自分達が住んでいる場所だとか、作物を作っている場所だけでも、土手で囲めないかと思い、その費用を賄うために、桑名の廻船問屋に運用を任してあったお金を、返してもらおうと、催促にいってみました。
しかし、廻船問屋の主人は、相変わらず、のらりくらりと言い訳をしながら、待ってほしいの一点張りで、期限が来ているにもかかわらず、返してはくれませんでした。
祐貞はもう半分諦めていました。
ここまで待っても支払ってくれないと言う事は、相手に、支払ってくれる意志がないとしか思えませんから。
しかし、ご先祖様から託されたこの土地を農地として再生して、今一度、昔の繁栄を取り戻したいという望みだけは持ち続けました。
今の彼には、その望みだけが、生きていく上での糧となっておりました。
彼には、以前、村落の在った場所を、歩き回って、村の土地の再生策を考える事だけが、今の、唯一の楽しみでした。
他に行くあてもなく、やむをえず村に残っていた村人達は、と言っても数戸しか残っていませんでしたが、祐貞のそんな話、落ちぶれ若旦那の、単なる夢物語として、誰も相手にしようともしませんでした。
村に残った者達は皆、落ちぶれてしまって、自分達に何もしてくれない、頼りにもならないような青木の家の当主なんか、もう馬鹿にしきっていました。
彼ら小作達は、土地は青木家の物で、自分達は借りているだけということは知っているはずなのに、最近では、何やかにやと理由を付けて、地代も払おうとしないほどになっていました。
そんな彼等ですから、今更、金もないような馬鹿旦那の、くだらない夢物語なんかに、付き合っておれるものかという気持ちでした。
祐貞の村再生の話は、お兼とお米以外は、吉六でさえも、まともに聞こうとはしてくれませんでした。
しかしお兼とお米は別でした。彼女達は、お大師様がおっしゃったとおり、いつの日か、この若旦那様が、この村を再建してくださるに違いないと、固く信じておりました。
だから、苦しい事や、辛い事があっても、愚痴一つ言う事もなく、ただひたすら若旦那様に付いていました。

 

その38

祐貞の心の中には、そんなお米の事を、愛しく(いとしく)思う気持ちが、日増しに膨らんでまいりました。
いつ壊れるかわからないようなこの危なつかしい、今の生活が、彼に愛を告白するのを躊躇わせ(ためらう)、自制させているだけでした。
その膨らんだ愛は、お米の何気ない仕草にも、近くに寄ってきた時の、その女らしい薫りにも揺さぶられ、燃え上がります。
今にも、その思いが爆発して、衝動的に抱きしめてしまうのではないか、と思える時があるほどでした。
ただ相手の意向も考えず、理不尽な行為に走りたくない、と思う理性だけが、今のところそれを押し留めるものでした。
一方、お米のほうも、祐貞の事を嫌いではありませんでした。
18歳の頃、一緒に学問所に通っていた頃はまだ、その素直さと、子供っぽさや、むきになって彼女に負けまいとして、懸命に努力する祐貞の姿に、弟のような可愛さを持っていただけでした。
ただそれだけでした。
男性として特に意識した事はありませんでした。
しかし、共に苦労を重ねてきたこの5年余の間に、彼女も密かに祐貞の事を慕うようになってきておりました。
この5年間、野良仕事によって鍛えられた彼の身体は、全身の筋肉が隆々と盛り上がって、とても逞しくなりました。それが高い身長とうまくかみ合い、その均整の取れた逞しい身体は、男でも惚れ惚れするほどです。
性格も変わりました。読書好きで、思慮深く、しかも実行力と決断力を伴うようになり、とても頼れる存在となっておりました。
いろいろな人達との交渉事を通して、いつの間にか、少々の事ではへこたれないタフさも、具わってまいりました。
祐貞からは、もう以前の気弱さは、影を潜めてしまっていました。
誰かを頼りにするとか、誰かの顔色を窺いながらしか何事も決められない、などといった頼りない面は、何処にも見当たらなくなっておりました。
読書好きで、研究熱心なのは変わらず、作付をする作物などについても、以前のように吉六任せではなくなりました。
自分から、その土地、その土地に最も適した作物を探し出してきて、それを植え付けるようになっていました。
しかし何よりお米が強く惹かれたのは、祐貞の思いやりのある所でした。
祐貞は、朝早くから夜遅くまで働き続ける自分達、女の身体を心配して、少しでも負担が少なくなるよう、栄養をつけるようにと、何かと気遣ってくれました。
それは口で言うでもなく、態度ではっきり表すわけでもありません。
自分や、お兼などが、仕事で遅くなった時だとか、食事が進まなかった時、食事の量が足りなくて、自分達が遠慮した時、夜なべ仕事で遅くなった時などなどに、何気なく、そっと示してくれる配慮でした。
そんな祐貞の姿に、お米もまた男性として意識するようになっておりました。
たくましい身体付きと、その男らしい体臭に、彼が近くにいるだけで、胸が高鳴ってきて、息苦しさを感じるようになっておりました。
書物を読んだり、考え事をしたりしている時の、その思慮深げな姿に、ついうっとりと見惚れてしまうこともしばしばでした。
彼女にとっては、祐貞が、村の再生への夢を語ってくれる時ほど、楽しい事はありませんでした。
お米は、それを聞いていると、我を忘れ、祐貞と一緒に、その夢の中の村の、住人の一人になったかのような気になりました。
しかし、とはいっても、祐貞は、お米にとっては、あくまでご主人様です。
例え、今は食うや食わずのその日暮らしの貧しい農夫に過ぎないとしても、ご主人様はご主人様です。
そして自分は、観佐衛門の遠い親戚筋に当たるとはいえ、単なる使用人にすぎないという事をよく弁えて(わきまえて)おりました。
従って、祐貞を慕う心は、彼女にとっては、あくまで誰にも知られてはならない、秘め事でした。
彼女は、祐貞の語る、夢の村の中にあっても、奥様の座に、座ってはいませんでした。
そこにあっても、彼女は、あくまで女中であり、祐貞を助けている使用人としてしか、夢見ていませんでした。

続く