No.166 一粒の米にも その1

このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物とは無関係です

始めに
昭和の初期といいますと、まだほんの少し前のような気がしますが、私達の目に入ってくる風景も、人の心も、随分変わってしまいました。
昭和の初期には、神様も仏様もまだ、私達のごく身近にいらっしゃる存在でした。
太陽はお日様ないしはお天道様〈おてんとうさま〉、月はお月様といって、朝には一日の無事を祈り、夕には何事もなく一日を終える事が出来た事に感謝の祈りを捧げていました。
人々はまた、風は風の神様が司り、雨には雨の神様が、水には水の神様がいらっしゃると信じていました。更に高い山々や、年代を経た木々、雄大な滝、大きな河、巨大な巌(いわ)に神々の存在を感じていました。
自分達の日々の生活を守り、命を繋いでいてくれているもの、それは、自分達の住むこの山河においでくださる、そういった八百万(やおよろず)の神々である事を信じ、それを疑う者など殆ど、いませんでした。
当時の農村は、水は清らかで、空は澄みわたり、のどかな時がゆったりと流れている、とても牧歌的な時代でした。
しかし生活はどの家も貧しく、着るものは木綿で継ぎ接ぎ(つぎはぎ)があるのが当たり前、食べるものはと言えば、白いご飯などといったものが、常食できるのは、大商人か大地主などと言ったごく限られたお金持ちだけ、殆どの家は、お正月とか、お祭りといった特別な日以外は、麦や、稗(ひえ)、黍(きび)、粟(あわ)と言った、雑穀混じりの御飯だとか、市場に出す事のできないくず米で作った団子だとか、蕎麦、芋等の類で命を繋いでおりました。

 

その1

私が10歳になった頃の事だったでしょうか。田舎にある母の実家に遊びに行った時の話です。
都会育ちの私にとっては、そこは珍しい物、楽しい物に溢れ、冒険心を充たしてくれる、遊びの宝庫のような場所でした。そこでの遊びの楽しさにすっかり虜になってしまっていた私は、私達を歓迎して、せっかく用意しておいてくれた昼食も、咽(のど)に流し込むようにしてかけ込むと、「御馳走様」という食後の挨拶も、そこそこに(適当に終わらせるの意)、すぐに外に飛び出していこうとしました。
その時の事でした。
「哲、そこに座りなさい。」という怒気(どき)を含んだ祖父の厳しい声。
私はもともと祖父が苦手でした。
彼は、普段からとても無口で、いつも気難しい顔をして座っていて、何を考えているのか
窺い知れない人でした。
その為、家族からも、どちらかというと煙たがられていました。
娘である私の母と、外孫の私とが訪ねて行った時などでも、気難しそうな顔を、ちらっと、こちらに向けてくれるだけです。
親しい言葉を掛けてくれた事など、まずありません。
来訪の挨拶をしても、「アッ」とか「ウン」といって軽く頭を下げてくれるだけで、それだけです。
だから祖父と会話を交わした記憶は殆どありません。
その祖父の一言です。
それだけに恐ろしく、思わずそこに、ぺたりと座りこんでしまいました。
その家では、祖父以外は、いつもとても優しく、それまで、何をしても怒られる事も無く、比較的自由気ままにさせてもらっていました。
それだけに、祖父の厳しい咎め(とがめ)だての言葉は、堪え(こたえ)ました。
わけがわからない恐ろしさで、半べそをかきながら、うつむいたまま、手を膝の上において、座っておりました。
二人の間には、しばらく沈黙の時が流れました。
祖父の厳しい目線を意識しながらのそれは、私にとってはとても長い時間のように思われました。
やがてその沈黙を破って祖父が、
「哲、どうして呼び止められたのか、分かっておるか」と問いかけてきました。
それまで遊びに浮かれていて、何も考えてなかった私には、そんなこと分かるはずがありません。
私は只黙って、首を横に振りました。
「分からんのか。茂子(私の母親の名前)、この子に、何も教えてやっていないのか。」
この子の御飯の食べ方は一体何なんだ。
この年になっても、未だに、こんな食べ方とは。
鶏の食べ後みたいに、ご飯粒を食べ散らかしおるなんて、このままじゃ、何処にもだせるもんじゃないぞ。
お前ん家(おまえんち)の恥だと思いなさい。
哲に、こぼしたご飯粒をきちんと拾ってたべさせなさい。
お茶碗に残っておるご飯粒も、一粒残さず、綺麗に食べさせなさい。
それが終わらんうちは、外に出す事はまかりならんからな」
「房乃(おばあちゃんの名前)、お前も、お前だ。お前らが、ただただ甘やかすだけだから、こんな子になってしまったんだぞ。
甘やかすのは、もういいかげんにして、ここらで人間としての大切な事を、ちゃんと教えてやったらどうだ。
もういい年なんだから」
「ちょうど良い機会だから、今日は、昔、隣村の、八代目観左衛門さんの所の、息子の身の上に起こった話を聞かせてやりなさい」
「これくらいの年のうちから、物を大切にする気持ちだとか、天地の恵み、そして人の恩に対し、感謝する心を、覚えさせておかないと、後になって、この子が苦労することになるんだからな」
というと、そのまま奥の部屋の方へ引っ込んでしまいました。
「哲ちゃん、びっくりしたやろ?
でもね、おじいちゃんは、ああいう人だけど、間違った事は言わん人だからね。
怒られたからといって、恨んじゃいけないよ。
お前の為を思って言ってくれているんだからね」
「ちょうどいい機会だから、今日はおじいちゃんの言う通り、観佐衛門さんのとこの祐貞(すけさだ)さんの話を知ってもらうことにしようね」とおばあちゃん。
おばちゃんの話。

 

その2

昔、と言ってもそれほど大昔の事ではありません。これはね、今から250年位も前の事でしょうか、徳川様の時代のお話です。
このお隣の村に、青木観佐衛門さんという、代々庄屋を務めていた大地主がいました。
ある年、長い間、子供がなかったこの家、八代目観佐衛門の所に、待ちに待った子供、それも男の子が授かりました。
祐貞(すけさだ)と名付けられたその子は、その家のたった一人の跡継ぎとして、勘左衛門さんとその家族は言うまでも無く、その家の使用人達だとか、観佐衛門さんの所の小作人達からまで、とても大切にされ、お坊ちゃまとして、チャホヤして育てられました。
子供時代の彼は、何をしても、何を言っても、回りの者から注意されたり、咎められたりするような事など殆どありませんでした。
自分では、何かをしなくても、ぼーっと両手を挙げて、待っているだけで、いつも誰かが、先回りして彼が欲している事をやってくれました。
その為どうしても、依存心が強い上に、我儘で、自分勝手、人の痛みが分からない子になってしまっていました。
更に人から、何をしてもらっても、それが当たり前で、人に何かをしてもらったからと言って、その人に感謝するとか返そうとする気持ちなど全くないという、お山の大将に育ってしまいました。
両親や、祖父母から、欲しがるものは何でも買ってもらえました。
その上、彼の御機嫌をとって、観左衛門からうまい汁を吸おうとする輩が、いろいろな物をプレゼントとして、持ってきてくれますから、家の中は物に満ち溢れ、物の有難味もわからなくなっていました。
その為に、物を大切にする心も、物に感謝する気持ちも失くしてしまっていました。
回りの人の中には、「あんな、小生意気で、我儘に育てて」と、眉を顰めて(ひそめる)いる人もないではありませんでした。
しかし何しろ、大地主にして、大庄屋の、大事な、大事な跡取り息子の事です。
後難を恐れ、直接咎めだてをしたり、注意をしたりする人は出てきませんでした。

続く