No.173 一粒の米にも その8

このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物とは無関係です

その26

ただ女中のお兼、お大師様が観佐衛門の家にお立ち寄りになった際、お大師さまから、御教えを頂いた、あのお兼と、その亭主の吉六だけは違っていました。
吉六夫婦は観佐衛門の家近くに住む、観佐衛門の小作人の一人でしたが、吉六は、観佐衛門の家が忙しい時は、手伝いに来ている、観佐衛門家の男衆の一人でもありました。
朴訥(ぼくとつ)で、お世辞も何も言えない人でしたが、正直者で、几帳面、仕事はきちんとしてくれる人でした。
だから観佐衛門の信用は厚く、何かと言うと、頼りにされていた一人でした。
一方、女房のお兼はといいますと、その頃には、自分の家の農作業が特別に忙しい時以外は、観佐衛門の家に来て働く、通いの女中でした。
彼女、働き者の上、とても責任感が強い女で、信仰心に基づく、しっかりした自分の考えを持っている人でした。
その為、観佐衛門の信頼は厚く、最近では、女中頭のような役を、しておりました。
そのせいもあり、彼女、自分の家が農繁期で忙しい時でも、時間を見付けては、観佐衛門の家へやって来て、他の女たちの仕事の段取りを付けたり、他の女たちの仕事のやり具合を点検したりしていました。
大洪水に遭って以後、弱気になった観佐衛門は、弘法様の縁に連なるお兼を、とても信頼し、妻を、亡くしてからは、家の中の事については、何かに付けて、彼女の考えを聞くようになっていました。
お兼は「私ども夫婦は、旦那様に随分頼りにされ、大変お世話にもなってまいりました。
だからお給金なんか頂かなくても結構ですから、どうかこのまま、この家に居させてください。
実を申しますと私、あの大洪水以後、大旦那様から、『お前が、お大師様から言われた通りなってしまった。
どうもこれが、この家と私の宿命らしい。
可哀そうに、祐貞には、大変な苦労を背負いこませる事になってしまった。
私にもし、万一の事があった時は、祐貞の事、くれぐれも頼みますよ』と言われているのでございます。
だから、このままお二人を残して、出ていくわけにはまいりません。それが、私と弘法様とのお約束でもあり、亡き旦那様とのお約束でもあるからでございます」と言って聞きいれませんでした。
さらに、
「それに、今では、この辺りも、こんな状態でございますから、とても不用心となっております。
こんな所へ、若いお二人だけを残して、どうして私どもが出ていけましょう。
第一、お二人だけでは、百姓仕事も満足に出来ませんでしょ。
でも、ここに残ってやっていこうとされる以上、これからは、自分達の食べる分は、自分達の手で賄わなければならないのですよ。
なにしろ今の状況では、もう、地代なんか、当てに出来ませんからね」
「だから、私ども夫婦に手伝わせて下さい。必ずお役にたちますから」と言い張ります。考えてみれば、お兼の言うとおりでした。
お百姓仕事なんか、見てはいたものの、実際にやった事のない二人です。農業を始めても、一から始めるようなもので、何時、どんな作業にとりかかるか、何時、種をまき、それをどう育て、何時、収穫するのがよいのか等、まったくわかりません。チンプンカンプンです。誰かに教えてもらわなかったら、うまく出来っこありません。

 

その27

こうして大きな屋敷の中での、4人の共同生活が始まりました。その4人で最初に作った作物が、今度の台風による洪水で、水に浸かってしまった稲、粟、キビであり、その他の野菜でした。
祐貞にとっては、それは初めて手塩にかけて作った作物でした。
吉六夫婦に励まされ、教えられながら、手にマメを作るのも、泥まみれになるのも、蛭(ひる)に咬まれるのも厭わず、腰痛を我慢して、真夏のカンカン照りの太陽の下、汗まみれになりながら、懸命に作ってきた作物でした。
それが、この洪水で、一挙に水に浸かってしまったのですからたまりません。
収穫の日を、楽しみに、やってきたこれまでの我慢も、たくさんの努力も、全て水の泡となってしまったのです。
それは落胆などといった言葉で、単純に言い表されるものではありませんでした。
天に対する怒りや、絶望、虚無感といったものが、ごちゃ混ぜになった、脱力感であり、無力感でした。
彼はぺたりと座りこむと、水に浸かってしまった村を、何を考えるでもなく、ただぼんやりと眺めておりました。

 

その28

しかし祐貞には、のんびりとしているような時間はありませんでした。
台風の去った夜には、既に今度の台風で家を流されたり、水に浸かったりして住む場所を失ってしまった小作人達が、家族共々、一斉に押しかけてまいりました。
彼等は口々に、「若旦那様、私たちは今夜寝るところも、食べるものもありません。どうか今夜だけでも、お助けください」と哀願しました。
今夜の寝ぐらもなく、食べるものもなく、ひもじさに泣く、子供や老人を抱えた人々の、悲痛な叫びを、祐貞は、突き放す事が出来ませんでした。
彼は、「聞けば、今朝から何も食べていないそうだが、何とかしてやれないものだろうか」と、お米に尋ねました。
しかし蔵の中には、もう、米はもちろん、他の雑穀類を含めても、ほんの僅かしか残っていません。
お金だってそうです。前回の大洪水の時と、仮提の建設の為に沢山のお金を、使ってしまいましたから、残っているお金は、それほどありません。
お米は悩みました。助けを求めてきている人達を、なんとかしてあげたいのは山々ですが、今、それをやれば、今年の秋の作柄にもよりますが、自分の家が、食べ物に困る事になるのは、目に見えています。
迷ったお米は、「お兼さん、若旦那様はあのように、おっしゃっていますが、どうしたもんでしょうね」と相談しました。
お兼も困りました。
そこで「そうね。所で、この家の台所を預かっている貴女は、どう思っているの」と逆に尋ねます。
「私、私一人なら、ここで皆さんを見殺しにするくらいなら、後の事は、後の事。この後、万一、飢えで苦しまねばならない事になるとしても、ここはともかく、皆さんを助ける事を第一にします。
でも、そうしますと、万一今年の収穫が、うまくいかなかった場合は、若旦那様も、お兼さん夫婦も、食べるにも、事欠くくらいになりかねません。
それが心配で、ご相談しているのです。
どうしたらよいでしょう」とお米。
しばらく考えていた後、
「そうね。もうこうなると、後の事は後の事。後の事なんか、考えないで、今を大切にして、人間として、やるべきことをやる事にしましょうよ。
それがお大師様の御教えであり
若旦那様のお望みでもあるのですから」とお兼が応えます(こたえる)。
「しかし、こんなに沢山の人達に配るだけの食べ物って、未だ残っていましたっけ?
食べ物がなくて困っている人達って、今夜ここに避難してきた人達だけじゃないわよ。
村の外れの方にも、まだまだ沢山いらっしゃって、明日の朝には、もっともっと多くの人がおしかけてくるに決まっていますけど、大丈夫かしら。足ります?」
「前の洪水で、沢山の人が、村から出て行かれましたから、残っている人達だけなら、明日の朝の分までくらいは、どうにかなると思います。でも皆さんの避難が数日間に及びますと、ちょっと難しそうです」
「この洪水で、穀物の値段も上がっていますでしょうから、残りのお金で買うにしても、2日以上は難しいと思います。
もう、こうなりますと、家の中にある金目のものは全部、それが御先祖様から伝わってきた書画であれ骨董であれ、或いは家財道具であれ、何もかにも全て、古道具屋さんに引き取ってもらって、お金にするしか仕方がないんじゃないかしら。
ここにある物は全て、ご大層なものばかりですから、上手く売れれば、あの人達を後数日間くらいなら、なんとかさせられるんじゃないでしょうか。
でも、そんなことをして、若旦那様がびっくりなさらないかしら」
「大丈夫よ。
だって若旦那様は、『困っているあの人達を助けるためには、この家屋敷以外は、売れる物は何でも売ってくれてもかまわない』とおっしゃったのですから」

 

その29

「若旦那様、早く起きて下さい。水に浸かってしまった粟の刈り入れを今日、明日中になんとかしないとなりませんから。
このまま水に浸かったままにしておきますと、粟が芽をだして、駄目になってしまいます」と言うお兼の声で、翌朝早くから、祐貞は起こされました。
昨夜来、避難してきた小作人達の、世話に追われているはずの、お兼もお米も、すっかり農作業の身支度を整え、何もなかったかのようなさわやかな顔をして、枕元に立っております。
日は未だ昇っておらず、辺りはやや薄明るくなってきた程度です。
「どうしたの、こんな早くから。貴女達、昨晩は、避難してきた皆の世話で大変だったんじゃないの」と寝ぼけ眼をこすりながら祐貞が怪訝(けげん)そうに尋ねます。
すると彼女達は「あの人達の、朝の用意は、避難してきた女の人達に手伝だってもらって、もう済ませました。後は自分達で、分け合って食べて頂くだけです。
ここに来ている人以外にも、家を水に浸かって、何も食べてない人が、あちらこちらの部落にいらっしゃると言うことでしたから、そちらの方にも、少ないながら、食料を手配しておきました。
今日、これから私達がやらねばならない事は、粟の刈り入れです。粟は、水に浸からせたままにしておきますと、直ぐに芽を出してしまいますから、なんとしてでも、今日明日中に刈り取らないといけませんので」
「それから夕方には、町の道具屋さんに来てもらうように手配しておきましたから、そのお相手もして頂かねばなりません」とお兼。
「もういいよ。どうせ何をしたって、なんともならないんだから。
俺はもう、何もする気にならないから、お前たちで勝手にやって。俺は、このまま寝させてもらうから」と祐貞。
「大丈夫です。宅の夫が、先ほど見てきた所では、幸い粟も、キビも、刈り入れる寸前まで実っているようでしたから、今日、明日中に刈り入れ、はさ(稲掛け)にかけて乾かしさえすれば、思ったより採れそうだと言う事です。
そんな事言ってないで若旦那様。早く起きて下さいよ。お願いですから」とお兼。

以下次号に続く